十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首
橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ
橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿
かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり
右六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作
都である恭仁の地を離れ、私がなぜ平城の旧宅に居たのかを語らねばなるまい。
本当に、この年の初めはいろいろなことがあった。閏の正月一日早々に聖武の帝は諸臣をお集めになり、都を恭仁と難波の何れにするべきかを、お問いになられた。諸臣の意見はわずかの差で恭仁の都を良しとする意見がまさった。けれども、帝の意思は難波に大きく傾かれておられ、これを覆すほどの差ではなかったのだろうか、はっきりとした決定のないまま行幸が挙行されることとなった。
十一日、鈴鹿王様・藤原仲麻呂殿を留守役として、帝は難波へと向かわれたその日のことだ。同行なさっていた安積皇子様が急に倒れられたのだ。その日のことを、後に書かれた続日本紀では次のように記してある。
是の日、安積親王、脚病に縁りて桜井頓宮より還る。丁丑、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀飯麻呂らを遣して葬事を監護せしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人県犬養宿禰広刀自、従五位下唐が女なり。(「丁丑」は二日後の十三日のこと。「脚病」は「脚気」のこと。)
本当に御労しい最後でいらっしゃった。皇太子としてはすでに阿倍内親王様がいらっしゃったが、安積皇子様は帝の唯一の男皇子として、我々臣下の期待は並々ではなかった。それがかくも儚くなられるとは・・・人あって言う・・・藤原出身の光明皇后様の御子でいらっしゃる阿倍内親王の即位を脅かすとすれば、それは安積皇子様。事実、私をはじめ安積皇子様をお慕い申し上げている臣下は少なくはなかった。故に、その存在を邪魔にお感じになられていた藤原仲麻呂殿一派が毒殺を企てたのだ・・・と。
何が正しいのか、私にはなんとも言いようがない。ただ、私は内舎人として帝のご奉仕すると共に、安積皇子様のお世話もさせて頂いていたのだが、皇子様がお体にご不安を持っていらっしゃったのも事実である。以前から抱いていた不安が・・・現実になった。私個人としての実感はそれ以上ではない。そして、その安積皇子様のお世話をさせて頂いていた関係で私は、そのご葬儀のお手伝いをさせて頂くことになった。私の歌巻の巻三にはその際に詠んだ挽歌も収録しておいたのだが、そのように葬儀にしばらくかかわっていたような身で、すぐにはおそれおおくも帝の身近に仕えることは避けなければならない。私はしばらくの間、休日をいただくこととなった。まあ、平成の御代で言えば・・・忌引き・・・といったところか。「死」の「穢れ」に関わったものとして、それが薄れ去るまでは通常の生活に戻れないのが私の時代の常識だ。その休日を利用して平城の旧宅へと帰っていた時の歌がこの六首である。
久しぶりに家族と過ごす日々は、それなりに心安らぐ毎日であった。心優しき弟、書持とも好きな和歌の話は出来る。長らく会うことの出来なかった恋人坂上大嬢とも頻繁に言葉を交わすことが出来る。しかしながら一抹の寂しさもなきにしもあらず・・・と言った感じだ。ここ数年、共に新しい都を作り上げようと力を合わせて来た同僚達と離れて過ごすというのは何とも言えぬ思いだ。何か置き去りにされてしまうような・・・そんな屈折した思いの中、興がのってしまって思わず六首も詠んでしまった。今頃、恭仁の地では橘はその満開の時期を迎え、しきりに霍公鳥が啼いていることだろう。こうやって一人平城に閉じこもっている間にその季節が過ぎてしまわないかちょっぴり不安になって詠み始めたのだが、よく考えてみればこの古びた平城の都にも橘の花は咲くし、霍公鳥は飛来し、その声を聞かせてくれる。ただひとつ、心残りなのが今年の薬狩りに参加できないことだ。毎年五月五日、端午の節句に向けて、我々は薬狩りを行う。その華やかさ、楽しさといったら・・・それも今年は無理だ。何とも残念な事よ・・・というのが最後の一首である。
<追記>
ところで、今回、私の歌日記をブログとしてアップし始めて結構な時間が経過した。ここまでお付き合い頂いた方ならふと気づかないだろうか・・・日記というわりには、妙に日があいているな・・・と。以下にその日付だけ列挙してみよう。
天平二年十一月
天平十年七月七日
天平十二年十二月九日
天平十三年二月
同年四月二日同年
四月三日
年次不詳
天平十六年四月五日
日記と呼ぶにはあまりにもまばらすぎる。しかも、私自身の作は、太字の部分のみだ。これでは私の歌日記と呼ぶにふさわしいものとは言えない。それもその筈だ。正確な意味での私の歌日記は次の歌から始まる。ここまでの三十二首は後から追補したものなのだ。私は皆さんもご存じのように万葉集と呼ばれる歌巻を編みつつあった。その大まかな姿は私の存命中に完成を見ていたのだが、その構成は巻の一から十六まで(巻一、二の古の部・巻三~十六の今の部・・・ただし、十六は付録)と巻十七~二十となっている。実はここまでの三十二首は、これらの形がある程度定まってから、私の手元に入ってきたものをその後にあえて挿入したものなのだ。
それでは、この三十二首はそれまで何処にあったのか・・・
詳しく話せば長くなる。端的に言おう。弟、書持の遺品の中にだ。身体の強くなかった書持は私が越中の国の国司として派遣されて間もない頃世を去った。その遺品の中にこれらの歌が収められていたのだ。書持は自作の数首の短歌や、私がかつて贈った私の作、そして紹介した他の人の作をこうやって保存してくれていたのだ。それらの歌を私は何とか構成に残してやりたいと思った。心優しく、風雅を愛したあの弟の生きていた形跡を少しでも多く残したいと思った。しかし、歌巻・・・万葉集はほぼその姿を固めつつある・・・悩んだ私は、自らの歌日記の前にこれらの三十二首を置くこととした。ここならば、年次的な矛盾が生じないし、それまでの巻の歌々とこれから始まる私の歌日記との中継ぎをこの三十二首が果たしてくれるからだ。
かくして、正確な意味での私の歌日記は次回から始まることとなる。最後に一つ付け加えておこう。この六首を詠んだ天平十六年、私は、言ってみれば官人の見習い期間でもある内舎人の期間を終え、正式に任官する。従五位下・・・それが私のスタートだ。