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更贈歌一首

更贈歌一首
含弘之徳垂恩蓬体不貲之思報慰陋心 載荷来眷無堪所喩也 但以稚時不渉遊藝之庭 横翰之藻自乏彫蟲焉 幼年未逕山柿之門 裁歌之趣 詞失乎聚林矣 爰辱以藤續錦之言更題将石間瓊之詠 固是俗愚懐癖 不能黙已 仍捧數行式酬嗤咲其詞曰

大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて来し ますら我れすら 世間の 常しなければ うち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山きへなりて 玉桙の 道の遠けば 間使も 遣るよしもなみ 思ほしき 言も通はず たまきはる 命惜しけど せむすべの たどきを知らに 隠り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに 春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折りかざさず 春の野の 茂み飛び(グ)潜く 鴬の 声だに聞かず 娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を うるはしみ この夜すがらに 寐(イ)も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居る

あしひきの 山桜花 一目だに 君とし見てば 我れ恋ひめやも

山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも

出で立たむ力をなみと隠り居て君に恋ふるに心どもなし

三月三日大伴宿祢家持

これもまた池主殿に贈った書簡である。先日頂戴した池主殿の書簡にあった序文と短歌二首は療養中の私の弱った心にしみ入るようなお気遣いにあふれていた。まことに感謝しきりである。その上、私の拙い文章に「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉までいただいて、恐れ入るばかりである。ここは「石を以て玉に交じ」るようなことになっても、是非ともお返ししなければならない・・・そんなふうに思い、早速ご返事申し上げた。

序文の方は・・・(先日の書簡の序文を含め)自らの文の拙さを弁明したものに過ぎないが、そんな拙い文に、誠意にあふれた、しかも格調高き文を贈って下さった池主殿への感謝の念を表現したつもりである。思いが充分に伝わったかどうかは自信はないが、私なりに力を尽くしたつもりだ。長歌の方はいささか説明的で冗長の誹りはまぬがれえぬかもしれない。しかしながら、この数日の間、私の胸中に去来した様々な思いのすべてを池主殿にご理解いただくことを主眼において詠んだものなので、ここは歌の出来不出来には目をつぶってもらわなければならない。

すべての起点は、二十日の私の作にある。この日の歌の題詞にあった「悲緒」を詳細に綴ったのが、二十九日に池主殿に贈った歌の序文である。そして、そして、その二十五日の序文の意とするところと、二十日の長歌を一つにまとめ、構成し直したものが今回の長歌となる。なにせ二十日の段階で、あの歌は自らの鬱積した思いを晴らすためだけに詠んだもので、もとより誰にも披露してはいない。しかし、池主殿がかくも私の意をご理解くだされ、お気遣いして下さっている以上、私はすべてを池主殿にお伝えしなければならない・・・

このように思い、私はこの長歌を詠んだ。

ところで、聞くところによれば私がこの長歌の序文に用いた「山柿の門」という言葉が後の世の人々の論議を呼んでいると言うことらしい。「山柿」なる語が、誰を指し示す言葉であるかという点についてである。

このことについて、私が歌巻(万葉集)を編んだ百年ほど後に、紀貫之殿という歌人が帝の仰せを承けてお編みになられた「古今和歌集」という歌巻以降、明治の御代に至るまで、「山」とは山辺赤人殿・「柿」は柿本人麻呂殿を指し示す語であるという認識は揺らぐことはなかった。しかし、明治の御代も終わりの頃、これに異を唱えた方が現れた。歌人としての自らの創作と共に、私の歌巻の研究に生涯を捧げられた佐佐木幸綱殿である。佐佐木殿は「山」、山辺赤人殿・「柿」、柿本人麻呂殿との上掲の見解を、「古今和歌集」以降の歌に対する考え方の影響であると考えられた。そして、その歌数、歌人としての格からして、柿本人麻呂殿と並び立つ歌人は山上憶良殿の方がよりふさわしいだろうと考えられた。

そして、この考えに真っ先に反対の意思を表明されたのは同じくこの時期を代表する歌人である島木赤彦殿だ。島木殿は佐佐木殿とは逆に山辺赤人殿を高く評価し、この「山」は山辺赤人殿でなければないと強く訴えた。以降、数多くの賢き人々がこの点についてご発言になられた。以下にその論拠ともいえる部分を示しておこう。

<赤人殿と考える説>

1. 人麻呂殿と並ぶべき歌人は赤人殿である。

2. 私の歌風が赤人殿に近い。

3. 赤人殿を私が尊敬し、推奨している。

4. 憶良殿ならば私が幼年期入門しえたはずである。

5. 赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。

6. 私が伝統的な歌に憧れており、憶良殿の作ははどちらかと言えばそのような伝統にはない。

<憶良殿と考える説>

1. 憶良殿の歌への追和の歌が私にはある。

2. 地方の国守の経験が共にある。

3. 今回の作のように漢文の序をつけるという形が憶良殿に倣ったものである。

4. 我が大伴家と憶良殿は近い関係にある。

5. 憶良殿も中央では知られた歌人である。

6. 今回の序文中の「聚林」なる語が憶良殿の類聚歌林をさす。

7. 赤人殿の長歌は未熟で、私がこれを参考にしたとは思えない。

8. 私の歌には憶良殿の使った語句が多く見られる。

まさに諸説紛々である。私から見ても「なるほど・・・そんなふうにも見えるか・・・」というようなご指摘も中にはある。特に、「赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。」というご指摘だ。後の反論に有るように、憶良殿もその歌才はその学才とともに中央でも充分に知られていたが、柿本人麻呂殿の持つ公的な色彩を受け継ぐのは、どちらかと言えば赤人どのであろう。憶良殿はいささかその詠歌が私的なものに偏りを持つ。傾聴するべき視点であろう。ただ、初めの頃にあったどちらが優れた歌人であるかなどという論議には少し首をかしげたくなる。「それは後の世の方々の見方ではないか。」と言いたくなるのだが、。問題は後の世の方々がこのお二人をどう評価なされるかではなく、私がこのお二人をどう見ていたかにあるからだ。

ともあれ、以上のようにこの問題についての論議がなされる中、昭和の御代の大戦も終わった頃、唐土の文に深い造詣をお持ちの小島憲之殿が、私の書いた序文が漢文である以上どこかに典拠を持つ言葉でなければならないとされ、「文選」の「南都賦(巻四)」に「・・・桜、梅、山柿、・・・」という用例を挙げ、ここから「山柿」で一語であること、すなわち「山柿」で柿本人麻呂殿のお一人を指すものである事を唱えられた。また、小島殿に先立つこと十五年前、折口信夫殿はその一文「柿本人麻呂」でこのことを直感的に感じておられたようだ。

しかしながら、このお二方の考えは、その後顧みられることはなく再び同様の考えが世に示されるのは昭和の御代の五十三年を待たねばならなかった。この年、村田正博殿が世に示した「山柿の門」(「万葉集を学ぶ」巻八)は、この問題についての長年の論争を極めて明瞭に語整理下さり、その結論として私の持つ“古典意識”にふれられた。私は私の歌巻を編むとき常に「いにしえ」と「今」との対比を常に念頭に置いてきた。そしてその意識の中において、「いにしえ」に属する歌人は柿本人麻呂殿であり、山部赤人殿・山上憶良殿のいずれもが私の意識の中にあっては「今」に属する歌人であるとご指摘なされた。そして、私が自らの歌作にあたって、常に“古典”を意識していたと思われることから、「山柿」とはこの柿本人麻呂殿のお一人を指すと言及された。

また他に山辺赤人殿、お一人が「山柿」だとの考えが、同じ昭和の御代の四十一年に中西進殿という方から提起されたとも聞き及んでいる。

その後、それぞれの立場からもそれぞれの考えを補強なされるような考えが提出され、この段階で考え得る諸説は出尽くしたと言って良いだろう。そしてその結論は未だ決着を見ない。

さて・・・この語を使った当の本人として、「山柿」なる語がいかなる意味を持った言葉であるか、当然のことながら私は知っている。というよりも、このことは平城の御代において歌作に関わったものならば、それは共通認識と言ってよい。 したがって、ここでその種明かしをしてしまうことはたやすい。しかしそれは余りに興ざめな行いであると言わざるを得ない。加えて、後の世の人々が私が残したものについてかように熱心にお考えになられていること自体が私にはこの上なくうれしいことでもある。それを私自身の発言によって強引に決着させてしまうのは、いかにも残念なことだ。もうしばらくはこの論争の推移を見守って行きたいと思う。

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の恩、慰を陋心に報ふ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪(ア)ふる所無し。但(タダ)し、稚き時遊芸の庭に渉らざるを以て、横翰の藻、自ら彫虫に乏(トモ)し。 幼年未だ山柿の門に渉らずして、裁歌の趣、詞を聚林に失ふ。ここに藤を以て錦を続(ツ)ぐの言を辱(カタジケナ)みし、更に石を将(モチ)て瓊(タマ)に間(マジ)ふるの詠(ウタ)を題(シル)す。固(モトヨ)り是れ俗愚にして癖を懐(ムダ)き、黙(モダ)して已(ヤ)むことあたはず。仍(ヨ)りて、數行を捧げ式(モチ)て嗤咲に酬(ムク)いむ、其の詞に曰はく、

あなた様の宏大な御仁徳は、蓬のようにつまらぬ我が身を思いやって下さり、計り知れぬ御温情は、我が心を慰めて下さいました。お心をお寄せ下さって、その喜びは譬えようもございません。小生、年少の頃詩文の道に深く関わることもなく、思いつくまま書きつけた文章は自ずと面白みに乏しく、若い頃に山柿の門に関わったこともないが故・・・和歌の道を正しく学ばなかった故・・・、折角詠んだ歌の言葉も言葉の林に見失うがごとくでたらめな言葉遣いです。ここに、「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉をいただき、それに乗じて「石を以て玉に交じ」るような拙い歌を詠みました。もとより小生、生まれながらの俗愚の徒、持ち前の性癖か黙ってすませることが出来ません。よって数行の歌をさし上げ、お笑いぐさまでにお答えいたします。その歌詞と申しますのは・・・

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦 以吟以詠能蠲戀緒春可樂 暮春風景最可怜 紅桃灼々戯蝶廻花儛 翠柳依々嬌鴬隠葉歌 可樂哉 淡交促席得意忘言 樂矣美矣 幽襟足賞哉豈慮乎蘭蕙隔藂琴罇無用 空過令節物色軽人乎 所怨有此不能黙已 俗語云以藤續錦 聊擬談咲耳

山峽(カヒ)に 咲ける桜を ただ一目 君に見せてば 何をか思はむ

鴬の 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも

沽洗(三月)二日 掾大伴宿祢池主

先日私が贈った書簡の歌に池主殿がかようにお応え下さった。父上や山上憶良殿がよくやっていた漢文の序を和歌に付するという形式を、私が戯れに試みたところ、池主殿はそれにみごとに対応して下さった。

やはり、漢文がお得意な池主殿だ。その序文の中には、六朝詩や遊仙窟によく使われている「紅桃」「戯蝶」「翠柳」「嬌鴬」、荘子に見られる「淡交」、そして初唐の詩人王勃の「林泉孤飲」にあった「物色軽人」を初めとした数々の麗しき語をちりばめられてあり、「翰苑雲を凌ぐ。」とは私の駄文よりは、池主殿のこの序文にこそふさわしい言葉である。

また私が病の床にあるがため、会うこともままならない状況を「蘭蕙、藂を隔て」などという言い回しで表現するなんて私は思いもつかないことだ。本当に恐れ入るばかりだ。「藤を以ちて錦を続ぐ。」は「錦を以て藤を続ぐ。」と言い改めたいほどだ。

そして二首の短歌。私が贈った二首の中では単に「春の花」とだけいってあるところを、「桜」「山吹」と置き換えて下さっている。このように病の床にあってこの越中の山野に今頃どんな花が咲いているのかもわからず、「春の花」と極めて曖昧な形でしか詠むことが出来なかったのを承けて、具体的に二つの花を挙げ、私にそれとなくそれらの花が咲いていることを教えて下さっている。我が意を得たりとは、まさにこのような返歌のあり方を言うのではないかとさえ思われる。

とにもかくにも、池主殿のこの序文と歌には更にお応えせずばなるまい・・・

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽(タチマチニ)に芳音を屈(カタジケナ)みし、翰苑(カンエン)雲を凌ぐ。兼(サラ)に倭詩を垂れ、詞林錦を舒ぶ。以て吟じ、以て詠じ、能(ヨ)く恋緒をのぞく蠲(ノゾ)く。春は楽しぶべく、暮春の風景は最も怜れむべし。紅桃灼々、戯蝶は花を廻りて儛ひ、 翠柳依々、嬌鴬葉に隠れて歌ふ。楽しぶべきかも。淡交に席(ムシロ)に促(チカヅ)け、意を得て言を忘る。楽しきかも、美(ウルハ)しきかも。幽襟賞(メ)づるに足る。豈(ア)に慮(ハカ)りけめや、蘭蕙(ランケイ)、藂(クサムラ)を隔て、琴罇用ゐるところなく、空しく令節を過ぐして、物色人を軽みせむとは。怨むる所、此(ココ)にあり。黙(モダ)して已(ヤ)むことを能(アタ)はず。俗(ヨ)の語に云ふ「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」と。いささかに談咲に擬(ナゾラ)ふのみ。

思いもかけずありがたいお便りを頂きましたが、その文の筆のさえはまさに雲を凌ぐばかりです。加えて、和歌までこの私めにお恵みくだされましたが、これまたそのお言葉の綾たるやまるで錦を広げたようです。いくたびも、いくたびも吟詠しその度にあなた様への恋しさもはれる思いです。春はもとより楽しいはずの季節、なかんずく暮春・・・三月の風景はもっとも賞美するにふさわしい頃でございます。桃の花の紅は輝くばかり、浮かれた蝶が花々の間を舞い飛び、緑の柳はなよなよとその葉を揺らし、鶯は葉陰に隠れ可憐な歌声を聞かせてくれます。なんという楽しさでしょうか。君子との席を近づけ淡々と交わりにおいて、心通えば言葉はもはや無用の長物。ああ、何という楽しさ、何という素晴らしさ・・・まさに君子の語にふさわしいあなた様の深いみ心は賞でるに余りあるほどです。どうして想像できたでしょうか、蘭と蕙が草むらに隔てられるように、あなた様とお会い出来ず、琴も罇も用もないままに空しくこの良き季節を過ごし、自然の風趣が我々人間を軽く見るとは。恨めしいのはまさにこの点なのです。黙ったまま過ごすことはとても出来ません。俗なことわざに「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」とあるように、あなた様の秀作に私の駄作を続け、お笑いの種にとお示し致すだけです。

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

忽沈枉疾累旬痛苦 祷恃百神且得消損 而由身體疼羸筋力怯軟 未堪展謝係戀弥深 方今春朝春花流馥於春苑 春暮春鴬囀聲於春林 對此節候琴罇可翫矣 雖有乗興之感不耐策杖之勞 獨臥帷幄之裏 聊作寸分之歌 軽奉机下犯解玉頤 其詞曰

春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも

鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ

二月廿九日大伴宿祢家持

本当に辛い日々が続いた。北国の冬がこんなに厳しいものとは思ってもいなかった。初めは風邪ぐらいかなと思っていたのだが、症状は日に日に重くなり、一時は自分で我が命を諦めかけるほどであった。しかしながら、幸いにも百神のご加護、そして身の周りであれこれと気苦労を重ねてくれた方々のおかげで、ようやく小康を得るに至った。しかしながら、長い闘病生活のせいか、どうにも体に力が入らない。まだ、節々にだるさや痛みが残り、外へ出て気晴らしするような気持ちにはなれない。季節はまさに春。歌の左注には二月二十九日とは書いたが、これは平成の御代の暦ならば四月も半ば頃。この春遅き北国もようやく春爛漫と言った風情である。本来なら序文にも書いたようにその楽しみを味わい尽くすべきこの時期、今年ばかりはどうやら楽しめそうもない。それがいかにも残念でならない。

先日池主殿がおいでになって、「季節も季節ですから、お病が良くなられたら一緒にどこぞにでかけ、歌などを詠んで楽しみを尽くしましょうぞ。」とのお誘いをうけた。けれども身体が身体だ。今年は我慢したいとの旨をお伝えしておいた。もうじき上巳の宴だ。それも今年は我慢だ。どうやら何ともつまらぬ春になりそうで、たまらない気持ちだ。

そこで、私はひらめいた。外に出ずとも私には歌があるではないか。こんな時にこそ、この「いぶせき」思いを歌にのせて払うのだ
・・・と思ったとき、私は父上の

大宰帥大伴卿報凶問歌一首

禍故重疊し、 凶問累集す。永く崩心の悲懐き、獨り断腸の泣を流す。但だ兩君大助依りて傾命を纔かに継ぐのみ 筆言を尽くさず、古今の嘆く所なり

世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(巻五)

という一首をを思い出した。

そうだ・・・序文をつけてみよう。和歌に漢文による序文を付すのは父上の独創であった。それまで歌の前に付されていた題詞は単に当該の歌の事情説明であり、それ自体を創作と呼ぶに価するものではなかった。しかしながら、この父上が独創されたこの形式は唐土においての詩に序を付する形を模倣するものではあったが、わが国に於いてのこの父上の試みは、すこぶる新鮮な創作であった。そして、その事が山上憶良殿との関係を取り持つことにつながり、ひいては筑紫歌壇の成立の大いなるきっかけと相成った。

してみれば、ここで私がこのような形式の歌を池主殿に送ったならば、文才に長けた池主殿のことだ。きっと反応してくれるに違いない。そうなれば・・・父上があの筑紫で送ったような有意義な日々を、この越中でも送ることが出来るようになるのではないのだろうか
・・・いや、余り先のことは考えないでおこう。とにかく、今外に出かけられず家の中で鬱々として過ごさねばならぬ私が、少しでもその気を晴らすには歌を詠むことぐらいしかない。そして、それに応えてくれる人があれば今は、それで満足だ・・・・

<補>

漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために二首の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽ちに枉疾に沈み、累旬痛苦す。百神に祷(コ)ひ恃(タノ)み、且つ消損を得たり。 しかしてなほ身体疼羸(ドウルイ)、筋力怯軟(ケフゼン)たり。 未(イマ)だ展謝堪(ア)へず、係恋いよいよ深し。 方今(イマシ)春朝の春花、馥(ニホヒ)を春苑に流し、 春暮の春鴬、声を春林に囀る。此の節候に対(ムカ)ひ琴罇(キンソン)翫(モテアソ)ぶべし。興に乗るの感有れども、杖を策(ツ)くの労に堪(ア)へず。独り帷幄(イアク)の裏(ウチ)に臥して、いささかに寸分の歌を作る。軽(カルガル)しく机下に奉り、玉頤(ギョクイ)を解かむことを犯す。 其の詞に曰はく

 

思いもよらぬ重病に陥り、数十日の間、痛み苦しんでおりました。多くの神々に祈り、頼って、ようやく小康を得ることができました。とはいえ、なお身体は痛み、やつれが残り、この身にはいっこうに力が入りません。いまだお礼を申し上げに伺うことも適わず、お逢いしたい気持ちは増す一方でございます。まさに今、春の朝、春の花々がなんともいえぬ香りを春の園に漂わせ、春の夕には春の鴬がその高らかな声を春の林に響かせています。この時候にあたって、琴や樽を傍らにおいて興を尽くすべきもの。私とて感興はそそられるものの、杖を突いて外出する労に耐え、外出するだけの力が湧いてきません。ひとり帳の中に臥して、気まぐれに拙い歌をいささか作りました。軽率を顧みず、お手元に奉りあなたのお目を汚して、お笑いの種にして頂きとうございます。その歌というのは次の通りでございます。

平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首

平群氏女郎贈越中守大伴宿祢家持歌十二首

君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも

須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも

ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ

なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久ならばすべなかるべし

隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく

草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつ我が恋ひ居らむ

草枕旅去にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく

かくのみや我が恋ひ居らむぬばたまの夜の紐だに解き放けずして

里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし我れぞ悔しき

万代に心は解けて我が背子が捻みし手見つつ忍びかねつも

鴬の鳴くくら谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ

松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ

右件十二首歌者時々寄便使来贈非在一度所送也

二首の歌は折りにふれ、使いによせて贈ってきた歌である。一度に送ってきたものではない。私は内舎人であった頃、多くの女性と知り合うことが出来た。どの方も機知に富んだ教養豊かな・・・そして美しい女性ばかりであった。まだ若かった・・・今もそうふけこんでいるわけではないが・・・私にはまぶしい女性達ばかりであった。そして、そんな方々といくつもの歌を交わしたものだ。そして、そんな歌の一つ一つを私の歌巻のあちらこちらに・・・その歌のふさわしい場所に配置した。どれもこれも捨て去るには惜しいものばかりであるからだ。

ただ、ひとつ気がかりがある。それらの歌のどれもが全て恋歌仕立てになっていることだ。私の歌巻きを見る機会を得た後の世の人々が、この私が、かくも多くの女性との遍歴があったのではないかと誤解するかも知れないとの危惧が残る。それは、私だって相応の年齢の男だ。私たちの時代のならいとて、妻以外にも幾人かの女性と関係を持ってもそう責められることではない。かといって、これらの女性と全て関係を持っていたと考えられてしまうのはいささか心外だ。「基本的には」私が、二十二歳の時(天平十一年)に失った女と、そしてこの度、正式に妻として迎えた大伴坂上大嬢以外には心を寄せたことはない・・・・

・・・とはいっても、若かった頃のこと、少しは他の女性に心を動かしたこともないではない。・・・上に「基本的には」と書いたのもそれが為ではあるが・・・それにしても、歌巻の見られる女性の全てとそのような関係にあったわけではない。そのほとんどは「風雅の友」・・・とでも言うべき関係にあった。今更、こんな事を書いても信用してもらえないかも知れないが、これらの女性達の多くとは仮想の恋の上に歌を交わし、互いに歌詠すること自体を楽しむ・・・そんな関係であったのだ。

もちろん、どの方とが「風雅の友」であり、どの方とがそうではなかったとここに書くわけには行かない。それこそ野暮というものであろう。ただ、この平群氏女郎とは、その前者の関係であったことはここで明らかにしても差し支えなかろう。そんな関係だからこそ、この十二首に対してはあえて返歌を贈ることはしなかった。私はただ彼女の恋の物語をその歌を通じて楽しむ・・・それだけでよかったのだ。変に返歌などしようものなら、この女郎に変に思われてしまう。

ところで、この十二首だが左注にも書いたように、一度に贈ってよこされたものではない。四首ずつ、三度に分けて女郎が贈ってきたものだ。まず最初の四首、「龍田山」が上の句のとの続きで「名が立つ」の意味を持ち、下の句とのつながりで「恋を断つ」の意味になる。非常に巧妙な言葉遣いだ。そして後の三首は古歌の言葉を用いて別れて後の恋情の高まりを予想している。「見ず久ならば」との句がそれを知らせてくれる。

続いて次の四首、最初の一首は古歌をそのままに使っている。そして後の三首にて自らの言葉で離れて暮らす辛さ、そして再開を願う心根を述べている。

最後の四首、先の二首が男との逢瀬があった頃を懐かしむ心、続く二首がその男を待ちわびる気持ちを述べる歌となって一連の歌群を終結させている。

それぞれの、四首が意図的にに構成され、そしてその三つの歌群が緊密に関連を持ち合っている。まるで、一人の女の独白を時間を追って見せられているような・・・そんな思いにさせてくれる完結された物語だ。もはや、私の拙い歌を差しはさむ余地はない。私が返歌をなさなかった由縁である。私はただ都からの使いに託され送られてくる女郎の歌を、物語の続編を待つ一読者のように待っているだけであった。

天平十八年閏七月 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守 即取七月赴任所於時 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑつ我が床の辺に

今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ

贈越中國歌二首

旅に去にし君しも継ぎて夢に見ゆ我が片恋の繁ければかも

道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまは

昨年一月に従五位の下の位を授かった私は、今年に入り三月に宮内少輔の職に任じられていたが、この六月の二十一日に思いもかけず、越中の守という大役をおおせつかった。越中は能登半島を含む大国であり、地理的には海を隔てて渤海国と向きあう外交上も極めて重要な位置にある。そんな国の国司を任せていただけるということは、私の力をそれほど評価してくださる方がおられるということだ。晴れがましい気持ちとともに、その期待に応えなければならないという責任感に身が引き締まるような思いがあることも事実だ。はたしてこの私にどれほどの仕事ができようか・・・いささかの不安もなきにしもあらずだが、恐れてはいられない。与えられた任を果たすべく全力を傾けるのみだ。

そんな私に叔母である坂上郎女が、任地へと旅立つ前と、任地についてからの二度にわたって歌を贈ってくれた。叔母は、我が父、旅人の異母妹で、我が義母のなきあと、大伴一門の家刀自としての位置に揺るぎないものがある。若い頃は、結構おもてになったようで、初め穂積皇子にお気に入りになられ、皇子が薨去された後、宮廷に留まり命婦として仕えていたとも聞いている。定かではないが、当時、首皇太子と呼ばれていらしゃった今の帝ともお近づきがあったとも聞いている。後に個人的に帝に歌を奉っているところを見るとどうやらそれは確からしい。このあたりのことは今度会ったら聞いてみたいと思う。また、養老の御代にはあの藤原四兄弟の末っ子、麻呂殿ともご関係を持っていらっしゃったとか。まあ、その関係は長く続かなかったようではあるが、もし、そのご関係がその後も続いていらっしゃったら、我が大伴の一門の立場も今とは若干異なったものになっていたことだろう。その後、伯父の大伴宿奈麻呂のもとに嫁がれ、我が妻坂上大嬢をお生みになられた。

さて、その叔母様が贈って下さったこの四首であるが、まず、一首目、「斎瓮イハヒベ」を据えたと言っているが、「斎瓮」とは祭祀のために使う容器のことだ。大和を離れ、越中へと赴く私の無事を祈るためにのものであることは言うまでもない。家刀自としての叔母様の面目躍如といった歌だ。

ところが、二首目、歌の調子は打って変わって恋歌仕立てになっている。私が旅立った後、予想される自らの寂しさを歌っているのだが、私としてはこの歌を我が妻、そして叔母様にとっては愛娘の大嬢の気持ちを代弁しているように思っている。大嬢と私は幼い頃に知り合い、最近になってその関係は深まり、そして正式に妻として迎え入れたばかりだった。その嬢を大和において行くのは私としてもたえがたいことだ。この思いは大嬢とて変わらないことであろう。叔母様は大嬢になりかわってこの歌を詠んだのだろうと思う。ただ、そのあたりはご本人に聞いてみないと何とも言えない。というのは、私たちの時代において家刀自と一族の男たちの・・・特に私と叔母様のような関係にあるものどうしにおいては、平成の御代に生きていらっしゃる皆様には計り知れないような関係があったからだ。かつて、倭健命(ヤマトタケルノミコト)様は、九州を平らげて都の帰った直後、東国を征伐に行けとの父君の酷いご命令が下ったとき、真っ先にすがったのはその叔母君倭姫命(ヤマトヒメミコト)様であった。倭健命様はその叔母君の前で臆面もなく弱音を吐いていらっしゃる。そして、叔母と甥という関係において、私たちとかのお二人はまったく同じ関係で。一族の男たちが母のように、ある場合は妻のように甘えられる存在、それが家刀自だ。ひょっとしたら、叔母様はこのような関係性に則ってかような歌を贈ってくださったのかもしれない。

そして、三首目、私は七月七日に大和をたって、十六日に越中に着いたのだが、この歌がついたのはそれからほどない頃であった。二首目で予想された寂しさが現実のものになってしまった悲しみを歌ったものだ。これまた恋歌仕立て。叔母がどのようなつもりでこの歌を詠んだのかは二首目の歌と同じ事情だろう。

最後に四首目。ここでまた表向きの家刀自の顔が現れた。「道の中」とは私の任地「越中」のこと。その「越中」の地の神に、私のことをまだ右も左も分からぬようなものだからよろしくお願いします。」とお願いする歌なのだが・・・叔母様から見れば、私もまだまだ子供なのだと実感させられてしまう。山上憶良殿のお子様を亡くされたときの歌(巻五)を思わず思い出してしまった。

とにもかくにも、越中での国司としての生活は始まった。この私にどれほどのことができるのか、自分でも未知数である。楽しみと言えば、楽しみだ。また、初めてのこの地、見るもの聞くものなにものもが珍しい。歌を詠むにもその素材は周囲に満ち満ちている・・・これもまた楽しみである。

四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候タ不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳

あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし

霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる

霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで

右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

先日は弟、書持からの便りがあって、久しぶりに平城の都のことを思い出した。そこに残してある家族のこと、恋人、坂上大嬢のこと、懐かしく思い出されたものである。しばしの間と思っていた行幸が、思いもよらず遷都という次第にあいなって、我が家には帰れそうもない。我が心はひたすら平城の都にむかうのみである。望郷の念は募る・・・我が家のある佐保よりもまだ山深きこの恭仁の地は、今、まさに春から夏へと季節は移行しつつある。そんな私の仮住まい宿に霍公鳥がやってきて啼いた。霍公鳥は・・・いや、霍公鳥だけでなく鳥類は家人の思いを運んでくれるものと聞く。してみれば、かくのごとく霍公鳥が我が宿の近くで啼いているという事は、それだけ家人や坂上大嬢が私のことを恋い慕ってくれているのか・・・想いは私もそれにひけはとらない。それにしても「橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている」ような麗らかでのどかな季節に私の心がこのように結ぼれてしまうのは、それだけが理由ではない。それはおそらくは私の生来のものと考えたほうがいいのかもしれない。

そして・・・その結ぼれた心・・・「いぶせき」心を晴らしてくれるのは、歌を詠むことしか・・・私にはない・・・

最後に、題詞がお分かりになりにくい方、下を参考にしていただきたい。

橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている。このような麗らかな季節にあたって、どうして我が心根をのびのびとさせないでいられようか。そこで三首の短歌を作り、結ぼれた我が思いを晴らそうとするのである。

四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

詠霍公鳥歌二首

橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも

 右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

右は、四月二日、大伴宿禰書持が、奈良は佐保の自宅より兄であるこの家持に贈ってくれた歌である。伊勢行きから始まった今回の行幸が、久迩新京への遷都という形で終了し、内舎人として帝にご奉仕を始めていた私は、平城の自宅とが山一つ隔てたそんな久迩の地に起居することとなった。ほんの少し足をのばせば、我が子、弟の書持にも、そして坂上大嬢にも逢えるのだが、都作りの繁忙がそれを許さない。官人にとっては充実した毎日ではあったが、やはり、寂しさは如何ともしがたい。

思い返せば去年の十月末、突然の行幸に付き従ってから、平城は佐保の自宅には一度も帰っていない。こうして家の者から便りが着くことは何とも言えず有り難い。書持の心遣いがたまらなく心にしみ入る。「住むと来鳴かば」は(霍公鳥が)住もうとしてやってきて鳴けば、の意のように受け取れる。「聞かぬ日なけむ」の「なけむ」はちょっと耳慣れない言い方だが「無し」に「む」がついたものかと思う。ちょっとぎこちない感じがしないでもないが、大切なのはその心遣いだ。ひょっとしたら、書持は霍公鳥を私になぞらえ、私に帰ってきて欲しいと歌っているのではないか

・・・いや、書持とてもうそれなりの年齢に達している。職務で帰ることの出来ぬ私の立場は充分に理解できているはず。してみれば、古来、鳥類は・・・・就中、霍公鳥は、魂の運搬者(ちょいと大げさな表現だが)として歌われることが少なくはないことを考えなければならぬか・・・

霍公鳥は唐土の地においては様々な伝説のある鳥だ。もちろん、季節がちょうどそのような季節であったにしろ、書持の頭の中には、そんな霍公鳥の思い入れがあったに違いない。ところで、二首目に詠み込まれている「楝」は私たち兄弟にとっては思い出深い花だ。お義母様が筑紫の地で亡くなられたとき、父、旅人の悲しみようと言ったら目も当てられないぐらいのものであったが、そんな父に共感してか山上憶良殿は

妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が鳴く涙 未だ干なくに

と歌った。自分の子ではない私を手元に引き取って下さって、我が子として育ててくださったお義母様の優しさをついつい思い出してしまう・・・そんな花なのだ。