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越前國掾大伴宿祢池主来贈歌三首

越前國掾大伴宿祢池主来贈歌三首

以今月十四日到来深見村 望拜彼北方常念芳徳 何日能休 兼以隣近忽増戀 加以先書云 暮春可惜 促膝未期 生 別悲兮 夫復何言臨紙悽断奉状不備

三月十五日大伴宿祢池主

一 古人云

月見れば 同じ国なり 山こそば 君があたりを 隔てたりけれ

一 属物發思

桜花 今ぞ盛りと 人は言へど 我れは寂しも 君としあらねば

一 所心歌

相思はず あるらむ君を あやしくも 嘆きわたるか 人の問ふまで

思い返せば二年前、初めて経験する越中の冬の寒さにひどく体調を崩した私に、何かと暖かいお言葉をかけて励ましてくださったのが池主殿だった。春になり私の病も癒えはじめると、暮春の越中の風光を賞美しようと遊覧にお誘いいただいたのも池主殿であった。春のうちにはとうとう体調も回復しきらず、ともに越中の地を遊覧したのは四月に入ってからであった。けれどもその楽しさは本当に格別なもので、その時の歌に「いや年のはにかくし遊ばむ今も見るごと」と歌い、次の年も、またその次の年もと願ったものだ。けれども残念なことにその年のうちに池主殿は越前の国へと御転任なさってしまい、その約束は果たせなくなってしまった。その無念さが春になる度に思い出され、その思いを書状に書き付けて池主殿に送ったのが先日のこと。

御書面を見るに池主殿はお仕事の関係で、この越中との国境、深見の村までお越しになっていたらしい。そこには「隣近なるを以て忽に戀諸を増す」と書いてはおられるが、それは私とて同じこと。せっかくここまで来たのならばあと少し足を伸ばし私のところまで来ていただけば良かったのにとは思うものの、それは我々公の身、個人的な感情で自らの任地を離れることもかなわぬこと。この切なさは何と言葉で言い表したらよいものか。

一首目の歌にある通り山が私の住む越中と池主殿の住んでいらっしゃる越前を隔てている。私はこの国府の南方に見える山々を望みつつ、今は逢うこともかなわぬ池主殿への思いをつのらせた。二首目。私とて思いは同じである。同じ桜を見るにしても、池主殿とともに眺め、歌を交わしあうことが出来たのならばどれほど楽しいことか。三首目の歌には「相思はず」などと詠んでいらっしゃるが、そんなことがあるはずもないことを池主殿はよく分かっていらっしゃるはずだ。私だって「あやしくも 嘆きわたるか 人の問ふまで」という状態で日々を過ごしているのだ。


参考までに池主殿のお手紙を読みやすいようにしておく。

越前国の掾大伴宿禰池主の来贈(おこ)せる歌三首

今月十四日をもちて、深見村に到来し、かの北方を望拝ぼうはいす。つねに芳徳を思ふこと、いづれの日にかよくまむ。兼ねて隣近なるをもちて、たちまちに恋を増す。加 以しかのみにあらず、先の書に云はく、「暮春惜しむべし、膝を促くることいまだ期せず、生別の悲しび、それまたいかにか言はむ」と。紙にのぞみて悽断し、状を奉ること不備なり。

三月十五日、大伴宿禰池主

今月の十四日、深見の村に参り、あなたのいらっしゃる北方を遙かに望みました。常々あなたの御高徳をお慕い申し上げている私の気持ちはいつになったら止む日が来るのでしょうか。いいえそんな日が来るはずがございません。加えてここ深見はあなたのお住まいにも近く、にわかにお慕い申し上げる気持ちがつのるばかりです。それだけではありません。先日いただいた御書面に「暮春三月の名残は尽きない。けれども逢える日がいつとも計りがたい。生きてある身の別れは悲しい。けれども、その思いをどのように言い表せばいいのか。」とありました。この私も紙を前にして心を痛め、書状を差し上げるにも形が整いません。

三月十五日、大伴宿禰池主

 

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶

あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山 手向けの神に 幣奉り 我が祈ひ祷まく はしけやし 君が直香を ま幸くも ありた廻り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ

玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ

うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む

右大伴宿祢池主報贈和歌五月二日

なんとも心のこもった歌ではないか。先日私は池主殿にこのたびの別れの悲しみを訴えた。それに応じたのがこの歌だ。池主殿も同じ思いでいらっしゃることがひしひしと伝わってくるような歌である。公用の旅とはいえ、安全の保証は何もないこの時代に片道ほぼ十日前後の道行きは私とて全く不安がないこともない。そういった思いは残される側においてはひとしおのものなのだろう。

反歌(絶と表現されている)の第一首には池主殿のそんな思いが記されている。その下敷きには私が今回の越中下向の際、持参した歌巻にあった山上憶良殿の

若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉(シタヒ)の使 負ひて通らせ(巻五)

があるのだろうか。憶良殿がそのお子様を亡くしたときの悲しみを歌った歌ではあるが、過日、私の館で件の歌巻を興味深げに池主殿はご覧になっていたが、その際にご記憶にとどめておかれていたのだろうか。それとも、我が義母、大伴坂上郎女が今回の赴任にあたって贈ってくれた

道の中 国つみ神は 旅行きも し知らぬ君を 恵みたまはな(巻十七)

が念頭にあったのだろうか。これもまた池主殿が私の館にいらっしゃったときにお示しした覚えがある。おそらくは両者ともに意識のうちにあったに違いない。だいぶ前のことであったが、池主殿の胸中に深く刻まれた歌であったのだろう。

さらに長歌を見れば「見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音(ネ)のみし泣かゆ」と、おそらく今回の上京にあたっての四月二十六日のはなむけの宴での私の歌

我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね

あたりを踏まえて歌っていらっしゃる。

ただ今回のこの長歌はそれだけにとどまらず新たに「なでしこ」の花が詠み込まれることになった。反歌の第二首も然り。私が再び越中に戻るのは秋八月頃。そしてその季節に私の館を飾っているだろう花はこの「なでしこ」である。池主殿の御心の中にはもうすでに再会の季節があるのだ。くわえて、「なでしこ」は私が好きな花。池主殿はそこも踏まえてこうお詠みになったのだ。なんともありがたいお心遣いではないか。

さあ、いよいよ旅立ちだ。公務の旅とはいえ、妻や家族、そして橘諸兄殿をはじめとした人々に会える。その際、この一年足らずの間に私が詠み、そして集めた歌々をお示ししようと思っている。いかにご評価くださるだろうか、楽しみである。ただ、昨年七月、私を「奈良山過ぎて 泉川 清き河原」まで送ってくれた書持(フミモチ)だけにはもう会えない。昨年の秋、朝露のごとく儚くなった弟にはもう会えないのだ。こうやって大和を長く離れ単身で異郷に住まいしていると、そのことが観念的にしか理解できない。今度、都に帰ってしまえばそれが現実のものとして実感せざるを得ない。私はそれを恐れる。けれども、それが現実であるならばそれを事実として受け止めなければならない。しっかり供養してやらねば・・・

 

入京漸近悲情難撥述懐一首

入京漸近悲情難撥述懐一首并一絶

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨しみ 偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇の 食す国なれば 御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども 玉桙の 道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく 日の長けむぞ そこ思へば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し

我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ

右大伴宿祢家持贈掾大伴宿祢池主 四月卅日

出立する日まであと数日となった。五月の三日には国司の館を出なければならない。都で報告するべき帳簿類の整理もめどがついたので、手土産として持ち帰る歌々に再び目を通し整理をしていると、この越中にて過ごしてきた数ヶ月の日々が瞼の裏に蘇ってくる。とりわけ今年に入ってからの大病、そして税帳使として都へ赴くことが決まって以来の越中の面々との交流は何物にも代え難い記憶として私の胸中に存している。これらの日々を思うにつけても、彼らとの別離がことのほか重く心にのしかかり、私の思いを沈めるものとなっている。このような思いは以前も述べたように歌を以てのみ撥いうるものである。今回もその例外ではない。私は自然に筆を執るに至った。その歌はいきおい、これまで私が、池主殿が、そしてそのほかの面々が詠んだ歌を承けたものになった。

詠み出しの「かき数ふ 二上山に」は「二上山賦」を意識してのもの。「港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し」「霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて」はそれぞれ「遊覧布勢の水海の賦」、四月二十六日の送別の宴の歌々を承けたものであることはすぐにわかっていただけると思う。

反歌もそうだ。また題詞に「一絶を併せた」としたのは、情を詠んだこの長歌に、事物を詠み込んだ歌に対して付する「賦」とは題することができなかったことによる。しかしながら、この長歌もまた越中の自然を詠み込んだ長歌群の流れと意識の面ではつながっている。そこで「絶」と池主殿のまねをすることにより、その意識を明示しようとしたのだ。

こうして私は、越中赴任以来、こちらの人々が私に示してくださった厚情に謝意を示そうとの意を持ってこの長歌をものしたわけであるが、その意の中心にあるのはもちろん池主殿だ。同族でもある池主殿は、私の最良の歌友であることは、私の病が癒え始めたあたりからの彼との歌の贈答からも、後の世の人々に容易にうかがい知れよう。私は歌について彼から多くのことを学んだ。池主殿の存在は私にはなくてはならないものとなっていたのである。そのことを歌の中に示した部分が冒頭の

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てるつがの木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて

である。この中の「立てるつがの木 本も枝(エ)も 同じときはに」の部分は私と彼が同族の出身として強い紐帯に結ばれていることを示そうとしたものだ。何も大伴宗家である私が「本」、支族である池主殿が「枝」といっているわけではない。それほど強い絆で私たちが結ばれているということを言いたかっただけだ。そして、その帰結として私たちは「朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて」と互いに気遣いあってきた。そんな池主殿(もちろん他の人々に対してもそうではあるが)と、たとえ数ヶ月ではあっても分かれることはつらい。ここ数ヶ月の歌共としての交流がここで途絶するのも残念でならない。そんな思いがこうして一つの長歌として結晶した。歌としての善し悪しは知らぬ。けれども歌わずにおれなかった私の気持ちは池主殿が誰よりも理解してくださるだろうと確信している。

敬和遊覧布勢水海賦一首

敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶

藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥  鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携(タヅサ)はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚(ス)鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫(ツマ)呼び交す 羨(トモ)しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿(シブ゙タニ)の 荒礒(アリソ)の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒(ヨ)りに 蘰(カヅラ)に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人(アマ)船に ま楫(カジ)掻(カ)い貫き 白栲(シロタヘ)の 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布(ヲフ)の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや

白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜びを

右掾大伴宿祢池主作 四月廿六日追和

今日、私を送別する宴の主賓として私は先ず、その惜別の情を歌った。それを承けた縄麻呂殿は私の好きな「霍公鳥」を素材にこれから訪れるであろう寂しさを歌った。そしてそれに私が応える。一応の区切りとして私が縄麻呂殿の歌を承けた歌に「和」という言葉を附した。そして、その一連の歌に対して池主殿が石川殿の古歌を伝誦した後、おもむろに私は皆に「遊覧布勢の水海の賦」を披露した。前の秦殿のお宅でに宴においての約束であったので、この場の面々もそれを期待していた。これがこの宴の二つ目の目的でもあった。ある意味ではこちらの方が一同の待ち望んでいたことでもあったし、私も早くその批評を受けてみたいとの思いもあった。池主殿はその意をくんで、早々に主人としての自らの役目を終わらせるため、ここは古歌の伝誦のみで済ませたものと思う。ほかならぬ池主殿である。本来ならば、今日の宴の主催者として自作の披露があってもしかるべきところであるが、ことの主眼は私と池主殿との都への手土産となる長歌の披露にある。適切なご判断だったと思う。

そして、この敬和遊覧布勢水海賦の披露だ。いつもながら、「和」の歌として、心憎いばかりの配慮のなされようである。

私が「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」と詠んだ部分を重複を避け、簡単に「思ふどち」の一語で承けて「馬並めて」と簡単に済ませたところを、今度は「馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば」と詳細に表現し、私の長歌の欠けている部分を適切に補ってくれている。なんとも細やかな心配りである。この細やかな心配りは、この長歌の最後まで貫かれている。

続いて「射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き」だ。ここは私の長歌には詠まれてはいない。国府から布施の水海に行こうとすれば、私が詠んだ渋谿にたどり着く前にまず通らねばならないのがこの「射水川」だ。私の歌は明らかに言葉足らずであった。それを目立たぬように池主殿は補ってくださった。おまけに私の歌はどちらかといえば、目にした景物を羅列的に並べたような歌い方であったが、池主殿はここで「港の渚鳥」が「夫呼び交す」姿を歌っている。旅先にあってこのような鳥たちの仲むつまじき姿は我々地方に派遣されているものにとって、都に残してきた家族を思い起こさせるものであって、そこに一抹の旅愁を感じさせる素材である。ここは、単に鳥たちのそのような姿を描写したに過ぎないが、池主殿はそれだけのことで、そこにかような旅愁を漂わすことに成功している。

次に「渋谿の 荒礒の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」である。私はこの「渋谿」において荒磯に寄せる白波を歌っただけに過ぎないが、池主殿は違うところに目をつけた。その波によって岸辺に打ち寄せる「玉藻」がそれだ。そしてその「玉藻」を「片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」と歌うことによって、家人を想起させようとしている。私の即物的な対象のとらえ方に対して、非常に情緒的な捉え方といえよう。私が「景」を歌っていたので、「情」を歌うことによりその重複を避けようとの意図かと思う。ここでも池主殿は私の長歌に欠けているものを補ってくれた。欠けているものは補い、重複するものは省略する・・・それが池主殿の狙いにはあったようだ。

その意図が端的に示されているのは次の部分だ。私の歌った松田江と宇奈比川はばっさりと切られてしまっている。私自身も少々冗漫になりすぎたと思っている部分だ。松田江は長く続く浜辺をおいて他に特筆するべき点はない。したがって私の長歌でも二句を費やしたのみだ。宇奈比川にいたっては行ってもいない場所を、人づてに聞いたことをそのまま歌にしただけであったので、この部分を切り捨てた池主殿のご判断は的確といえよう。

そしてその分、言葉を費やしていらっしゃったのは、「布勢の水海」であった。ここでこれまで一つの場所について八句ずつと整然たる句の配置をなされていた池主殿は、これまでの倍の十六句を費やしている。考えてみればこの場所が今回の遊覧での主たる目的地であるから、この場所に焦点を当てて詠むのが当然のことである。私自身、その長歌で軽く扱ってしまったことは、少し反省せねばならぬ。あちらも、こちらも紹介しようと思い、ついつい「布勢の水海」については簡略に過ぎてしまったようだ。けれども、池主殿はその欠陥を十分すぎるほどに補ってくださった。

まずは「うらぐはし」の一句だ。池主殿は、ここまでそれぞれの地名はその土地について歌っているその冒頭に配してきた。しかるにここだけが二句目にある。そしてその「布勢の水海」という言葉を二句めにと押しやったのがこの「うらぐはし」というほめ言葉である。これはこの場所がほかの場所とは異なって、最も重要な場所であることを聞いているものに意識させようとの意図によるものであろうことは間違いないだろう。そしてさらに私がどちらかといえば抽象的に読んだこの場所を、「乎布の崎」という地名を入れたり、季節にはあわない「あぢ群」を「葦鴨」と言い換えて具体性を待たせてくれた。これによって、この長歌にふれた人はより現実のものとして「布勢の水海」を思い描くことができるであろう。

最後に「秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」である。「秋」とは私が都から帰って来るであろう季節だ。そうして私が帰ってきたならば、また共にこの「布勢の水海」に遊ぼうというのだ。そしてその楽しみは「春さらば」と春になっても繰り返される。さらにいえば、これは一度限りの秋と春に繰り返されるのではなく、永久に繰り返されてほしいとの願いを込めて、「かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」と歌い納めている。そしてこのことは、そういった営為の実現を確信するこの一節は私の旅の無事を予祝するありがたい言葉でもあった。これは二上山賦に「 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと」と詠んだ私の長歌の末部に見事呼応しており、、私の送別の言葉としてはこれに勝るものはない。この日の歌を閉じるには最良のものであるといえよう。感謝、感謝である。

さて、以上のように私の「遊覧布勢の水海の賦」の語句をあるときは補い、またあるときは省略し、それでいてかなり正確に私の意図を読み取って、この「敬和歌」は詠まれた。そのように考えたとき、この二つの長歌の句数の隔たりに、「和」の歌の常として、いささか抵抗を感じるような方が出てくるかも知れない。確かに、私の詠んだ長歌の三十七句に対して池主殿のそれは五十七句。二十句も多い。以前、私の病が回復しかけの頃、六十一句の長歌(三月三日)を送ったとき、その返歌は四十二句であった。池主殿は決して自らをひけらかそうとはしない。常に相手への配慮を怠らず、控えめ方だ。そして、そのように控え目であることが池主殿の「和」の姿勢であった。と、するならば、この二十句はそのような彼にしてはいささか出過ぎたような感があるように思われる方も出てくるようになるのではないかと言う意味においてである。

私はこの点について、この冒頭の二十句について次のように考えた。

藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと

ここはその二十句のうち、私の長歌の冒頭の「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」を受けた「思ふどち」より前の部分である。この部分は明らかに私の長歌に欠落している部分である。私の長歌はこのように具体的な季節は歌うことをしなかった。年間を通じた、一般論としての「布勢の水海」を詠んだ。それに対して、池主殿は具体的な季節をここに挿入した。そしてそこに描かれたような好季に誘われ遊覧に出で立ったように歌うための導入としてその役割を充分に果たしている。句数にして十二句。ここをさし引くならば、私の長歌の句数を上回るのは八句のみとなり、そう目立った差はなくなる。(ここから先は、私の推測だ。本当は池主殿に直接聞けば良かったのだが、そのぐらいのことが聞かねば分からないのかと思われるのも癪だったので聞かないでいた。)

この十二句に歌われている素材は藤波・卯の花・霍公鳥の三つ。当然の事ながら初夏の風物である。藤は今、季節を過ぎ眼前にはない。今、目の前に咲き誇っているのは卯の花。そして聞こえてくるのが霍公鳥の声。私にはこの部分がはじめから池主殿の原稿に書いてあったとは思えない。あれほど私の歌に忠実に「和」する池主殿だ。私の作を出し抜くような形では歌うようなことはしない。ひょっとすると、ここに抜き出した十二句を除いた部分のみが原稿として用意されていたのではないか・・・

そして、その原稿を懐中にして池主殿はその作の披露の時を待った。私的な宴とはいえ、国府の面々がうち揃うような宴だ。一定の形式は守らなければならない。その形式を守るべく、主賓たる私、そしてその次の地位にある介の内蔵忌寸縄麻呂が惜別をテーマとして歌をやり取りし、それを承けて、池主殿は古歌を伝誦し、宴は佳境へ入った。私の「遊覧布勢の水海賦」の披露の時が来た・・・・が、ここまでの間、池主殿はここまでの歌の流れを見過ごしてはいなかった。霍公鳥(縄麻呂殿)→霍公鳥・玉(私)→玉・橘(池主殿)というのが、ここまでの宴で詠まれた歌の素材の流れである。そして、池主殿の「敬和歌」へと続く。藤は「藤波の、咲き行く見れば、霍公鳥(ほととぎす)、鳴くべき時に、近づきにけり」とあるように霍公鳥とともに詠まれることの多い花、卯の花は「時ならず 玉をぞ貫ける 卯の花の 五月を待たば 久しくあるべみ」 (巻十)ともあるように玉として貫く事のある植物でもある。ここに見られる素材の重なりを考えた時、池主殿の「敬和歌」の冒頭部は、この日の宴で歌われた初夏の景物を意識して作られたと考えてもいいように思う。

私の長歌の披露が終わり、彼の「敬和歌」の披露の場となった。それまでの歌の流れを承けて、池主殿は予め準備していた歌稿に、以上の部分を付け加えこの「敬和歌」を池主殿は詠み上げたのではないか。この際、その歌稿にいささか手を加えたのかも知れない。そんな作業があったので、私の縄麻呂殿への「和」を承けた場面においては自作を披露するのではなく、古歌の伝誦に終わったように私には思える。そして、披露されたこの長歌・・・「敬和遊覧布勢水海賦」は、単に私の長歌に応えたものにとどまらず、今日の日の宴の楽しいやり取りをも反映されたものとなった。そしてその結びは、先に述べたように、このような楽しき日々がいつまでも続くことを予祝する確信に満ちた言葉で終わっている。この越中の面々といつまでも楽しく過ごしたいと思う私を都に送る宴の閉じめの歌としてまたとないものにだったのだ。

最後に、蛇足ながら・・・この長歌の題詞に池主殿は「一絶」という言葉を使われた。これは反歌として詠まれた短歌をさしていうものであることは説明がいらない。ただ、それをなぜ「一首」ではなく「一絶」としたのか。「絶」とは「絶句」。短い唐土の詩形をさす。私が長歌をあえて「賦」と漢風に表現したのに応じての工夫であろう。

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩今朝累信辱也以貺相招望野之歌 一看玉藻稍寫欝結二吟秀句已除愁緒 非此眺翫孰能暢心乎 但惟下僕禀性難彫闇神靡塋 握翰腐毫對研忘渇 終日目流綴之不能 所謂文章天骨習之不得也 豈堪探字勒韻叶和雅篇哉 抑聞鄙里少児 古今人言无不酬 聊裁拙詠敬擬解咲焉 如今賦言勒韵同斯雅作之篇 豈殊将石間瓊唱聲極乏曲歟 抑小児譬濫謡 敬寫葉端式擬乱曰

七言一首

杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕
来燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清
雖欲追尋良此宴 還知染懊脚跉趶

短歌二首

咲けりとも 知らずしあらば 黙(モダ)もあらむ この山吹を 見せつつもとな

葦垣の ほかにも君が よりたたし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ

三月五日、大伴宿祢家持、臥病作之

昨日いただいた序文付きの漢詩、そして今朝いただいたお便りに対しての返信が、なんとか・・・本当になんとかではあるができあがった。その出来に関しては池主殿にご寛恕いただく他はない。なにしろ、あまり試したことのないの漢詩だ。自信はない。ごらんの通り平仄はもとより、押韻のほうも整ってはいない。けれども序文にも書いたように「古人は言に酬いずといふこと無しといふ」である。自信はなくともひと気張りしないではいられない。

「翰を握りて毫を腐し、研に対ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。」というありさまになろうことは、予想されたことであるが、今朝いただいた池主殿の一文に励まされ、恥をさらす結果になることを覚悟で取り組んでみた。「禀性彫り難く、闇神瑩くこと靡」きことを、あらためて実感させられてしまったというのが実情で、まさに「鄙里の小児」の勝手な口ずさみにしか相当しないような出来ではあったが、その出来はともかくとして、いささかながらの新工夫が無かったわけでもない。それは漢詩の三句目と四句目。池主殿は詩のこの部分を承けて考えたものであるが、池主殿のそれはここで「柳」と「桃」を題材として扱っていた。けれども、私はそれを直接は承けず、「燕」と「雁」を題材とした。池主殿の「花」に対して、私は「鳥」で承けたわけである。これは唐土において、六朝の頃からこういった詩文においてその題材に「花鳥」の双方を取り扱うのが流行になっていることを意識してのものだ。だから、私は池主殿のそれに欠けていた「鳥」を読み込むことによって、そこを補完しようと試みたのだ。

なおかつ、私は北に「帰る雁」をここで取り扱った。今まで和歌の世界においてあまり素材にはならなかったものだ。これも私の新たな試みといえる。風雅な素材として「花鳥」の取り合わせを意識すること・家人の使いとしてではなく、北に帰るものとして「雁」を歌うこと・・・これは、今後の和歌の世界の一つの指針になるのではないかとひそかには自負しているところである。その点に免じて、池主殿には詩文の不出来はお許ししていただくこととしよう。

ところで、序文の最後の方に小字で記した一節がある。実はこの部分は、私の初案で、池主殿に贈ったのはそれを除いた部分のみだ。どうにもごちゃごちゃした文になってしまったのと、「豈石を将ちて瓊に間ふるに殊ならめや」という一節が先日の手紙で既に使ってしまっていたのとで、上のように改めたのであるが、自分の文章の生成の過程を記録しておきたいとの思いもあり、この私の手元の資料では、決定稿の後に上記のように小さく初案を書き添えておいた。

さて和歌についてだ。池主殿の長歌は先日も書いたように、その前の私の贈った長歌に対して、これぞ返歌の鏡というべきほどに、私の歌の語句に対して逐一応じた歌いぶりであったので、今回私としてはこれ以上述べることはない。しかしながら、池主殿はその長歌の最後に私を野遊びに誘って下さっている。このことに対しては、漢詩の最後の部分でもお答えしたが、和歌としてもお答えしなければならないと思う。くわえて、この手紙に添えて、池主殿は出られない私を思い、山吹の花まで添えて下さった。そこで短歌の二首をもってこれに応えることにした。

一首目は私の歌巻(万葉集)の巻の十におさめた古歌を流用させていただいたもので、「秋萩」を「山吹」と入れ替えただけのものである。まだ充分に病の癒えていない私に「山吹」を見せたりしたら、かえって辛くなるだろうとの少々恨み言めいた歌だ。池主殿はその長歌の最後を「ことはたなゆひ」と少々ふざけた形で私を野遊びへと誘ってくれた。これが、まだそのことが出来ない私に対する思いやりであることは言うまでもない。あまり生真面目に誘われたならば、かえってそれが私に負担になってしまう事をご理解されての表現だ。である以上私も少々ふざけてこれに返答するのが礼儀というものであろう。だから、あえて古歌の語句を入れ替えた恨み言めいた歌を詠んだ。池主殿ならば、それがその長歌末部のおふざけに対応してのものである事はきっとご理解いただけるものと思う。もちろん、それだけでは池主殿のお誘いに対して充分に答えにはなっていないので、二首目は少々真面目に一連のお誘いに対しての謝意を詠み、結びとした。

あと少しすれば、私の体も全快ということになろう。そうしたならば私も初めての越中の春を存分に楽しんでみたいと思う・・・が、そうなったならばそうなったで私にはしなければならないこともある。おまけに長く休んでいたせいで、たまりにたまった仕事もそのままにしてはおけない。どうやらこの春は、このまま終わってしまいそうだ。池主殿とこうやって詩文、和歌のやりとりを出来たと言うことだけが、唯一の収穫と言うことになるのだろうか。

<補>

またまた蛇足である。これもまた念のため・・・

昨暮の来使は、幸(サキハ)ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、辱なくも相招望野の歌を貺(タマ)ふ。一たび玉藻を看て、稍(ヤクヤ)く鬱結を写(ノゾ)き、二たび秀句を吟じて、已に愁緒を蠲(ノゾ)く。此の眺翫にあらずは、孰(タレ)か能く心を暢(ノ)べむ。但惟(タダシ)下僕(ワレ)、禀性彫(ヱ)り難く、闇神瑩(ミガ)くこと靡(ナ)し。翰を握(ト)りて毫を腐(クタ)し、研(ケン)に対(ムカ)ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。所謂(イハユル)文章は天骨にして、之を習ふこと得ず。豈(アニ)字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪(ア)へめや。抑(ソモソ)も鄙里の小児に聞こえむ。古今、人は言に酬いずといふこと無しといふ。聊(イササ)かに拙詠を裁(ツク)り、敬みて解咲に擬す。如今(イマシ)言を賦し韻を勒し、この雅作の篇に同ず。豈石を将ちて瓊(タマ)に間(マジ)ふるに殊ならめや。声に唱へ走(ワ)が曲を遊ぶといふか 抑(ハ)た小児の濫りに謡ふが譬(ごと)きか。敬みて葉端に写し、式(モチ)て乱に擬ひて曰く

昨夕のお使いでは、幸いにも晩春遊覧の詩を下さり、今朝の重ねてのお便りでは、有り難くも野遊びへのお誘いの歌を賜りました。ひとたびご高作を拝見しては、鬱々と結ぼほれた魂も次第にほどけ、続けて秀歌を口ずさめば、もはや愁いに沈む心も除かれました。このような叙景の詩歌でなくして、いったい誰が心を晴らすことができるでしょうか。ただし小生、生まれつきの乏しい素質は鍛錬のしようもなく、暗愚な心は磨こうにも磨きようがありません。筆を取っても文が書けず、空しく筆先を腐らせてしまい、硯に向かっても書きあぐねて、硯の水が乾くのを忘れてしまう有り様でございます。一日中、周囲に目を遊ばせるばかりで、文を綴ろうとしてもどうにも綴れません。いわゆる文章の才能というものは生来のものであって、習って得られるようなものではございません。字を探し、韻を整えて、貴兄の雅趣あふるる詩に唱和することなど、どうして出来ましょうか。村里の小児の口ずさみに聞こえましょう。とはいえ、昔のひとは、人は贈られた文章には必ず答えるものであると言っています。そこで拙い詩を作り、謹んでお笑いの種に供する次第にございます。今、詩を作り韻を整えて、貴兄の風雅な御作に唱和致します。石を玉にまじえるとのたとえとなんの変わりがございましょう。声を張り上げては自分勝手な歌を歌っているかのようです。さしずめ小児の出まかせ歌にもたとえられましょう。ともあれ、恐れ多いことではありますが、この拙作を謹んで紙片に書き記し、乱・・・締めくくりの詞・・・の真似事といたします。

杪春(ベウシユン)の餘日媚景は麗しく
初巳の和風は拂ひて自らに輕(カロ)し
来燕は泥(ヒヂ)を銜(フフ)みて宇(イヘ)を賀(ホ)きて入り
歸鴻は蘆を引きて迥(ハロ)かに瀛(オキ)に赴(オモブ)く
聞くならく君が侶(トモ)に嘯(ウソブ)きて流曲を新たにし
禊飲に爵(サカヅキ)を催(ウナガ)して河の清きに泛(ウカ)べつと
追ひて良き此の宴を尋ねんと欲(ホ)りすれど
還りて知る懊(ヤマヒ)に染みて脚の跉趶なることを(「趶」・・・正しくは足偏に「丁」)

暮春ののどかな一日、うららかな景色が美しく、初巳(三月の最初の巳の日)の柔らかな風は地にふれて自ずから軽やかに吹きすぎて行きます。
南より飛び来たった燕は泥を銜え祝福し家の軒に入り、北に帰る雁は蘆の葉をくわえ、遥か遠く沖へと去って行きます。
聞けばあなた様は友と語らい詩を吟じ、曲水の流れを新たにして、
みそぎの酒宴に盃を急き立てて清流に浮かべられたとのこと。
後を追ってこの良き宴の仲間入りをしたいとは思いますが、
病のために足がふらつくこともまた思い知りました。

昨日述短懐今朝汗耳目

昨日述短懐今朝汗耳目  更承賜書且奉不次死罪々々  不遺下賎頻恵徳音  英霊星氣逸調過人  智水仁山既韞琳瑯之光彩潘江陸海自坐詩書之廊廟  騁思非常託情有理七歩成章數篇満紙  巧遣愁人之重患能除戀者之積思  山柿歌泉比此如蔑彫龍筆海粲然得看矣  方知僕之有幸也  敬和歌其詞云

大君の 命(ミコト)畏(カシ)み あしひきの 山野障(サハ)らず 天離(アマザカ)る 鄙(ヒナ)も治むる 大夫(マスラヲ)や なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓(タマヅサ)の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思(シタモヒ)に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り 貌(カホ)鳥の 間なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ

山吹は 日に日(ケ)に咲きぬ うるはしと 我が思ふ君は しくしく思ほゆ

我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我れし悲しも

三月五日大伴宿祢池主

昨日の池主殿からの書簡には、それは見事な序文と詩が記してあった。そのご返事をと昨夕から硯に向っていたところ、今朝になってその後を追うようにこの便りがあった。思っていたとおり、私が先日お贈りした書簡へのお答えであった。

しかしまあよくもこれほどと思えるほどにの私のあるか無きかの文才をお褒め下さっている。まことに恥ずかしい限りではあるが、そのありがたいお言葉に励まされ、また遅々として進まぬ筆をとる勇気も生まれてくるというものである。序文中の「智水仁山」は論語の一節を借用したものであろうが、その直後の「既に琳瑯の光彩を韞み」が文選の文賦「石韞玉而山輝、水懐珠而川媚」を下敷きにしていると考えると、ここは原義通りというよりは単に「水」と「山」の形容と考えるべきであろうか。

それにしても私の子供の落書きのような序文をその豊かな文才を「江」や「海」にも喩えられている晉の潘岳と陸機と並べ称すとは・・・加えて、「山柿歌泉も此に比ぶれば蔑きが如く」と来ている。ここまで来ると、褒め称えられているというの本人としては苦笑を禁じ得ない。

長歌の方は、お見事と言うしか言いようがない。私が先日(三月三日)贈った長歌の語句にいちいち即応し、歌の返しとはこのように行うべきとのお手本のような歌いぶりである。ある部分では私の言葉をそのまま肯定し、また私が弱気なことを言っている部分に対しては温かくたしなめて下さっている。少しも窮屈なところのないのびやかな歌いぶりで、私を励まそうという意を充分に尽くしている。

長歌の結び「たなゆひ」はあまり和歌の世界では用いない言葉で有るが、ここは池主殿お得意のおふざけでもあろう。「しっかりと約束しましたよ」などと子供じみた言葉遣いで私を笑わそうとでもされたのだろう。私の体調が快復してから、共に野遊びに出かけようと押しつけがましくなく結んでおられる。ただ、長歌ではこれほど厳密に私の歌に即応していたかかわらず、反歌の方は私の三首に対して、二首しかお返しがない。これは今回の書簡に山吹の一枝をお添え下さったので、それにあわせたものなのだろう。

昨日、あれほどの技を凝らした詩文をお贈り下さった上に、今日このようにお心のこもったご返事を下さったと言うことは、池主殿もだいぶご無理なさったのではなかろうか。こんなに朝早くにこの書簡をお贈りいただいたと言うことはひょっとしたら夕べは徹夜なされたに違いない。この御厚情身に沁むばかりである。私も昨日の詩文に対しての言承けを急がねばならない。

<補>

ここもまた蛇足ではあるが、念のため・・・

昨日短懐を述べ、今朝耳目を汗(ケガ)す。更に賜書を承り、且つ不次を奉る。 死罪死罪。 下賎を遺(ワス)れず、頻りに徳音を恵みたまふ。英霊星氣あり、逸調人に過ぐ。 智水仁山、既に琳瑯の光彩を韞(ツツ)み、潘江陸海自(モトヨ)り詩書の廊廟に坐す。思を非常に騁(ハ)せ、情を有理に託(フ)す。 七歩にして章を成し、数篇紙に満つ。 巧(ヨ)く愁人の重患を遣り、 能(ヨ)く恋者の積思を除く。 山柿歌泉も此に比ぶれば蔑(ナ)きが如く、 彫龍の筆海は粲然として看ることを得たり。 方(マサ)に僕(ワ)が幸(サキハ)ひ有るを知る。 敬みて和ふる歌、其の詞に云はく。

昨日は拙い思いを申し述べ、今朝はまたこのようなつまらぬ手紙をさし上げることをお許し下さい。さらにお便りをいただき、性懲りもなくまた乱文をさし上げること、まことに恐れ入ります。私のようないやしき者のこともお忘れになることもなく、このようにしきりにありがたい便りをお恵みいただきました。その文才は星のように輝き、秀でた歌の調子は人並みをはずれております。あなた様の川が蕩々と流れるような、山のように泰然たる文才は、既に玉のような輝きを内包し、潘江・陸海に比すべき才能はもともと詩文の殿堂に至るほどの者であります。着想は非凡であり、その詩情は筋道の通ったものになっています。かつて曹植が魏の文帝に命じられ、七歩を歩む間に詩を作ったように、即座に詩を作り、その数篇が紙に満ちるといった有様です。見事に愁いに沈む私の心を晴らし、よく積もりに積もった私の恋情を除いて下さいました。あなた様の作品に比べれば、かの「山柿」の歌々も無きに等しく、龍を彫った細工のように巧みに飾られた文章を私は目の当たりにすることが出来ました。まさしく我が幸福を知ることが出来ました。そこで謹んでお応え申し上げる歌を詠みました。その歌は次のようなものです。

七言、晩春三日遊覧一首

七言晩春三日遊覧一首 并序
上巳名辰暮春麗景 桃花昭瞼以分紅柳色含苔而競緑 于時也携手曠望江河之畔訪酒迥過野客之家 既而也琴罇得性蘭契和光 嗟乎今日所恨徳星已少歟 若不扣寂含章何以攄逍遥之趣 忽課短筆聊勒四韻云尓

餘春媚日宜怜賞 上已風光足覧遊
柳陌臨江縟袨服 桃源通海泛仙舟
雲罍酌桂三清湛 羽爵催人九曲流
縦酔陶心忘彼我 酩酊无處不淹留

三月四日大伴宿祢池主

昨日、序文を併せた長歌を書簡として池主殿のもとに贈ったばかりなのに、もうその返事が来た・・・と思い、喜び勇んで封を切ったけれども、どうやらこのご返事は私の書簡とは入れ違いに贈られてきたらしい。そこに記されていたのは、上掲の序文を併せた漢詩であって、私の贈ったものに応えた内容ではなく、昨日池主殿たちがお出かけになった上巳の吉日の遊覧についての内容であった。

それにしても、本当に楽しい一日をお過ごしになったように見える。病で寝込んでいたせいで、ついついこう言ったことに気が回らずにいたが、そういえば昨日は三月三日、上巳であった。古く唐土の国で始まったというこの行事は、もともと暮春三月の最初の巳の日に身の汚れをそそぐ習慣から始まったらしい。いつのまにかそれが三月三日の日に行うものと定まり、風雅な遊びを伴うものとなった。我が国においても文武の帝の御代あたりから定着し、都ではこの日曲水の宴を催すことがならいとなっている。もちろん、ここは越中。曲水の宴を行うような場所はなかろうから、池主殿たちはどうやら連れだって野遊びをしていたらしい。

どんな楽しい一日をお過ごしになったのかと思い、少々うきうきとした気分で読み始めたところ「桃花は瞼を昭らして紅を分ち」の部分が少し気になった。遊仙窟あたりで桃の花が「臉(ホホ)」に照り映えるというような表現は目にしたことはあるのだが・・・・「瞼(マナブタ)」とは・・・池主殿の工夫なのだろうか。それとも、私の目にはこの文字の篇が「目」に見えるのだが、ひょっとしたら「月」なのかもしれない。・・・このあたりはご本人に聞いて見ねばなるまい。いずれにしろ、よく文意は通じているし、作の良し悪しに関わるものではない。ただ、桃はこの越中あたりには見られないものであるから、池主殿は都の様子をご想像になってこう書かれたのだろう。その後に柳のことが書かれているから、ここにどうしても桃は出てこなければならないだろう。それゆえ、この柳と桃の対は詩の中にも用いられている。

それにしても「酒を訪ひ野客の家に逈く過る」とは、なんともしゃれた趣向だ。こんな所に「野客(隠者)」などおるまいに、さしづめこの日の一同のどなたかを「野客」に擬え、そこで一献傾けたことをこのように表現したのであろう。そのような場においてであるから、「蘭契光を和げたり」の一節も効いてくる。世に隠れ住む賢者たちが、その光(学才・徳)をひけらかさずに和やかに交わりあっている様だ。そんな「賢者」たちが私のことを「徳星(君子)」と呼んでいるのだから、恐れ入ってしまう。なんとももったいないお声かけであることか・・・私としても出来ればその場に居合わせたかったもの。かえすがえすも残念でならない。
そして私を何よりも驚かせたのはこの池主殿の漢詩である。何ともまあ見事に韻を踏んでおられることか・・・。「遊」「舟」「流」「留」の四文字、韻のつながりだけではなく、その意味においてもよくよく字を選んでいるようにさえ思われる。これまでのやりとりの中で文をお作りになる力量については充分に知っていたつもりではあったが、詩の方のお力もこれほどのものとは思ってはいなかった。昨日の楽しい遊覧の様子が目を閉じれば浮かんでくるようだ。

「柳陌は江に臨みて袨服を縟にし」のあたりは暖かい春風に柔らかく揺れる柳や、その下に集うご一同の晴れやかなお姿が彷彿とされる。「桃源は海に通ひて仙舟を泛ぶ」については、寡聞にして桃源郷が海に通じるなどという文や詩は今まで見たことがない。ここはおそらくこの越中の地形を表現したものであろうか。春のうららかなこのあたりの風景がご一同には桃源郷に続くもののように感じられたのであろう。それにしても池主殿も想像力が逞しい。曲水もあるわけではないのに「羽爵人を催して九曲を流る」とは・・・上巳というこの吉日、想像の世界だけでも、その風雅を味わおうとでも言うのだろうか。実際にその場に居合わせなかっただけに、この仮想の曲水が、私には現実の曲水のように思われてならない。「縦酔陶心彼我を忘れ 酩酊し処として淹留せずといふこと無し」のあたりは、思わず吹き出しそうになってしまった。酒によいくだを巻いているご一同のお姿が眼前のもののように思えて仕方がない。

この楽しい集いに参加できなかったことはなんとも残念で仕方がない。けれども、こうやって序文と詩を読ませていただき、なにやら私もその場にいたような楽しげな気分になれたのはありがたい。池主殿のお気遣いには本当に感謝してもしきれない。これはこのまま貰いっぱなしにしておくことは出来ない。なんとしてもお返しせねばとは思うが、これまで漢詩などはあまり作ったことはない。池主殿の作に見合うだけのものができるかどうか、はなはだ心許ない。とはいえ、何事も始めてみなければことは始まらぬ。さて、早速とりかかるとするか・・・

<補>

少々くどくはなるが、念のために・・・

七言の詩、晩春の三日の遊覧の一首 序を併せた
上巳(ジャウシ)の名辰は、暮春の麗景なり。桃花は瞼(マナブタ)を昭(テ)らして紅を分ち、柳色は苔を含(フフ)みて緑を競(キホ)ふ。時に、手を携はり江河の畔を曠(ハル)かに望み、酒を訪(トブラ)ひ野客の家に逈(トホ)く過(ヨキ)る。既にして、琴罇性を得、蘭契(ランケイ)光を和(ヤハラ)げたり。嗚呼、今日恨むるところは、徳星すでに少なきことか。もし寂を扣(タタ)き章を含まずは、何をもちてか逍遙の趣を攄(ノ)べむ。たちまちに短筆に課(オホ)せて、いささかに四韻を勒(ロク)すと云爾(シカイフ)。

三月三日の吉日、暮春の麗しい風景です。桃のは見る人の瞼もあかあかと照り映え、柳の色は苔を含んで、その緑を色の鮮やかさを競い合っております。この時に、友と手を携えて川のほとりを遥かに望み、酒を求めて遠い隠者の家を尋ねます。こうしてもはや琴と酒は存分に本性を発揮し、蘭の花の香のように清い賢者の交わりを和やかに結んでおります。ああ、今日残念なことは、あなた様がいらっしゃららないことです。もし詩文を作るのでなかったならば、どうして今日の逍遙の趣を述べることが出来ましょう。たまたま拙い筆に命じて、いささか四韻の詩を作ったという次第にございます。

余春の媚日(ビジツ)は怜賞するに宜(ヨ)く
上巳の風光は覧遊するに足る
柳陌(リウバク)は江(カハ)に臨みて袨服(ゲンブク)を縟(マダラカ)にし
桃源は海に通ひて仙舟を泛(ウカ)ぶ
雲罍(ウンライ)桂を酌みて三清を湛(タタ)へ
羽爵(ウシヤク)人を催(ウナガ)して九曲を流る
縦酔(シヨウスイ)陶心彼我を忘れ
酩酊し処として淹留(エンリウ)せずといふこと無し

暮春の麗らかな日は賞美するによく、三月三日の風光は遊覧するにふさわしい。
柳の並木は川沿いに伸びて、人々の晴れ着をまだらに彩り、桃源郷は海に通じていて仙人の舟を浮かべている。
雷雲の形を刻んだ樽に桂酒を酌めば美酒が満ち、鳥の翼を象った酒杯は人に詩作にとせきたて、曲がりくねった岸辺を流れて行く。
思うがまま酔いしれて何もかも忘れ、酩酊して行く所々で足を留めないことはない。

更贈歌一首

更贈歌一首
含弘之徳垂恩蓬体不貲之思報慰陋心 載荷来眷無堪所喩也 但以稚時不渉遊藝之庭 横翰之藻自乏彫蟲焉 幼年未逕山柿之門 裁歌之趣 詞失乎聚林矣 爰辱以藤續錦之言更題将石間瓊之詠 固是俗愚懐癖 不能黙已 仍捧數行式酬嗤咲其詞曰

大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて来し ますら我れすら 世間の 常しなければ うち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山きへなりて 玉桙の 道の遠けば 間使も 遣るよしもなみ 思ほしき 言も通はず たまきはる 命惜しけど せむすべの たどきを知らに 隠り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに 春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折りかざさず 春の野の 茂み飛び(グ)潜く 鴬の 声だに聞かず 娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を うるはしみ この夜すがらに 寐(イ)も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居る

あしひきの 山桜花 一目だに 君とし見てば 我れ恋ひめやも

山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも

出で立たむ力をなみと隠り居て君に恋ふるに心どもなし

三月三日大伴宿祢家持

これもまた池主殿に贈った書簡である。先日頂戴した池主殿の書簡にあった序文と短歌二首は療養中の私の弱った心にしみ入るようなお気遣いにあふれていた。まことに感謝しきりである。その上、私の拙い文章に「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉までいただいて、恐れ入るばかりである。ここは「石を以て玉に交じ」るようなことになっても、是非ともお返ししなければならない・・・そんなふうに思い、早速ご返事申し上げた。

序文の方は・・・(先日の書簡の序文を含め)自らの文の拙さを弁明したものに過ぎないが、そんな拙い文に、誠意にあふれた、しかも格調高き文を贈って下さった池主殿への感謝の念を表現したつもりである。思いが充分に伝わったかどうかは自信はないが、私なりに力を尽くしたつもりだ。長歌の方はいささか説明的で冗長の誹りはまぬがれえぬかもしれない。しかしながら、この数日の間、私の胸中に去来した様々な思いのすべてを池主殿にご理解いただくことを主眼において詠んだものなので、ここは歌の出来不出来には目をつぶってもらわなければならない。

すべての起点は、二十日の私の作にある。この日の歌の題詞にあった「悲緒」を詳細に綴ったのが、二十九日に池主殿に贈った歌の序文である。そして、そして、その二十五日の序文の意とするところと、二十日の長歌を一つにまとめ、構成し直したものが今回の長歌となる。なにせ二十日の段階で、あの歌は自らの鬱積した思いを晴らすためだけに詠んだもので、もとより誰にも披露してはいない。しかし、池主殿がかくも私の意をご理解くだされ、お気遣いして下さっている以上、私はすべてを池主殿にお伝えしなければならない・・・

このように思い、私はこの長歌を詠んだ。

ところで、聞くところによれば私がこの長歌の序文に用いた「山柿の門」という言葉が後の世の人々の論議を呼んでいると言うことらしい。「山柿」なる語が、誰を指し示す言葉であるかという点についてである。

このことについて、私が歌巻(万葉集)を編んだ百年ほど後に、紀貫之殿という歌人が帝の仰せを承けてお編みになられた「古今和歌集」という歌巻以降、明治の御代に至るまで、「山」とは山辺赤人殿・「柿」は柿本人麻呂殿を指し示す語であるという認識は揺らぐことはなかった。しかし、明治の御代も終わりの頃、これに異を唱えた方が現れた。歌人としての自らの創作と共に、私の歌巻の研究に生涯を捧げられた佐佐木幸綱殿である。佐佐木殿は「山」、山辺赤人殿・「柿」、柿本人麻呂殿との上掲の見解を、「古今和歌集」以降の歌に対する考え方の影響であると考えられた。そして、その歌数、歌人としての格からして、柿本人麻呂殿と並び立つ歌人は山上憶良殿の方がよりふさわしいだろうと考えられた。

そして、この考えに真っ先に反対の意思を表明されたのは同じくこの時期を代表する歌人である島木赤彦殿だ。島木殿は佐佐木殿とは逆に山辺赤人殿を高く評価し、この「山」は山辺赤人殿でなければないと強く訴えた。以降、数多くの賢き人々がこの点についてご発言になられた。以下にその論拠ともいえる部分を示しておこう。

<赤人殿と考える説>

1. 人麻呂殿と並ぶべき歌人は赤人殿である。

2. 私の歌風が赤人殿に近い。

3. 赤人殿を私が尊敬し、推奨している。

4. 憶良殿ならば私が幼年期入門しえたはずである。

5. 赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。

6. 私が伝統的な歌に憧れており、憶良殿の作ははどちらかと言えばそのような伝統にはない。

<憶良殿と考える説>

1. 憶良殿の歌への追和の歌が私にはある。

2. 地方の国守の経験が共にある。

3. 今回の作のように漢文の序をつけるという形が憶良殿に倣ったものである。

4. 我が大伴家と憶良殿は近い関係にある。

5. 憶良殿も中央では知られた歌人である。

6. 今回の序文中の「聚林」なる語が憶良殿の類聚歌林をさす。

7. 赤人殿の長歌は未熟で、私がこれを参考にしたとは思えない。

8. 私の歌には憶良殿の使った語句が多く見られる。

まさに諸説紛々である。私から見ても「なるほど・・・そんなふうにも見えるか・・・」というようなご指摘も中にはある。特に、「赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。」というご指摘だ。後の反論に有るように、憶良殿もその歌才はその学才とともに中央でも充分に知られていたが、柿本人麻呂殿の持つ公的な色彩を受け継ぐのは、どちらかと言えば赤人どのであろう。憶良殿はいささかその詠歌が私的なものに偏りを持つ。傾聴するべき視点であろう。ただ、初めの頃にあったどちらが優れた歌人であるかなどという論議には少し首をかしげたくなる。「それは後の世の方々の見方ではないか。」と言いたくなるのだが、。問題は後の世の方々がこのお二人をどう評価なされるかではなく、私がこのお二人をどう見ていたかにあるからだ。

ともあれ、以上のようにこの問題についての論議がなされる中、昭和の御代の大戦も終わった頃、唐土の文に深い造詣をお持ちの小島憲之殿が、私の書いた序文が漢文である以上どこかに典拠を持つ言葉でなければならないとされ、「文選」の「南都賦(巻四)」に「・・・桜、梅、山柿、・・・」という用例を挙げ、ここから「山柿」で一語であること、すなわち「山柿」で柿本人麻呂殿のお一人を指すものである事を唱えられた。また、小島殿に先立つこと十五年前、折口信夫殿はその一文「柿本人麻呂」でこのことを直感的に感じておられたようだ。

しかしながら、このお二方の考えは、その後顧みられることはなく再び同様の考えが世に示されるのは昭和の御代の五十三年を待たねばならなかった。この年、村田正博殿が世に示した「山柿の門」(「万葉集を学ぶ」巻八)は、この問題についての長年の論争を極めて明瞭に語整理下さり、その結論として私の持つ“古典意識”にふれられた。私は私の歌巻を編むとき常に「いにしえ」と「今」との対比を常に念頭に置いてきた。そしてその意識の中において、「いにしえ」に属する歌人は柿本人麻呂殿であり、山部赤人殿・山上憶良殿のいずれもが私の意識の中にあっては「今」に属する歌人であるとご指摘なされた。そして、私が自らの歌作にあたって、常に“古典”を意識していたと思われることから、「山柿」とはこの柿本人麻呂殿のお一人を指すと言及された。

また他に山辺赤人殿、お一人が「山柿」だとの考えが、同じ昭和の御代の四十一年に中西進殿という方から提起されたとも聞き及んでいる。

その後、それぞれの立場からもそれぞれの考えを補強なされるような考えが提出され、この段階で考え得る諸説は出尽くしたと言って良いだろう。そしてその結論は未だ決着を見ない。

さて・・・この語を使った当の本人として、「山柿」なる語がいかなる意味を持った言葉であるか、当然のことながら私は知っている。というよりも、このことは平城の御代において歌作に関わったものならば、それは共通認識と言ってよい。 したがって、ここでその種明かしをしてしまうことはたやすい。しかしそれは余りに興ざめな行いであると言わざるを得ない。加えて、後の世の人々が私が残したものについてかように熱心にお考えになられていること自体が私にはこの上なくうれしいことでもある。それを私自身の発言によって強引に決着させてしまうのは、いかにも残念なことだ。もうしばらくはこの論争の推移を見守って行きたいと思う。

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の恩、慰を陋心に報ふ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪(ア)ふる所無し。但(タダ)し、稚き時遊芸の庭に渉らざるを以て、横翰の藻、自ら彫虫に乏(トモ)し。 幼年未だ山柿の門に渉らずして、裁歌の趣、詞を聚林に失ふ。ここに藤を以て錦を続(ツ)ぐの言を辱(カタジケナ)みし、更に石を将(モチ)て瓊(タマ)に間(マジ)ふるの詠(ウタ)を題(シル)す。固(モトヨ)り是れ俗愚にして癖を懐(ムダ)き、黙(モダ)して已(ヤ)むことあたはず。仍(ヨ)りて、數行を捧げ式(モチ)て嗤咲に酬(ムク)いむ、其の詞に曰はく、

あなた様の宏大な御仁徳は、蓬のようにつまらぬ我が身を思いやって下さり、計り知れぬ御温情は、我が心を慰めて下さいました。お心をお寄せ下さって、その喜びは譬えようもございません。小生、年少の頃詩文の道に深く関わることもなく、思いつくまま書きつけた文章は自ずと面白みに乏しく、若い頃に山柿の門に関わったこともないが故・・・和歌の道を正しく学ばなかった故・・・、折角詠んだ歌の言葉も言葉の林に見失うがごとくでたらめな言葉遣いです。ここに、「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉をいただき、それに乗じて「石を以て玉に交じ」るような拙い歌を詠みました。もとより小生、生まれながらの俗愚の徒、持ち前の性癖か黙ってすませることが出来ません。よって数行の歌をさし上げ、お笑いぐさまでにお答えいたします。その歌詞と申しますのは・・・

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦 以吟以詠能蠲戀緒春可樂 暮春風景最可怜 紅桃灼々戯蝶廻花儛 翠柳依々嬌鴬隠葉歌 可樂哉 淡交促席得意忘言 樂矣美矣 幽襟足賞哉豈慮乎蘭蕙隔藂琴罇無用 空過令節物色軽人乎 所怨有此不能黙已 俗語云以藤續錦 聊擬談咲耳

山峽(カヒ)に 咲ける桜を ただ一目 君に見せてば 何をか思はむ

鴬の 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも

沽洗(三月)二日 掾大伴宿祢池主

先日私が贈った書簡の歌に池主殿がかようにお応え下さった。父上や山上憶良殿がよくやっていた漢文の序を和歌に付するという形式を、私が戯れに試みたところ、池主殿はそれにみごとに対応して下さった。

やはり、漢文がお得意な池主殿だ。その序文の中には、六朝詩や遊仙窟によく使われている「紅桃」「戯蝶」「翠柳」「嬌鴬」、荘子に見られる「淡交」、そして初唐の詩人王勃の「林泉孤飲」にあった「物色軽人」を初めとした数々の麗しき語をちりばめられてあり、「翰苑雲を凌ぐ。」とは私の駄文よりは、池主殿のこの序文にこそふさわしい言葉である。

また私が病の床にあるがため、会うこともままならない状況を「蘭蕙、藂を隔て」などという言い回しで表現するなんて私は思いもつかないことだ。本当に恐れ入るばかりだ。「藤を以ちて錦を続ぐ。」は「錦を以て藤を続ぐ。」と言い改めたいほどだ。

そして二首の短歌。私が贈った二首の中では単に「春の花」とだけいってあるところを、「桜」「山吹」と置き換えて下さっている。このように病の床にあってこの越中の山野に今頃どんな花が咲いているのかもわからず、「春の花」と極めて曖昧な形でしか詠むことが出来なかったのを承けて、具体的に二つの花を挙げ、私にそれとなくそれらの花が咲いていることを教えて下さっている。我が意を得たりとは、まさにこのような返歌のあり方を言うのではないかとさえ思われる。

とにもかくにも、池主殿のこの序文と歌には更にお応えせずばなるまい・・・

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽(タチマチニ)に芳音を屈(カタジケナ)みし、翰苑(カンエン)雲を凌ぐ。兼(サラ)に倭詩を垂れ、詞林錦を舒ぶ。以て吟じ、以て詠じ、能(ヨ)く恋緒をのぞく蠲(ノゾ)く。春は楽しぶべく、暮春の風景は最も怜れむべし。紅桃灼々、戯蝶は花を廻りて儛ひ、 翠柳依々、嬌鴬葉に隠れて歌ふ。楽しぶべきかも。淡交に席(ムシロ)に促(チカヅ)け、意を得て言を忘る。楽しきかも、美(ウルハ)しきかも。幽襟賞(メ)づるに足る。豈(ア)に慮(ハカ)りけめや、蘭蕙(ランケイ)、藂(クサムラ)を隔て、琴罇用ゐるところなく、空しく令節を過ぐして、物色人を軽みせむとは。怨むる所、此(ココ)にあり。黙(モダ)して已(ヤ)むことを能(アタ)はず。俗(ヨ)の語に云ふ「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」と。いささかに談咲に擬(ナゾラ)ふのみ。

思いもかけずありがたいお便りを頂きましたが、その文の筆のさえはまさに雲を凌ぐばかりです。加えて、和歌までこの私めにお恵みくだされましたが、これまたそのお言葉の綾たるやまるで錦を広げたようです。いくたびも、いくたびも吟詠しその度にあなた様への恋しさもはれる思いです。春はもとより楽しいはずの季節、なかんずく暮春・・・三月の風景はもっとも賞美するにふさわしい頃でございます。桃の花の紅は輝くばかり、浮かれた蝶が花々の間を舞い飛び、緑の柳はなよなよとその葉を揺らし、鶯は葉陰に隠れ可憐な歌声を聞かせてくれます。なんという楽しさでしょうか。君子との席を近づけ淡々と交わりにおいて、心通えば言葉はもはや無用の長物。ああ、何という楽しさ、何という素晴らしさ・・・まさに君子の語にふさわしいあなた様の深いみ心は賞でるに余りあるほどです。どうして想像できたでしょうか、蘭と蕙が草むらに隔てられるように、あなた様とお会い出来ず、琴も罇も用もないままに空しくこの良き季節を過ごし、自然の風趣が我々人間を軽く見るとは。恨めしいのはまさにこの点なのです。黙ったまま過ごすことはとても出来ません。俗なことわざに「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」とあるように、あなた様の秀作に私の駄作を続け、お笑いの種にとお示し致すだけです。

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

忽沈枉疾累旬痛苦 祷恃百神且得消損 而由身體疼羸筋力怯軟 未堪展謝係戀弥深 方今春朝春花流馥於春苑 春暮春鴬囀聲於春林 對此節候琴罇可翫矣 雖有乗興之感不耐策杖之勞 獨臥帷幄之裏 聊作寸分之歌 軽奉机下犯解玉頤 其詞曰

春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも

鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ

二月廿九日大伴宿祢家持

本当に辛い日々が続いた。北国の冬がこんなに厳しいものとは思ってもいなかった。初めは風邪ぐらいかなと思っていたのだが、症状は日に日に重くなり、一時は自分で我が命を諦めかけるほどであった。しかしながら、幸いにも百神のご加護、そして身の周りであれこれと気苦労を重ねてくれた方々のおかげで、ようやく小康を得るに至った。しかしながら、長い闘病生活のせいか、どうにも体に力が入らない。まだ、節々にだるさや痛みが残り、外へ出て気晴らしするような気持ちにはなれない。季節はまさに春。歌の左注には二月二十九日とは書いたが、これは平成の御代の暦ならば四月も半ば頃。この春遅き北国もようやく春爛漫と言った風情である。本来なら序文にも書いたようにその楽しみを味わい尽くすべきこの時期、今年ばかりはどうやら楽しめそうもない。それがいかにも残念でならない。

先日池主殿がおいでになって、「季節も季節ですから、お病が良くなられたら一緒にどこぞにでかけ、歌などを詠んで楽しみを尽くしましょうぞ。」とのお誘いをうけた。けれども身体が身体だ。今年は我慢したいとの旨をお伝えしておいた。もうじき上巳の宴だ。それも今年は我慢だ。どうやら何ともつまらぬ春になりそうで、たまらない気持ちだ。

そこで、私はひらめいた。外に出ずとも私には歌があるではないか。こんな時にこそ、この「いぶせき」思いを歌にのせて払うのだ
・・・と思ったとき、私は父上の

大宰帥大伴卿報凶問歌一首

禍故重疊し、 凶問累集す。永く崩心の悲懐き、獨り断腸の泣を流す。但だ兩君大助依りて傾命を纔かに継ぐのみ 筆言を尽くさず、古今の嘆く所なり

世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(巻五)

という一首をを思い出した。

そうだ・・・序文をつけてみよう。和歌に漢文による序文を付すのは父上の独創であった。それまで歌の前に付されていた題詞は単に当該の歌の事情説明であり、それ自体を創作と呼ぶに価するものではなかった。しかしながら、この父上が独創されたこの形式は唐土においての詩に序を付する形を模倣するものではあったが、わが国に於いてのこの父上の試みは、すこぶる新鮮な創作であった。そして、その事が山上憶良殿との関係を取り持つことにつながり、ひいては筑紫歌壇の成立の大いなるきっかけと相成った。

してみれば、ここで私がこのような形式の歌を池主殿に送ったならば、文才に長けた池主殿のことだ。きっと反応してくれるに違いない。そうなれば・・・父上があの筑紫で送ったような有意義な日々を、この越中でも送ることが出来るようになるのではないのだろうか
・・・いや、余り先のことは考えないでおこう。とにかく、今外に出かけられず家の中で鬱々として過ごさねばならぬ私が、少しでもその気を晴らすには歌を詠むことぐらいしかない。そして、それに応えてくれる人があれば今は、それで満足だ・・・・

<補>

漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために二首の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽ちに枉疾に沈み、累旬痛苦す。百神に祷(コ)ひ恃(タノ)み、且つ消損を得たり。 しかしてなほ身体疼羸(ドウルイ)、筋力怯軟(ケフゼン)たり。 未(イマ)だ展謝堪(ア)へず、係恋いよいよ深し。 方今(イマシ)春朝の春花、馥(ニホヒ)を春苑に流し、 春暮の春鴬、声を春林に囀る。此の節候に対(ムカ)ひ琴罇(キンソン)翫(モテアソ)ぶべし。興に乗るの感有れども、杖を策(ツ)くの労に堪(ア)へず。独り帷幄(イアク)の裏(ウチ)に臥して、いささかに寸分の歌を作る。軽(カルガル)しく机下に奉り、玉頤(ギョクイ)を解かむことを犯す。 其の詞に曰はく

 

思いもよらぬ重病に陥り、数十日の間、痛み苦しんでおりました。多くの神々に祈り、頼って、ようやく小康を得ることができました。とはいえ、なお身体は痛み、やつれが残り、この身にはいっこうに力が入りません。いまだお礼を申し上げに伺うことも適わず、お逢いしたい気持ちは増す一方でございます。まさに今、春の朝、春の花々がなんともいえぬ香りを春の園に漂わせ、春の夕には春の鴬がその高らかな声を春の林に響かせています。この時候にあたって、琴や樽を傍らにおいて興を尽くすべきもの。私とて感興はそそられるものの、杖を突いて外出する労に耐え、外出するだけの力が湧いてきません。ひとり帳の中に臥して、気まぐれに拙い歌をいささか作りました。軽率を顧みず、お手元に奉りあなたのお目を汚して、お笑いの種にして頂きとうございます。その歌というのは次の通りでございます。