太上皇御在於難波宮之時歌七首 清足姫天皇也
左大臣橘宿祢歌一首
堀江には玉敷かましを大君を御船(ミフネ)漕がむとかねて知りせば
御製歌一首和
玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ或云 玉扱き敷きて
右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏并御製
御製歌一首
橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を
河内女王歌一首
橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも
粟田女王歌一首
月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ
右件歌者在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌并奏歌也
堀江より水脈引きしつつ御船さすしづ男の伴は川の瀬申せ
夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ
右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也 傳誦之人田邊史福麻呂是也
大上皇は清足姫天皇、すなわち元正天皇でいらっしゃった先の帝のである。左大臣橘宿祢はいうまでもなく私が信頼申し上げている橘諸兄様のことである。題詞にお名前の方を書いていないのは、もちろん私の諸兄様に対する敬意の現れである。これらの七首は福麻呂殿によれば天平十六年(744)に上皇が難波の宮においでになった際の歌々だそうだ。この時の難波行きの時には多くの官人たちが難波に行ったのだが、私はゆえあって平城の自宅に籠もっており、ご一緒することができなかったのだ。
この年の閏正月十一日に帝を始めとした百官がうち揃って難波の宮への行幸があった。よく二月の二十四日には帝は紫香楽の宮へと移ったのであるが、どういう事情か知らないが、先の帝と諸兄様だけが難波の宮に十一月まで残っていらっしゃったのだ。これらの歌はその頃のものなのだそうだ。諸兄殿のお近くに仕えていた福麻呂殿はそのおそばにて、これら尊い方々の宴に侍り、その雅やかな空気に触れることができたことをとても幸せそうに語っておられた。なんともうらやましい限りである。
初めの二首は夏に催された船遊びのおりのもの。お二人の親しいご関係がそのやりとりの中から自然に伝わってくるような御歌である。
続く三首は諸兄様のお屋敷にて催された宴にての御歌。いずれの歌も橘の木を歌いつつ、場の主人の諸兄様をほめたたえる歌となっている。先の帝の「八つ代にも 我れは忘れじ この橘を」というくだりは諸兄様に対しての無限の信頼感が読んでとれる。またほかのお二方の御歌にも先の帝と諸兄様の御威光を手放しで賞賛される内容で、諸兄様もさぞかしご満足であったに違いない。
ところでこの三首、どのようなおりの作がどうか、福麻呂殿にお聞きするのを忘れていた。そこがどうにも残念でならない。おそらく宴のとじ目の歌として役割を果たしたと思われる粟田女王様の御歌に「あから橘」とある。これを「明ら橘」と考え、橘の花の輝きを詠んだ歌と考えることが可能だ。そうするとこれらの歌は夏に詠まれたことになり、船遊びが終わった後、そのまま諸兄様のお屋敷で宴が行われたと考えることができる。
ただ・・・上皇の御歌に「とをの橘」とあるのは豊かに実をならせた橘の姿が歌ったもの。だとすれば、これらの三首は冬に詠まれたことになる。粟田女王様の御歌の「あから橘」も豊かに実った橘の実の輝きを歌ったもの解しなければならないだろう。私にはどちらとも決めかねる・・・どう考えればいいのか・・・福麻呂殿が御出立になられた後となればもうお聞きできない。返す返すも残念だ。
さて最後の二首。これは言うまでもなく福麻呂殿が初めの二首に和したものだ。本来ならば、その二首のすぐ後に配列するべきなのだろうが、福麻呂殿が上皇を始めとした尊いお方の中に自らの歌を並べるのは分不相応だとしてご遠慮なされて後から「私もこの時、こんなのを詠んだのですが・・・」と遠慮がちに教えてくださったのだ。
ところで以前私は次のように書いた。
さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。
それは・・・後日・・・その時が来たら・・・
実は今がその時なのである。左注には十五首とあるところに歌が八首しかない。つまり七首不足しているのである。その七首が・・・実はこれらの歌なのだ。福麻呂殿は布施の水海で私が歌の中で「御船」という言葉を使ったところ、ふと難波での舟遊びのことを思い出されて・・・そういえばといってこれらの歌を教えてくださったのだ。福麻呂殿が歌い終わるとかねてから申し付けておいた船がやってきた。布施の水海の遊覧の始まりだった。だからこれら七首の歌は、はじめ私が布施の水海のほとりにて船を待っていた時の二首と、船に乗っての遊覧が始まってからの六首の間に確かに存在していた。左注に十五首とあるのはその意味では間違いがなかったのである。
その翌日、三月二十六日、久米廣縄殿のお館にての餞の宴にて話題は都のことと相成った。その際に皆にせがまれて福麻呂殿は再びこれらの歌をご披露なされた。そしてその時は二首目の先の帝の御製の四句目、先日の遊覧のおりには「玉扱(コ)きしきて」とお誦みなさったところを、この日は「玉敷き満てて」と誦み換えなさった。聞けば先の帝は、この句について二案をお持ちになっておられ、この二つの句の案をどうするべきか、最後まで迷ってあおられたそうである。そんなことまで福麻呂殿は教えてくださった。
そして、いったんは上に述べた位置にこれらの七首を配置した私であるが・・・福麻呂殿歓迎のためにその時詠まれた歌の中に、急に以前の難波の宮にての歌が入ると何かしら不自然な気がしてならなくなった。それに、先の帝や諸兄様の御歌を我々のようなものの宴の歌の中に挟み込むなど、あまりにももったいないこと・・・ここはその歌を耳にした順番を変えてでも、福麻呂殿歓迎の歌を一まとめにし、難波での歌はそこから切り出したほうが方が良かろうと思うようになった。結果、今ある形になったのである。そのとき・・・恥ずかしながら左注の方まで気が回らなかった。だから、今もなお上記の左注にはこれら七首を含めた、十五首と書いてあるのだ。