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四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

詠霍公鳥歌二首

橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ

玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも

 右四月二日大伴宿祢書持従奈良宅贈兄家持

右は、四月二日、大伴宿禰書持が、奈良は佐保の自宅より兄であるこの家持に贈ってくれた歌である。伊勢行きから始まった今回の行幸が、久迩新京への遷都という形で終了し、内舎人として帝にご奉仕を始めていた私は、平城の自宅とが山一つ隔てたそんな久迩の地に起居することとなった。ほんの少し足をのばせば、我が子、弟の書持にも、そして坂上大嬢にも逢えるのだが、都作りの繁忙がそれを許さない。官人にとっては充実した毎日ではあったが、やはり、寂しさは如何ともしがたい。

思い返せば去年の十月末、突然の行幸に付き従ってから、平城は佐保の自宅には一度も帰っていない。こうして家の者から便りが着くことは何とも言えず有り難い。書持の心遣いがたまらなく心にしみ入る。「住むと来鳴かば」は(霍公鳥が)住もうとしてやってきて鳴けば、の意のように受け取れる。「聞かぬ日なけむ」の「なけむ」はちょっと耳慣れない言い方だが「無し」に「む」がついたものかと思う。ちょっとぎこちない感じがしないでもないが、大切なのはその心遣いだ。ひょっとしたら、書持は霍公鳥を私になぞらえ、私に帰ってきて欲しいと歌っているのではないか

・・・いや、書持とてもうそれなりの年齢に達している。職務で帰ることの出来ぬ私の立場は充分に理解できているはず。してみれば、古来、鳥類は・・・・就中、霍公鳥は、魂の運搬者(ちょいと大げさな表現だが)として歌われることが少なくはないことを考えなければならぬか・・・

霍公鳥は唐土の地においては様々な伝説のある鳥だ。もちろん、季節がちょうどそのような季節であったにしろ、書持の頭の中には、そんな霍公鳥の思い入れがあったに違いない。ところで、二首目に詠み込まれている「楝」は私たち兄弟にとっては思い出深い花だ。お義母様が筑紫の地で亡くなられたとき、父、旅人の悲しみようと言ったら目も当てられないぐらいのものであったが、そんな父に共感してか山上憶良殿は

妹が見し 楝の花は 散りぬべし 我が鳴く涙 未だ干なくに

と歌った。自分の子ではない私を手元に引き取って下さって、我が子として育ててくださったお義母様の優しさをついつい思い出してしまう・・・そんな花なのだ。

追和大宰之時梅花新歌六首

追和大宰之時梅花新歌六首

み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし

梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ

春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも

梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり

遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも

御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ

右十二年十二月九日大伴宿祢書持作

大伴宿禰書持とは私の弟である。この六首の歌は、後に私の歌巻の写し間違いがあって、私の作であると記された写本が出回っていた。「十二年十二月九日、大伴宿禰書持」の部分の「書持」が「家持」となってしまったのである。こんなふうに弟の作が私の作と考えられてしまうと、折角の、そう多くはない弟の創作が人に知られないままになってしまう。私は何とかこの誤りを後世の人々に伝えたいと思っていたけれど、そのすべのないままに千年以上の歳月が流れてしまった。

明治の帝の御世のあたりからこれが誤りで、これらの六首が弟の作であると言って下さる方々が出て来られ、最近では多くの方々がそのように理解されているようで私としてはひと安心である。中でも、橋本四郎という方はその御論文「大伴書持追和の梅花歌」(『万葉』116号)において助詞・助動詞・接頭語などの形式語や構文のあり方などを詳細に検討され、私(家持)の作でないことをあきらかにして下さった。まことに有難いことである。

さて、この六首は父、旅人が大宰府の長官であったころ多くの方を招いて催した歌宴での作品群「梅花の歌三十二首」(巻五)の冒頭八首の内の六首に追って和した歌である。なぜか、その八首の中の山上憶良殿・豊後の守大伴の太夫の御作には和していない。以下にその二首を除いた六首を挙げてみよう。

正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ

大弐紀卿

梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも

少弐小野大夫

梅の花咲きたる園の青柳は縵にすべくなりにけらずや

少弐粟田大夫

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり

筑後守葛井大夫

青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし

笠沙弥

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

主人

最後の歌の主人とはこの宴の催主、父、旅人だ。書持の歌はこれらの六首に順に対応し詠まれている。大弐紀卿「正月立ち春の来らば」に対して書持の「み冬継ぎ 春は来たれど」、少弐小野大夫の「梅の花今咲けるごと」に対して書持の「梅の花 み山としみに」と言う具合にである。

ただそうやって、それぞれの歌の対応関係を見て行くと、ふと「おやっ」と感じてしまう部分がないでもない。書持の歌は対応する歌に対して、一応は共感の意を表してはいる。しかしながらよく見ると、父、旅人の作以外に歌に対しては、敬意を表し、共感の意を示しながらも、やや対立的に異を唱える形で詠まれていることに気づく。

ここでその全てを説明するわけにはいかないが、最もわかりやすいところで説明するならば・・・そう、この歌が適当か・・・

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり

筑後守葛井大夫

この歌は「盛りに咲いた梅の花手折っては髪に飾ろう」との趣旨の歌であるが、これに対する書持の歌はこうである。

梅の花 いつは折らじと いとはねど 咲きの盛りは 惜しきものなり

梅を枝を手折ることは、確かに否定はしていない。それが「いとはねど」だ。しかしながら、そのあと「咲きの盛りは 惜しきものなり」と、盛りの今手折ることについては明確に否定している。程度の差こそあれ、これがこの六首を詠む書持の基本的な姿勢である。けれども最後の父の作に対しては、全面的に賛意を示しつつ六首を詠み終えている。先の五首と父の作との違いはどこにあるのか・・・

先行する歌に対して共感の意を示すのが「和」の歌の常である。ましてや「追和」となればその傾向は一層強くなるものだ

明確には私も弟の意図はわからない。ただ、弟には感性として、私よりもより父に近いものがあったように思えてならないのだ。父は武人ではあったが、花を愛し風雅を愛した方であった。死ぬ間際まで「萩は咲いたか?」などと気にしていたぐらいだ。

書持は父のそういう部分のみを受け継いだ弟だった。生来、身体の強くはなかった彼はあまり立身という野望を持たぬまま成長した。けれども・・・というよりは、だからこそ太宰府でのこのような風雅な催しに強く興味を示したのかもしれない。そして、そんな彼こそが、父の風雅を愛してやまないその性質をより強く受け継いだように私には思える・・・・

今でもふと思う。それは・・・はかない幻想かも知れない・・・作の巧拙は私には何とも言い難いが、若くして世を去った彼が、もし私よりも長く生きていれば・・・との思いをかき消すことが出来ないままでいる。それは所詮「もし」なのだ・・・

ところで、この年天平十二年は穏やかならぬ年であった。太宰府におられた藤原広嗣殿が下道真備殿、僧玄昉殿の更迭を求め、反乱を起こされたのだ。かの四兄弟がお亡くなりになって朝廷での藤原氏の凋落ぶりに焦りを感じられたのであろうか・・・凋落とは行っても、私にはかの四兄弟の頃が異常なだけであって、今の状況であっても、藤原の家は充分に栄えているとは思うのだが・・・まあ、これは個人的な感慨に過ぎない。広嗣殿には広嗣殿なりの思いがあったのかも知れない。

乱はほどなく鎮圧されたが、これに前後し帝は急遽、東国への行幸を挙行された。何もこんな時にと思い惑うのは私だけではなかった。けれども、帝には帝なりの思いが逢ったに違いない。

・・・そんなふうに思い始めたのは、行幸を始めてどれだけたった頃であっただろうか。その道のりにふと思い当たるものがあった。伊勢・・・不破・・・近江・・・これは天武の帝がかの壬申の大乱の際に進んだ道のりではないか・・・ほんの僅かの舎人を引き連れて、吉野を出奔なされた天武の帝・・・いや、その時はまだ皇子でいらっしゃったか・・・は伊賀を越え伊勢に向かい数万の軍勢となり、不破を通って近江の都と陥れになられた。

今の帝はこれに倣おうというのか・・・そして、その力をもって広嗣殿を・・・いや、伊勢にいた頃にはもうこの反乱が収まったとの報告が入っている・・・帝は久々におくつろぎになり鷹狩りなどを楽しんでおられた・・・ならばなぜ・・・。

今にして思えば、天平と年号が変わってから何かしら落ち着かぬ日々が続いていた。先ずその始まりが長屋王様の御一件、そして天然痘の流行、そしてこの度の反乱、帝のお心はお疲れになっていたのであろう。この国をお治めになる帝のお心の衰えはとりもなおさずこの国の衰え・・・帝はそれを憂えていらっしゃった。この国を再生させるためには自らの魂魄を再生しなければ・・・帝はきっとそのように思われたに違いない。それがこの道のりではなかったか。