タグ別アーカイブ: 大伴家持

同月九日諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴 於時主人造白合花縵三枚疊置豆器捧贈賓客 各賦此縵作三首

同月九日諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴 於時主人造白合花縵三枚疊置豆器捧贈賓客 各賦此縵作三首

油火あぶらひの光に見ゆる吾がかづらさ百合の花のまはしきかも

右一首守大伴宿祢家持

灯火ともしびの光に見ゆるさ百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき

右一首介内蔵伊美吉縄麻呂

さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ

右一首大伴宿祢家持 

東大寺からいらっしゃった平榮殿たちを都にお送りしたその4日後の9日に、越中の官人たちが少目さかんはたの伊美吉いみき石竹いはたけ殿の館に集まり宴を催した。先月、私のもとに従五位上への昇進の知らせが届いたのだが、この宴はその昇進をみなが祝ってくれる・・・という趣旨のものでまことにうれしい限りである。

加えて主人の石竹殿は百合の花縵を三枚も作って、高坏に重ね置いて私たち来客をもてなしてくださった。なんとまあ・・・お手間な、それでいて風流なお気遣いであることほとほと感心させられた。そこでその感謝の意を込めて私と内蔵うちつくらの伊美吉縄麻呂殿が詠んだ歌が以上の3首である。

本来ならば、ここに居合わせた大目さかん秦伊美吉八千島殿の歌もあってしかるべきなのではと思うのだが、八千島殿は少々歌が苦手でいらっしゃる。それにもまして、縄麻呂のお歌が「ゆりも逢はむと」などと、少々場違いであったため、私がすかさず「今のまさかもうるはしみすれ」と応じなければならなくなったゆえ、その後を継ぐことが出来なくなってしまわれた。少々申し訳ないことをしたと後悔してもいる・・・

この宴の参加者は、場の主人としてこの越中の国の少目である秦伊美吉石竹殿。客は国守である私。すけである内蔵伊美吉縄麻呂殿、大目である秦伊美吉八千島の3人である。だから、花縵も3枚用意してくださったわけである。本当ならばじょうである久米朝臣広縄もここにいるべきではあったが、なにぶん都への使いとして出張中でいらっしゃったためこの宴には参加することが出来なかった。

残念である・・・

天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等 于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首

天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等 于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首

焼太刀やきたち砺波となみの関に明日よりは守部もりへ遣りそへ君を留めむ

今年(749年)2月22日、みちのくより黄金が産したとの報告があった。我が国にあっては初めてのことである。平城の都の東、若草山の麓に築きつつある東大寺の大いなる御仏の御身を荘厳する黄金が不足し、帝がお心を悩ませているとのうわさを耳にしてはいたのだが、これで帝も一安心なさっていることかと思う。この国の青人草だけではなく、天地までもが帝のこの大事業に加わっている・・・そんな思いがする。

4月1日にはそのことをことほぐ、類まれなる長大な勅が発布され、さらにはその14日に天平感寶との改元が実施された。帝のお喜びの様が目に浮かぶようである。

さて、その4月1日の勅には我が大伴の一族にはうれしい限りのお言葉もあった。が、それについてはまたいつかの機会に・・・ということにしておいて、今は今回の宴のことについて少々書きとどめなければならない。件の勅において、帝は

又寺寺に墾田はりた地許ところゆるし奉り、ほふしつかさを始てもろもろほふしあまゐやまひ問ひ治め賜ひ

と仰せられ、寺々にも新たに地を拓き田地となして所有することをお認めになられた。僧の平榮殿たちは、その土地の所属状況を確認するために東大寺から派遣されて、わざわざ越中までおいでになられていた。このたびその任も果たされ、都にお帰りになるというので、最後にちょいと杯をお送りしようと思い一席を設けた次第である。こうやって都から離れて暮らしていると、少しでも都のにおいのする方は言い知れず懐かしい。そんな方が都に戻られるとあっては、やはり何とも言えぬ寂しさがあるものだ。この歌はそんな思いを込めたものだ。

砺波の関は砺波山に置かれた関所で、平榮殿達はここを通って都に帰られる。そこに関守を遣ってでもこの越中の地に平榮殿たちをお留めしたい・・・そんな思いから、この1首を詠んだ。

「焼太刀を」の一語は、「太刀」は「鋭い・・・き(利き)」ものであるところから、「砺波」の「(砺)」にかけて用いた枕詞である(人によっては焼き上げた太刀は「ぐ(研ぐ)」ものであるから「」にかけるのだという人もいるらしい)

ともあれ、このような方々と今回のような宴の場を設けるのも我々国守の任であるが、先にも述べたように都の匂いのする方々と少しでも時を過ごしたい・・・そんな思いも本音である。

越中守大伴宿祢家持報歌并所心三首

越中守大伴宿祢家持報歌并所心三首

天離あまざひなやつこ天人あまひとしかく恋すらば生けるしるしあり

常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ばになひあへむかも

別所心一首

(あかとき)に名告り鳴くなる霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしく思ほゆるかも

右四日附使贈上京師

右の歌 四月四日に京師(みやこ)に上る使いに附した。 先日、都の義母(叔母でもある)よりいただいた歌は諧謔に富んだ、しかも離れて暮らす私に対する思いの溢れる二首であった。諧謔に応うるには諧謔を以て、というのが礼儀というものであろう。そんな意図の元に最初の二首は詠んだ。

一首目、「鄙の奴」とは私にこと。「天人」とはもちろん義母のことである。この国にあって、都は天上界のごとく尊い場所。であるなら、そこに住まいする義母は「天人」に違いあるまい。先日の義母の歌に私のことを「常人」と詠んでいたところに、ちょっと絡んでみた。四句目に「かく恋すらば」とあるのはあまり聞き慣れない物言いだがその意は「かく恋すらむは」と同じ。この場所での字余りは少し体裁が悪いのでこんなふうにいってみた。

二首目、義母のいうところの「常人」の恋でさえこの私の肩に重くのしかかっているのに、その上、荷馬でさえ背負いかねるような恋まで都から送り届けられてきたらこんな私にはとても背負いきれるものではないとふざけ返してみた。

さて、三首目であるが、これは贈られて来た歌に対して忠実に応えるという礼儀を果たした後、今の私の思いを詠んでみたものだ。せっかくへの都への使いに附する手紙だ。送られた歌に対して返答しただけであっては、応えるということがいかにも義務的に見えてしまう。先月の池主殿への返歌もそうであったように、歌を贈ってくださった相手には今の自分の思いを伝えるということは・・・特にこうして離れて暮らし、頻繁にやりとりが出来ない場合は・・・大切なことだと私は思う。

ところでこの歌において「霍公鳥」を「名告り鳴く」鳥と規定した。夜といわず昼といわず自らの所在を告げるかのような声で鳴き続ける様をこういったのであるが、認識としてはこれまでも「霍公鳥」は「名告り鳴く」鳥ではあった(近江の御代の頃からかと聞いている)が、これを歌に詠み込んだのは私の新工夫だ。平城の御代に時代にはあまりこれに同調なさる方もなかったが、平安の御代にいたって同じように歌に詠む方が多く現れてきたと聞く。創案者としてはちょいと鼻が高い・・・・

越中國守大伴家持報贈歌四首

 越中國守大伴家持報贈歌四首

一 答古人云

あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を心隔てつ

一 答属目發思兼詠云遷任舊宅西北隅櫻樹

我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね

一 答所心即以古人之跡代今日之意

恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり

一 更矚目

三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ

       三月十六日

池主殿からの書状は三月十五日と日付があったが、私の手元に届いたのは、今日、十六日である。この越中との国境の深見村から、この越中国府までの道のりを考えれば、至極当然のことではある。おそらく池主殿は駅使の警護見送りのため深見村までやってきていたのであろう。そして国境の山々を見晴るかしながら、そのこちらにいる私に思いをはせてくれたに違いない。 深見村から越前国府まで戻る道のりは、同所からこの越中国府までの道のりの三倍・・・・さぞや、越中に・・・との思いは強かったに違いない。そのことを承知の上で私は少し池主殿を困らせることにした。

一首目は池主殿の一首目に応えたものだが、私との間に立ちふさがる山を口実に、池主殿が会いに来てくれないことをなじるような恋歌仕立てにしてみた。

二首目もやはり池主殿の二首目に応えたもの。以前、池主殿が暮らしていらっしゃった旧宅の庭の桜(池主殿ご自慢の桜であった)が折も折、今にも咲き出しそうに蕾んでいる様を詠み、池主殿をこの越中に誘うように歌った。

そして三首目。これも池主殿の三首目に応えたもの。池主殿が私に逢えない苦しみを歌ったものだから、これも恋歌の作法にならってその苦しみは私の方が強いと歌ったものである。 私とて官人のはしくれ、諸国の官人が帝のご命令のまにまに、勝手にその任地を出ることが出来ないことぐらい十分に承知している。だから、こんなに近くまでいらっしゃった池主殿が泣く泣く越前の国府に帰ったであろうことは知っている。そしてこんな歌を贈ってやれば池主殿がきっと困ることも知っている。けれども、人は心に思うことは止めることの出来ないもの。そして、心に浮かんだならばそれを歌に書き留めずにいられないのは歌人でもある私の性。池主殿もその辺りは承知してくださることと思う。

そうして、その押さえきれぬ思いを私はさらに嘱目として四首目を詠んだのだ。今、越中は霞たなびくうららかな春。けれども、そんな麗しい季節となっても私の心は未だ冬・・・それは、あなたに会えないからだ・・・と伝えたかった。 池主殿からは、それは格調の高い序を添えての三首いただいた。本来ならば私も同じように序を添えたほうが形式としては整ったものになったであろう。けれども、文をしたためる、そのわずかな時間さえもどかしかった。一刻も早く我が思いを池主殿に伝えたかった。わき上がる感情をいちいち整理して文にまとめる時間が惜しかった。歌ならばわき上がるその思いを思いのままに書き付ければよい。そして・・・それが私には最もふさわしいやり方なのだ。

詠庭中牛麦花歌一首

詠庭中牛麦花歌一首

一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ

右先國師従僧清見可入京師因設飲饌饗宴 于時主人大伴宿祢家持作此歌詞送酒清見也

しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ

右郡司已下子弟已上諸人多集此會 因守大伴宿祢家持作此歌也

ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我れ待つらむぞ

右此夕月光遅流和風稍扇 即因属目聊作此歌也

今日は今度都に帰られることになった先の国師の従僧の清見殿の送別と、この越中の国の郡司、そしてその子弟の方々との顔見せを兼ねての宴があった。この三首はその宴の中で私が歌ったものだ。 一首目は、庭に植えたなでしこを詠んだもの。「牛麦」なんてちょいと変わった書き方をしたが、さてこのように書いてなぜ「なでしこ」とと訓めるのか・・・ここで種明かしをするのは止めておこう。この日記を読む人のたのしみを奪ってはいけない。宴に先立つほんの数日前私は、国司の館の庭に大好きななでしこを植えさせた。なでしこは夏から秋にかけて咲くもの。こんな三月の初旬には蕾すらついていない。本当は自分が好きだからいつも見ていたいと思って植えたものだが、こんな宴の場面では使わない手はない。いかにも清見殿と賞玩するために植えたなでしこであるかのように歌い、惜別の情を示そうとしたのだ。

国師とは中央から諸国の国分寺に派遣されそれぞれの国の僧や尼、寺院の管理を掌るお方である。清見殿はその下にあって身の回りの世話などをおおせつかっていたお方である。

二首目。同じくその場に居合わせた郡司、およびその子弟に対して充分に楽しんでほしい・・・ともに楽しもうと歌った歌である。郡司はそれぞれの国にあって我々のように都から派遣されてきた者の下で働く郡の役人である。地方の豪族か選ばれることが多い。親から子へとその職は受け継がれたので、こうやって親子ともども年に数度顔つなぎに国司の館に集うことがあった。

そして最後の一首。宴も進み、少々酔いもまわってきた。そんな目で月を見た時、ついつい都にいる妻、坂上大嬢のことを思い出してしまった。今、妻がどんなにか自分のことを恋い慕って待っているのかという思いがおさえきれなくなりついつい歌ってしまった。

ところで・・・しばらくぶりに我が歌日記を読み返してみて、ふと今回の宴の歌三首と、この直前にならんでいる久米朝臣廣縄殿の舘にて宴での四首との時間の開きに驚いてしまった。今回の三首が天平二十一年の三月の初旬の歌(日付は・・・書いていたはずであったのだがいかに記す理由のせいかはっきりしない)だから、久米朝臣廣縄殿の舘にて宴があった天平二十年四月一日からはほぼ一年が経っている。 この間一首の歌も詠んでいないはずはないのだが・・・ この日記には管理の不行き届きで幾分かの欠落がある。たぶん・・・ここもそうなのだろう。そのせいでどうやら今回の三首の日付も欠けてしまったようだ。

四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四首

四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四

卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも

右一首守大伴宿祢家持作之

二上の山に隠れる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ

右一首遊行女婦土師作之

居り明かしも今夜は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ二日應立夏節 故謂之明旦将喧也

右一首守大伴宿祢家持作之

明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜のからに恋ひわたるかも

右一首羽咋郡擬主帳能登臣乙美作

今日は廣縄殿のお宅で宴があった。先日(三月二十六日)の廣縄殿のお宅での田邊福麻呂殿を送別する宴の際に聞くことのできなかった霍公鳥の声がもしかして聞くことができればとの縄麻呂殿の発案である。

縄麻呂殿のお宅は霍公鳥の渡りの通過点と言うこともあり、この辺りでは他所よりも一足早く霍公鳥の声を聞くことができる場所だ。福麻呂殿の送別の宴の際は三月も末ということもあって、ひょっとしたら霍公鳥の歌声が聞こえればと思って場の設定をしたのであるが、ついぞその声を聞くことができなかった。福麻呂殿はそのことにいたく責任を感じておられ、ここ数日ちょいと沈んでおられた。今日はその名誉挽回という次第である。

暦の上では明日二日が立夏、霍公鳥が鳴くべき日である。ということは、渡りの通過点にある廣縄殿のお宅ならば一日早くその声を聞くことができないかとお考えになられたらしい。けれども、霍公鳥はなかなか鳴いてはくれなかった。縄麻呂殿は責任を感じられ、ますます沈む一方である。まことに生真面目な方ゆえ、その責任の感じ方は尋常ではない。

私はそんな縄麻呂殿の気持ちを考えると少しでも早く「来鳴き響めよ」と歌わずにはおれなかった。その私の思いに上手に応じて歌ってくれたのが遊行女婦の土師だ。さすがは遊行女婦である。場の雰囲気を的確に読み取って・・・就中、縄麻呂殿と私の思いを・・・かく歌ってくれた。歌中の「君」とはこの歌が直接的には私の歌に応えたものであるから私のことをさしてはいる事は疑えないがが、その裏の意は縄麻呂殿をさしているに相違ない。土師は縄麻呂殿のためにも早く鳴いておくれと歌ったのだ。

それでも霍公鳥はなかなか鳴かない。縄麻呂殿はますます恐れ入ってしまい歌を詠むどころではなかったようだ。それで仕方なく詠んだのが私の「明日よりは」の歌だ。暦の上では霍公鳥が鳴くのは立夏となる明日。明日になればきっと鳴くからと詠むことで縄麻呂殿の負担を少しでも少なくしようと思ったのだ。

それに対しては羽咋の郡の擬主帳、能登臣乙美がみごとに応えてくれた。彼はこの日たまたま公務で国府に出てきていたのだが、せっかくだからと思い、この宴に誘っておいたのだ。身分は低いながらも私の思いを正確に読み取ってのこの詠みざまは特筆に値するものであると思い彼の歌もここにのせておいた。

後追和橘歌二首

後追和橘歌二首

常世物この橘のいや照りにわご大君は今も見るごと

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして

右二首大伴宿祢家持作之

射水郡驛舘之屋柱題著歌一首

朝開き入江漕ぐなる楫の音のつばらつばらに我家し思ほゆ

右一首山上臣作 不審名 或云憶良大夫之男 但其正名未詳也

田邊福麻呂がこちらにいらっしゃってともに過ごしたこの数日間は本当に楽しいものであった。布勢の水海の遊覧、そしてそこで教えていただいた難波の宮での歌々・・・忘れがたい思い出となった。明日福麻呂殿は平城の都にお帰りになる。こんなにも楽しい日々を過ごしたのだから、これを都の人々・・・とりわけ橘諸兄殿にも是非ともお知りいただきたいと思う。ということで二十四日の宴から今日の縄麻呂殿のお宅における宴で交わされた数々の歌を簡素なものながらも歌巻にして、手土産代わりに福麻呂殿に持って帰っていただこうと考えている。

ついては、私が直接かかわることのできなかった難波の宮での歌に対して遅ればせながら「和」をなそうと思って詠んだのが、先の二首、「後に橘の歌に追和した二首」である。一見して分かるように諸兄殿のお宅での先の帝とお二人の女王様のお詠みになった三首に和したものである。これらの歌々は諸兄殿の御威光をほめたたえ、その長久をお祈りになった歌だけに、私もその意を汲んで詠んでみた。ただ、私としては諸兄殿の長久だけをお祈りするわけにはいかない。その場には先の帝もいらっしゃったわけだから、こちらの方にも意を注がねばならない。そこで、少々回りくどい詠みざまではあるが、先の帝の長久をお祈りすることを通して、諸兄殿の御威光を賛美するように詠んでみた。諸兄殿が一見してその意をくみ取れるように詠めたかどうか、少々不安でもあるが、ご聡明な諸兄殿のこと、きっと我が意をくみ取ってくださることだろうと思う。

最期の一首は私がこの春、この国を巡行した際に見つけた歌である。このような鄙の地において、かの山上憶良殿の後子孫の歌に接するとは思ってもみなかった。これまた諸兄殿におかれてはご興味の対象となることと思い最期にこの手土産としての歌巻に付け加えておいた。

難波堀江の船遊びの際の歌については、布勢の水海での歌がその「和」としてのはたらきもあろうかと思い直接「和」をなすことはしなかった。

掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首

 掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首

霍公鳥今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも

右一首田邊史福麻呂

木の暗になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時

右一首久米朝臣廣縄

霍公鳥こよ鳴き渡れ燈火を月夜になそへその影も見む

可敝流廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れ我れをし思はば

右二首大伴宿祢家持

前件歌者廿六日作之

いよいよ福麻呂殿の帰京が明日にと迫った今日の日、今回の一連の宴の幹事役を務めてくれた廣縄殿のお宅にて最後の送別の宴を催した。実直な廣縄殿は最後までよくその任を果たしてくださった。本来ならばこの日の宴も国守である私の館で行うべきもののはずではあったが、幹事役を見事に果たしてくださった廣縄殿のたっての希望もあり、今日は廣縄殿にお願いすることにした。

例によって最初は主賓である福麻呂殿の挨拶代わりの一首。期待に反して鳴くことのなかった霍公鳥を咎める歌だ。見ようによっては、その霍公鳥をうまく鳴かすことができなかった幹事を責めるような歌であり、廣縄殿には少々きつい歌ではあるが、よくよく読んでみれば、かくも懇切に宴席を手配した廣縄殿の思いに応えることなく鳴かなかった霍公鳥を責める内容になっており、決して廣縄殿を責める内容ではないことが分かる。それどころかそこまで心を尽くしてくれた幹事役に対して遠回しに謝辞を述べる歌のようになっていることは廣縄殿も充分に感じ得たであろう。その上で廣縄殿は、再度自らの不手際を、前日の私の歌を踏まえて詠んだのである。

そうなると上司の私としても儚い望みながら、ここで霍公鳥の声が聞こえて来ることを願わずにはいられなかった。それが三首目の私の歌である。今日三月二十六日は月の出も遅く、かなり遅くならなければ月は出ない。けれども福麻呂殿は明日御出立の身。そんなに遅くまでお付き合いいただく訳にはいかない。そこで燈火を月に見立ててみた。月と霍公鳥の組み合わせは私ももっとも好むもので以前、

ぬばたまの 月に向かひて 霍公鳥 鳴く音遙けし 里遠みかも

と詠んだこともある。春から夏にかけてのややおぼろな月・・・そして、その月明かりの中、いずことも鳴く聞こえて来るしみ通るような霍公鳥の声・・・歌材としてはこれに勝るもののない取り合わせであると私は確信している。さらにである・・・ここ廣縄殿の館はかつて池主殿が住んでいらっしゃった場所、平成の御代でいえば富山県高岡市伏木東一宮で、霍公鳥が渡ってくる際の通過点でもある。私がやや季節としては早いながらもその声を期待しない訳はない。

さて、最後の一首だ。幹事役は廣縄殿にお任せはしていたが、この越中の国守は私である。客人である福麻呂殿への主送りの歌を詠むのは私でなければなるまい。福麻呂殿がお帰りの際、きっとお通りになるであろう越前は敦賀の郡、可蔽流(鹿留)・五幡を詠み込んでお別れの歌とした。この辺りの峠を越えればもうそこは近江の地、都はほど近く、越中を含めた越の国とはそこが最期の場所となる。そんな場所で私たちのことを思い出して欲しいと歌ったのだ。「可蔽流み」という言葉に「帰る身」という意味をにおわせたのは、都に帰ることのできる福麻呂殿に対する羨ましさが多少あったのかも知れない・・・・

于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌

于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌

いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる

右一首田邊史福麻呂

乎布の崎 漕ぎた廻り ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに 一云君が問はすも

右一首国守大伴宿祢家持

玉櫛笥 いつしか明けむ 布勢の海の 浦を行きつつ 玉も拾はむ

音のみに 聞きて目に見ぬ 布勢の浦を 見ずは上らじ 年は経ぬとも

布勢の浦を 行きてし見てば ももしきの 大宮人に 語り継ぎてむ

梅の花 咲き散る園に 我れ行かむ 君が使を 片待ちがてら

藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり

右五首田邊史福麻呂

明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも 一頭云霍公鳥

右一首大伴宿祢家持和之

前件十首歌者廿四日宴作之

この日の宴はまもなく都に帰る田邊福麻呂殿のはなむけとして行われた宴である。福麻呂殿と私とでしめて十首の歌が詠まれたこと、左注にあるとおりである。けれども、先日述べた理由により現存の我が歌日記には八首しか残っていない。実は福麻呂殿が、この日のはなむけの宴を催してくれたことへの謝意を示す歌があって、その次に私がまさに帰らんとする福麻呂殿を引き留めるため布勢の水海への遊覧にお誘いする歌が冒頭に合ったはずなのだが、残念ながら散逸してしまった。

ただ私の布勢の水海への遊覧への誘いがあったからこそ、福麻呂殿の「いかにある」の歌が詠まれたことだけははっきりと記憶している。まんざら布勢の水海への遊覧に対して興味がないこともないなと見て取れたので私はすかさず「見とも飽くべき 浦にあらなくに」とたたみ込んだのだ。それにしても、「いかにある 布勢の浦ぞも」などといささか抗議めいた口ぶりでお歌いになった福麻呂殿ではあるが、その後お詠みになった五首を見ると、本当のところは布勢の水海に対しては興味津々でいらっしゃったようにしか思えない。この五首には、先年私が上京した際に、橘諸兄殿のお宅でお披露目した歌の中の私と大伴池主殿の間で交わされた布勢の水海についての歌、とりわけ、「敬しみて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる」歌の影響と思われる語句が散見するからである。確かあのときはその場に福麻呂殿がいらっしゃらなかったように記憶するが、諸兄殿と福麻呂殿のこと、必ずや私の歌稿は福麻呂殿のお目にとまったに違いない。そしてその中でも大和では珍しい、海浜の風景を詠み込んだ布勢の水海への憧憬を温めていらっしゃったのではないか。でなければ、私がちょっと誘いかけただけでこうもすらすらとまだ見たこともない場所の歌を五首の歌を詠むことができるはずがない。

ところで、私の詠んだ二首についてであるが、「乎布の崎」の歌の結句を「君が問はすも」、「明日の日の」の歌は初句を「霍公鳥」とという形で、私は福呂殿の前では詠んだ。ただ、それを後から読み返したとき、そのままではどうにも据わりの悪さが感じられ、上のようにあらためたのだ。一つ目の「君が問はすも」はなにやら抗議めいた口調で、このままでは福麻呂殿は戯れに抗議めいた口調で「いかにある・・・」と詠んだのに対して、抗議し返しているように受け取られかねない。当の宴の場においては場の雰囲気もあることだし誤解を受けることはなかったが、こうやって書面に残すとすると後世の人には誤解されかねない。よって「浦にあらなくに」とあらためたのだ。そして、最後の歌。初句を「霍公鳥」と歌い起こしたが、これは直前の福麻呂殿の歌を受けてのものだった。けれども、ここでは「霍公鳥」の語を繰り返さずとも福麻呂殿の歌からの続き、そして私の歌の内容からそれと知れるのであって、ここに「霍公鳥」と入ってしまうとかえってしつっこくなってしまうのではないかと思ってあらためた。

いずれにしろ、この日の福麻呂殿は翌日布勢の水海への遊覧が楽しみでならないご様子だった。

造酒歌一首

 造酒歌一首

中臣(ナカトミ)の 太祝詞(フトノリトゴト) 言ひ祓(ハラ)へ 贖(アカ)ふ命も 誰がために汝(ナレ)

右は大伴宿禰家持が作った歌である。

二月に行ったこの越中の国の巡行で面白いものを見た。酒造りである。もちろん大和においても酒を造ってはいるが、そんなことに興味を持つこともなく私は過ごしてきた。

たまたま今回の巡行の途次、あの「はしたての 熊来(クマキ)酒屋に まゐらぬる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まゐらぬる奴 わし」という歌で知られる、酒造りで有名な熊来村を過ぎたとき、偶然にも酒造りの場面に立ち会うことができた。大和にいたころならば何の興味も示さなかったかもしれないが、それはそれ・・・旅先にあるといろんなことに興味がわいてくる。これ幸いに見学させてもらっていると、彼らは声をそろえて歌っていた。おそらくは同じ歌を歌うことで互いの息をそろえようとしているのであろう。船乗りたちが櫂をそろえるため声揃え歌っているのと一緒だろう。

ひどく田舎びた言葉で、私には何と言っているのか聞き取れず、書き取ることもできなかった。けれども、その独特な節回しだけ耳をついて離れずにいる。そこで、戯れにその節回しに私なりに言葉をのせてみた。いかがであろうか・・・

それに間もなく都から左大臣の橘諸兄殿の使者として田邊福麻呂(サキマロ)殿がいらっしゃる。福麻呂殿の都でのお仕事は造酒司(サケノツカサ)の令史(サカン)だ。都において神事に用いられる様々な酒造りにかかわっていらっしゃる。そんな方に田舎の(越中の)酒造りの様子をお話ししたならばきっと喜んでくださるかと思う。加えて福麻呂殿は都で知られた宮廷歌人だ。私の拙い歌もその折の笑い種ぐらいにはなるであろう。