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姑大伴氏坂上郎女来贈越中守大伴宿祢家持歌二首

姑大伴氏坂上郎女来贈越中守大伴宿祢家持歌二首

常人つねひとの恋ふといふよりはあまりにて我れは死ぬべくなりにたらずや

片思かたもひを馬にふつまにほせ持てこしに遣らば人かたはむかも

()とは妻の母、或いは父の姉妹をさす語。叔母であり、かつ妻の坂上大嬢の母でもある坂上郎女をさすにふさわしい語だ。先日の池主殿の書状をもたらした使いが、この懐かしい叔母の二首をももたらしてくれた。

一首目。叔母の私を思う恋心は他の人の比ではなく、その思いの深さに今にも死にそうだといっているのであるが、この大げささがいかにも叔母らしくて思わず笑みが浮かんでしまう。

二首目に至っては大笑いだ。自分の片恋の想いは、この越中への使いの馬にも乗せかねるほど重く、誰かその助けをしてくれぬか・・・などとはよく言ったものだ。

恋歌仕立てのこの二首は、その大げささから一見冗談とも受け取れるような作にはなっているが、その奥底に遠く離れて暮らす甥の私に対する深い想いが感じられる。さらには健気にも一人家を守り、弱音を私には示さぬように努めている我が妻の大嬢の心情をも代弁してくれているのだとも思う。我が歌の師の一人でもある叔母、往年の才媛「大伴坂上郎女」の面目躍如といった風情の才気あふれる作だ。 私とて平城の地に残してきた妻や子、そして叔母をはじめとした一族の人々を思わぬ日はない。

くわえて、大伴家の嫡流の血を受け継ぐ者として都を離れていることに不安が無いわけではない。けれども、このような叔母が(いえ)()()として大和の地にひかえてくれていることはまことに心強い。それでこそ安心して公務に専念できるというものだ。 次の都への使いは四月に入ってからだ。それまでに私もこの二首に応えるにふさわしい歌を作っておかなければならない。

天平十八年閏七月 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守 即取七月赴任所於時 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑつ我が床の辺に

今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ

贈越中國歌二首

旅に去にし君しも継ぎて夢に見ゆ我が片恋の繁ければかも

道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまは

昨年一月に従五位の下の位を授かった私は、今年に入り三月に宮内少輔の職に任じられていたが、この六月の二十一日に思いもかけず、越中の守という大役をおおせつかった。越中は能登半島を含む大国であり、地理的には海を隔てて渤海国と向きあう外交上も極めて重要な位置にある。そんな国の国司を任せていただけるということは、私の力をそれほど評価してくださる方がおられるということだ。晴れがましい気持ちとともに、その期待に応えなければならないという責任感に身が引き締まるような思いがあることも事実だ。はたしてこの私にどれほどの仕事ができようか・・・いささかの不安もなきにしもあらずだが、恐れてはいられない。与えられた任を果たすべく全力を傾けるのみだ。

そんな私に叔母である坂上郎女が、任地へと旅立つ前と、任地についてからの二度にわたって歌を贈ってくれた。叔母は、我が父、旅人の異母妹で、我が義母のなきあと、大伴一門の家刀自としての位置に揺るぎないものがある。若い頃は、結構おもてになったようで、初め穂積皇子にお気に入りになられ、皇子が薨去された後、宮廷に留まり命婦として仕えていたとも聞いている。定かではないが、当時、首皇太子と呼ばれていらしゃった今の帝ともお近づきがあったとも聞いている。後に個人的に帝に歌を奉っているところを見るとどうやらそれは確からしい。このあたりのことは今度会ったら聞いてみたいと思う。また、養老の御代にはあの藤原四兄弟の末っ子、麻呂殿ともご関係を持っていらっしゃったとか。まあ、その関係は長く続かなかったようではあるが、もし、そのご関係がその後も続いていらっしゃったら、我が大伴の一門の立場も今とは若干異なったものになっていたことだろう。その後、伯父の大伴宿奈麻呂のもとに嫁がれ、我が妻坂上大嬢をお生みになられた。

さて、その叔母様が贈って下さったこの四首であるが、まず、一首目、「斎瓮イハヒベ」を据えたと言っているが、「斎瓮」とは祭祀のために使う容器のことだ。大和を離れ、越中へと赴く私の無事を祈るためにのものであることは言うまでもない。家刀自としての叔母様の面目躍如といった歌だ。

ところが、二首目、歌の調子は打って変わって恋歌仕立てになっている。私が旅立った後、予想される自らの寂しさを歌っているのだが、私としてはこの歌を我が妻、そして叔母様にとっては愛娘の大嬢の気持ちを代弁しているように思っている。大嬢と私は幼い頃に知り合い、最近になってその関係は深まり、そして正式に妻として迎え入れたばかりだった。その嬢を大和において行くのは私としてもたえがたいことだ。この思いは大嬢とて変わらないことであろう。叔母様は大嬢になりかわってこの歌を詠んだのだろうと思う。ただ、そのあたりはご本人に聞いてみないと何とも言えない。というのは、私たちの時代において家刀自と一族の男たちの・・・特に私と叔母様のような関係にあるものどうしにおいては、平成の御代に生きていらっしゃる皆様には計り知れないような関係があったからだ。かつて、倭健命(ヤマトタケルノミコト)様は、九州を平らげて都の帰った直後、東国を征伐に行けとの父君の酷いご命令が下ったとき、真っ先にすがったのはその叔母君倭姫命(ヤマトヒメミコト)様であった。倭健命様はその叔母君の前で臆面もなく弱音を吐いていらっしゃる。そして、叔母と甥という関係において、私たちとかのお二人はまったく同じ関係で。一族の男たちが母のように、ある場合は妻のように甘えられる存在、それが家刀自だ。ひょっとしたら、叔母様はこのような関係性に則ってかような歌を贈ってくださったのかもしれない。

そして、三首目、私は七月七日に大和をたって、十六日に越中に着いたのだが、この歌がついたのはそれからほどない頃であった。二首目で予想された寂しさが現実のものになってしまった悲しみを歌ったものだ。これまた恋歌仕立て。叔母がどのようなつもりでこの歌を詠んだのかは二首目の歌と同じ事情だろう。

最後に四首目。ここでまた表向きの家刀自の顔が現れた。「道の中」とは私の任地「越中」のこと。その「越中」の地の神に、私のことをまだ右も左も分からぬようなものだからよろしくお願いします。」とお願いする歌なのだが・・・叔母様から見れば、私もまだまだ子供なのだと実感させられてしまう。山上憶良殿のお子様を亡くされたときの歌(巻五)を思わず思い出してしまった。

とにもかくにも、越中での国司としての生活は始まった。この私にどれほどのことができるのか、自分でも未知数である。楽しみと言えば、楽しみだ。また、初めてのこの地、見るもの聞くものなにものもが珍しい。歌を詠むにもその素材は周囲に満ち満ちている・・・これもまた楽しみである。