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十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ

霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ

橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを

あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに

鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿

かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり

右六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作

都である恭仁の地を離れ、私がなぜ平城の旧宅に居たのかを語らねばなるまい。

本当に、この年の初めはいろいろなことがあった。閏の正月一日早々に聖武の帝は諸臣をお集めになり、都を恭仁と難波の何れにするべきかを、お問いになられた。諸臣の意見はわずかの差で恭仁の都を良しとする意見がまさった。けれども、帝の意思は難波に大きく傾かれておられ、これを覆すほどの差ではなかったのだろうか、はっきりとした決定のないまま行幸が挙行されることとなった。

十一日、鈴鹿王様・藤原仲麻呂殿を留守役として、帝は難波へと向かわれたその日のことだ。同行なさっていた安積皇子様が急に倒れられたのだ。その日のことを、後に書かれた続日本紀では次のように記してある。

是の日、安積親王、脚病に縁りて桜井頓宮より還る。丁丑、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀飯麻呂らを遣して葬事を監護せしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人県犬養宿禰広刀自、従五位下唐が女なり。(「丁丑」は二日後の十三日のこと。「脚病」は「脚気」のこと。)

本当に御労しい最後でいらっしゃった。皇太子としてはすでに阿倍内親王様がいらっしゃったが、安積皇子様は帝の唯一の男皇子として、我々臣下の期待は並々ではなかった。それがかくも儚くなられるとは・・・人あって言う・・・藤原出身の光明皇后様の御子でいらっしゃる阿倍内親王の即位を脅かすとすれば、それは安積皇子様。事実、私をはじめ安積皇子様をお慕い申し上げている臣下は少なくはなかった。故に、その存在を邪魔にお感じになられていた藤原仲麻呂殿一派が毒殺を企てたのだ・・・と。

何が正しいのか、私にはなんとも言いようがない。ただ、私は内舎人として帝のご奉仕すると共に、安積皇子様のお世話もさせて頂いていたのだが、皇子様がお体にご不安を持っていらっしゃったのも事実である。以前から抱いていた不安が・・・現実になった。私個人としての実感はそれ以上ではない。そして、その安積皇子様のお世話をさせて頂いていた関係で私は、そのご葬儀のお手伝いをさせて頂くことになった。私の歌巻の巻三にはその際に詠んだ挽歌も収録しておいたのだが、そのように葬儀にしばらくかかわっていたような身で、すぐにはおそれおおくも帝の身近に仕えることは避けなければならない。私はしばらくの間、休日をいただくこととなった。まあ、平成の御代で言えば・・・忌引き・・・といったところか。「死」の「穢れ」に関わったものとして、それが薄れ去るまでは通常の生活に戻れないのが私の時代の常識だ。その休日を利用して平城の旧宅へと帰っていた時の歌がこの六首である。

久しぶりに家族と過ごす日々は、それなりに心安らぐ毎日であった。心優しき弟、書持とも好きな和歌の話は出来る。長らく会うことの出来なかった恋人坂上大嬢とも頻繁に言葉を交わすことが出来る。しかしながら一抹の寂しさもなきにしもあらず・・・と言った感じだ。ここ数年、共に新しい都を作り上げようと力を合わせて来た同僚達と離れて過ごすというのは何とも言えぬ思いだ。何か置き去りにされてしまうような・・・そんな屈折した思いの中、興がのってしまって思わず六首も詠んでしまった。今頃、恭仁の地では橘はその満開の時期を迎え、しきりに霍公鳥が啼いていることだろう。こうやって一人平城に閉じこもっている間にその季節が過ぎてしまわないかちょっぴり不安になって詠み始めたのだが、よく考えてみればこの古びた平城の都にも橘の花は咲くし、霍公鳥は飛来し、その声を聞かせてくれる。ただひとつ、心残りなのが今年の薬狩りに参加できないことだ。毎年五月五日、端午の節句に向けて、我々は薬狩りを行う。その華やかさ、楽しさといったら・・・それも今年は無理だ。何とも残念な事よ・・・というのが最後の一首である。

<追記>

ところで、今回、私の歌日記をブログとしてアップし始めて結構な時間が経過した。ここまでお付き合い頂いた方ならふと気づかないだろうか・・・日記というわりには、妙に日があいているな・・・と。以下にその日付だけ列挙してみよう。

天平二年十一月

天平十年七月七日

天平十二年十二月九日

天平十三年二月

同年四月二日同年

四月三日

年次不詳

天平十六年四月五日

日記と呼ぶにはあまりにもまばらすぎる。しかも、私自身の作は、太字の部分のみだ。これでは私の歌日記と呼ぶにふさわしいものとは言えない。それもその筈だ。正確な意味での私の歌日記は次の歌から始まる。ここまでの三十二首は後から追補したものなのだ。私は皆さんもご存じのように万葉集と呼ばれる歌巻を編みつつあった。その大まかな姿は私の存命中に完成を見ていたのだが、その構成は巻の一から十六まで(巻一、二の古の部・巻三~十六の今の部・・・ただし、十六は付録)と巻十七~二十となっている。実はここまでの三十二首は、これらの形がある程度定まってから、私の手元に入ってきたものをその後にあえて挿入したものなのだ。

それでは、この三十二首はそれまで何処にあったのか・・・

詳しく話せば長くなる。端的に言おう。弟、書持の遺品の中にだ。身体の強くなかった書持は私が越中の国の国司として派遣されて間もない頃世を去った。その遺品の中にこれらの歌が収められていたのだ。書持は自作の数首の短歌や、私がかつて贈った私の作、そして紹介した他の人の作をこうやって保存してくれていたのだ。それらの歌を私は何とか構成に残してやりたいと思った。心優しく、風雅を愛したあの弟の生きていた形跡を少しでも多く残したいと思った。しかし、歌巻・・・万葉集はほぼその姿を固めつつある・・・悩んだ私は、自らの歌日記の前にこれらの三十二首を置くこととした。ここならば、年次的な矛盾が生じないし、それまでの巻の歌々とこれから始まる私の歌日記との中継ぎをこの三十二首が果たしてくれるからだ。

かくして、正確な意味での私の歌日記は次回から始まることとなる。最後に一つ付け加えておこう。この六首を詠んだ天平十六年、私は、言ってみれば官人の見習い期間でもある内舎人の期間を終え、正式に任官する。従五位下・・・それが私のスタートだ。

山部宿祢明人詠春鴬歌一首

山部宿祢明人詠春鴬歌一首

あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声

右年月所處未得詳審 但随聞之時記載於茲

私の師と仰ぐ山部赤人殿の作品だ。思いもかけず、こうやって伝え聞いて、埋もれていた彼の歌を掘り起こすことができて幸運この上ない。題詞に「明人」とあるのは、本当ならば「赤人」と訂正するべきではあったが、元になった資料を尊重してそのままにしておいた。私の父「旅人」も資料によっては「淡人」となっていたり、あの藤原不比等様も「史」と書かれることがあったりで、私どもの時代においては余り気にすることではない。それにしても、この歌は本来、こんな場所に記録しておくべきものではなかった。きちんと時代順に整理された巻の十六までのどこか・・・そうだな、巻の三か六か八のどこかに入れるべきではあったが、なにせ伝え聞いたのがつい最近のことだ。私の歌巻(万葉集)はほとんどその整理が終わっていて、ちょっと手を加えて何処かに挿入というわけにはいかなかった・・・ということで、少々不体裁ながらここに並べおいた。数種、鳥についての歌が並んでいたので、「まあ並べておくのならここか。」ぐらいの感覚だ。歌の中の「野づかさ」とは私も余りききなれないことばだが、どうやら「野の小高くなっている部分」のことをいうらしい。

思霍公鳥歌一首 田口朝臣馬長作

思霍公鳥歌一首 田口朝臣馬長作

霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも

右傳云 一時交遊集宴 此日此處霍公鳥不喧 仍作件歌 以陳思慕之意 但其宴所并年月未得詳審也年次不詳

せっかく霍公鳥の声を聞こうと宴を催したというのに、その声が聞こえてこないというのはなんとも残念な話だ。困りきった馬長殿のお顔が目に浮かぶようだ。面目丸つぶれというのはこのことだろう。

ただ、その弁明に詠んだこの歌は、実にしょっている。「今し」の「し」という強めの言葉はとても大切な言葉だ。宴も始まりなかなか霍公鳥は啼かない。次第に焦ってくるのは馬長殿だ。他のどんな時でも啼かなくてもいいから、せめて今のこの瞬間だけでも一声啼いてほしい・・・切実な願いであろう。それにしても「万代に 語り継ぐべく」の一節はなんともまあ、おおげさな・・・との感じないでもない。私などは思わず、山上憶良殿の

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名はたてずして

の一首を思い出してしまった。憶良殿のこの一首は、その生涯を振り返っての悲痛な叫びであったが、ここでの馬長殿の置かれてる位置はそれほどのことでもあるまいに・・・まあ、それほど焦っていらっしゃったのだろう。

最後に長い左注になってしまった。分かりにくいと思われる方は次を参考にしていただければと思う。

人から伝え聞いた歌だ。あるとき、田口の朝臣馬長殿が親しい友人を集め、宴を催した。霍公鳥の声を肴に一杯という趣向だったのに、この日に限っていっこうにその声が聞こえてこない。そこで、この歌を詠み、その声を思慕する思いを述べることで、集まった友人たちに対する弁明とした。ただ、この話を聞いたとき、この歌が何時、どんな場所であったことなのかを聞くことを忘れていたので、今、それを明らかにすることはできない。

四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

橙橘初咲霍公鳥飜嚶 對此時候タ不暢志 因作三首短歌以散欝結之緒耳

あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし

霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる

霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで

右四月三日内舎人大伴宿祢家持従久邇京報送弟書持

先日は弟、書持からの便りがあって、久しぶりに平城の都のことを思い出した。そこに残してある家族のこと、恋人、坂上大嬢のこと、懐かしく思い出されたものである。しばしの間と思っていた行幸が、思いもよらず遷都という次第にあいなって、我が家には帰れそうもない。我が心はひたすら平城の都にむかうのみである。望郷の念は募る・・・我が家のある佐保よりもまだ山深きこの恭仁の地は、今、まさに春から夏へと季節は移行しつつある。そんな私の仮住まい宿に霍公鳥がやってきて啼いた。霍公鳥は・・・いや、霍公鳥だけでなく鳥類は家人の思いを運んでくれるものと聞く。してみれば、かくのごとく霍公鳥が我が宿の近くで啼いているという事は、それだけ家人や坂上大嬢が私のことを恋い慕ってくれているのか・・・想いは私もそれにひけはとらない。それにしても「橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている」ような麗らかでのどかな季節に私の心がこのように結ぼれてしまうのは、それだけが理由ではない。それはおそらくは私の生来のものと考えたほうがいいのかもしれない。

そして・・・その結ぼれた心・・・「いぶせき」心を晴らしてくれるのは、歌を詠むことしか・・・私にはない・・・

最後に、題詞がお分かりになりにくい方、下を参考にしていただきたい。

橙橘の花々が今年初めて咲いて霍公鳥(ホトトギス)は飛び交い盛んに啼いている。このような麗らかな季節にあたって、どうして我が心根をのびのびとさせないでいられようか。そこで三首の短歌を作り、結ぼれた我が思いを晴らそうとするのである。

四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

詠霍公鳥歌二首

橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも

 右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

右は、四月二日、大伴宿禰書持が、奈良は佐保の自宅より兄であるこの家持に贈ってくれた歌である。伊勢行きから始まった今回の行幸が、久迩新京への遷都という形で終了し、内舎人として帝にご奉仕を始めていた私は、平城の自宅とが山一つ隔てたそんな久迩の地に起居することとなった。ほんの少し足をのばせば、我が子、弟の書持にも、そして坂上大嬢にも逢えるのだが、都作りの繁忙がそれを許さない。官人にとっては充実した毎日ではあったが、やはり、寂しさは如何ともしがたい。

思い返せば去年の十月末、突然の行幸に付き従ってから、平城は佐保の自宅には一度も帰っていない。こうして家の者から便りが着くことは何とも言えず有り難い。書持の心遣いがたまらなく心にしみ入る。「住むと来鳴かば」は(霍公鳥が)住もうとしてやってきて鳴けば、の意のように受け取れる。「聞かぬ日なけむ」の「なけむ」はちょっと耳慣れない言い方だが「無し」に「む」がついたものかと思う。ちょっとぎこちない感じがしないでもないが、大切なのはその心遣いだ。ひょっとしたら、書持は霍公鳥を私になぞらえ、私に帰ってきて欲しいと歌っているのではないか

・・・いや、書持とてもうそれなりの年齢に達している。職務で帰ることの出来ぬ私の立場は充分に理解できているはず。してみれば、古来、鳥類は・・・・就中、霍公鳥は、魂の運搬者(ちょいと大げさな表現だが)として歌われることが少なくはないことを考えなければならぬか・・・

霍公鳥は唐土の地においては様々な伝説のある鳥だ。もちろん、季節がちょうどそのような季節であったにしろ、書持の頭の中には、そんな霍公鳥の思い入れがあったに違いない。ところで、二首目に詠み込まれている「楝」は私たち兄弟にとっては思い出深い花だ。お義母様が筑紫の地で亡くなられたとき、父、旅人の悲しみようと言ったら目も当てられないぐらいのものであったが、そんな父に共感してか山上憶良殿は

妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が鳴く涙 未だ干なくに

と歌った。自分の子ではない私を手元に引き取って下さって、我が子として育ててくださったお義母様の優しさをついつい思い出してしまう・・・そんな花なのだ。

讃三香原新都歌一首并短歌

讃三香原新都歌一首并短歌

山背の久迩の都は春されば花咲きををり秋されば黄葉にほひ帯ばせる泉の川の上つ瀬に打橋渡し淀瀬には浮橋渡しあり通ひ仕へまつらむ万代までに

反歌

たたなめて泉の川の水脈絶えず仕へまつらむ大宮ところ

 右天平十三年二月右馬頭境部宿祢老麻呂作也

作者の境部宿禰老麻呂という人についてはよく知らない。この境部という家が百済から渡って来た人々だということは知っているのだが・・・

ところで、歌人としても知られていない、この右馬頭という職の人がこのような新しい都の讃歌を詠むというのは余り聞いたことがない。長い行幸の後、直接に遷都が行われるという、ある意味では非常事態であったゆえ、急遽、詠歌を求められたのであろうか・・・その詠みぶりには何かしら不慣れなところもないではない。けれども、まず山の景を春秋にわたってほめ、さらには川をその上流と下流を比較しつつほめたたえるこの歌の詠みぶりは、柿本人麻呂殿の吉野讃歌でも見られるような、国ボメの歌の約束事を十分にまもり、新京の讃歌としての機能は十分に果たしているといえよう。
私もこの行幸には供奉していたし、遷都の際もそれに付き従っていたのだが、まだ若く、歌人としても知られてはいなかった頃なので、このような歌を詠む立場にはなかった。ただ、個人的にはこの遷都は大きな出来事であったので、それなりに感慨は深い。この長歌の詠まれた2年後の天平十五年八月に次のような歌を詠んでおいた。

今造る 久迩の都は 山河の さやけき見れば うべ知らすらし(巻六)

天平十二年十月末に平城京を出発し、私を含めた帝の御一行は、伊勢・美濃(不破)・近江を経由し、その年の十二月には、山城国の久迩の地にたどり着いた。大和の平城の都とは山ひとつ隔たった場所である。そして、その場所で、帝はこの地を都とすることを宣言された。一緒にいた我々のすべてが驚くお言葉であった。どなたかの御進言があったのか、それとも帝御自身の御判断だったのか今となっては知るすべはないが、平城京には戻りたくない・・・さりとて、そこから余り離れた場所を選ぶには何か気のひける・・・そんなお思いがあったのであろう。

とはいえ、宮城がそんなに簡単に整うわけもない。翌天平十三年の正月、朝賀の儀は周囲に帳をめぐらせての簡素な儀式であった。儀式を行うべき大極殿が平城京から移築されたのはその三年後のことであったかと記憶している私はこの新しき都に四年間暮らすことになってしまったのだが、亡き妾(ツマ)との間の子、そして弟、書持をはじめとした家族、そしてようやく心通い始めた恋人、坂上大嬢とも離れての寂しい日々ではあったが、これも官人としての務め、それなりに仕事はやり果せたとは自負している。それに、後に可愛がっていただくようになる右大臣橘諸兄様が率先してお進めになられた、この新京作りの仕事は充実感を味わえる仕事ではあった。

けれども、この新京は都としては完成しないまま天平十五年(743)の末にはこの京の造営は中止されてしまった。理由は・・・私には分からないが、この新しい都が多くの人々に快く思われていなかったのは事実だ。翌年には難波に遷都が挙行され、さらにその翌年の天平十七年(745)に紫香楽(シガラキ)宮を経て、都は再び平城京へと戻ることになった。この一連の遷都の流れを見るに、背後には多くの官人達の声があったにしろ直接的には、橘諸兄様とその頃急速に力をつけ始めてきた藤原仲麻呂殿との間のしのぎあいがあったようにも思えてならない。既に述べたように、諸兄様はこの久迩の新京への遷都のの推進者であった。また、仲麻呂殿は藤原の人間。平城京はその祖父、不比等殿が尽力されて出来上がった都、難波京はそのおじ様の宇合殿が神亀三年(726)から工事を始め、再建を成し遂げた場所である。それらの都をないがしろにする久迩への遷都は心中穏やかならざるものがきっとあったに違いない。最終的には多くの官人達の声を後ろ盾につけた仲麻呂殿の考えに帝も従わざるを得なかったのではなかろうか。

平城京に戻る・・・それは私にとって、ある意味では望んでいたことではあった。家族とともに暮らせる。坂上大嬢とも頻繁にあうことができる。一個人の大伴家持としてはなんの文句もない決定だった。けれども、公の立場でこの平城遷都を考えたとき、何かしら後ろ髪を引かれるような思いがあることは否定できない。出来ることならば、久迩の新京を見事完成させ、そこに家族、恋人を呼び、ともに暮らしたかった・・・という思いが今も心のどこかに引っ掛っている。

追和大宰之時梅花新歌六首

追和大宰之時梅花新歌六首

み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし

梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ

春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも

梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり

遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも

御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ

右十二年十二月九日大伴宿祢書持作

大伴宿禰書持とは私の弟である。この六首の歌は、後に私の歌巻の写し間違いがあって、私の作であると記された写本が出回っていた。「十二年十二月九日、大伴宿禰書持」の部分の「書持」が「家持」となってしまったのである。こんなふうに弟の作が私の作と考えられてしまうと、折角の、そう多くはない弟の創作が人に知られないままになってしまう。私は何とかこの誤りを後世の人々に伝えたいと思っていたけれど、そのすべのないままに千年以上の歳月が流れてしまった。

明治の帝の御世のあたりからこれが誤りで、これらの六首が弟の作であると言って下さる方々が出て来られ、最近では多くの方々がそのように理解されているようで私としてはひと安心である。中でも、橋本四郎という方はその御論文「大伴書持追和の梅花歌」(『万葉』116号)において助詞・助動詞・接頭語などの形式語や構文のあり方などを詳細に検討され、私(家持)の作でないことをあきらかにして下さった。まことに有難いことである。

さて、この六首は父、旅人が大宰府の長官であったころ多くの方を招いて催した歌宴での作品群「梅花の歌三十二首」(巻五)の冒頭八首の内の六首に追って和した歌である。なぜか、その八首の中の山上憶良殿・豊後の守大伴の太夫の御作には和していない。以下にその二首を除いた六首を挙げてみよう。

正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ

大弐紀卿

梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも

少弐小野大夫

梅の花咲きたる園の青柳は縵にすべくなりにけらずや

少弐粟田大夫

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり

筑後守葛井大夫

青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし

笠沙弥

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

主人

最後の歌の主人とはこの宴の催主、父、旅人だ。書持の歌はこれらの六首に順に対応し詠まれている。大弐紀卿「正月立ち春の来らば」に対して書持の「み冬継ぎ 春は来たれど」、少弐小野大夫の「梅の花今咲けるごと」に対して書持の「梅の花 み山としみに」と言う具合にである。

ただそうやって、それぞれの歌の対応関係を見て行くと、ふと「おやっ」と感じてしまう部分がないでもない。書持の歌は対応する歌に対して、一応は共感の意を表してはいる。しかしながらよく見ると、父、旅人の作以外に歌に対しては、敬意を表し、共感の意を示しながらも、やや対立的に異を唱える形で詠まれていることに気づく。

ここでその全てを説明するわけにはいかないが、最もわかりやすいところで説明するならば・・・そう、この歌が適当か・・・

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり

筑後守葛井大夫

この歌は「盛りに咲いた梅の花手折っては髪に飾ろう」との趣旨の歌であるが、これに対する書持の歌はこうである。

梅の花 いつは折らじと いとはねど 咲きの盛りは 惜しきものなり

梅を枝を手折ることは、確かに否定はしていない。それが「いとはねど」だ。しかしながら、そのあと「咲きの盛りは 惜しきものなり」と、盛りの今手折ることについては明確に否定している。程度の差こそあれ、これがこの六首を詠む書持の基本的な姿勢である。けれども最後の父の作に対しては、全面的に賛意を示しつつ六首を詠み終えている。先の五首と父の作との違いはどこにあるのか・・・

先行する歌に対して共感の意を示すのが「和」の歌の常である。ましてや「追和」となればその傾向は一層強くなるものだ

明確には私も弟の意図はわからない。ただ、弟には感性として、私よりもより父に近いものがあったように思えてならないのだ。父は武人ではあったが、花を愛し風雅を愛した方であった。死ぬ間際まで「萩は咲いたか?」などと気にしていたぐらいだ。

書持は父のそういう部分のみを受け継いだ弟だった。生来、身体の強くはなかった彼はあまり立身という野望を持たぬまま成長した。けれども・・・というよりは、だからこそ太宰府でのこのような風雅な催しに強く興味を示したのかもしれない。そして、そんな彼こそが、父の風雅を愛してやまないその性質をより強く受け継いだように私には思える・・・・

今でもふと思う。それは・・・はかない幻想かも知れない・・・作の巧拙は私には何とも言い難いが、若くして世を去った彼が、もし私よりも長く生きていれば・・・との思いをかき消すことが出来ないままでいる。それは所詮「もし」なのだ・・・

ところで、この年天平十二年は穏やかならぬ年であった。太宰府におられた藤原広嗣殿が下道真備殿、僧玄昉殿の更迭を求め、反乱を起こされたのだ。かの四兄弟がお亡くなりになって朝廷での藤原氏の凋落ぶりに焦りを感じられたのであろうか・・・凋落とは行っても、私にはかの四兄弟の頃が異常なだけであって、今の状況であっても、藤原の家は充分に栄えているとは思うのだが・・・まあ、これは個人的な感慨に過ぎない。広嗣殿には広嗣殿なりの思いがあったのかも知れない。

乱はほどなく鎮圧されたが、これに前後し帝は急遽、東国への行幸を挙行された。何もこんな時にと思い惑うのは私だけではなかった。けれども、帝には帝なりの思いが逢ったに違いない。

・・・そんなふうに思い始めたのは、行幸を始めてどれだけたった頃であっただろうか。その道のりにふと思い当たるものがあった。伊勢・・・不破・・・近江・・・これは天武の帝がかの壬申の大乱の際に進んだ道のりではないか・・・ほんの僅かの舎人を引き連れて、吉野を出奔なされた天武の帝・・・いや、その時はまだ皇子でいらっしゃったか・・・は伊賀を越え伊勢に向かい数万の軍勢となり、不破を通って近江の都と陥れになられた。

今の帝はこれに倣おうというのか・・・そして、その力をもって広嗣殿を・・・いや、伊勢にいた頃にはもうこの反乱が収まったとの報告が入っている・・・帝は久々におくつろぎになり鷹狩りなどを楽しんでおられた・・・ならばなぜ・・・。

今にして思えば、天平と年号が変わってから何かしら落ち着かぬ日々が続いていた。先ずその始まりが長屋王様の御一件、そして天然痘の流行、そしてこの度の反乱、帝のお心はお疲れになっていたのであろう。この国をお治めになる帝のお心の衰えはとりもなおさずこの国の衰え・・・帝はそれを憂えていらっしゃった。この国を再生させるためには自らの魂魄を再生しなければ・・・帝はきっとそのように思われたに違いない。それがこの道のりではなかったか。

十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首

十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首

織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる

右一首大伴宿祢家持作

今頃、帝の主催の宴が平城宮の西池宮で盛大に催されている。もちろん、七夕の詩宴だ。仕え始めたばかり・・・二〇才を過ぎたばかり、内舎人の私などには目のくらむような方々ばかりの宴だ。並み居る立派な方々が、それは優美な詩を披露し合っていることであろう。私も興味がないわけではないが、こんな若輩の私にお呼びがかかるわけもない。ただ、こうやって自分の家で一人、その華やかな宴に思いを馳せるだけである。・・・いつかは、私もそんな場に呼ばれるようになってみたいものだ。

天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言兼帥如舊上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首

天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言兼帥如舊上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首

我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ

右一首三野連石守作

荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か我が恋ひざらむ

礒ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ礒の知らなく

昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも

淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ

たまはやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ

家にてもたゆたふ命波の上に思ひし居れば奥か知らずも [一云 浮きてし居れば]

大海の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも

大船の上にし居れば天雲のたどきも知らず歌ひこそ我が背

海人娘子漁り焚く火のおぼほしく角の松原思ほゆるかも

右九首作者不審姓名

あれは、そう、天平2年(730)のことだから、私が数えで十三歳の年の十一月。父、旅人はそれまで任じられていた大宰府長官の職の上に、大納言の職を仰せつかった。大宰府の長官という職はそのままだったが、大納言の職を優先するため筑紫より都へと上った。その時、父の一行は陸路大和へと向かったが、家の使用人たちは船路で都へと向かった。その道すがら彼らの歌だ。初めの一首だけは作者についての記録が残っているのだが、後の九首は記録がもれてしまった。今、思い出そうにもどうしても思い出せない・・・まあ、思い出そうにも私は父に同行して陸路を大和へと向かっていて、この歌の場にはいなかったのだから仕方がないといえば仕方がないのだが

ただ、昭和天皇の御世の代表的な文芸評論家、山本健吉殿は私がこの船に乗っていたのではないかと想像していると聞く。山本殿は私の叔母の大伴坂上郎女の「帥の家を発ち、道に上り筑前国宗形郡の名児山を超えし時作る歌一首」とともに「京に向かへる海路に浜の貝を見て作る歌一首」が私の歌巻(万葉集)の巻六にあることを挙げ、叔母が名児山を越える際に大伴家の平安を祈るために宗像神社に参詣し、次いで崗の水門に出て、船なる使用人たちに合流したのはないかとされた。そして叔母が、当時母のない私の母親代わりであったことを考えれば、そこに私が同行していた可能性が高いと推測されている。そして物心のつき始めた私が彼らの歌に接したことが、私の後の歌人としての人生に大きな影響を与えたのではないかと山本殿はお考えになられた。

他の多くの諸賢の考え・・・父とともに陸路、都へと上ったとする考えと、この山本氏の考えのいずれが正鵠をえているか。答えは当然のことながら我が胸中にある。しかし、ここで当の本人の私が軽々とその答えを明かしてしまうのは、千年を越える長い歳月の間私どものことについてあれやこれやと考え続けてくれた方々に対して、余りにも非礼であると言うべきであろう。よってここではその答えは明かさないでおこうと思う。

ところで、この時、父、旅人がなぜ筑紫の地において大宰府の長官たる任にあったかについて、後の世の方々にあっては、これを左遷ととらえるむきがあると聞く。都での藤原家の方々を中心とした政争に巻き込まれての結果だというのだ。しかし・・・まだ幼かった私は、そのように考えていなかったのは事実だ。あるいはそれは父がまだ子供だった私にそのような醜い争いが大人の世界あることを知らせたくはなかったからかもしれない。私は次のように父から聞いていた。

我が大伴の家は神武の帝の御世から代々、武門の家としてお仕え申し上げている。私もこの人生の中、今に至るまでいくつかの武勲を挙げてきた。確かお前が3歳の時であるからはっきりとは覚えていまいが、この九州の地で隼人どもが反乱を起こしたときも、この私が将軍としてその反乱を鎮静させたのだ。そのような功績を帝は評価して、九州を任せるのならお前しかいないと、西の守りの要地であるこの地に派遣なされたのだ

と。

またあとからこんな話も聞いた。父が筑紫にいる間に長屋王様のあの痛ましい事件があったことは多くの肩が方がご存じかと思う。古来軍事を以て帝につかえ、どちらかといえば守旧派と思われがちであったわが大伴の家の宗主であったわが父は、同じく守旧派であった長屋王様に近いのではないかと、長屋王様と対立されていらっしゃった藤原家の方々(四兄弟)が邪魔に思われて、厄介払いとして、その職としては父が文句のつけようのない大宰府の長官にしたのだと・・・

けれども、この頃、この方々と父が、あるいは長屋王様がそんなに険悪な関係であったとは私には思えない。父は父で、この兄弟の次男の房前殿とはかなり親しくしておられたようで手紙や歌のやり取りもあったらしい。それは私の歌巻の巻の五に収めておいた通りであるまた房前殿も、その弟の宇合殿も長屋王様の家での宴会で漢詩を詠まれるなど親しくしておられた。それにこの兄弟の末っ子麻呂殿は我が叔母大伴坂上郎女に懸想していたこともあるし・・・それなのにこんなことになるなんて・・・おとなの世界とは恐ろしいものだと子供心に思ったものだ。

あの痛ましい事件の後、天然痘の流行で藤原の四兄弟の方々すべてが亡くなられてからも長い歳月が流れた今、事の真相は誰にもわからない。知っているとすればそれは帝・・・あるいはお后様・・・しかし、私のようなものがそれを尋ねてみることなど不可能だ言われているような、藤原四兄弟の方々の謀略か・・・私にはそうは思えない。とすれば・・・憶測に過ぎないが、私はこの兄弟のご長男、武智麻呂殿の単独の行いかと思っている。この方だけが長屋王様、そして我が大伴家と接点がない。捕縛された長屋王様を問い詰め、自殺に追い込んだのもこの方だ。記録によれば、事件当日、宇合殿が長屋王様の御邸宅を取り囲み、軟禁状態にしたとあるが、これは宇合殿の御本意とは思えない。あるいは・・・その背後に帝のご意思が・・・いや、やはりこれはあまりに恐れ多い。