追和大宰之時梅花新歌六首
み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし
梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ
春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも
梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり
遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも
御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ
右十二年十二月九日大伴宿祢書持作
大伴宿禰書持とは私の弟である。この六首の歌は、後に私の歌巻の写し間違いがあって、私の作であると記された写本が出回っていた。「十二年十二月九日、大伴宿禰書持」の部分の「書持」が「家持」となってしまったのである。こんなふうに弟の作が私の作と考えられてしまうと、折角の、そう多くはない弟の創作が人に知られないままになってしまう。私は何とかこの誤りを後世の人々に伝えたいと思っていたけれど、そのすべのないままに千年以上の歳月が流れてしまった。
明治の帝の御世のあたりからこれが誤りで、これらの六首が弟の作であると言って下さる方々が出て来られ、最近では多くの方々がそのように理解されているようで私としてはひと安心である。中でも、橋本四郎という方はその御論文「大伴書持追和の梅花歌」(『万葉』116号)において助詞・助動詞・接頭語などの形式語や構文のあり方などを詳細に検討され、私(家持)の作でないことをあきらかにして下さった。まことに有難いことである。
さて、この六首は父、旅人が大宰府の長官であったころ多くの方を招いて催した歌宴での作品群「梅花の歌三十二首」(巻五)の冒頭八首の内の六首に追って和した歌である。なぜか、その八首の中の山上憶良殿・豊後の守大伴の太夫の御作には和していない。以下にその二首を除いた六首を挙げてみよう。
正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ
大弐紀卿
梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも
少弐小野大夫
梅の花咲きたる園の青柳は縵にすべくなりにけらずや
少弐粟田大夫
梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり
筑後守葛井大夫
青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし
笠沙弥
我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも
主人
最後の歌の主人とはこの宴の催主、父、旅人だ。書持の歌はこれらの六首に順に対応し詠まれている。大弐紀卿「正月立ち春の来らば」に対して書持の「み冬継ぎ 春は来たれど」、少弐小野大夫の「梅の花今咲けるごと」に対して書持の「梅の花 み山としみに」と言う具合にである。
ただそうやって、それぞれの歌の対応関係を見て行くと、ふと「おやっ」と感じてしまう部分がないでもない。書持の歌は対応する歌に対して、一応は共感の意を表してはいる。しかしながらよく見ると、父、旅人の作以外に歌に対しては、敬意を表し、共感の意を示しながらも、やや対立的に異を唱える形で詠まれていることに気づく。
ここでその全てを説明するわけにはいかないが、最もわかりやすいところで説明するならば・・・そう、この歌が適当か・・・
梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり
筑後守葛井大夫
この歌は「盛りに咲いた梅の花手折っては髪に飾ろう」との趣旨の歌であるが、これに対する書持の歌はこうである。
梅の花 いつは折らじと いとはねど 咲きの盛りは 惜しきものなり
梅を枝を手折ることは、確かに否定はしていない。それが「いとはねど」だ。しかしながら、そのあと「咲きの盛りは 惜しきものなり」と、盛りの今手折ることについては明確に否定している。程度の差こそあれ、これがこの六首を詠む書持の基本的な姿勢である。けれども最後の父の作に対しては、全面的に賛意を示しつつ六首を詠み終えている。先の五首と父の作との違いはどこにあるのか・・・
先行する歌に対して共感の意を示すのが「和」の歌の常である。ましてや「追和」となればその傾向は一層強くなるものだ
明確には私も弟の意図はわからない。ただ、弟には感性として、私よりもより父に近いものがあったように思えてならないのだ。父は武人ではあったが、花を愛し風雅を愛した方であった。死ぬ間際まで「萩は咲いたか?」などと気にしていたぐらいだ。
書持は父のそういう部分のみを受け継いだ弟だった。生来、身体の強くはなかった彼はあまり立身という野望を持たぬまま成長した。けれども・・・というよりは、だからこそ太宰府でのこのような風雅な催しに強く興味を示したのかもしれない。そして、そんな彼こそが、父の風雅を愛してやまないその性質をより強く受け継いだように私には思える・・・・
今でもふと思う。それは・・・はかない幻想かも知れない・・・作の巧拙は私には何とも言い難いが、若くして世を去った彼が、もし私よりも長く生きていれば・・・との思いをかき消すことが出来ないままでいる。それは所詮「もし」なのだ・・・
ところで、この年天平十二年は穏やかならぬ年であった。太宰府におられた藤原広嗣殿が下道真備殿、僧玄昉殿の更迭を求め、反乱を起こされたのだ。かの四兄弟がお亡くなりになって朝廷での藤原氏の凋落ぶりに焦りを感じられたのであろうか・・・凋落とは行っても、私にはかの四兄弟の頃が異常なだけであって、今の状況であっても、藤原の家は充分に栄えているとは思うのだが・・・まあ、これは個人的な感慨に過ぎない。広嗣殿には広嗣殿なりの思いがあったのかも知れない。
乱はほどなく鎮圧されたが、これに前後し帝は急遽、東国への行幸を挙行された。何もこんな時にと思い惑うのは私だけではなかった。けれども、帝には帝なりの思いが逢ったに違いない。
・・・そんなふうに思い始めたのは、行幸を始めてどれだけたった頃であっただろうか。その道のりにふと思い当たるものがあった。伊勢・・・不破・・・近江・・・これは天武の帝がかの壬申の大乱の際に進んだ道のりではないか・・・ほんの僅かの舎人を引き連れて、吉野を出奔なされた天武の帝・・・いや、その時はまだ皇子でいらっしゃったか・・・は伊賀を越え伊勢に向かい数万の軍勢となり、不破を通って近江の都と陥れになられた。
今の帝はこれに倣おうというのか・・・そして、その力をもって広嗣殿を・・・いや、伊勢にいた頃にはもうこの反乱が収まったとの報告が入っている・・・帝は久々におくつろぎになり鷹狩りなどを楽しんでおられた・・・ならばなぜ・・・。
今にして思えば、天平と年号が変わってから何かしら落ち着かぬ日々が続いていた。先ずその始まりが長屋王様の御一件、そして天然痘の流行、そしてこの度の反乱、帝のお心はお疲れになっていたのであろう。この国をお治めになる帝のお心の衰えはとりもなおさずこの国の衰え・・・帝はそれを憂えていらっしゃった。この国を再生させるためには自らの魂魄を再生しなければ・・・帝はきっとそのように思われたに違いない。それがこの道のりではなかったか。