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思放逸鷹夢見感悦作歌

思放逸鷹夢見感悦作歌一首  并短歌

大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に追へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥すだけりと 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に [大黒者蒼鷹之名也] 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さ慣らへる 鷹はなけむと 心には 思ひほこりて 笑まひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 我れには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥猟すと 名のみを告りて 三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと 帰り来て しはぶれ告ぐれ 招くよしの そこになければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り 守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ祷みて 我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つ鷹は 松田江の 浜行き暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多古の島 飛びた廻り 葦鴨の すだく古江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日のをちは 過ぎめやも 来なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとぞ いまに告げつる

矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける

二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも

松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ

心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ

右射水郡古江村取獲蒼鷹 形容美麗鷙雉秀群也 於時養吏山田史君麻呂調試失節野猟乖候 摶風之翅高翔匿雲 腐鼠之餌呼留靡驗 於是張設羅網窺乎非常奉幣神祇恃乎不虞也粤以夢裏有娘子喩曰 使君勿作苦念空費精神 放逸彼鷹獲得未幾矣哉 須叟覺寤有悦於懐 因作却恨之歌式旌感信 守大伴宿祢家持 九月廾六日作也

久しぶりに歌を詠んだ。都での滞在が長くなってしまい、その間は様々な報告ごとや、久々にあった妻の坂上大嬢、叔母であり義母でもある坂上郎女、そして我が子たちといった家族のご機嫌取りに忙しく、歌を詠むどころではなかったからだ。それに去年の秋、世を去った弟、書持の供養もあってなかなか忙しい在京であった。

それに、それらの諸事を終えて越中に帰ってきたら、思いもかけない状況に出くわしてしまったことも私の歌興をそいでしまった。昨年、越中に赴任して以来、私にあれこれと気を遣ってくれた大伴池主殿が越中を去り、越前へと赴任してしまっていたのだ。池主殿は私の他には代え難い歌友であり、彼なしではどうにも歌を詠む気になれなかったのだ。

寂しい思いをしている私にさらに残念なことが重なった。歌中にもあるように私ども地方に赴任している官人の秋の楽しみに「鷹狩り」がある。平城の都の方ではすでに禁令が出て行えなくなっている「鷹狩り」ではあったが、越中のような地方ではお目こぼしをいただいている。私も越中に来てからすばらしい蒼鷹(オホタカと詠むのが通例)を手に入れた。それはそれはすばらしい鷹であった。蒼鷹はもともと気性が荒く、「鷹狩り」には好適な鷹ではあるが、その中でもこの蒼鷹は飛びきりであった。私はこの鷹に「大黒」と名付けた。しかもこの鷹が私によくなついてくれたのだ。大和での任務を終えた私は、この「大黒」で秋の越中の野において「鷹狩り」をすることを夢想しながら北陸路を北へと向かった。そして越中に着いてからも朝な夕なにこの鷹の姿を見ては「鷹狩り」の季節の到来を待った。

ところが・・・そんな季節でもないのに、この鷹の養育を任せていた山田史君麻呂が、猟の訓練だということで私の許可も得ないで野に連れ出してしまったのだ。「大黒」は空高くいずこへか飛び去っていってしまった。池主殿不在のこの越中の秋のせめてもの楽しみをも私はなくしてしまった。山田史君麻呂に対する怒りは抑えがたいものがあった。けれどもこうなってしまった後、いくら怒ってみても仕方がない。あちらこちらに鳥網を張って再度捕獲しようとしてみたり、神に祈ったりと尽くせるだけの手は尽くした。その甲斐があってか、数日たったある日私はある夢を見た。夢の内容は歌中、左注にあるがごとしである。私の喜びは尋常のものではなかった。そしてその喜びが久しぶりに私に歌興を呼び起こしてくれた。

喜びの大きさが、この歌を思いもかけず長々とした歌にした。こうやってできあがって読み直してみても、なかなかのできばえだ。一つの物語としてある程度はまとまったものになったのではないかと思う。これほどの長さを感情に流されず、破綻なく最後まで歌いおおせたことに我ながら驚いている。これもまた、春に池主殿と数度に渡って歌を交わした成果であろうか。とすれば、あの数ヶ月は私の歌人としての力量を高めるに非常に大きな役割を果たしてくれたのではなかろうかと思う。本当に充実した数ヶ月であったのだと、今さらながら池主殿に感謝している。

それにしても、この歌を見せるべき池主殿がこの越中の地に居ないことだけが何とも残念でならない。私はこの歌を詠みながら、逃げ去った「大黒」に、知らず知らずに池主殿の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

<補>

蛇足ではあるが漢文の左注をわかりやすく書き改めてみた。ご参考までに・・・

右の歌は射水郡古江村で捕獲した蒼(オホ)鷹についてのものだ。その姿は美麗であってその荒々しい気性は群を抜いていた。ある日養吏の山田史君麻呂が猟(カ)りに備えての訓練の季節を間違え、秋から冬への季節に背き、猟りに出かけてしまった。その蒼鷹の風を切って羽ばたく翼は、空高く翔り、雲間に隠れてしまった。鼠などのつまらぬ餌で呼び戻そうとしたがその効果があるはずはなかった。そこであちらこちらに鳥網をはって、あり得ぬことではあると思うがその鷹を捕まえようとし、神に幣を奉り、思いがけず鷹が帰ってくることを願った。すると夢に少女が現れ、私に諭すように言った。「あなたはそんなに苦しい思いをしてむなしく心を疲れさせてはならない。逃げた鷹を取り戻すのはそれほど遠い先の話ではない。」と。たちまちにして私は目覚め、そして喜んだ。よって恨みに思う気持ちを払う歌を作り、心に感じたしるしとした。

国守大伴宿祢家持  九月二十六日作

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶

あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山 手向けの神に 幣奉り 我が祈ひ祷まく はしけやし 君が直香を ま幸くも ありた廻り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ

玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ

うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む

右大伴宿祢池主報贈和歌五月二日

なんとも心のこもった歌ではないか。先日私は池主殿にこのたびの別れの悲しみを訴えた。それに応じたのがこの歌だ。池主殿も同じ思いでいらっしゃることがひしひしと伝わってくるような歌である。公用の旅とはいえ、安全の保証は何もないこの時代に片道ほぼ十日前後の道行きは私とて全く不安がないこともない。そういった思いは残される側においてはひとしおのものなのだろう。

反歌(絶と表現されている)の第一首には池主殿のそんな思いが記されている。その下敷きには私が今回の越中下向の際、持参した歌巻にあった山上憶良殿の

若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉(シタヒ)の使 負ひて通らせ(巻五)

があるのだろうか。憶良殿がそのお子様を亡くしたときの悲しみを歌った歌ではあるが、過日、私の館で件の歌巻を興味深げに池主殿はご覧になっていたが、その際にご記憶にとどめておかれていたのだろうか。それとも、我が義母、大伴坂上郎女が今回の赴任にあたって贈ってくれた

道の中 国つみ神は 旅行きも し知らぬ君を 恵みたまはな(巻十七)

が念頭にあったのだろうか。これもまた池主殿が私の館にいらっしゃったときにお示しした覚えがある。おそらくは両者ともに意識のうちにあったに違いない。だいぶ前のことであったが、池主殿の胸中に深く刻まれた歌であったのだろう。

さらに長歌を見れば「見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音(ネ)のみし泣かゆ」と、おそらく今回の上京にあたっての四月二十六日のはなむけの宴での私の歌

我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね

あたりを踏まえて歌っていらっしゃる。

ただ今回のこの長歌はそれだけにとどまらず新たに「なでしこ」の花が詠み込まれることになった。反歌の第二首も然り。私が再び越中に戻るのは秋八月頃。そしてその季節に私の館を飾っているだろう花はこの「なでしこ」である。池主殿の御心の中にはもうすでに再会の季節があるのだ。くわえて、「なでしこ」は私が好きな花。池主殿はそこも踏まえてこうお詠みになったのだ。なんともありがたいお心遣いではないか。

さあ、いよいよ旅立ちだ。公務の旅とはいえ、妻や家族、そして橘諸兄殿をはじめとした人々に会える。その際、この一年足らずの間に私が詠み、そして集めた歌々をお示ししようと思っている。いかにご評価くださるだろうか、楽しみである。ただ、昨年七月、私を「奈良山過ぎて 泉川 清き河原」まで送ってくれた書持(フミモチ)だけにはもう会えない。昨年の秋、朝露のごとく儚くなった弟にはもう会えないのだ。こうやって大和を長く離れ単身で異郷に住まいしていると、そのことが観念的にしか理解できない。今度、都に帰ってしまえばそれが現実のものとして実感せざるを得ない。私はそれを恐れる。けれども、それが現実であるならばそれを事実として受け止めなければならない。しっかり供養してやらねば・・・

 

入京漸近悲情難撥述懐一首

入京漸近悲情難撥述懐一首并一絶

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨しみ 偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇の 食す国なれば 御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども 玉桙の 道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく 日の長けむぞ そこ思へば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し

我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ

右大伴宿祢家持贈掾大伴宿祢池主 四月卅日

出立する日まであと数日となった。五月の三日には国司の館を出なければならない。都で報告するべき帳簿類の整理もめどがついたので、手土産として持ち帰る歌々に再び目を通し整理をしていると、この越中にて過ごしてきた数ヶ月の日々が瞼の裏に蘇ってくる。とりわけ今年に入ってからの大病、そして税帳使として都へ赴くことが決まって以来の越中の面々との交流は何物にも代え難い記憶として私の胸中に存している。これらの日々を思うにつけても、彼らとの別離がことのほか重く心にのしかかり、私の思いを沈めるものとなっている。このような思いは以前も述べたように歌を以てのみ撥いうるものである。今回もその例外ではない。私は自然に筆を執るに至った。その歌はいきおい、これまで私が、池主殿が、そしてそのほかの面々が詠んだ歌を承けたものになった。

詠み出しの「かき数ふ 二上山に」は「二上山賦」を意識してのもの。「港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し」「霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて」はそれぞれ「遊覧布勢の水海の賦」、四月二十六日の送別の宴の歌々を承けたものであることはすぐにわかっていただけると思う。

反歌もそうだ。また題詞に「一絶を併せた」としたのは、情を詠んだこの長歌に、事物を詠み込んだ歌に対して付する「賦」とは題することができなかったことによる。しかしながら、この長歌もまた越中の自然を詠み込んだ長歌群の流れと意識の面ではつながっている。そこで「絶」と池主殿のまねをすることにより、その意識を明示しようとしたのだ。

こうして私は、越中赴任以来、こちらの人々が私に示してくださった厚情に謝意を示そうとの意を持ってこの長歌をものしたわけであるが、その意の中心にあるのはもちろん池主殿だ。同族でもある池主殿は、私の最良の歌友であることは、私の病が癒え始めたあたりからの彼との歌の贈答からも、後の世の人々に容易にうかがい知れよう。私は歌について彼から多くのことを学んだ。池主殿の存在は私にはなくてはならないものとなっていたのである。そのことを歌の中に示した部分が冒頭の

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てるつがの木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて

である。この中の「立てるつがの木 本も枝(エ)も 同じときはに」の部分は私と彼が同族の出身として強い紐帯に結ばれていることを示そうとしたものだ。何も大伴宗家である私が「本」、支族である池主殿が「枝」といっているわけではない。それほど強い絆で私たちが結ばれているということを言いたかっただけだ。そして、その帰結として私たちは「朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて」と互いに気遣いあってきた。そんな池主殿(もちろん他の人々に対してもそうではあるが)と、たとえ数ヶ月ではあっても分かれることはつらい。ここ数ヶ月の歌共としての交流がここで途絶するのも残念でならない。そんな思いがこうして一つの長歌として結晶した。歌としての善し悪しは知らぬ。けれども歌わずにおれなかった私の気持ちは池主殿が誰よりも理解してくださるだろうと確信している。

敬和立山賦一首

敬和立山賦一首并二絶

朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは

立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ

落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ

右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日

これまた池主殿に一本とられてしまったようだ。昨日私が長歌の持つ欠陥を前回と同様に池主殿は見事なまでに補完してくださった。思えば私の長歌にはどうしても情に流れる傾向があり、具体的な叙述にかける傾向が多く見られ、実際の対象・・・ここでは「立山」・・・がどのような姿をしているのか、そしてそれがどんな風にすばらしいのかを見たことのない人に伝える力に乏しい。対して、池主殿のこの「和」歌は実に具体的に「立山」を描き出している。都の人々もこれを読めば「立山」がいかに壮麗で神々しい山か容易に想像できるというものだ。本当におそれ入った。「賦」という語を冠すべきはまさにこのような歌がふさわしいようにも思える。本当に勉強になった。自分はまだまだであるということを実感させられた思いがする。
さて歌の方といえば、冒頭の「朝日さし そがひに見ゆる」という一節にまず目が惹かれる。このように朝日に照らす出される対象物を歌うことは古事記にも「纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮・・・」ともあるように宮城讃美の語だ。私が昨日の長歌に宮廷讃歌の手法を取り入れたことを受け止めた歌い出しといってよい。「そがひ」はその使われざまから「背後、後ろ、後方」の意、あるいは「斜め後ろ、横」と理解されていることが多いが、ここはそう考えるとこの歌の魅力は半減してしまう。なぜならば、その理解に基づくならば、ここで歌われた「立山は逆光の中の黒々とした山容を見せているか、あるいは作者である池主殿が「立山」を正面切って見ていないことになるからである。この長歌の歌いざまから考えたとき、池主殿は朝日の中に燦然と輝く「立山」を正面から見据えているのでなければならない。

とすれば、この「そがひ」という語をどのように考えるべきか。思うに池主殿は漢籍に見られる「背向」という語の訳語としてこの語を使ったのではないか、と考える。このように理解すると山々が前後して並んで知る姿を表すことになり、朝日の中に手前にも奥にと重畳と聳える「立山」連峰の姿をありありと思い浮かべることができる。この理解が他のすべての場合にふさわしいか自信はないが、少なくともこの歌に関しては、こう理解するしかないと思う。

続いて、上で述べた池主殿の具体性を次に示したいと思う。

白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて・・・こごしかも 岩の神さび

何重にもかかった雲を貫き聳える「立山」の姿が眼前に浮かんでくるような表現である。そしてまた、私が「常夏に 雪降り敷きて」としたのよりは、池主殿のこの読みざまの方がはるかにわかりやすいことはいうまでもない。私が歌うことの無かった、その山肌の様子についての既述も「こごしかも 岩の神さび」と忘れることはない。そして、この「山」についての叙述に続き、「川」の叙述である。

峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく

もうくどくど説明はしない。しかし、そこにある川のイメージは私の長歌のそれよりもはるかに明瞭である。「峰高み」の一句をはさみ、「山」から「川」へとの対象の転換も見事である。ともあれ、これで都への手土産となるべき歌が一通り揃った。都の人々はどんなに喜んでくれるであろうか・・・

立山賦一首

立山賦一首 并短歌 此山者有新川郡也

天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね

立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし

片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通ひ見む

四月廿七日大伴宿祢家持作之

昨日の宴の中で、これまでに作った「二上山の賦」「遊覧布勢の水海の賦」に加えて、もう一つ、この越中一の秀峰「立山」を詠んだ歌を作らねばという話になった。もちろん都への手土産にだ。都に旅立つまで、あと数日。体調のことやら、何やらがいろいろとあって出立の日を延ばしてきてはいたが、もうこれ以上延ばすことは出来ない。遅くとも5月の薬玉の日を待たずには越中を発たなければならない。これからはその準備に忙殺される日が予想される。加えて「遊覧布勢の水海の賦」が、そうであったように池主殿に「和」していただくことを考えれば、今日中にでも歌を詠み、池主殿にお示ししなければならない。そんなふうに考えて大慌てで作ったのがこの長歌だ。

「立山」はこの越中から隣国飛騨に連なる山塊の主峰で、その巨大さは大和で見ることが出来た山々の比ではない。高さは、平城の都で慣れ親しんでいた春日山の五、六倍はあるだろうか。盛夏のごく一時期を除いては白く雪に覆われている。姿、形こそ違え、山部赤人殿や高橋虫麻呂殿の歌で知られる富士の山もかくやと思われるばかりの神々しさだ。昨日の宴での面々が都への手土産に是非にとおっしゃっていたのも肯われる。その真っ白な山際から朝日が昇りくる姿、夕日に赤く染め上げられる姿は思わず手を合わせたくなるような衝動にかられてしまう。

さて、歌の方だが上に「大慌てで作った」と書いたが、こうやってできあがりを見ると、やはり、それが故の粗雑さが目についてならない。例えば二句目「鄙に名懸かす」。「地方の国でもその名の知られていらっしゃる」の意であるが、この句がどの言葉にかかっているのかはっきりしない。私としては九句を隔てた「立山」を修飾する句として、この句を考えたのだが、素直に読む限り直下の「越の中」にかかっているものと受け止められても仕方がないような出来になってしまった。あれこれと工夫もしてみたのだがどうにも出来ず、結局「立山」の上に「その」とつけて、その係り受けを明らかにしようとしたが、やはりはっきりしない。自らの未熟さを恥じ入るのみである。

ところで今回の長歌は池主殿の「敬しみて遊覧布勢の水海の賦に和する」歌に負けぬようにと、この歌を整然としたものにしたいと思い、次のように対句を構成させてみた。

山)山はしも しじにあれども
(川)川はしも 多に行けども

(山)領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて
(川)帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の

(自分に対して)あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ
(他者に対して)万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ

(音)音のみも
(名)名のみも

けれども、ご覧になってすぐにおわかりのように、二つ目の対句 「領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて」、「帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の」が「七・五・七・五・七」と「四・七・五・七・五」という具合に、五音句と七音句とがずれてしまった。 無様なことこの上ない。さらには本来一番言葉を費やして叙述するべき、「立山」についての具体的な記述が「常夏に 雪降り敷きて」の二句のみになってしまった。これは伝統的な宮城や国土讃美の手法を意識して「山」「川」の対比を重視した結果、「川」に関しての叙述が重きをなしてしまったが故のことである。「山」そのものを讃美しようとしたこの歌には、この手法は、不適切であったといわざるを得ない。

しかしながら、もはや時間は残されていない。あれこれと手直ししている時間は残されていない。これ以上池主殿にお示しするのが遅くなれば、池主殿が迷惑するだけだ。あとは「敬しみて遊覧布勢の水海の賦に和する」歌がそうであったようにと池主殿が私の長歌の足りないところを補ってくれるだろう。私の長歌と池主殿の「和」の歌とで「立山」の壮麗な姿を都の人々にお伝えできればそれでいい・・・

守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首

守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首 四月廿六日

都辺に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな恋ふる日多けむ

池主殿のお宅での送別の宴は実に楽しいものであった。私が都へ立った後の辛さを歌えば、内蔵忌寸縄麻呂殿が私が旅立った後の寂しさを歌う。そしてそれを承けて私がきたる五月五日の薬玉の楽しみについて歌えば、池主殿がそれにまつわる古歌を伝誦する。更には私が都への手土産にと作った「遊覧布勢の水海の賦」を披露すれば、池主殿がそれに応える・・・

余りに興が盛り上がったので、その場でおひらきにするのも気がひけて、私の館に皆さんをお誘いし、二次会という次第になった。歌の方は池主殿のお宅で充分に楽しんだので、この場では私の挨拶の歌だけを披露し、後は飲みながらつもる話をいつまでも続けた。

ところで、今日の日の宴は、亡き父がかの筑紫の地にて山上憶良殿等と過ごしたような日々が、ここ越中の地においても再現されているかのように思わせるものであった。あまざかる越中の地においてもかような風流な日々繰り返されていることを、私をこの地へと送り込んで下さった橘諸兄殿をはじめとした方々にお伝えせねばならない。 私は昨年この地に赴任して以来の歌々も都に持ち帰るつもりである。

ところで、この宴の中でまた一つ一座の面々から宿題が出された。「二上山」と「布勢の水海」だけでは、都への手土産として不足ではないか、という声が出たのだ。しかし、この越中の風土の全てを歌にするためにはもはや日がない。「都辺に 立つ日近づく」と歌でもいったようにあと数日で私は都へと旅立つ。税帳を都に持ち帰る期限は過ぎようとしている。これ以上、出立が遅れるようなことがあってはならぬ。らばあと一つだけ・・・一同で頭を捻った。そして「立山」である。この国府から南東にはるかに見はるかす「立山」。白く雪を冠する雄大なその姿は神々しくさえある。この山の姿を歌にするのでなくては、越中の名所を歌ったことにならない・・・というのが、一同の答えである。

ともあれ、今日は飲み過ぎた。「立山」の歌を詠むには明日からにしよう。池主殿も「和」をなして下さるとのことだ。今度はどのような「和」をなして下さるのか、これもまた楽しみだ。

 

遊覧布勢水海賦一首

遊覧布勢水海賦一首并短歌 此海者有射水郡舊江村也

もののふの 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)の 思ふどち 心遣(ヤ)らむと 馬並(ナ)めて うちくちぶりの 白波の 荒礒(アリソ)に寄する 渋谿(シブタニ)の 崎た廻(モト)り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比(ウナヒ)川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群(ムラ)騒き 島廻(ミ)には 木末(コヌレ)花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥(クシゲ) 二上山に 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ

右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日

実に楽しい一日であった。大和へと旅立つ日を目前にひかえ、国府の面々と布勢の水海まで足をのばし、その美しい風景をしっかりとこの目に焼き付けることが出来た。布勢の水海というのは後に十二町潟と呼ばれるようになった二上山北西の低地に広がる湖で、土砂の堆積と徳川殿が幕府を開かれて以降の相次ぐ干拓のため、昭和の御代の頃には見る影も無くなっていると聞く。私が国守としてこの地にいた頃は、それはそれは美しい湖であっただけに、なんとも残念な話である。

それはともかくとして、先日の秦殿のお宅での送別の宴において私は「二上山賦」を披露し、これを都への土産としたい旨の話をした。すると一同は、それだけでは物足りなかろう、この越中の地にはもっと都で語るべき場所が多くある。他の地も歌にして都に伝えなければならないだろう・・・と口々になさった。それでは・・・ということで、今回の布勢の水海への遊覧ということになった。もちろん目的はそれだけではない。その送別の宴でわざわざ私のために集まって下さった皆さんへの感謝の意をも込めて私がお誘いしたのだ。都への出立の日も近くそう遠くまでは足を運べないという事情もあってこの地を遊覧の地に選んだのだが、国府からほんの少し足をのばしただけでこのようにすばらしい場所があるとは・・・・越中は本当にすばらしい国だ。

渋谿の崎の荒磯、松田江の美しい浜辺・・・布勢の水海までの道行きだけでも心惹かれる景色がある。そして目的の布勢の水海では舟に乗っての遊覧・・・本当に楽しかった。もちろん、この楽しさはその風景の素晴らしさだけに由来するものではない。ともにこの遊覧を楽しんだ面々があればこそである。私は程なく都へと旅立つ。しばしのお別れだ。けれども私が都から無事に帰着したならば、再び同じ顔ぶれでこの地を訪れたいものだ。長歌の終わりの方や、反歌はそんな思いを込めて詠んだ。

ところで先日都への土産歌の素材にしたのは「二上山」。そしてこの度は「布勢の水海」。これで越中の代表的な「山」と「水」を詠んだことになる。これは論語にある「智水仁山」を意識したもので、漢詩の世界ではごく一般的になされる対比である。くわえて、人麻呂殿、赤人殿、そして我が父旅人の吉野讃歌で使われた技法でもある。ただあえてその違いを言えば、それらは一首の中に「山」「水」の対比を描いたが、私はここで二首の長歌にわたってそれをなしたと言うことだ。

・・・とここまで書いてきて、目を再び長歌に戻したとき、いささか盛り沢山にすぎたきらいがあるように思えてきた。我ながらくどい歌だとも感じないではない。すべてを都に伝えなければと思うばかりに、行ってもいないところまで詠み込んでしまった。それもこれも都人にこの越中の素晴らしさを伝えんがための虚構だ。許されることであろうと思う。

さて、先の宴において池主殿が我が作に「和」をなしてくれるとの約束であった。明後日、二十六日には池主殿が私を送る宴を催して下さる予定で、その場において私はこの歌を池主殿はその「和」の歌を披露する予定だ。少しでも早くこの歌をお届けしなければ、池主殿の「和」が、その宴に間に合わなくなってしまう。急ぎ、清書して送らなければ・・・

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌一首

ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥 鳴く音遥けし 里遠みかも

右大伴宿祢家持作之

霍公鳥の初音を聞いた。先月の二九日、この私の愛する鳥の声が立夏を過ぎても鳴かぬ事を恨みに思う歌を詠んだ。その翌日には「二上山賦」という長歌をものし、その反歌にも霍公鳥への思いを歌った。私はこの声を今か今かと待ち焦がれていた。しかし、都へと出立する日が近づくにつれ、私の周囲は次第に慌ただしくなり、私自身も都へと携えるべき公簿類の整理点検に追われ、次第に余裕は無くなってきていた。今日も夜も遅くまでその作業に追われ、一息ついたのがついさっきであった。

ふっと息を抜き、都の懐かしい人のことなどを思い出していたとき、私はこの耳で確かに聞いた。あれほど恋い焦がれた 霍公鳥の今年初めてのさえずりを・・・

それは消え入るようなかすかな声であった。あまりにもかすかなるが故、普通ならば「声」と詠むべきところを「音」と詠んだ。生あるものが発するものを「声」、それ以外のものの発するものを「音」と表現するのが本来ではあろうが、今日の霍公鳥の「声」はあまりにかすかに過ぎて、それが本当に霍公鳥のものかと疑われるほどのものであったので、ここでは「音」と詠んだのだ。

歌中の「ぬばたまの」の使い方はちょっとした工夫だ。この枕詞、「黒」「夜」などのかかるのが通例で、「月」のように光を放つものにかかるのは異例と言ってもよかろう。私としては、たとえ月があったにしろ、自分が見たいはずの霍公鳥の声のする方向が闇に覆われ、何も見えていないことからこの枕詞を使ったのだが、この歌を読んだ人はいかに受け取るであろうか・・・少し心配はある。

ただその下の「月に向かひて」は少し自信がある。闇の中、他のいずこでもなく「月」に向って鳴いている霍公鳥のその姿を幻視し、このように詠んだのだが我ながらうまくできたと思っている。このような言い回しを私は他に知らない。私だけの表現だ。

私だけの・・・ということにこだわれば「遙けし」という語も私だけのような気がする。いったい私はこのての言葉が好きで、他にも「遙けさ」「遙々(ハロハロ)」などをよく使う。それは対象物が遙か遠くに見えるという意味ではなく、対象物の「声」「音」が、遠くからかすかに聞こえてくるという意味で使う。何気なく過ごしているだけでは聞こえてこない・・・目を閉じて聴覚を研ぎすまなければ聞こえてこない「声」「音」を聞くのが私は好きだ。そんな私の嗜好に、この言葉はとても馴染んでくれる。

今日も夜遅く、皆が寝静まり他の音が一切絶えた中、私はひそかに耳を澄ませていた。未だ鳴かぬかの鳥の声が聞こえてはこないかと思ってのことである。遠く波の音が単調に繰り返される。ひたすら霍公鳥の初音を待つ私の耳には、その波の音すら、次第に無きがごとくになってくる。そして、一切の夾雑物が排除された私の耳に聞こえたのが、この「遙け」き霍公鳥だった。あるいはその声を聞きたいばっかりの空耳だったのかもしれぬ。けれども、それは、もはや私にはどうでもいいことになっていた。現実のものであるか否かを超えて、私の耳には霍公鳥の初音が確かに聞こえたのだ。

思えば立夏を過ぎてはや数旬。霍公鳥の初音がこれほど遅いのは大和では考えられぬこと。この度の上京の土産話の一つとなろう。ともあれ、3月29日、30日の二つの歌はこの霍公鳥の初音によって完結する。歌の良し悪しはともかく、大和と越中の風土の違いは都の風流人士を驚かせるにたることであろう。

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌二首

あしひきの 山も近きを 霍公鳥(ホトトギス) 月立つまでに 何か来鳴かぬ

玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし

霍公鳥者立夏之日来鳴必定 又越中風土希有橙橘也 因此大伴宿祢家持感發於懐聊於裁此歌 三月廿九日

私はことのほか「霍公鳥」が好きだ。もちろんその鳴き声を愛でているのだ。この鳥の声はある時には亡き人を、またある時には恋人を・・・と、懐かしい人のその面影を彷彿とさせてくれる。後の世の人の数えたところによると私の歌巻(万葉集)には153首の歌に詠まれているとか・・・そのうち63首は私の歌だそうだ。あまり意識してはいなかったが、この数字を見ると、それほどのものかと我ながらあきれてしまう。まあ、私の他にも90首ほど「霍公鳥」を詠んだ歌があるそうなのだからこの傾向は私に限ったことではあるまい。ただ少し私にその傾向が強かったのだ。

とはいえ、わたしがこの鳥が飛来し、鳴き出すはずの季節になるといてもたってもいられなくなるのは事実であり、この二首もそんな思いを詠んだものである事は説明するまでもないであろう。私の待ち遠しい気持ちは、その題詞に示しておいた。

というのはこの歌を詠んだ今日は3月29日で、未だ4月にはなっていない。夏は4月の1日に始まる。けれども、月齢の進行と、暦には毎年若干の食い違いがある。今年(天平19年)は3月の21日が立夏だ。である以上その日からもう夏なのだ。夏である以上それは4月・・・私の意識の上でことではあるが・・・・。他の方からみれば、多少無茶苦茶に思えるような論理ではあるが、「霍公鳥」の飛来を待つ私の心持ちから言えば何の矛盾もそこにはない。

・・・ひょっとしたら、上京予定の4月が少しでも早く来てほしいとの私の願いが、暗に表出したものなのかもしれないが・・・

それにしても遅い・・・大和ならば立夏の頃にはあの懐かしい声が聞こえてしかるべきなのだが・・・

聞けば、唐土にあっては「霍公鳥」が暮春に飛来するとの考えが一般的らしく、最も早いものは春分、最も遅いものは立夏とする考えもあるらしい(「子規と郭公」青木正兒全集巻八)。ここで私は我が国の実情に合わせ「霍公鳥は立夏の日になれば飛来しその鳴き声を聞かせてくれるのが必定」と書いた。

なのに、まだ鳴かない・・・

この寒冷な越中の風土のせいか、あるいはこの鳥の連れ合いと言っても過分ではない「橘」がこの越中の地にはまれにしか見られないからであろうか。ともあれ、私は同じこの国にあって、かくも違いがあることに大いに興味を抱いた。

述戀緒歌一首

述戀緒歌一首 併短歌

妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常(トコ)初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻(オクヅマ) 大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離(サカ)る 鄙(ヒナ)治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年行き返り 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ 敷栲(シキタヘ)の 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど うつつにし 直にあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ 近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕 さし交へて 寝ても来ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも 振り放け見つつ 近江道に い行き乗り立ち あをによし 奈良の我家(ワギヘ)に ぬえ鳥の うら泣けしつつ 下恋に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占(ユフケ)問ひつつ 我を待つと 寝すらむ妹を 逢ひてはや見む

あらたまの 年返るまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも

ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋ひやまずけり

あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり

春花の うつろふまでに 相見ねば 月日数みつつ 妹待つらむぞ

右三月廿日夜裏忽兮起戀情作 大伴宿祢家持

我々国守の任にある者は、年に四つの事柄を報告するために文書を作成し、都に使いせねばならぬ。徴税の根幹となる住民台帳たる大帳を携える大帳使・地方の収支報告書たる正税帳を携える正税帳使・様々な貢ぎ物の収集状況を報告したり、その貢ぎ物を都へと運ぶための貢調使・地方官人の勤務状況を報告する朝集使がそれだ。

昨年の秋には池主殿は大帳使として都に赴いて下さった。そして、そのころからこの春の正税帳使にはこの私が行くことに決まっていた。一時的にしろ都の戻り、妻をはじめとした家族と再会できることを楽しみにしていたのだが、この一月からの病によって、それが危うい状況になっていた。ところが、三月に入り私の体調も急速に快復し初め、先日、やはり私が正税帳使として都に赴くことが本決まりになった。

正税帳使は本来二月の末日までというのが決まりではあったが、越中のように雪深い土地の場合は四月の末日まで待ってもらえる。加えて、この度は、私が体調を崩したこともあって、もう数日の日延べをご許可いただいた。四月の末から五月の初めにこちらを出立できればと思っている。

ともあれ、都に帰ることが本決まりとなって、恥ずかしながら少々里心がついたようだ。あれこれと都に行ってからのことを考えているうちに急に妻への恋情がたかまり、それを押さえきれなくなってしまった。こんな時はその思いを歌に詠むことが、その押さえきれぬ思いを制御する方策として最良であることを私は先日(二月二十日)の詠歌により知った。そして詠んだのがこの歌だ。

初めの十句、「我が奥妻」までは我が妻、大嬢に対しての呼びかけになっている。「常初花」のような我が妻をいかに恋しく思っているかを表現したつもりだ。続いて「大君の」から「へなりてあれこそ」まではその妻に自由に会えない切なさを歌った。冗漫に過ぎるほどくだくだしく我が思いを書き連ねたが、私はここまで書かないとどうにも満足できない。性分と言えばそれまでだが、もとよりこの歌は誰に示そうとの考えも無いままに詠んだ歌でもあり、それも許されることかと思う。そして「よしゑやし」から最後まで。ここがこの歌の眼目になるだろうか。「霍公鳥 来鳴かむ月」になって妻と再会するその時のことを、この越中からの道行きを含めて空想しながら詠んだ。こうやって空想することによって、はやる気持ちを抑え、それまでの逢えぬ辛さを少しでも紛らわそうとしたのである。

最後に反歌として添えた短歌四首。これらは長歌の・・・特に「大君の」以降を反復、あるいは要約し、いささかの感慨を申し添えたものだ。長歌を詠むだけではおさまることを知らなかった我が叙情の噴出は、ここにいたって初めて小康を得た。

都へと出立するまで、あと一月あまり。あれこれと庶務を整理しなければならない。正税帳も再度点検しておかなければならないであろう。また、この越中の面々もただでは私を都へと送ってはくれない。もうすでに幾つかの餞の宴にも誘われている。それに久しぶりの都だ。手ぶらで・・・というわけにも行かぬ。手土産となるようなものも・・・歌も・・・用意せねばならぬ。

まことに忙しいかぎりである。