大目秦忌寸八千嶋之館宴歌

大目秦忌寸八千嶋之館宴歌一首

奈呉の海人の釣する舟は今こそば舟棚打ちてあへて漕ぎ出め

右館之客屋居望蒼海 仍主人八千嶋作此歌也

 昨夜は実に楽しい夜であった。新しくこの越中の地に赴任した私を、主だった面々が快くむかえて下さっていることがあらためて実感することができた。それぞれが風雅を理解し、心優しく気遣いに富んだ方々ばかりである。これからの数年こういった方々とともに仕事ができるということはとても心強いことであるとともに、なにやら楽しげな予感さえ感じられてわくわくする思いである。

ところで、昨夜の宴において私が

馬並めて いざ打ち行かな 澁谿の 清き磯廻に 寄する波見に

と詠み、明日はその澁谿に海を見にいこうと誘いかけたところ「そりゃあいい・・・」と話が盛り上がった。時刻は「月かたぶ」く頃、夜明けは近かった。私たちは仮眠をとった後、空の白むのを待ちかねて「澁谿」へと「馬並めて」出かけていった。

「澁谿」に到着したのが早すぎたかと見えて、「海人」達はまだ船出前といった風情であった。以前、帝が伊勢へとお出ましになられたとき、私も内舎人として供奉する機会を得、海というものは初めてではなかったが、ここ越中の海は伊勢の海のように閉ざされてはいない。その雄大さといったら較べようもないものであった。一首、詠もうとも思ったのだが、まさに言葉が出てこない。自分には、まだこの海を表現するべき語彙が存在しない・・・そんな感覚であった。

・・・と、その時、秦殿が「ここに釣りする海人の船が見えたらもっと興趣があっただろうに・・・」と呟いた。私はまだそれがどのような光景なのか知らなかったので、ただ曖昧にうなずくだけであった。しばらく、その絶景に目を遊ばせた後、秦殿は居合わせた面々を自らの館へといざなった。朝からまだ何も食べていなかったので、朝食をご馳走しようというのだ。我々はそのお言葉に甘えることにして連れ立って秦殿のお宅にお邪魔した。

通された客間がまた絶景であった。部屋に居ながらにして、奈呉の蒼海が見渡せるのだ。我々は朝食を摂りながらしばし見とれていた。その時秦殿がこの歌を詠んだのだ。なんでも、ここの海人達は漁に出かけるとき、その船べりを強く叩き、大きな音を立てて行くのだという。秦殿の説明によれば、それには魔よけの意味があるのだという。これだけ広く波の荒い海に出てゆくのだから、こうやって漁の安全を願う気持ちはよく理解できる。すると、誰だったか・・・たしか池主殿か・・・が、自分は乗り組んだ複数の海人が息を合わせるために船べりを叩くのだと聞いたことがある、といった。私にはどちらが正しいのかは分からない。これからの長い国司としてこの地に留まっている間には「海人」達と言葉を交わすこともあるだろう。もし、その時このことを覚えていたのなら聞いてみようと思う。

題詞には「宴」とは書いたものの、昨夜からの続きでもあり、面々には少々お疲れの気配もあった。また、朝食を摂るといった程度の「宴」でもあったので、ここでは秦殿の歌に応えるものは誰もいなかった。まあ、秦殿もそれは余り期待をしてはいなかったであろう。ということで、この「宴」は程なく終わり、各々が三々五々自らの屋敷へと帰って行った。私が屋敷に帰ったときにはもう日はかなり高い位置にあった。

それにしても眠い・・・どうやら、今日は仕事になりそうもない。

 

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも

右一首守大伴宿祢家持作

をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ

秋の夜は暁寒し白栲の妹が衣手着むよしもがも

霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに

右三首掾大伴宿祢池主作

今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも

天離る鄙に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに

右二首守大伴宿祢家持作

天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや

右一首掾大伴宿祢池主

家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも

右一首守大伴宿祢家持作

ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

右一首大目秦忌寸八千嶋

古歌一首 大原高安真人作  年月不審 但随聞時記載茲焉

妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む

右一首傳誦僧玄勝是也

雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の上に

馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に

右二首守大伴宿祢家持

ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ

右一首史生土師宿祢道良

今日八月七日は大和を出立してからちょうど一ヶ月目にあたる。越中についてからも二十日余りが経った。国司の官舎への引越しの作業や、事務処理の引継ぎなど、まずこなさなければならないことは一通り済み、やっと一息をつけるようになった。そこで越中の主だった面々を集め、挨拶を兼ねての宴を催した。顔ぶれは掾(三等官)の大伴池主殿・大目(四等官)の秦八千島殿・僧の玄勝殿、そして史生(書記官)の土師道良殿だ。道良殿にはこの度の宴を催すにあたって、幹事の任だけではなく、上の歌々の記録をも掌っていただいた。まことに感謝頻りである。ここに越中の国の介(次官)の名がないのは不審に思われるかもしれないが、この職は現在のところ席が空いている。

宴に当たっては池主殿が宴に彩りを添えようと大量の女郎花を持ってきてくださった。楚々たるその風情は実に興をそそるものだ。感謝の意と、宴への歓迎の意味を込めて、まず先に私が

秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が ふさ手折り来る 女郎花かも

と詠んだ。「我が背子」と恋歌仕立てにしたのは、親愛の意を込めてのことである。女郎花を持ってきてくれた池主殿は我が同族、そして以前(天平十年十月)に橘諸兄殿の旧宅で、そのご子息、奈良麻呂殿が宴を催されたとき(巻八)、ともにその進行役を務めた間柄でもある。そんな彼と越中の地でこうやって再会するとは実に奇遇としか思いようがない。彼のような風雅を愛する人と、こうやって風光明媚な異郷の地にしばらくの間、時間を共にするのか思うと、かつて父、旅人が筑紫の地で過ごしたような風流な日々を思わず夢想してしまう。そんな期待が私にこの歌を詠ませた。「秋の田の 穂向き見がてり」と歌ったのは、彼の官人としての職務への熱心さを褒め称えようとの意図があってのことだ。

その私の意図を汲んでか、池主殿も恋歌仕立てで返歌をなされた。私の歌をそのまま承けて、女郎花を歌い、「徘徊り来ぬ」と結んだこの歌は、そのような思いまでしてわざわざここへやって来たことを言っているのだが、これは男が女のもとに訪れたとき、その思いの強さを訴えるための常套句であり、この句を通じて彼は私の越中赴任を歓迎してくれたのだろう。

そして続く二首、

秋の夜は 暁寒し 白布の 妹が衣手 着むよしもがも

霍公鳥 鳴きて過ぎにし 岡辺から 秋風吹きぬ よしもあらなくに

ひょっとしたらこの二首は私を歓迎するためにあらかじめ準備していてくれた歌かもしれない。旅先で迎える秋の夜風を寂しく感じるのは、妻を大和において単身越中に赴任している官人たちにとっては共通の感情だ。今、新たに妻と別れ、この地にやって来た私の寂しさを思いやってこのように詠んでくれたに違いない。その優しさが身に沁みた私はその二首を承け、

今朝の朝明(アサケ) 秋風寒し 遠つ人 雁が来鳴かむ 時近みかも

天ざかる 夷(ヒナ)に月経ぬ しかれども 結ひてし紐を 解きも開けなくに

と応じた。すると池主殿は家で待つ家人の立場に思いを寄せ

天ざかる 夷にある我を うたがたも 紐解き放けず 思ほすらめや

と返してきたので、私はやはりその意を承け、

家にして 結ひてし紐を 解き放けず 思ふ心を 誰れか知らむも

と和した。「思ふ心を 誰れか知らむも」と歌ったのは、こんなにも恋しく家人を思っている我が思いは池主殿ならば、あるいはこの場に居合わせた面々ならばきっと理解して下さることを前提にした句である。

さて、折角の楽しき宴、家のことを思いしょんぼりしているだけではつまらない。それに、機会を得てこの越中の地にやって来たのだ。そのこと自体も楽しまなければ損だ。そんな風に歌い、宴の雰囲気を変えてくれたのが秦殿のこの歌だ。

晩蝉(ヒグラシ)の 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし

季節はまさに秋、その風情を楽しむに絶好の季節である。家にこもってあれこれと物思いに耽るよりは、この季節を充分に楽しもうと私に誘いかけてくれた。秦殿は、ちょいとくだけた人でもあったので「女郎花」の語には越中の女との意もこめられていただろう。故郷の妻は妻で大切に思っておくとして、今いるのは越中。この越中の女もなかなかですよ、と私によからぬ誘いをかけて下さった。すると僧の玄勝殿が、僧の身にありながら

妹が家に 伊久里(イクリ)の杜(モリ)の 藤の花 今来む春も 常かくし見む

という大原高安殿の古歌を教えてくださった。「伊久里」とはここ越中にある地名。新任の国司である私に任地の地名を教えてくださったのだ。もちろん、「藤の花」にも地元の女の意がこめられてあり、彼もまた私に良からぬお誘いをかけて下さっているのだ。そのお誘いに乗るかどうかはまた別の問題だが、このお二人なりの歓迎の意の示しようは妙に私には好ましく感じられた。地元の女、云々のあたりはともかくとして、折角ここまで来たのだから珍しい風景を見てみたい気持ちは強い。そこで「花=女」あたりのところには目をつぶって

雁がねは 使ひに来むと 騒くらむ 秋風寒み その川の辺に

馬並(ナ)めて いざ打ち行かな 澁谿(シブタニ)の 清き磯廻(イソミ)に 寄する波見に

とだけ応えておいた。そして、いつしか夜も更けた。そろそろ・・・と誰もが思いかけたとき、この宴の幹事役をかって出てくれた土師殿が

ぬば玉の 夜は更けぬらし 玉くしげ 二上(フタガミ)山に 月かたぶきぬ

と詠み、和やかなうちにも宴は閉じられた。

・・・と思ったのだが、かように盛り上がった宴、このまま閉じられるのは余りに惜しい。それに私の最後の歌に「馬並めて・・・」とも歌ったように一度早い機会に「澁谿の 清き磯廻」も見てみたい。そこで、一同に明日は如何に・・・と声をかけてみたら、どうやらお付き合いいただけるようだ。なんでも、秦殿のお屋敷の客間からは居ながらにして海を間近に見ることが出来るという。

・・・さて・・・楽しみなことだ・・・

 

平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首

平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首

君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも

須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも

ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ

なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久ならばすべなかるべし

隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく

草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつ我が恋ひ居らむ

草枕旅去にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく

かくのみや我が恋ひ居らむぬばたまの夜の紐だに解き放けずして

里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし我れぞ悔しき

万代に心は解けて我が背子が捻みし手見つつ忍びかねつも

鴬の鳴くくら谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ

松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ

右件十二首歌者時々寄便使来贈非在一度所送也

二首の歌は折りにふれ、使いによせて贈ってきた歌である。一度に送ってきたものではない。私は内舎人であった頃、多くの女性と知り合うことが出来た。どの方も機知に富んだ教養豊かな・・・そして美しい女性ばかりであった。まだ若かった・・・今もそうふけこんでいるわけではないが・・・私にはまぶしい女性達ばかりであった。そして、そんな方々といくつもの歌を交わしたものだ。そして、そんな歌の一つ一つを私の歌巻のあちらこちらに・・・その歌のふさわしい場所に配置した。どれもこれも捨て去るには惜しいものばかりであるからだ。

ただ、ひとつ気がかりがある。それらの歌のどれもが全て恋歌仕立てになっていることだ。私の歌巻きを見る機会を得た後の世の人々が、この私が、かくも多くの女性との遍歴があったのではないかと誤解するかも知れないとの危惧が残る。それは、私だって相応の年齢の男だ。私たちの時代のならいとて、妻以外にも幾人かの女性と関係を持ってもそう責められることではない。かといって、これらの女性と全て関係を持っていたと考えられてしまうのはいささか心外だ。「基本的には」私が、二十二歳の時(天平十一年)に失った女と、そしてこの度、正式に妻として迎えた大伴坂上大嬢以外には心を寄せたことはない・・・・

・・・とはいっても、若かった頃のこと、少しは他の女性に心を動かしたこともないではない。・・・上に「基本的には」と書いたのもそれが為ではあるが・・・それにしても、歌巻の見られる女性の全てとそのような関係にあったわけではない。そのほとんどは「風雅の友」・・・とでも言うべき関係にあった。今更、こんな事を書いても信用してもらえないかも知れないが、これらの女性達の多くとは仮想の恋の上に歌を交わし、互いに歌詠すること自体を楽しむ・・・そんな関係であったのだ。

もちろん、どの方とが「風雅の友」であり、どの方とがそうではなかったとここに書くわけには行かない。それこそ野暮というものであろう。ただ、この平群氏女郎とは、その前者の関係であったことはここで明らかにしても差し支えなかろう。そんな関係だからこそ、この十二首に対してはあえて返歌を贈ることはしなかった。私はただ彼女の恋の物語をその歌を通じて楽しむ・・・それだけでよかったのだ。変に返歌などしようものなら、この女郎に変に思われてしまう。

ところで、この十二首だが左注にも書いたように、一度に贈ってよこされたものではない。四首ずつ、三度に分けて女郎が贈ってきたものだ。まず最初の四首、「龍田山」が上の句のとの続きで「名が立つ」の意味を持ち、下の句とのつながりで「恋を断つ」の意味になる。非常に巧妙な言葉遣いだ。そして後の三首は古歌の言葉を用いて別れて後の恋情の高まりを予想している。「見ず久ならば」との句がそれを知らせてくれる。

続いて次の四首、最初の一首は古歌をそのままに使っている。そして後の三首にて自らの言葉で離れて暮らす辛さ、そして再開を願う心根を述べている。

最後の四首、先の二首が男との逢瀬があった頃を懐かしむ心、続く二首がその男を待ちわびる気持ちを述べる歌となって一連の歌群を終結させている。

それぞれの、四首が意図的にに構成され、そしてその三つの歌群が緊密に関連を持ち合っている。まるで、一人の女の独白を時間を追って見せられているような・・・そんな思いにさせてくれる完結された物語だ。もはや、私の拙い歌を差しはさむ余地はない。私が返歌をなさなかった由縁である。私はただ都からの使いに託され送られてくる女郎の歌を、物語の続編を待つ一読者のように待っているだけであった。

天平十八年閏七月 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守 即取七月赴任所於時 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑつ我が床の辺に

今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ

贈越中國歌二首

旅に去にし君しも継ぎて夢に見ゆ我が片恋の繁ければかも

道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまは

昨年一月に従五位の下の位を授かった私は、今年に入り三月に宮内少輔の職に任じられていたが、この六月の二十一日に思いもかけず、越中の守という大役をおおせつかった。越中は能登半島を含む大国であり、地理的には海を隔てて渤海国と向きあう外交上も極めて重要な位置にある。そんな国の国司を任せていただけるということは、私の力をそれほど評価してくださる方がおられるということだ。晴れがましい気持ちとともに、その期待に応えなければならないという責任感に身が引き締まるような思いがあることも事実だ。はたしてこの私にどれほどの仕事ができようか・・・いささかの不安もなきにしもあらずだが、恐れてはいられない。与えられた任を果たすべく全力を傾けるのみだ。

そんな私に叔母である坂上郎女が、任地へと旅立つ前と、任地についてからの二度にわたって歌を贈ってくれた。叔母は、我が父、旅人の異母妹で、我が義母のなきあと、大伴一門の家刀自としての位置に揺るぎないものがある。若い頃は、結構おもてになったようで、初め穂積皇子にお気に入りになられ、皇子が薨去された後、宮廷に留まり命婦として仕えていたとも聞いている。定かではないが、当時、首皇太子と呼ばれていらしゃった今の帝ともお近づきがあったとも聞いている。後に個人的に帝に歌を奉っているところを見るとどうやらそれは確からしい。このあたりのことは今度会ったら聞いてみたいと思う。また、養老の御代にはあの藤原四兄弟の末っ子、麻呂殿ともご関係を持っていらっしゃったとか。まあ、その関係は長く続かなかったようではあるが、もし、そのご関係がその後も続いていらっしゃったら、我が大伴の一門の立場も今とは若干異なったものになっていたことだろう。その後、伯父の大伴宿奈麻呂のもとに嫁がれ、我が妻坂上大嬢をお生みになられた。

さて、その叔母様が贈って下さったこの四首であるが、まず、一首目、「斎瓮イハヒベ」を据えたと言っているが、「斎瓮」とは祭祀のために使う容器のことだ。大和を離れ、越中へと赴く私の無事を祈るためにのものであることは言うまでもない。家刀自としての叔母様の面目躍如といった歌だ。

ところが、二首目、歌の調子は打って変わって恋歌仕立てになっている。私が旅立った後、予想される自らの寂しさを歌っているのだが、私としてはこの歌を我が妻、そして叔母様にとっては愛娘の大嬢の気持ちを代弁しているように思っている。大嬢と私は幼い頃に知り合い、最近になってその関係は深まり、そして正式に妻として迎え入れたばかりだった。その嬢を大和において行くのは私としてもたえがたいことだ。この思いは大嬢とて変わらないことであろう。叔母様は大嬢になりかわってこの歌を詠んだのだろうと思う。ただ、そのあたりはご本人に聞いてみないと何とも言えない。というのは、私たちの時代において家刀自と一族の男たちの・・・特に私と叔母様のような関係にあるものどうしにおいては、平成の御代に生きていらっしゃる皆様には計り知れないような関係があったからだ。かつて、倭健命(ヤマトタケルノミコト)様は、九州を平らげて都の帰った直後、東国を征伐に行けとの父君の酷いご命令が下ったとき、真っ先にすがったのはその叔母君倭姫命(ヤマトヒメミコト)様であった。倭健命様はその叔母君の前で臆面もなく弱音を吐いていらっしゃる。そして、叔母と甥という関係において、私たちとかのお二人はまったく同じ関係で。一族の男たちが母のように、ある場合は妻のように甘えられる存在、それが家刀自だ。ひょっとしたら、叔母様はこのような関係性に則ってかような歌を贈ってくださったのかもしれない。

そして、三首目、私は七月七日に大和をたって、十六日に越中に着いたのだが、この歌がついたのはそれからほどない頃であった。二首目で予想された寂しさが現実のものになってしまった悲しみを歌ったものだ。これまた恋歌仕立て。叔母がどのようなつもりでこの歌を詠んだのかは二首目の歌と同じ事情だろう。

最後に四首目。ここでまた表向きの家刀自の顔が現れた。「道の中」とは私の任地「越中」のこと。その「越中」の地の神に、私のことをまだ右も左も分からぬようなものだからよろしくお願いします。」とお願いする歌なのだが・・・叔母様から見れば、私もまだまだ子供なのだと実感させられてしまう。山上憶良殿のお子様を亡くされたときの歌(巻五)を思わず思い出してしまった。

とにもかくにも、越中での国司としての生活は始まった。この私にどれほどのことができるのか、自分でも未知数である。楽しみと言えば、楽しみだ。また、初めてのこの地、見るもの聞くものなにものもが珍しい。歌を詠むにもその素材は周囲に満ち満ちている・・・これもまた楽しみである。

天平十八年正月白雪多零積地數寸也

天平十八年正月白雪多零積地數寸也於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 [中宮西院]供奉掃雪於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌

左大臣橘宿祢應詔歌一首

降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

紀朝臣清人應詔歌一首

天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか

紀朝臣男梶應詔歌一首

山の狭そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば

葛井連諸會應詔歌一首

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは

大伴宿祢家持應詔歌一首

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

藤原豊成朝臣  巨勢奈弖麻呂朝臣  大伴牛養宿祢  藤原仲麻呂朝臣

三原王  智奴王  船王  邑知王  小田王  林王  穂積朝臣老

小田朝臣諸人  小野朝臣綱手  高橋朝臣國足  太朝臣徳太理

高丘連河内  秦忌寸朝元  楢原造東人

右件王卿等應詔作歌依次奏之登時不記其歌漏失但秦忌寸朝元者左大臣橘卿謔云靡堪賦歌以麝贖之因此黙已也

おりからの大雪、常々先の帝と御懇意になされていらっしゃった諸兄殿は大勢の諸王・官人の方々を引き連れて、雪掃いのために中宮の西院に参内になられた。まさに諸兄殿のご威光を誇示するかの様な出来事だったが、居並ぶ諸王・官人の方々もそのお力にはほとほと感服されていたことだろうと思う。

さて、先の帝の御為に雪掃いをさせていただくだけでも恐縮至極のことであるのに、先の帝は私のようなものにまで御酒を賜われ、宴を催してくださった。光栄の至りである。居並ぶ方々は先の帝のお言葉に従って次々と歌をお詠みになられた。どれもこれもお言葉どおり「雪」を詠みこんだ、正月にふさわしいめでたい歌ばかりであった。本来ならばそのすべてを記録しておくべきであったが、それを怠り、上に挙げた数首しか思い出せないのがかえすがえすも残念でならない。

ひとつだけ興味深く思ったのは、最後に書いておいた秦忌寸朝元殿のエピソードだ。朝元殿は遣唐使の一員として二度にわたり唐に渡り、向こうでの留学生活も十数年にわたる才人だ。その語学力たるや、お上の仰せで弟子をとり、唐の言葉を教授するほどのものである。しかしながら、唐での生活が長く大和にて暮らす日々が短かったゆえであろうか、あるいは、秦というそれほど高貴ではいらっしゃらない出自の中、このような場に招かれるような地位にたどり着くため、わき目も降らずご努力なされ、風雅の道に遊ぶ機会が少なかったせいであろうか、(そのいずれもだとは思うが)肝心の大和歌の力は今ひとつであった。この時はからずも先の帝の仰せにより、大和歌を詠まねばならなくなった朝元殿のお困り様は、おなじ南の下の間に座っていた私には手にとるように理解できた。次々と歌は詠まれ、朝元殿の順番は近づいてくる。そのお顔はますます引きつったようになってくる。その時である。一番、上の席に座られていた諸兄殿の「歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよ。」とのお言葉があった。そのお言葉の調子はなかなか歌の詠めない朝元殿をお謔いのようではあったが、そのことで朝元殿が救われるような気持ちになったのは確かだ。麝香は確かに高価な品物ではあるけれども、唐での長い留学生活で医学を学ばれ、当時薬事をつかさどる典薬頭の任にあたられていた(市村宏
「秦忌寸朝元」東洋大学上代文学研究会会報第14号)朝元殿のこと、歌を詠むよりはこちらを工面するほうが容易かったはず・・・・

なんというご配慮であろうか。諸兄殿は表面上は朝元殿をお謔いになられながらも、歌を詠めずに決定的な恥をかくという窮地からお救いあそばしたのだ。人の上に立つものとしてのお心の使いよう、私も肝に銘じておかなければならない。

天平十八年正月のある日のこと、白雪が大いに降り敷いて、地面に数寸降り積もった。時に左大臣橘諸兄殿が大納言藤原豊成殿及び諸王諸臣等を率いて、太上天皇の御在所中宮の西院に参上して、皆で雪掃いの任についた。雪掃いの終わった後、太上天皇は詔を降して、大臣参議並びに諸王はその上の間に座らせ、諸卿大夫は南の下の間に座らせて、酒を賜いて宴を催された。そのお言葉に言う・・・そなたたち、諸王・諸卿等、聊(イササ)か此の雪を素材にして夫々歌を詠み、献上せよ・・・と。
右の挙げた王卿の方々は、皆、お言葉に応えて歌を作り、次々と献上した。その時、うかつにも其の歌を記録することを怠り、その多くを漏失してしまった。ただ、こんなエピソードが一つあった。それは、秦忌寸(ハタノイミキ)朝元殿がなかなか歌を詠めないでいたのに対し、諸兄殿が謔れて、歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよとおっしゃった。そこで、朝元殿は黙り込んでしまった。

本来の意味での私の歌日記はここから始まる。その冒頭に私はこの日の宴の歌々を据えたいと思う。理由は以下による。
実のところを言えば、これらの歌々は私がおぼろげながらに記憶していたもので、この宴の日、私に歌日記を始めようとの明確な意図を持って記録していたものではない。そのことが、この日お集まりになられていた皆さんの歌すべてをここにお示しできなかった理由だ。
当日、お集まりになられていた諸王、官人もどなたがおいでになられていたか、なんとか遺漏なく思い出せたと思う。ただ、そのお名前の配列だが、本当ならば当日の皆さんの官位・官職をもとに並べておくべきところ、これだけはどうしても正確に思い出せない。したがって、天平二十一年四月一日現在の官位・官職を基準に配列することにした。そしてこのことがは私がこの日の歌々を歌日記の冒頭に据えようと思った理由を如実に示してくれる。
この日、天平二十一年四月一日は陸奥の地にて大仏の建立に必要な黄金が報告され、そのことに感激した帝が宣命が発せられた。元号は「天平勝宝」と改元せられ、私も従五位上と昇進を果たした。
このような良き日、私は、かつて従五位下として新たに本格的な官人としてのスタートを切ったその年の始めに催されたこの宴を思い出した。生まれて初めてかような晴れがましい場に呼んでいただくことができたこの日の晴れがましき体験は今もなお記憶に深々と刻まれている。私はこの歌日記を祝福されためでたき日記にしたいと思う。そして、天平十八年正月のこの雪の宴の歌こそがその冒頭を飾るのにふさわしいめでたき歌々であると確信している。

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ

霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ

橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを

あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに

鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿

かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり

右六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作

都である恭仁の地を離れ、私がなぜ平城の旧宅に居たのかを語らねばなるまい。

本当に、この年の初めはいろいろなことがあった。閏の正月一日早々に聖武の帝は諸臣をお集めになり、都を恭仁と難波の何れにするべきかを、お問いになられた。諸臣の意見はわずかの差で恭仁の都を良しとする意見がまさった。けれども、帝の意思は難波に大きく傾かれておられ、これを覆すほどの差ではなかったのだろうか、はっきりとした決定のないまま行幸が挙行されることとなった。

十一日、鈴鹿王様・藤原仲麻呂殿を留守役として、帝は難波へと向かわれたその日のことだ。同行なさっていた安積皇子様が急に倒れられたのだ。その日のことを、後に書かれた続日本紀では次のように記してある。

是の日、安積親王、脚病に縁りて桜井頓宮より還る。丁丑、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀飯麻呂らを遣して葬事を監護せしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人県犬養宿禰広刀自、従五位下唐が女なり。(「丁丑」は二日後の十三日のこと。「脚病」は「脚気」のこと。)

本当に御労しい最後でいらっしゃった。皇太子としてはすでに阿倍内親王様がいらっしゃったが、安積皇子様は帝の唯一の男皇子として、我々臣下の期待は並々ではなかった。それがかくも儚くなられるとは・・・人あって言う・・・藤原出身の光明皇后様の御子でいらっしゃる阿倍内親王の即位を脅かすとすれば、それは安積皇子様。事実、私をはじめ安積皇子様をお慕い申し上げている臣下は少なくはなかった。故に、その存在を邪魔にお感じになられていた藤原仲麻呂殿一派が毒殺を企てたのだ・・・と。

何が正しいのか、私にはなんとも言いようがない。ただ、私は内舎人として帝のご奉仕すると共に、安積皇子様のお世話もさせて頂いていたのだが、皇子様がお体にご不安を持っていらっしゃったのも事実である。以前から抱いていた不安が・・・現実になった。私個人としての実感はそれ以上ではない。そして、その安積皇子様のお世話をさせて頂いていた関係で私は、そのご葬儀のお手伝いをさせて頂くことになった。私の歌巻の巻三にはその際に詠んだ挽歌も収録しておいたのだが、そのように葬儀にしばらくかかわっていたような身で、すぐにはおそれおおくも帝の身近に仕えることは避けなければならない。私はしばらくの間、休日をいただくこととなった。まあ、平成の御代で言えば・・・忌引き・・・といったところか。「死」の「穢れ」に関わったものとして、それが薄れ去るまでは通常の生活に戻れないのが私の時代の常識だ。その休日を利用して平城の旧宅へと帰っていた時の歌がこの六首である。

久しぶりに家族と過ごす日々は、それなりに心安らぐ毎日であった。心優しき弟、書持とも好きな和歌の話は出来る。長らく会うことの出来なかった恋人坂上大嬢とも頻繁に言葉を交わすことが出来る。しかしながら一抹の寂しさもなきにしもあらず・・・と言った感じだ。ここ数年、共に新しい都を作り上げようと力を合わせて来た同僚達と離れて過ごすというのは何とも言えぬ思いだ。何か置き去りにされてしまうような・・・そんな屈折した思いの中、興がのってしまって思わず六首も詠んでしまった。今頃、恭仁の地では橘はその満開の時期を迎え、しきりに霍公鳥が啼いていることだろう。こうやって一人平城に閉じこもっている間にその季節が過ぎてしまわないかちょっぴり不安になって詠み始めたのだが、よく考えてみればこの古びた平城の都にも橘の花は咲くし、霍公鳥は飛来し、その声を聞かせてくれる。ただひとつ、心残りなのが今年の薬狩りに参加できないことだ。毎年五月五日、端午の節句に向けて、我々は薬狩りを行う。その華やかさ、楽しさといったら・・・それも今年は無理だ。何とも残念な事よ・・・というのが最後の一首である。

<追記>

ところで、今回、私の歌日記をブログとしてアップし始めて結構な時間が経過した。ここまでお付き合い頂いた方ならふと気づかないだろうか・・・日記というわりには、妙に日があいているな・・・と。以下にその日付だけ列挙してみよう。

天平二年十一月

天平十年七月七日

天平十二年十二月九日

天平十三年二月

同年四月二日同年

四月三日

年次不詳

天平十六年四月五日

日記と呼ぶにはあまりにもまばらすぎる。しかも、私自身の作は、太字の部分のみだ。これでは私の歌日記と呼ぶにふさわしいものとは言えない。それもその筈だ。正確な意味での私の歌日記は次の歌から始まる。ここまでの三十二首は後から追補したものなのだ。私は皆さんもご存じのように万葉集と呼ばれる歌巻を編みつつあった。その大まかな姿は私の存命中に完成を見ていたのだが、その構成は巻の一から十六まで(巻一、二の古の部・巻三~十六の今の部・・・ただし、十六は付録)と巻十七~二十となっている。実はここまでの三十二首は、これらの形がある程度定まってから、私の手元に入ってきたものをその後にあえて挿入したものなのだ。

それでは、この三十二首はそれまで何処にあったのか・・・

詳しく話せば長くなる。端的に言おう。弟、書持の遺品の中にだ。身体の強くなかった書持は私が越中の国の国司として派遣されて間もない頃世を去った。その遺品の中にこれらの歌が収められていたのだ。書持は自作の数首の短歌や、私がかつて贈った私の作、そして紹介した他の人の作をこうやって保存してくれていたのだ。それらの歌を私は何とか構成に残してやりたいと思った。心優しく、風雅を愛したあの弟の生きていた形跡を少しでも多く残したいと思った。しかし、歌巻・・・万葉集はほぼその姿を固めつつある・・・悩んだ私は、自らの歌日記の前にこれらの三十二首を置くこととした。ここならば、年次的な矛盾が生じないし、それまでの巻の歌々とこれから始まる私の歌日記との中継ぎをこの三十二首が果たしてくれるからだ。

かくして、正確な意味での私の歌日記は次回から始まることとなる。最後に一つ付け加えておこう。この六首を詠んだ天平十六年、私は、言ってみれば官人の見習い期間でもある内舎人の期間を終え、正式に任官する。従五位下・・・それが私のスタートだ。

山部宿祢明人詠春鴬歌一首

山部宿祢明人詠春鴬歌一首

あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声

右年月所處未得詳審 但随聞之時記載於茲

私の師と仰ぐ山部赤人殿の作品だ。思いもかけず、こうやって伝え聞いて、埋もれていた彼の歌を掘り起こすことができて幸運この上ない。題詞に「明人」とあるのは、本当ならば「赤人」と訂正するべきではあったが、元になった資料を尊重してそのままにしておいた。私の父「旅人」も資料によっては「淡人」となっていたり、あの藤原不比等様も「史」と書かれることがあったりで、私どもの時代においては余り気にすることではない。それにしても、この歌は本来、こんな場所に記録しておくべきものではなかった。きちんと時代順に整理された巻の十六までのどこか・・・そうだな、巻の三か六か八のどこかに入れるべきではあったが、なにせ伝え聞いたのがつい最近のことだ。私の歌巻(万葉集)はほとんどその整理が終わっていて、ちょっと手を加えて何処かに挿入というわけにはいかなかった・・・ということで、少々不体裁ながらここに並べおいた。数種、鳥についての歌が並んでいたので、「まあ並べておくのならここか。」ぐらいの感覚だ。歌の中の「野づかさ」とは私も余りききなれないことばだが、どうやら「野の小高くなっている部分」のことをいうらしい。

思霍公鳥歌一首 田口朝臣馬長作

思霍公鳥歌一首 田口朝臣馬長作

霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも

右傳云 一時交遊集宴 此日此處霍公鳥不喧 仍作件歌 以陳思慕之意 但其宴所并年月未得詳審也年次不詳

せっかく霍公鳥の声を聞こうと宴を催したというのに、その声が聞こえてこないというのはなんとも残念な話だ。困りきった馬長殿のお顔が目に浮かぶようだ。面目丸つぶれというのはこのことだろう。

ただ、その弁明に詠んだこの歌は、実にしょっている。「今し」の「し」という強めの言葉はとても大切な言葉だ。宴も始まりなかなか霍公鳥は啼かない。次第に焦ってくるのは馬長殿だ。他のどんな時でも啼かなくてもいいから、せめて今のこの瞬間だけでも一声啼いてほしい・・・切実な願いであろう。それにしても「万代に 語り継ぐべく」の一節はなんともまあ、おおげさな・・・との感じないでもない。私などは思わず、山上憶良殿の

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名はたてずして

の一首を思い出してしまった。憶良殿のこの一首は、その生涯を振り返っての悲痛な叫びであったが、ここでの馬長殿の置かれてる位置はそれほどのことでもあるまいに・・・まあ、それほど焦っていらっしゃったのだろう。

最後に長い左注になってしまった。分かりにくいと思われる方は次を参考にしていただければと思う。

人から伝え聞いた歌だ。あるとき、田口の朝臣馬長殿が親しい友人を集め、宴を催した。霍公鳥の声を肴に一杯という趣向だったのに、この日に限っていっこうにその声が聞こえてこない。そこで、この歌を詠み、その声を思慕する思いを述べることで、集まった友人たちに対する弁明とした。ただ、この話を聞いたとき、この歌が何時、どんな場所であったことなのかを聞くことを忘れていたので、今、それを明らかにすることはできない。

四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候タ不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳

あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし

霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる

霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで

右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

先日は弟、書持からの便りがあって、久しぶりに平城の都のことを思い出した。そこに残してある家族のこと、恋人、坂上大嬢のこと、懐かしく思い出されたものである。しばしの間と思っていた行幸が、思いもよらず遷都という次第にあいなって、我が家には帰れそうもない。我が心はひたすら平城の都にむかうのみである。望郷の念は募る・・・我が家のある佐保よりもまだ山深きこの恭仁の地は、今、まさに春から夏へと季節は移行しつつある。そんな私の仮住まい宿に霍公鳥がやってきて啼いた。霍公鳥は・・・いや、霍公鳥だけでなく鳥類は家人の思いを運んでくれるものと聞く。してみれば、かくのごとく霍公鳥が我が宿の近くで啼いているという事は、それだけ家人や坂上大嬢が私のことを恋い慕ってくれているのか・・・想いは私もそれにひけはとらない。それにしても「橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている」ような麗らかでのどかな季節に私の心がこのように結ぼれてしまうのは、それだけが理由ではない。それはおそらくは私の生来のものと考えたほうがいいのかもしれない。

そして・・・その結ぼれた心・・・「いぶせき」心を晴らしてくれるのは、歌を詠むことしか・・・私にはない・・・

最後に、題詞がお分かりになりにくい方、下を参考にしていただきたい。

橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている。このような麗らかな季節にあたって、どうして我が心根をのびのびとさせないでいられようか。そこで三首の短歌を作り、結ぼれた我が思いを晴らそうとするのである。

四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

詠霍公鳥歌二首

橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも

 右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

右は、四月二日、大伴宿禰書持が、奈良は佐保の自宅より兄であるこの家持に贈ってくれた歌である。伊勢行きから始まった今回の行幸が、久迩新京への遷都という形で終了し、内舎人として帝にご奉仕を始めていた私は、平城の自宅とが山一つ隔てたそんな久迩の地に起居することとなった。ほんの少し足をのばせば、我が子、弟の書持にも、そして坂上大嬢にも逢えるのだが、都作りの繁忙がそれを許さない。官人にとっては充実した毎日ではあったが、やはり、寂しさは如何ともしがたい。

思い返せば去年の十月末、突然の行幸に付き従ってから、平城は佐保の自宅には一度も帰っていない。こうして家の者から便りが着くことは何とも言えず有り難い。書持の心遣いがたまらなく心にしみ入る。「住むと来鳴かば」は(霍公鳥が)住もうとしてやってきて鳴けば、の意のように受け取れる。「聞かぬ日なけむ」の「なけむ」はちょっと耳慣れない言い方だが「無し」に「む」がついたものかと思う。ちょっとぎこちない感じがしないでもないが、大切なのはその心遣いだ。ひょっとしたら、書持は霍公鳥を私になぞらえ、私に帰ってきて欲しいと歌っているのではないか

・・・いや、書持とてもうそれなりの年齢に達している。職務で帰ることの出来ぬ私の立場は充分に理解できているはず。してみれば、古来、鳥類は・・・・就中、霍公鳥は、魂の運搬者(ちょいと大げさな表現だが)として歌われることが少なくはないことを考えなければならぬか・・・

霍公鳥は唐土の地においては様々な伝説のある鳥だ。もちろん、季節がちょうどそのような季節であったにしろ、書持の頭の中には、そんな霍公鳥の思い入れがあったに違いない。ところで、二首目に詠み込まれている「楝」は私たち兄弟にとっては思い出深い花だ。お義母様が筑紫の地で亡くなられたとき、父、旅人の悲しみようと言ったら目も当てられないぐらいのものであったが、そんな父に共感してか山上憶良殿は

妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が鳴く涙 未だ干なくに

と歌った。自分の子ではない私を手元に引き取って下さって、我が子として育ててくださったお義母様の優しさをついつい思い出してしまう・・・そんな花なのだ。