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天平十八年正月白雪多零積地數寸也

天平十八年正月白雪多零積地數寸也於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 [中宮西院]供奉掃雪於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌

左大臣橘宿祢應詔歌一首

降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

紀朝臣清人應詔歌一首

天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか

紀朝臣男梶應詔歌一首

山の狭そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば

葛井連諸會應詔歌一首

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは

大伴宿祢家持應詔歌一首

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

藤原豊成朝臣  巨勢奈弖麻呂朝臣  大伴牛養宿祢  藤原仲麻呂朝臣

三原王  智奴王  船王  邑知王  小田王  林王  穂積朝臣老

小田朝臣諸人  小野朝臣綱手  高橋朝臣國足  太朝臣徳太理

高丘連河内  秦忌寸朝元  楢原造東人

右件王卿等應詔作歌依次奏之登時不記其歌漏失但秦忌寸朝元者左大臣橘卿謔云靡堪賦歌以麝贖之因此黙已也

おりからの大雪、常々先の帝と御懇意になされていらっしゃった諸兄殿は大勢の諸王・官人の方々を引き連れて、雪掃いのために中宮の西院に参内になられた。まさに諸兄殿のご威光を誇示するかの様な出来事だったが、居並ぶ諸王・官人の方々もそのお力にはほとほと感服されていたことだろうと思う。

さて、先の帝の御為に雪掃いをさせていただくだけでも恐縮至極のことであるのに、先の帝は私のようなものにまで御酒を賜われ、宴を催してくださった。光栄の至りである。居並ぶ方々は先の帝のお言葉に従って次々と歌をお詠みになられた。どれもこれもお言葉どおり「雪」を詠みこんだ、正月にふさわしいめでたい歌ばかりであった。本来ならばそのすべてを記録しておくべきであったが、それを怠り、上に挙げた数首しか思い出せないのがかえすがえすも残念でならない。

ひとつだけ興味深く思ったのは、最後に書いておいた秦忌寸朝元殿のエピソードだ。朝元殿は遣唐使の一員として二度にわたり唐に渡り、向こうでの留学生活も十数年にわたる才人だ。その語学力たるや、お上の仰せで弟子をとり、唐の言葉を教授するほどのものである。しかしながら、唐での生活が長く大和にて暮らす日々が短かったゆえであろうか、あるいは、秦というそれほど高貴ではいらっしゃらない出自の中、このような場に招かれるような地位にたどり着くため、わき目も降らずご努力なされ、風雅の道に遊ぶ機会が少なかったせいであろうか、(そのいずれもだとは思うが)肝心の大和歌の力は今ひとつであった。この時はからずも先の帝の仰せにより、大和歌を詠まねばならなくなった朝元殿のお困り様は、おなじ南の下の間に座っていた私には手にとるように理解できた。次々と歌は詠まれ、朝元殿の順番は近づいてくる。そのお顔はますます引きつったようになってくる。その時である。一番、上の席に座られていた諸兄殿の「歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよ。」とのお言葉があった。そのお言葉の調子はなかなか歌の詠めない朝元殿をお謔いのようではあったが、そのことで朝元殿が救われるような気持ちになったのは確かだ。麝香は確かに高価な品物ではあるけれども、唐での長い留学生活で医学を学ばれ、当時薬事をつかさどる典薬頭の任にあたられていた(市村宏
「秦忌寸朝元」東洋大学上代文学研究会会報第14号)朝元殿のこと、歌を詠むよりはこちらを工面するほうが容易かったはず・・・・

なんというご配慮であろうか。諸兄殿は表面上は朝元殿をお謔いになられながらも、歌を詠めずに決定的な恥をかくという窮地からお救いあそばしたのだ。人の上に立つものとしてのお心の使いよう、私も肝に銘じておかなければならない。

天平十八年正月のある日のこと、白雪が大いに降り敷いて、地面に数寸降り積もった。時に左大臣橘諸兄殿が大納言藤原豊成殿及び諸王諸臣等を率いて、太上天皇の御在所中宮の西院に参上して、皆で雪掃いの任についた。雪掃いの終わった後、太上天皇は詔を降して、大臣参議並びに諸王はその上の間に座らせ、諸卿大夫は南の下の間に座らせて、酒を賜いて宴を催された。そのお言葉に言う・・・そなたたち、諸王・諸卿等、聊(イササ)か此の雪を素材にして夫々歌を詠み、献上せよ・・・と。
右の挙げた王卿の方々は、皆、お言葉に応えて歌を作り、次々と献上した。その時、うかつにも其の歌を記録することを怠り、その多くを漏失してしまった。ただ、こんなエピソードが一つあった。それは、秦忌寸(ハタノイミキ)朝元殿がなかなか歌を詠めないでいたのに対し、諸兄殿が謔れて、歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよとおっしゃった。そこで、朝元殿は黙り込んでしまった。

本来の意味での私の歌日記はここから始まる。その冒頭に私はこの日の宴の歌々を据えたいと思う。理由は以下による。
実のところを言えば、これらの歌々は私がおぼろげながらに記憶していたもので、この宴の日、私に歌日記を始めようとの明確な意図を持って記録していたものではない。そのことが、この日お集まりになられていた皆さんの歌すべてをここにお示しできなかった理由だ。
当日、お集まりになられていた諸王、官人もどなたがおいでになられていたか、なんとか遺漏なく思い出せたと思う。ただ、そのお名前の配列だが、本当ならば当日の皆さんの官位・官職をもとに並べておくべきところ、これだけはどうしても正確に思い出せない。したがって、天平二十一年四月一日現在の官位・官職を基準に配列することにした。そしてこのことがは私がこの日の歌々を歌日記の冒頭に据えようと思った理由を如実に示してくれる。
この日、天平二十一年四月一日は陸奥の地にて大仏の建立に必要な黄金が報告され、そのことに感激した帝が宣命が発せられた。元号は「天平勝宝」と改元せられ、私も従五位上と昇進を果たした。
このような良き日、私は、かつて従五位下として新たに本格的な官人としてのスタートを切ったその年の始めに催されたこの宴を思い出した。生まれて初めてかような晴れがましい場に呼んでいただくことができたこの日の晴れがましき体験は今もなお記憶に深々と刻まれている。私はこの歌日記を祝福されためでたき日記にしたいと思う。そして、天平十八年正月のこの雪の宴の歌こそがその冒頭を飾るのにふさわしいめでたき歌々であると確信している。

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ

霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ

橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを

あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに

鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿

かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり

右六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作

都である恭仁の地を離れ、私がなぜ平城の旧宅に居たのかを語らねばなるまい。

本当に、この年の初めはいろいろなことがあった。閏の正月一日早々に聖武の帝は諸臣をお集めになり、都を恭仁と難波の何れにするべきかを、お問いになられた。諸臣の意見はわずかの差で恭仁の都を良しとする意見がまさった。けれども、帝の意思は難波に大きく傾かれておられ、これを覆すほどの差ではなかったのだろうか、はっきりとした決定のないまま行幸が挙行されることとなった。

十一日、鈴鹿王様・藤原仲麻呂殿を留守役として、帝は難波へと向かわれたその日のことだ。同行なさっていた安積皇子様が急に倒れられたのだ。その日のことを、後に書かれた続日本紀では次のように記してある。

是の日、安積親王、脚病に縁りて桜井頓宮より還る。丁丑、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀飯麻呂らを遣して葬事を監護せしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人県犬養宿禰広刀自、従五位下唐が女なり。(「丁丑」は二日後の十三日のこと。「脚病」は「脚気」のこと。)

本当に御労しい最後でいらっしゃった。皇太子としてはすでに阿倍内親王様がいらっしゃったが、安積皇子様は帝の唯一の男皇子として、我々臣下の期待は並々ではなかった。それがかくも儚くなられるとは・・・人あって言う・・・藤原出身の光明皇后様の御子でいらっしゃる阿倍内親王の即位を脅かすとすれば、それは安積皇子様。事実、私をはじめ安積皇子様をお慕い申し上げている臣下は少なくはなかった。故に、その存在を邪魔にお感じになられていた藤原仲麻呂殿一派が毒殺を企てたのだ・・・と。

何が正しいのか、私にはなんとも言いようがない。ただ、私は内舎人として帝のご奉仕すると共に、安積皇子様のお世話もさせて頂いていたのだが、皇子様がお体にご不安を持っていらっしゃったのも事実である。以前から抱いていた不安が・・・現実になった。私個人としての実感はそれ以上ではない。そして、その安積皇子様のお世話をさせて頂いていた関係で私は、そのご葬儀のお手伝いをさせて頂くことになった。私の歌巻の巻三にはその際に詠んだ挽歌も収録しておいたのだが、そのように葬儀にしばらくかかわっていたような身で、すぐにはおそれおおくも帝の身近に仕えることは避けなければならない。私はしばらくの間、休日をいただくこととなった。まあ、平成の御代で言えば・・・忌引き・・・といったところか。「死」の「穢れ」に関わったものとして、それが薄れ去るまでは通常の生活に戻れないのが私の時代の常識だ。その休日を利用して平城の旧宅へと帰っていた時の歌がこの六首である。

久しぶりに家族と過ごす日々は、それなりに心安らぐ毎日であった。心優しき弟、書持とも好きな和歌の話は出来る。長らく会うことの出来なかった恋人坂上大嬢とも頻繁に言葉を交わすことが出来る。しかしながら一抹の寂しさもなきにしもあらず・・・と言った感じだ。ここ数年、共に新しい都を作り上げようと力を合わせて来た同僚達と離れて過ごすというのは何とも言えぬ思いだ。何か置き去りにされてしまうような・・・そんな屈折した思いの中、興がのってしまって思わず六首も詠んでしまった。今頃、恭仁の地では橘はその満開の時期を迎え、しきりに霍公鳥が啼いていることだろう。こうやって一人平城に閉じこもっている間にその季節が過ぎてしまわないかちょっぴり不安になって詠み始めたのだが、よく考えてみればこの古びた平城の都にも橘の花は咲くし、霍公鳥は飛来し、その声を聞かせてくれる。ただひとつ、心残りなのが今年の薬狩りに参加できないことだ。毎年五月五日、端午の節句に向けて、我々は薬狩りを行う。その華やかさ、楽しさといったら・・・それも今年は無理だ。何とも残念な事よ・・・というのが最後の一首である。

<追記>

ところで、今回、私の歌日記をブログとしてアップし始めて結構な時間が経過した。ここまでお付き合い頂いた方ならふと気づかないだろうか・・・日記というわりには、妙に日があいているな・・・と。以下にその日付だけ列挙してみよう。

天平二年十一月

天平十年七月七日

天平十二年十二月九日

天平十三年二月

同年四月二日同年

四月三日

年次不詳

天平十六年四月五日

日記と呼ぶにはあまりにもまばらすぎる。しかも、私自身の作は、太字の部分のみだ。これでは私の歌日記と呼ぶにふさわしいものとは言えない。それもその筈だ。正確な意味での私の歌日記は次の歌から始まる。ここまでの三十二首は後から追補したものなのだ。私は皆さんもご存じのように万葉集と呼ばれる歌巻を編みつつあった。その大まかな姿は私の存命中に完成を見ていたのだが、その構成は巻の一から十六まで(巻一、二の古の部・巻三~十六の今の部・・・ただし、十六は付録)と巻十七~二十となっている。実はここまでの三十二首は、これらの形がある程度定まってから、私の手元に入ってきたものをその後にあえて挿入したものなのだ。

それでは、この三十二首はそれまで何処にあったのか・・・

詳しく話せば長くなる。端的に言おう。弟、書持の遺品の中にだ。身体の強くなかった書持は私が越中の国の国司として派遣されて間もない頃世を去った。その遺品の中にこれらの歌が収められていたのだ。書持は自作の数首の短歌や、私がかつて贈った私の作、そして紹介した他の人の作をこうやって保存してくれていたのだ。それらの歌を私は何とか構成に残してやりたいと思った。心優しく、風雅を愛したあの弟の生きていた形跡を少しでも多く残したいと思った。しかし、歌巻・・・万葉集はほぼその姿を固めつつある・・・悩んだ私は、自らの歌日記の前にこれらの三十二首を置くこととした。ここならば、年次的な矛盾が生じないし、それまでの巻の歌々とこれから始まる私の歌日記との中継ぎをこの三十二首が果たしてくれるからだ。

かくして、正確な意味での私の歌日記は次回から始まることとなる。最後に一つ付け加えておこう。この六首を詠んだ天平十六年、私は、言ってみれば官人の見習い期間でもある内舎人の期間を終え、正式に任官する。従五位下・・・それが私のスタートだ。

四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候タ不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳

あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし

霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる

霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで

右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

先日は弟、書持からの便りがあって、久しぶりに平城の都のことを思い出した。そこに残してある家族のこと、恋人、坂上大嬢のこと、懐かしく思い出されたものである。しばしの間と思っていた行幸が、思いもよらず遷都という次第にあいなって、我が家には帰れそうもない。我が心はひたすら平城の都にむかうのみである。望郷の念は募る・・・我が家のある佐保よりもまだ山深きこの恭仁の地は、今、まさに春から夏へと季節は移行しつつある。そんな私の仮住まい宿に霍公鳥がやってきて啼いた。霍公鳥は・・・いや、霍公鳥だけでなく鳥類は家人の思いを運んでくれるものと聞く。してみれば、かくのごとく霍公鳥が我が宿の近くで啼いているという事は、それだけ家人や坂上大嬢が私のことを恋い慕ってくれているのか・・・想いは私もそれにひけはとらない。それにしても「橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている」ような麗らかでのどかな季節に私の心がこのように結ぼれてしまうのは、それだけが理由ではない。それはおそらくは私の生来のものと考えたほうがいいのかもしれない。

そして・・・その結ぼれた心・・・「いぶせき」心を晴らしてくれるのは、歌を詠むことしか・・・私にはない・・・

最後に、題詞がお分かりになりにくい方、下を参考にしていただきたい。

橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている。このような麗らかな季節にあたって、どうして我が心根をのびのびとさせないでいられようか。そこで三首の短歌を作り、結ぼれた我が思いを晴らそうとするのである。

十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首

十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首

織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる

右一首大伴宿祢家持作

今頃、帝の主催の宴が平城宮の西池宮で盛大に催されている。もちろん、七夕の詩宴だ。仕え始めたばかり・・・二〇才を過ぎたばかり、内舎人の私などには目のくらむような方々ばかりの宴だ。並み居る立派な方々が、それは優美な詩を披露し合っていることであろう。私も興味がないわけではないが、こんな若輩の私にお呼びがかかるわけもない。ただ、こうやって自分の家で一人、その華やかな宴に思いを馳せるだけである。・・・いつかは、私もそんな場に呼ばれるようになってみたいものだ。