述戀緒歌一首

述戀緒歌一首 併短歌

妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常(トコ)初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻(オクヅマ) 大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離(サカ)る 鄙(ヒナ)治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年行き返り 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ 敷栲(シキタヘ)の 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど うつつにし 直にあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ 近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕 さし交へて 寝ても来ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも 振り放け見つつ 近江道に い行き乗り立ち あをによし 奈良の我家(ワギヘ)に ぬえ鳥の うら泣けしつつ 下恋に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占(ユフケ)問ひつつ 我を待つと 寝すらむ妹を 逢ひてはや見む

あらたまの 年返るまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも

ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋ひやまずけり

あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり

春花の うつろふまでに 相見ねば 月日数みつつ 妹待つらむぞ

右三月廿日夜裏忽兮起戀情作 大伴宿祢家持

我々国守の任にある者は、年に四つの事柄を報告するために文書を作成し、都に使いせねばならぬ。徴税の根幹となる住民台帳たる大帳を携える大帳使・地方の収支報告書たる正税帳を携える正税帳使・様々な貢ぎ物の収集状況を報告したり、その貢ぎ物を都へと運ぶための貢調使・地方官人の勤務状況を報告する朝集使がそれだ。

昨年の秋には池主殿は大帳使として都に赴いて下さった。そして、そのころからこの春の正税帳使にはこの私が行くことに決まっていた。一時的にしろ都の戻り、妻をはじめとした家族と再会できることを楽しみにしていたのだが、この一月からの病によって、それが危うい状況になっていた。ところが、三月に入り私の体調も急速に快復し初め、先日、やはり私が正税帳使として都に赴くことが本決まりになった。

正税帳使は本来二月の末日までというのが決まりではあったが、越中のように雪深い土地の場合は四月の末日まで待ってもらえる。加えて、この度は、私が体調を崩したこともあって、もう数日の日延べをご許可いただいた。四月の末から五月の初めにこちらを出立できればと思っている。

ともあれ、都に帰ることが本決まりとなって、恥ずかしながら少々里心がついたようだ。あれこれと都に行ってからのことを考えているうちに急に妻への恋情がたかまり、それを押さえきれなくなってしまった。こんな時はその思いを歌に詠むことが、その押さえきれぬ思いを制御する方策として最良であることを私は先日(二月二十日)の詠歌により知った。そして詠んだのがこの歌だ。

初めの十句、「我が奥妻」までは我が妻、大嬢に対しての呼びかけになっている。「常初花」のような我が妻をいかに恋しく思っているかを表現したつもりだ。続いて「大君の」から「へなりてあれこそ」まではその妻に自由に会えない切なさを歌った。冗漫に過ぎるほどくだくだしく我が思いを書き連ねたが、私はここまで書かないとどうにも満足できない。性分と言えばそれまでだが、もとよりこの歌は誰に示そうとの考えも無いままに詠んだ歌でもあり、それも許されることかと思う。そして「よしゑやし」から最後まで。ここがこの歌の眼目になるだろうか。「霍公鳥 来鳴かむ月」になって妻と再会するその時のことを、この越中からの道行きを含めて空想しながら詠んだ。こうやって空想することによって、はやる気持ちを抑え、それまでの逢えぬ辛さを少しでも紛らわそうとしたのである。

最後に反歌として添えた短歌四首。これらは長歌の・・・特に「大君の」以降を反復、あるいは要約し、いささかの感慨を申し添えたものだ。長歌を詠むだけではおさまることを知らなかった我が叙情の噴出は、ここにいたって初めて小康を得た。

都へと出立するまで、あと一月あまり。あれこれと庶務を整理しなければならない。正税帳も再度点検しておかなければならないであろう。また、この越中の面々もただでは私を都へと送ってはくれない。もうすでに幾つかの餞の宴にも誘われている。それに久しぶりの都だ。手ぶらで・・・というわけにも行かぬ。手土産となるようなものも・・・歌も・・・用意せねばならぬ。

まことに忙しいかぎりである。

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩今朝累信辱也以貺相招望野之歌 一看玉藻稍寫欝結二吟秀句已除愁緒 非此眺翫孰能暢心乎 但惟下僕禀性難彫闇神靡塋 握翰腐毫對研忘渇 終日目流綴之不能 所謂文章天骨習之不得也 豈堪探字勒韻叶和雅篇哉 抑聞鄙里少児 古今人言无不酬 聊裁拙詠敬擬解咲焉 如今賦言勒韵同斯雅作之篇 豈殊将石間瓊唱聲極乏曲歟 抑小児譬濫謡 敬寫葉端式擬乱曰

七言一首

杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕
来燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清
雖欲追尋良此宴 還知染懊脚跉趶

短歌二首

咲けりとも 知らずしあらば 黙(モダ)もあらむ この山吹を 見せつつもとな

葦垣の ほかにも君が よりたたし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ

三月五日、大伴宿祢家持、臥病作之

昨日いただいた序文付きの漢詩、そして今朝いただいたお便りに対しての返信が、なんとか・・・本当になんとかではあるができあがった。その出来に関しては池主殿にご寛恕いただく他はない。なにしろ、あまり試したことのないの漢詩だ。自信はない。ごらんの通り平仄はもとより、押韻のほうも整ってはいない。けれども序文にも書いたように「古人は言に酬いずといふこと無しといふ」である。自信はなくともひと気張りしないではいられない。

「翰を握りて毫を腐し、研に対ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。」というありさまになろうことは、予想されたことであるが、今朝いただいた池主殿の一文に励まされ、恥をさらす結果になることを覚悟で取り組んでみた。「禀性彫り難く、闇神瑩くこと靡」きことを、あらためて実感させられてしまったというのが実情で、まさに「鄙里の小児」の勝手な口ずさみにしか相当しないような出来ではあったが、その出来はともかくとして、いささかながらの新工夫が無かったわけでもない。それは漢詩の三句目と四句目。池主殿は詩のこの部分を承けて考えたものであるが、池主殿のそれはここで「柳」と「桃」を題材として扱っていた。けれども、私はそれを直接は承けず、「燕」と「雁」を題材とした。池主殿の「花」に対して、私は「鳥」で承けたわけである。これは唐土において、六朝の頃からこういった詩文においてその題材に「花鳥」の双方を取り扱うのが流行になっていることを意識してのものだ。だから、私は池主殿のそれに欠けていた「鳥」を読み込むことによって、そこを補完しようと試みたのだ。

なおかつ、私は北に「帰る雁」をここで取り扱った。今まで和歌の世界においてあまり素材にはならなかったものだ。これも私の新たな試みといえる。風雅な素材として「花鳥」の取り合わせを意識すること・家人の使いとしてではなく、北に帰るものとして「雁」を歌うこと・・・これは、今後の和歌の世界の一つの指針になるのではないかとひそかには自負しているところである。その点に免じて、池主殿には詩文の不出来はお許ししていただくこととしよう。

ところで、序文の最後の方に小字で記した一節がある。実はこの部分は、私の初案で、池主殿に贈ったのはそれを除いた部分のみだ。どうにもごちゃごちゃした文になってしまったのと、「豈石を将ちて瓊に間ふるに殊ならめや」という一節が先日の手紙で既に使ってしまっていたのとで、上のように改めたのであるが、自分の文章の生成の過程を記録しておきたいとの思いもあり、この私の手元の資料では、決定稿の後に上記のように小さく初案を書き添えておいた。

さて和歌についてだ。池主殿の長歌は先日も書いたように、その前の私の贈った長歌に対して、これぞ返歌の鏡というべきほどに、私の歌の語句に対して逐一応じた歌いぶりであったので、今回私としてはこれ以上述べることはない。しかしながら、池主殿はその長歌の最後に私を野遊びに誘って下さっている。このことに対しては、漢詩の最後の部分でもお答えしたが、和歌としてもお答えしなければならないと思う。くわえて、この手紙に添えて、池主殿は出られない私を思い、山吹の花まで添えて下さった。そこで短歌の二首をもってこれに応えることにした。

一首目は私の歌巻(万葉集)の巻の十におさめた古歌を流用させていただいたもので、「秋萩」を「山吹」と入れ替えただけのものである。まだ充分に病の癒えていない私に「山吹」を見せたりしたら、かえって辛くなるだろうとの少々恨み言めいた歌だ。池主殿はその長歌の最後を「ことはたなゆひ」と少々ふざけた形で私を野遊びへと誘ってくれた。これが、まだそのことが出来ない私に対する思いやりであることは言うまでもない。あまり生真面目に誘われたならば、かえってそれが私に負担になってしまう事をご理解されての表現だ。である以上私も少々ふざけてこれに返答するのが礼儀というものであろう。だから、あえて古歌の語句を入れ替えた恨み言めいた歌を詠んだ。池主殿ならば、それがその長歌末部のおふざけに対応してのものである事はきっとご理解いただけるものと思う。もちろん、それだけでは池主殿のお誘いに対して充分に答えにはなっていないので、二首目は少々真面目に一連のお誘いに対しての謝意を詠み、結びとした。

あと少しすれば、私の体も全快ということになろう。そうしたならば私も初めての越中の春を存分に楽しんでみたいと思う・・・が、そうなったならばそうなったで私にはしなければならないこともある。おまけに長く休んでいたせいで、たまりにたまった仕事もそのままにしてはおけない。どうやらこの春は、このまま終わってしまいそうだ。池主殿とこうやって詩文、和歌のやりとりを出来たと言うことだけが、唯一の収穫と言うことになるのだろうか。

<補>

またまた蛇足である。これもまた念のため・・・

昨暮の来使は、幸(サキハ)ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、辱なくも相招望野の歌を貺(タマ)ふ。一たび玉藻を看て、稍(ヤクヤ)く鬱結を写(ノゾ)き、二たび秀句を吟じて、已に愁緒を蠲(ノゾ)く。此の眺翫にあらずは、孰(タレ)か能く心を暢(ノ)べむ。但惟(タダシ)下僕(ワレ)、禀性彫(ヱ)り難く、闇神瑩(ミガ)くこと靡(ナ)し。翰を握(ト)りて毫を腐(クタ)し、研(ケン)に対(ムカ)ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。所謂(イハユル)文章は天骨にして、之を習ふこと得ず。豈(アニ)字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪(ア)へめや。抑(ソモソ)も鄙里の小児に聞こえむ。古今、人は言に酬いずといふこと無しといふ。聊(イササ)かに拙詠を裁(ツク)り、敬みて解咲に擬す。如今(イマシ)言を賦し韻を勒し、この雅作の篇に同ず。豈石を将ちて瓊(タマ)に間(マジ)ふるに殊ならめや。声に唱へ走(ワ)が曲を遊ぶといふか 抑(ハ)た小児の濫りに謡ふが譬(ごと)きか。敬みて葉端に写し、式(モチ)て乱に擬ひて曰く

昨夕のお使いでは、幸いにも晩春遊覧の詩を下さり、今朝の重ねてのお便りでは、有り難くも野遊びへのお誘いの歌を賜りました。ひとたびご高作を拝見しては、鬱々と結ぼほれた魂も次第にほどけ、続けて秀歌を口ずさめば、もはや愁いに沈む心も除かれました。このような叙景の詩歌でなくして、いったい誰が心を晴らすことができるでしょうか。ただし小生、生まれつきの乏しい素質は鍛錬のしようもなく、暗愚な心は磨こうにも磨きようがありません。筆を取っても文が書けず、空しく筆先を腐らせてしまい、硯に向かっても書きあぐねて、硯の水が乾くのを忘れてしまう有り様でございます。一日中、周囲に目を遊ばせるばかりで、文を綴ろうとしてもどうにも綴れません。いわゆる文章の才能というものは生来のものであって、習って得られるようなものではございません。字を探し、韻を整えて、貴兄の雅趣あふるる詩に唱和することなど、どうして出来ましょうか。村里の小児の口ずさみに聞こえましょう。とはいえ、昔のひとは、人は贈られた文章には必ず答えるものであると言っています。そこで拙い詩を作り、謹んでお笑いの種に供する次第にございます。今、詩を作り韻を整えて、貴兄の風雅な御作に唱和致します。石を玉にまじえるとのたとえとなんの変わりがございましょう。声を張り上げては自分勝手な歌を歌っているかのようです。さしずめ小児の出まかせ歌にもたとえられましょう。ともあれ、恐れ多いことではありますが、この拙作を謹んで紙片に書き記し、乱・・・締めくくりの詞・・・の真似事といたします。

杪春(ベウシユン)の餘日媚景は麗しく
初巳の和風は拂ひて自らに輕(カロ)し
来燕は泥(ヒヂ)を銜(フフ)みて宇(イヘ)を賀(ホ)きて入り
歸鴻は蘆を引きて迥(ハロ)かに瀛(オキ)に赴(オモブ)く
聞くならく君が侶(トモ)に嘯(ウソブ)きて流曲を新たにし
禊飲に爵(サカヅキ)を催(ウナガ)して河の清きに泛(ウカ)べつと
追ひて良き此の宴を尋ねんと欲(ホ)りすれど
還りて知る懊(ヤマヒ)に染みて脚の跉趶なることを(「趶」・・・正しくは足偏に「丁」)

暮春ののどかな一日、うららかな景色が美しく、初巳(三月の最初の巳の日)の柔らかな風は地にふれて自ずから軽やかに吹きすぎて行きます。
南より飛び来たった燕は泥を銜え祝福し家の軒に入り、北に帰る雁は蘆の葉をくわえ、遥か遠く沖へと去って行きます。
聞けばあなた様は友と語らい詩を吟じ、曲水の流れを新たにして、
みそぎの酒宴に盃を急き立てて清流に浮かべられたとのこと。
後を追ってこの良き宴の仲間入りをしたいとは思いますが、
病のために足がふらつくこともまた思い知りました。

昨日述短懐今朝汗耳目

昨日述短懐今朝汗耳目  更承賜書且奉不次死罪々々  不遺下賎頻恵徳音  英霊星氣逸調過人  智水仁山既韞琳瑯之光彩潘江陸海自坐詩書之廊廟  騁思非常託情有理七歩成章數篇満紙  巧遣愁人之重患能除戀者之積思  山柿歌泉比此如蔑彫龍筆海粲然得看矣  方知僕之有幸也  敬和歌其詞云

大君の 命(ミコト)畏(カシ)み あしひきの 山野障(サハ)らず 天離(アマザカ)る 鄙(ヒナ)も治むる 大夫(マスラヲ)や なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓(タマヅサ)の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思(シタモヒ)に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り 貌(カホ)鳥の 間なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ

山吹は 日に日(ケ)に咲きぬ うるはしと 我が思ふ君は しくしく思ほゆ

我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我れし悲しも

三月五日大伴宿祢池主

昨日の池主殿からの書簡には、それは見事な序文と詩が記してあった。そのご返事をと昨夕から硯に向っていたところ、今朝になってその後を追うようにこの便りがあった。思っていたとおり、私が先日お贈りした書簡へのお答えであった。

しかしまあよくもこれほどと思えるほどにの私のあるか無きかの文才をお褒め下さっている。まことに恥ずかしい限りではあるが、そのありがたいお言葉に励まされ、また遅々として進まぬ筆をとる勇気も生まれてくるというものである。序文中の「智水仁山」は論語の一節を借用したものであろうが、その直後の「既に琳瑯の光彩を韞み」が文選の文賦「石韞玉而山輝、水懐珠而川媚」を下敷きにしていると考えると、ここは原義通りというよりは単に「水」と「山」の形容と考えるべきであろうか。

それにしても私の子供の落書きのような序文をその豊かな文才を「江」や「海」にも喩えられている晉の潘岳と陸機と並べ称すとは・・・加えて、「山柿歌泉も此に比ぶれば蔑きが如く」と来ている。ここまで来ると、褒め称えられているというの本人としては苦笑を禁じ得ない。

長歌の方は、お見事と言うしか言いようがない。私が先日(三月三日)贈った長歌の語句にいちいち即応し、歌の返しとはこのように行うべきとのお手本のような歌いぶりである。ある部分では私の言葉をそのまま肯定し、また私が弱気なことを言っている部分に対しては温かくたしなめて下さっている。少しも窮屈なところのないのびやかな歌いぶりで、私を励まそうという意を充分に尽くしている。

長歌の結び「たなゆひ」はあまり和歌の世界では用いない言葉で有るが、ここは池主殿お得意のおふざけでもあろう。「しっかりと約束しましたよ」などと子供じみた言葉遣いで私を笑わそうとでもされたのだろう。私の体調が快復してから、共に野遊びに出かけようと押しつけがましくなく結んでおられる。ただ、長歌ではこれほど厳密に私の歌に即応していたかかわらず、反歌の方は私の三首に対して、二首しかお返しがない。これは今回の書簡に山吹の一枝をお添え下さったので、それにあわせたものなのだろう。

昨日、あれほどの技を凝らした詩文をお贈り下さった上に、今日このようにお心のこもったご返事を下さったと言うことは、池主殿もだいぶご無理なさったのではなかろうか。こんなに朝早くにこの書簡をお贈りいただいたと言うことはひょっとしたら夕べは徹夜なされたに違いない。この御厚情身に沁むばかりである。私も昨日の詩文に対しての言承けを急がねばならない。

<補>

ここもまた蛇足ではあるが、念のため・・・

昨日短懐を述べ、今朝耳目を汗(ケガ)す。更に賜書を承り、且つ不次を奉る。 死罪死罪。 下賎を遺(ワス)れず、頻りに徳音を恵みたまふ。英霊星氣あり、逸調人に過ぐ。 智水仁山、既に琳瑯の光彩を韞(ツツ)み、潘江陸海自(モトヨ)り詩書の廊廟に坐す。思を非常に騁(ハ)せ、情を有理に託(フ)す。 七歩にして章を成し、数篇紙に満つ。 巧(ヨ)く愁人の重患を遣り、 能(ヨ)く恋者の積思を除く。 山柿歌泉も此に比ぶれば蔑(ナ)きが如く、 彫龍の筆海は粲然として看ることを得たり。 方(マサ)に僕(ワ)が幸(サキハ)ひ有るを知る。 敬みて和ふる歌、其の詞に云はく。

昨日は拙い思いを申し述べ、今朝はまたこのようなつまらぬ手紙をさし上げることをお許し下さい。さらにお便りをいただき、性懲りもなくまた乱文をさし上げること、まことに恐れ入ります。私のようないやしき者のこともお忘れになることもなく、このようにしきりにありがたい便りをお恵みいただきました。その文才は星のように輝き、秀でた歌の調子は人並みをはずれております。あなた様の川が蕩々と流れるような、山のように泰然たる文才は、既に玉のような輝きを内包し、潘江・陸海に比すべき才能はもともと詩文の殿堂に至るほどの者であります。着想は非凡であり、その詩情は筋道の通ったものになっています。かつて曹植が魏の文帝に命じられ、七歩を歩む間に詩を作ったように、即座に詩を作り、その数篇が紙に満ちるといった有様です。見事に愁いに沈む私の心を晴らし、よく積もりに積もった私の恋情を除いて下さいました。あなた様の作品に比べれば、かの「山柿」の歌々も無きに等しく、龍を彫った細工のように巧みに飾られた文章を私は目の当たりにすることが出来ました。まさしく我が幸福を知ることが出来ました。そこで謹んでお応え申し上げる歌を詠みました。その歌は次のようなものです。

七言、晩春三日遊覧一首

七言晩春三日遊覧一首 并序
上巳名辰暮春麗景 桃花昭瞼以分紅柳色含苔而競緑 于時也携手曠望江河之畔訪酒迥過野客之家 既而也琴罇得性蘭契和光 嗟乎今日所恨徳星已少歟 若不扣寂含章何以攄逍遥之趣 忽課短筆聊勒四韻云尓

餘春媚日宜怜賞 上已風光足覧遊
柳陌臨江縟袨服 桃源通海泛仙舟
雲罍酌桂三清湛 羽爵催人九曲流
縦酔陶心忘彼我 酩酊无處不淹留

三月四日大伴宿祢池主

昨日、序文を併せた長歌を書簡として池主殿のもとに贈ったばかりなのに、もうその返事が来た・・・と思い、喜び勇んで封を切ったけれども、どうやらこのご返事は私の書簡とは入れ違いに贈られてきたらしい。そこに記されていたのは、上掲の序文を併せた漢詩であって、私の贈ったものに応えた内容ではなく、昨日池主殿たちがお出かけになった上巳の吉日の遊覧についての内容であった。

それにしても、本当に楽しい一日をお過ごしになったように見える。病で寝込んでいたせいで、ついついこう言ったことに気が回らずにいたが、そういえば昨日は三月三日、上巳であった。古く唐土の国で始まったというこの行事は、もともと暮春三月の最初の巳の日に身の汚れをそそぐ習慣から始まったらしい。いつのまにかそれが三月三日の日に行うものと定まり、風雅な遊びを伴うものとなった。我が国においても文武の帝の御代あたりから定着し、都ではこの日曲水の宴を催すことがならいとなっている。もちろん、ここは越中。曲水の宴を行うような場所はなかろうから、池主殿たちはどうやら連れだって野遊びをしていたらしい。

どんな楽しい一日をお過ごしになったのかと思い、少々うきうきとした気分で読み始めたところ「桃花は瞼を昭らして紅を分ち」の部分が少し気になった。遊仙窟あたりで桃の花が「臉(ホホ)」に照り映えるというような表現は目にしたことはあるのだが・・・・「瞼(マナブタ)」とは・・・池主殿の工夫なのだろうか。それとも、私の目にはこの文字の篇が「目」に見えるのだが、ひょっとしたら「月」なのかもしれない。・・・このあたりはご本人に聞いて見ねばなるまい。いずれにしろ、よく文意は通じているし、作の良し悪しに関わるものではない。ただ、桃はこの越中あたりには見られないものであるから、池主殿は都の様子をご想像になってこう書かれたのだろう。その後に柳のことが書かれているから、ここにどうしても桃は出てこなければならないだろう。それゆえ、この柳と桃の対は詩の中にも用いられている。

それにしても「酒を訪ひ野客の家に逈く過る」とは、なんともしゃれた趣向だ。こんな所に「野客(隠者)」などおるまいに、さしづめこの日の一同のどなたかを「野客」に擬え、そこで一献傾けたことをこのように表現したのであろう。そのような場においてであるから、「蘭契光を和げたり」の一節も効いてくる。世に隠れ住む賢者たちが、その光(学才・徳)をひけらかさずに和やかに交わりあっている様だ。そんな「賢者」たちが私のことを「徳星(君子)」と呼んでいるのだから、恐れ入ってしまう。なんとももったいないお声かけであることか・・・私としても出来ればその場に居合わせたかったもの。かえすがえすも残念でならない。
そして私を何よりも驚かせたのはこの池主殿の漢詩である。何ともまあ見事に韻を踏んでおられることか・・・。「遊」「舟」「流」「留」の四文字、韻のつながりだけではなく、その意味においてもよくよく字を選んでいるようにさえ思われる。これまでのやりとりの中で文をお作りになる力量については充分に知っていたつもりではあったが、詩の方のお力もこれほどのものとは思ってはいなかった。昨日の楽しい遊覧の様子が目を閉じれば浮かんでくるようだ。

「柳陌は江に臨みて袨服を縟にし」のあたりは暖かい春風に柔らかく揺れる柳や、その下に集うご一同の晴れやかなお姿が彷彿とされる。「桃源は海に通ひて仙舟を泛ぶ」については、寡聞にして桃源郷が海に通じるなどという文や詩は今まで見たことがない。ここはおそらくこの越中の地形を表現したものであろうか。春のうららかなこのあたりの風景がご一同には桃源郷に続くもののように感じられたのであろう。それにしても池主殿も想像力が逞しい。曲水もあるわけではないのに「羽爵人を催して九曲を流る」とは・・・上巳というこの吉日、想像の世界だけでも、その風雅を味わおうとでも言うのだろうか。実際にその場に居合わせなかっただけに、この仮想の曲水が、私には現実の曲水のように思われてならない。「縦酔陶心彼我を忘れ 酩酊し処として淹留せずといふこと無し」のあたりは、思わず吹き出しそうになってしまった。酒によいくだを巻いているご一同のお姿が眼前のもののように思えて仕方がない。

この楽しい集いに参加できなかったことはなんとも残念で仕方がない。けれども、こうやって序文と詩を読ませていただき、なにやら私もその場にいたような楽しげな気分になれたのはありがたい。池主殿のお気遣いには本当に感謝してもしきれない。これはこのまま貰いっぱなしにしておくことは出来ない。なんとしてもお返しせねばとは思うが、これまで漢詩などはあまり作ったことはない。池主殿の作に見合うだけのものができるかどうか、はなはだ心許ない。とはいえ、何事も始めてみなければことは始まらぬ。さて、早速とりかかるとするか・・・

<補>

少々くどくはなるが、念のために・・・

七言の詩、晩春の三日の遊覧の一首 序を併せた
上巳(ジャウシ)の名辰は、暮春の麗景なり。桃花は瞼(マナブタ)を昭(テ)らして紅を分ち、柳色は苔を含(フフ)みて緑を競(キホ)ふ。時に、手を携はり江河の畔を曠(ハル)かに望み、酒を訪(トブラ)ひ野客の家に逈(トホ)く過(ヨキ)る。既にして、琴罇性を得、蘭契(ランケイ)光を和(ヤハラ)げたり。嗚呼、今日恨むるところは、徳星すでに少なきことか。もし寂を扣(タタ)き章を含まずは、何をもちてか逍遙の趣を攄(ノ)べむ。たちまちに短筆に課(オホ)せて、いささかに四韻を勒(ロク)すと云爾(シカイフ)。

三月三日の吉日、暮春の麗しい風景です。桃のは見る人の瞼もあかあかと照り映え、柳の色は苔を含んで、その緑を色の鮮やかさを競い合っております。この時に、友と手を携えて川のほとりを遥かに望み、酒を求めて遠い隠者の家を尋ねます。こうしてもはや琴と酒は存分に本性を発揮し、蘭の花の香のように清い賢者の交わりを和やかに結んでおります。ああ、今日残念なことは、あなた様がいらっしゃららないことです。もし詩文を作るのでなかったならば、どうして今日の逍遙の趣を述べることが出来ましょう。たまたま拙い筆に命じて、いささか四韻の詩を作ったという次第にございます。

余春の媚日(ビジツ)は怜賞するに宜(ヨ)く
上巳の風光は覧遊するに足る
柳陌(リウバク)は江(カハ)に臨みて袨服(ゲンブク)を縟(マダラカ)にし
桃源は海に通ひて仙舟を泛(ウカ)ぶ
雲罍(ウンライ)桂を酌みて三清を湛(タタ)へ
羽爵(ウシヤク)人を催(ウナガ)して九曲を流る
縦酔(シヨウスイ)陶心彼我を忘れ
酩酊し処として淹留(エンリウ)せずといふこと無し

暮春の麗らかな日は賞美するによく、三月三日の風光は遊覧するにふさわしい。
柳の並木は川沿いに伸びて、人々の晴れ着をまだらに彩り、桃源郷は海に通じていて仙人の舟を浮かべている。
雷雲の形を刻んだ樽に桂酒を酌めば美酒が満ち、鳥の翼を象った酒杯は人に詩作にとせきたて、曲がりくねった岸辺を流れて行く。
思うがまま酔いしれて何もかも忘れ、酩酊して行く所々で足を留めないことはない。

更贈歌一首

更贈歌一首
含弘之徳垂恩蓬体不貲之思報慰陋心 載荷来眷無堪所喩也 但以稚時不渉遊藝之庭 横翰之藻自乏彫蟲焉 幼年未逕山柿之門 裁歌之趣 詞失乎聚林矣 爰辱以藤續錦之言更題将石間瓊之詠 固是俗愚懐癖 不能黙已 仍捧數行式酬嗤咲其詞曰

大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて来し ますら我れすら 世間の 常しなければ うち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山きへなりて 玉桙の 道の遠けば 間使も 遣るよしもなみ 思ほしき 言も通はず たまきはる 命惜しけど せむすべの たどきを知らに 隠り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに 春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折りかざさず 春の野の 茂み飛び(グ)潜く 鴬の 声だに聞かず 娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を うるはしみ この夜すがらに 寐(イ)も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居る

あしひきの 山桜花 一目だに 君とし見てば 我れ恋ひめやも

山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも

出で立たむ力をなみと隠り居て君に恋ふるに心どもなし

三月三日大伴宿祢家持

これもまた池主殿に贈った書簡である。先日頂戴した池主殿の書簡にあった序文と短歌二首は療養中の私の弱った心にしみ入るようなお気遣いにあふれていた。まことに感謝しきりである。その上、私の拙い文章に「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉までいただいて、恐れ入るばかりである。ここは「石を以て玉に交じ」るようなことになっても、是非ともお返ししなければならない・・・そんなふうに思い、早速ご返事申し上げた。

序文の方は・・・(先日の書簡の序文を含め)自らの文の拙さを弁明したものに過ぎないが、そんな拙い文に、誠意にあふれた、しかも格調高き文を贈って下さった池主殿への感謝の念を表現したつもりである。思いが充分に伝わったかどうかは自信はないが、私なりに力を尽くしたつもりだ。長歌の方はいささか説明的で冗長の誹りはまぬがれえぬかもしれない。しかしながら、この数日の間、私の胸中に去来した様々な思いのすべてを池主殿にご理解いただくことを主眼において詠んだものなので、ここは歌の出来不出来には目をつぶってもらわなければならない。

すべての起点は、二十日の私の作にある。この日の歌の題詞にあった「悲緒」を詳細に綴ったのが、二十九日に池主殿に贈った歌の序文である。そして、そして、その二十五日の序文の意とするところと、二十日の長歌を一つにまとめ、構成し直したものが今回の長歌となる。なにせ二十日の段階で、あの歌は自らの鬱積した思いを晴らすためだけに詠んだもので、もとより誰にも披露してはいない。しかし、池主殿がかくも私の意をご理解くだされ、お気遣いして下さっている以上、私はすべてを池主殿にお伝えしなければならない・・・

このように思い、私はこの長歌を詠んだ。

ところで、聞くところによれば私がこの長歌の序文に用いた「山柿の門」という言葉が後の世の人々の論議を呼んでいると言うことらしい。「山柿」なる語が、誰を指し示す言葉であるかという点についてである。

このことについて、私が歌巻(万葉集)を編んだ百年ほど後に、紀貫之殿という歌人が帝の仰せを承けてお編みになられた「古今和歌集」という歌巻以降、明治の御代に至るまで、「山」とは山辺赤人殿・「柿」は柿本人麻呂殿を指し示す語であるという認識は揺らぐことはなかった。しかし、明治の御代も終わりの頃、これに異を唱えた方が現れた。歌人としての自らの創作と共に、私の歌巻の研究に生涯を捧げられた佐佐木幸綱殿である。佐佐木殿は「山」、山辺赤人殿・「柿」、柿本人麻呂殿との上掲の見解を、「古今和歌集」以降の歌に対する考え方の影響であると考えられた。そして、その歌数、歌人としての格からして、柿本人麻呂殿と並び立つ歌人は山上憶良殿の方がよりふさわしいだろうと考えられた。

そして、この考えに真っ先に反対の意思を表明されたのは同じくこの時期を代表する歌人である島木赤彦殿だ。島木殿は佐佐木殿とは逆に山辺赤人殿を高く評価し、この「山」は山辺赤人殿でなければないと強く訴えた。以降、数多くの賢き人々がこの点についてご発言になられた。以下にその論拠ともいえる部分を示しておこう。

<赤人殿と考える説>

1. 人麻呂殿と並ぶべき歌人は赤人殿である。

2. 私の歌風が赤人殿に近い。

3. 赤人殿を私が尊敬し、推奨している。

4. 憶良殿ならば私が幼年期入門しえたはずである。

5. 赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。

6. 私が伝統的な歌に憧れており、憶良殿の作ははどちらかと言えばそのような伝統にはない。

<憶良殿と考える説>

1. 憶良殿の歌への追和の歌が私にはある。

2. 地方の国守の経験が共にある。

3. 今回の作のように漢文の序をつけるという形が憶良殿に倣ったものである。

4. 我が大伴家と憶良殿は近い関係にある。

5. 憶良殿も中央では知られた歌人である。

6. 今回の序文中の「聚林」なる語が憶良殿の類聚歌林をさす。

7. 赤人殿の長歌は未熟で、私がこれを参考にしたとは思えない。

8. 私の歌には憶良殿の使った語句が多く見られる。

まさに諸説紛々である。私から見ても「なるほど・・・そんなふうにも見えるか・・・」というようなご指摘も中にはある。特に、「赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。」というご指摘だ。後の反論に有るように、憶良殿もその歌才はその学才とともに中央でも充分に知られていたが、柿本人麻呂殿の持つ公的な色彩を受け継ぐのは、どちらかと言えば赤人どのであろう。憶良殿はいささかその詠歌が私的なものに偏りを持つ。傾聴するべき視点であろう。ただ、初めの頃にあったどちらが優れた歌人であるかなどという論議には少し首をかしげたくなる。「それは後の世の方々の見方ではないか。」と言いたくなるのだが、。問題は後の世の方々がこのお二人をどう評価なされるかではなく、私がこのお二人をどう見ていたかにあるからだ。

ともあれ、以上のようにこの問題についての論議がなされる中、昭和の御代の大戦も終わった頃、唐土の文に深い造詣をお持ちの小島憲之殿が、私の書いた序文が漢文である以上どこかに典拠を持つ言葉でなければならないとされ、「文選」の「南都賦(巻四)」に「・・・桜、梅、山柿、・・・」という用例を挙げ、ここから「山柿」で一語であること、すなわち「山柿」で柿本人麻呂殿のお一人を指すものである事を唱えられた。また、小島殿に先立つこと十五年前、折口信夫殿はその一文「柿本人麻呂」でこのことを直感的に感じておられたようだ。

しかしながら、このお二方の考えは、その後顧みられることはなく再び同様の考えが世に示されるのは昭和の御代の五十三年を待たねばならなかった。この年、村田正博殿が世に示した「山柿の門」(「万葉集を学ぶ」巻八)は、この問題についての長年の論争を極めて明瞭に語整理下さり、その結論として私の持つ“古典意識”にふれられた。私は私の歌巻を編むとき常に「いにしえ」と「今」との対比を常に念頭に置いてきた。そしてその意識の中において、「いにしえ」に属する歌人は柿本人麻呂殿であり、山部赤人殿・山上憶良殿のいずれもが私の意識の中にあっては「今」に属する歌人であるとご指摘なされた。そして、私が自らの歌作にあたって、常に“古典”を意識していたと思われることから、「山柿」とはこの柿本人麻呂殿のお一人を指すと言及された。

また他に山辺赤人殿、お一人が「山柿」だとの考えが、同じ昭和の御代の四十一年に中西進殿という方から提起されたとも聞き及んでいる。

その後、それぞれの立場からもそれぞれの考えを補強なされるような考えが提出され、この段階で考え得る諸説は出尽くしたと言って良いだろう。そしてその結論は未だ決着を見ない。

さて・・・この語を使った当の本人として、「山柿」なる語がいかなる意味を持った言葉であるか、当然のことながら私は知っている。というよりも、このことは平城の御代において歌作に関わったものならば、それは共通認識と言ってよい。 したがって、ここでその種明かしをしてしまうことはたやすい。しかしそれは余りに興ざめな行いであると言わざるを得ない。加えて、後の世の人々が私が残したものについてかように熱心にお考えになられていること自体が私にはこの上なくうれしいことでもある。それを私自身の発言によって強引に決着させてしまうのは、いかにも残念なことだ。もうしばらくはこの論争の推移を見守って行きたいと思う。

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の恩、慰を陋心に報ふ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪(ア)ふる所無し。但(タダ)し、稚き時遊芸の庭に渉らざるを以て、横翰の藻、自ら彫虫に乏(トモ)し。 幼年未だ山柿の門に渉らずして、裁歌の趣、詞を聚林に失ふ。ここに藤を以て錦を続(ツ)ぐの言を辱(カタジケナ)みし、更に石を将(モチ)て瓊(タマ)に間(マジ)ふるの詠(ウタ)を題(シル)す。固(モトヨ)り是れ俗愚にして癖を懐(ムダ)き、黙(モダ)して已(ヤ)むことあたはず。仍(ヨ)りて、數行を捧げ式(モチ)て嗤咲に酬(ムク)いむ、其の詞に曰はく、

あなた様の宏大な御仁徳は、蓬のようにつまらぬ我が身を思いやって下さり、計り知れぬ御温情は、我が心を慰めて下さいました。お心をお寄せ下さって、その喜びは譬えようもございません。小生、年少の頃詩文の道に深く関わることもなく、思いつくまま書きつけた文章は自ずと面白みに乏しく、若い頃に山柿の門に関わったこともないが故・・・和歌の道を正しく学ばなかった故・・・、折角詠んだ歌の言葉も言葉の林に見失うがごとくでたらめな言葉遣いです。ここに、「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉をいただき、それに乗じて「石を以て玉に交じ」るような拙い歌を詠みました。もとより小生、生まれながらの俗愚の徒、持ち前の性癖か黙ってすませることが出来ません。よって数行の歌をさし上げ、お笑いぐさまでにお答えいたします。その歌詞と申しますのは・・・

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦 以吟以詠能蠲戀緒春可樂 暮春風景最可怜 紅桃灼々戯蝶廻花儛 翠柳依々嬌鴬隠葉歌 可樂哉 淡交促席得意忘言 樂矣美矣 幽襟足賞哉豈慮乎蘭蕙隔藂琴罇無用 空過令節物色軽人乎 所怨有此不能黙已 俗語云以藤續錦 聊擬談咲耳

山峽(カヒ)に 咲ける桜を ただ一目 君に見せてば 何をか思はむ

鴬の 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも

沽洗(三月)二日 掾大伴宿祢池主

先日私が贈った書簡の歌に池主殿がかようにお応え下さった。父上や山上憶良殿がよくやっていた漢文の序を和歌に付するという形式を、私が戯れに試みたところ、池主殿はそれにみごとに対応して下さった。

やはり、漢文がお得意な池主殿だ。その序文の中には、六朝詩や遊仙窟によく使われている「紅桃」「戯蝶」「翠柳」「嬌鴬」、荘子に見られる「淡交」、そして初唐の詩人王勃の「林泉孤飲」にあった「物色軽人」を初めとした数々の麗しき語をちりばめられてあり、「翰苑雲を凌ぐ。」とは私の駄文よりは、池主殿のこの序文にこそふさわしい言葉である。

また私が病の床にあるがため、会うこともままならない状況を「蘭蕙、藂を隔て」などという言い回しで表現するなんて私は思いもつかないことだ。本当に恐れ入るばかりだ。「藤を以ちて錦を続ぐ。」は「錦を以て藤を続ぐ。」と言い改めたいほどだ。

そして二首の短歌。私が贈った二首の中では単に「春の花」とだけいってあるところを、「桜」「山吹」と置き換えて下さっている。このように病の床にあってこの越中の山野に今頃どんな花が咲いているのかもわからず、「春の花」と極めて曖昧な形でしか詠むことが出来なかったのを承けて、具体的に二つの花を挙げ、私にそれとなくそれらの花が咲いていることを教えて下さっている。我が意を得たりとは、まさにこのような返歌のあり方を言うのではないかとさえ思われる。

とにもかくにも、池主殿のこの序文と歌には更にお応えせずばなるまい・・・

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽(タチマチニ)に芳音を屈(カタジケナ)みし、翰苑(カンエン)雲を凌ぐ。兼(サラ)に倭詩を垂れ、詞林錦を舒ぶ。以て吟じ、以て詠じ、能(ヨ)く恋緒をのぞく蠲(ノゾ)く。春は楽しぶべく、暮春の風景は最も怜れむべし。紅桃灼々、戯蝶は花を廻りて儛ひ、 翠柳依々、嬌鴬葉に隠れて歌ふ。楽しぶべきかも。淡交に席(ムシロ)に促(チカヅ)け、意を得て言を忘る。楽しきかも、美(ウルハ)しきかも。幽襟賞(メ)づるに足る。豈(ア)に慮(ハカ)りけめや、蘭蕙(ランケイ)、藂(クサムラ)を隔て、琴罇用ゐるところなく、空しく令節を過ぐして、物色人を軽みせむとは。怨むる所、此(ココ)にあり。黙(モダ)して已(ヤ)むことを能(アタ)はず。俗(ヨ)の語に云ふ「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」と。いささかに談咲に擬(ナゾラ)ふのみ。

思いもかけずありがたいお便りを頂きましたが、その文の筆のさえはまさに雲を凌ぐばかりです。加えて、和歌までこの私めにお恵みくだされましたが、これまたそのお言葉の綾たるやまるで錦を広げたようです。いくたびも、いくたびも吟詠しその度にあなた様への恋しさもはれる思いです。春はもとより楽しいはずの季節、なかんずく暮春・・・三月の風景はもっとも賞美するにふさわしい頃でございます。桃の花の紅は輝くばかり、浮かれた蝶が花々の間を舞い飛び、緑の柳はなよなよとその葉を揺らし、鶯は葉陰に隠れ可憐な歌声を聞かせてくれます。なんという楽しさでしょうか。君子との席を近づけ淡々と交わりにおいて、心通えば言葉はもはや無用の長物。ああ、何という楽しさ、何という素晴らしさ・・・まさに君子の語にふさわしいあなた様の深いみ心は賞でるに余りあるほどです。どうして想像できたでしょうか、蘭と蕙が草むらに隔てられるように、あなた様とお会い出来ず、琴も罇も用もないままに空しくこの良き季節を過ごし、自然の風趣が我々人間を軽く見るとは。恨めしいのはまさにこの点なのです。黙ったまま過ごすことはとても出来ません。俗なことわざに「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」とあるように、あなた様の秀作に私の駄作を続け、お笑いの種にとお示し致すだけです。

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

忽沈枉疾累旬痛苦 祷恃百神且得消損 而由身體疼羸筋力怯軟 未堪展謝係戀弥深 方今春朝春花流馥於春苑 春暮春鴬囀聲於春林 對此節候琴罇可翫矣 雖有乗興之感不耐策杖之勞 獨臥帷幄之裏 聊作寸分之歌 軽奉机下犯解玉頤 其詞曰

春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも

鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ

二月廿九日大伴宿祢家持

本当に辛い日々が続いた。北国の冬がこんなに厳しいものとは思ってもいなかった。初めは風邪ぐらいかなと思っていたのだが、症状は日に日に重くなり、一時は自分で我が命を諦めかけるほどであった。しかしながら、幸いにも百神のご加護、そして身の周りであれこれと気苦労を重ねてくれた方々のおかげで、ようやく小康を得るに至った。しかしながら、長い闘病生活のせいか、どうにも体に力が入らない。まだ、節々にだるさや痛みが残り、外へ出て気晴らしするような気持ちにはなれない。季節はまさに春。歌の左注には二月二十九日とは書いたが、これは平成の御代の暦ならば四月も半ば頃。この春遅き北国もようやく春爛漫と言った風情である。本来なら序文にも書いたようにその楽しみを味わい尽くすべきこの時期、今年ばかりはどうやら楽しめそうもない。それがいかにも残念でならない。

先日池主殿がおいでになって、「季節も季節ですから、お病が良くなられたら一緒にどこぞにでかけ、歌などを詠んで楽しみを尽くしましょうぞ。」とのお誘いをうけた。けれども身体が身体だ。今年は我慢したいとの旨をお伝えしておいた。もうじき上巳の宴だ。それも今年は我慢だ。どうやら何ともつまらぬ春になりそうで、たまらない気持ちだ。

そこで、私はひらめいた。外に出ずとも私には歌があるではないか。こんな時にこそ、この「いぶせき」思いを歌にのせて払うのだ
・・・と思ったとき、私は父上の

大宰帥大伴卿報凶問歌一首

禍故重疊し、 凶問累集す。永く崩心の悲懐き、獨り断腸の泣を流す。但だ兩君大助依りて傾命を纔かに継ぐのみ 筆言を尽くさず、古今の嘆く所なり

世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(巻五)

という一首をを思い出した。

そうだ・・・序文をつけてみよう。和歌に漢文による序文を付すのは父上の独創であった。それまで歌の前に付されていた題詞は単に当該の歌の事情説明であり、それ自体を創作と呼ぶに価するものではなかった。しかしながら、この父上が独創されたこの形式は唐土においての詩に序を付する形を模倣するものではあったが、わが国に於いてのこの父上の試みは、すこぶる新鮮な創作であった。そして、その事が山上憶良殿との関係を取り持つことにつながり、ひいては筑紫歌壇の成立の大いなるきっかけと相成った。

してみれば、ここで私がこのような形式の歌を池主殿に送ったならば、文才に長けた池主殿のことだ。きっと反応してくれるに違いない。そうなれば・・・父上があの筑紫で送ったような有意義な日々を、この越中でも送ることが出来るようになるのではないのだろうか
・・・いや、余り先のことは考えないでおこう。とにかく、今外に出かけられず家の中で鬱々として過ごさねばならぬ私が、少しでもその気を晴らすには歌を詠むことぐらいしかない。そして、それに応えてくれる人があれば今は、それで満足だ・・・・

<補>

漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために二首の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽ちに枉疾に沈み、累旬痛苦す。百神に祷(コ)ひ恃(タノ)み、且つ消損を得たり。 しかしてなほ身体疼羸(ドウルイ)、筋力怯軟(ケフゼン)たり。 未(イマ)だ展謝堪(ア)へず、係恋いよいよ深し。 方今(イマシ)春朝の春花、馥(ニホヒ)を春苑に流し、 春暮の春鴬、声を春林に囀る。此の節候に対(ムカ)ひ琴罇(キンソン)翫(モテアソ)ぶべし。興に乗るの感有れども、杖を策(ツ)くの労に堪(ア)へず。独り帷幄(イアク)の裏(ウチ)に臥して、いささかに寸分の歌を作る。軽(カルガル)しく机下に奉り、玉頤(ギョクイ)を解かむことを犯す。 其の詞に曰はく

 

思いもよらぬ重病に陥り、数十日の間、痛み苦しんでおりました。多くの神々に祈り、頼って、ようやく小康を得ることができました。とはいえ、なお身体は痛み、やつれが残り、この身にはいっこうに力が入りません。いまだお礼を申し上げに伺うことも適わず、お逢いしたい気持ちは増す一方でございます。まさに今、春の朝、春の花々がなんともいえぬ香りを春の園に漂わせ、春の夕には春の鴬がその高らかな声を春の林に響かせています。この時候にあたって、琴や樽を傍らにおいて興を尽くすべきもの。私とて感興はそそられるものの、杖を突いて外出する労に耐え、外出するだけの力が湧いてきません。ひとり帳の中に臥して、気まぐれに拙い歌をいささか作りました。軽率を顧みず、お手元に奉りあなたのお目を汚して、お笑いの種にして頂きとうございます。その歌というのは次の通りでございます。

忽沈枉疾殆臨泉路仍作歌詞以申悲緒一首

忽沈枉疾殆臨泉路 仍作歌詞以申悲緒一首 并短歌

大君の 任(マ)けのまにまに 大夫(マスラヲ)の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離(ザカ)る 鄙(ヒナ)に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡(ナビ)き 床に臥(コ)い伏し 痛けくし 日に異(ケ)に増さる たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと 待たすらむ 心寂しく はしきよし 妻の命も 明けくれば 門に寄り立ち 衣手(コロモデ)を 折り返しつつ 夕されば 床打ち払ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹(イモ)も兄(セ)も 若き子どもは をちこちに  騒き泣くらむ 玉桙(タマホコ)の 道をた遠み 間使も 遺るよしもなし 思ほしき 言伝て遣らず 恋ふるにし 心は燃えぬ  たまきはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒し男すらに 嘆き伏せらむ

右天平十九年春二月廿日越中國守之舘臥病悲傷聊作此歌

十一月に池主殿が都より戻ってこられ、本来の任務に戻られた。これで越中の国府としては平常通りの業務が出来る。池主殿は和歌をよくするばかりではなく、漢詩も得意であると聞いている。これから、池主殿との交誼を結んで行く中で、そう言ったものも学んで行きたいと思っていた矢先、初めての越中の冬に体調を崩してしまった。大和とは比べものにならない冬の厳しさが越中にはあった。加えて、いかに国府の面々が快く迎え入れたとはいえ、新しき地においてその長たる立場でありつつけることは、やはり気苦労の種ではあった。書持の死も、私には痛手であった。

そして、年が明けて・・・本来ならば、ここで新しき年を言祝ぐような宴を催すべきであったのだろうが、それも出来なかった。国府の面々も私の体調を気遣ってか、そのような楽しみごとについては一切口に出すことはなかった。
一月半ば、いよいよ病は重篤なものとなった。来る日も来る日も続く高熱と、どうしようもない呼吸の乱れ・・・肺炎というやつか・・・私は死を覚悟した。そして死を思った私の脳裡をよぎったのは・・・母、妻、そしてまだ幼気な子ども達の姿であった。書持と私と続けて子を失う母の悲しみはいかばかりであろう。私の無事を祈りつつ帰りを待つ妻は・・・今頃、泣いて母親を困らせている子ども達は・・・私はあえぐ息の中、家族を思うていた。
ところで、聞けば、この歌の「母」が誰をさすのか、平成の御代においては若干の論議があるらしい。私を生んだ実の母なのか、それとも私を幼少の頃より育て上げてくれ、今なお我が義母「としてご健在でいらっしゃる大伴坂上郎女なのか・・・と。その答えは・・・・私がこの場で言うのは余りに無粋であるだろう。しばらくは平成の御代の諸賢の論議の種として提供しておこう。
二月に入り、十日を過ぎた頃。ようやく病はその峠を越えたようだ。次第に熱も下がり、まともに呼吸が出来るようになってきた。食事も次第に喉を通るようになった。まだ起きて外に出歩く等と言うことは出来そうもないが、書物を繰ることぐらいなら出来るところまでは回復してきた。
その時私が惹きつけられたのは、存命のおりの山上憶良殿からいただいた歌巻(この歌巻と父旅人から受け継いだ歌巻とをあわせ、我が歌巻の巻の五とした)にあった、「沈痾自哀文」であった。今の私の痛み、苦しみはまさにそこに書いてあるとおりであった。そして、その痛み、苦しみを通うに表現することも風雅の一端としてあり得ることなのだと実感した。
・・・私にも出来るであろうか・・・
まだまだ試作の段階である。人に見せるつもりはない・・・。その歌が誰に聞いてもらうか、どのように評価してもらいたいか、そんなことは考えずにこの歌を詠んだ。ただ自らの今の思い・・・感情を言葉に置き換えただけの歌である。けれども、他人に知らせないことを前提に歌を詠んでみて、ふと気がつくことがあった。
聞いてくれる誰かを想定しない、評価されることは初めから考えない・・・このような態度で歌に臨んだとき、意外にもそれまでの「いぶせき」思いが少しずつ解きほぐされ、心が晴れ晴れとしてくれることに気がついたのだ。他人の目を気にせずに、自分のその時々の思い、感情をつぶさに言葉に置き換えて行くというこの作業が意外に我が内側に滞る心の塵埃を払い落としてくれるのだ。
これも、「歌」というものに臨む一つの態度ではないか・・・
「歌」というものは、他人に思いを伝えたり、宴の場で大勢で楽しんだりするためだけのものではない・・・己の内面をのぞき込み、その作業を通して見えてくる想念を言葉に置き換えてみる・・・ただそれだけであっても充分に機能するものなのだ。私はこの歌を詠むことによってその事に気がついた。これからの「和歌」はこのような方向に進んでいっても良いのではないか・・・そんなふうに思えてならない。そして、その事に気がついたことは、この歌を詠んだ私にとっての大きな収穫であった。

相歡歌二首

相歡歌二首 越中守大伴宿祢家持作

庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに

白波の寄する礒廻を漕ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君

右以天平十八年八月掾大伴宿祢池主附大帳使赴向京師 而同年十一月還到本任 仍設詩酒之宴弾絲飲樂 是日也白雪忽降積地尺餘 此時也復漁夫之船入海浮瀾 爰守大伴宿祢家持寄情二眺聊裁所心

正直に言おう。この日のことについては、実のところ歌のみを記録していただけであって詳しいことを私は残していなかった。したがって、十一月というのは確かだが、詳しい日付がとんと思い出せない。ただその日にあったことについての記憶は確かだ。なんといっても、あれほど待ち焦がれていた池主殿がやっと大和から帰ってきたのを歓迎する宴だ。忘れるはずがない。題詞に「相い歡ぶ」という、恋歌(相聞)によく使われ、男女の逢瀬の喜びを表現することの多い言葉(鈴木利一 「相歡歌二首ー家持と池主出会いの宴ー」国文学論叢三十二)を用いたのも、そういった心映えを示そうとの意図があったからだ。そして詠みあげた二首の歌も当然のことながら恋歌仕立てだ。

繰り返す。それほど私は池主殿が大和から帰って来るのを待ち焦がれていたのだ。

過日、八月七日の宴において、池主殿は私が投げかけた歌の数々を見事に受け止め、投げ返してくれた。風雅をともに語るに、この人をおいて他はなし・・・と私はその時実感した。妻や子から離れ、大和からいくつもの山を隔てたこの越中において日々を心豊かに過ごそうとするのなら風雅の道に遊ぶにしくはない。そして、その相手は・・・この人なのだ・・・と。

そんな実感を懐くや否や、彼は大和へと旅立ってしまった。その帰還を私が待っていないはずがない。加えて、この池主殿不在の間、私は弟書持を失った。遠く離れた地にあって、詳しい状況もわからず心許ない思いをしていた私が唯一期待していたの池主殿が仕入れて来るであろう情報であった。書持が世を去ったとき、池主殿は大和の地にあった。同じ大伴の一族のものとして、その時の様子は具に見、聞くはずだと、その時私は思っていた。そして、彼も私に事の次第を語って聞かせねばならぬとあ思ったのであろうか、あれこれと動き回ってくれていたらしい。そんなひとつひとつを一刻も早く聞きたいとも私は思っていたのだ。

さて、宴は始まった。

まず私が無事帰ってきた池主殿を歓待する意味で件の歌、二首を詠み上げた。一首目は、庭に降り敷く雪・・・大和のそれとは比べものにならぬ雪の降りざま・・・これまでのよくある歌い方ならば、「この雪のようにあなたの事を思っていた・・・」と歌うところであろうが、それでは私の池主殿を待ちわびた気持ちを充分に尽くせない。だから少し工夫をして「しかのみに(こんなふうにだけ)」思っていたわけではなく・・・もっと、もっと思っていたのだと歌った。

二首目も趣向は同じ。これまでならば「この荒波に絶え間なく梶をとるように・・・」と歌うのではなく、その「梶をとる間さえなく」と詠むことによって、自分の気持ちが並々ならぬことを表現したつもりだ。そして、池主殿は静かに語り始めた。大和で聞き及んだ書持のことを・・・

詳しくは語るまい・・・全ては私事だ・・・けれども、弟を亡くした我が悲哀だけは皆に知ってもらわねばならない。書持の死を悼む私の思いを池主殿をはじめとしたこの越中の面々に知ってもらうのでなければ、私はその悲哀に押しつぶされてしまう。私はこの心やすき面々の前でかねてから用意しておいた挽歌を披露した。

期待していたとおりであった。皆は私の悲哀をまるで我が悲哀であるかのように受け止めてくれた。その死を悼むものが一人でも多い方が、冥界へと旅だった者はよろこぶはず・・・私はそう思いこの歌を皆の前で披露したのでもあった。そしてその目論見は果たされた。すこし、しんみりとなりすぎた。しかしまあ、これも私にとっては織り込み済みのこと。けれども、せっかく、この越中の心通った一同が集ったのだ。しかも池主殿は久々の越中・・・このまま宴を終わらせるわけにはいかない。いや、宴としてはこれからこそが本番。あとは琴を奏で、飲み歌い楽しむ・・・そんな雰囲気にと場は変化した。下らぬ戯れ歌を歌うものもいた。私とても少々はそのような歌を・・・記録するほどの者は無かったので、ここでは省略したが・・・

楽しい時間だった。実に楽しい・・・弟を失ってからの塞いだ気持ちは幾分かは和らげることが出来た。それに池主殿もこれからはこの越中にいる。これからのここでの生活は・・・ふふ・・・楽しみになってきた。

 

哀傷長逝之弟歌

哀傷長逝之弟歌一首 并短歌

天離る 鄙治めにと 大君の 任けのまにまに 出でて来し 我れを送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉川 清き河原に 馬留め 別れし時に ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく 斎ひて待てと 語らひて 来し日の極み 玉桙の 道をた遠み 山川の 隔りてあれば 恋しけく 日長きものを 見まく欲り 思ふ間に 玉梓の 使の来れば 嬉しみと 我が待ち問ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟の命 なにしかも 時しはあらむを はだすすき 穂に出づる秋の 萩の花 にほへる宿を 言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也 朝庭に 出で立ち平し 夕庭に 踏み平げず 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと 我れに告げつる 佐保山火葬 故謂之佐保の内の里を行き過ぎ

ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも

かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを

右天平十八年秋九月廿五日越中守大伴宿祢家持遥聞弟喪感傷作之也

八月七日のあの宴の後、大伴池主殿は程なく都へと向かった。八月の三十日が各国からのその年の地方台帳の提出期限だからである。そして、九月を迎え、信じられない知らせが、都より私のもとへと届いた。あの書持(フミモチ)の・・・弟の書持の死を告げる知らせだ。去る九月五日、書持はその短い命を終えた。知らせを受けた当初、取り乱した私は、事の次第を受け止めることが出来なかった・・・というよりは、受け止めようとしなかった。遠く離れた都での出来事である故に、この悲しき知らせが事実と受け取ることが出来なかった。

しかし、その死より三七、二十一日を迎えた今日にいたり、取り乱していた私の精神も次第に落ち着きを取り戻し、この認めたくはない事実を、認めなければならないと思うようになった。そうでなければ・・・私がその死を受け止めてやるのでなければ、書持の御霊も浮かばれぬというもの・・・私はこの悲しみを歌にすることにした。それがこの三首である。

つい二ヶ月前、私は泉川で弟と別れた。書持はわざわざ平城の都から山を越えたところの泉川(後に木津川と呼ぶようになった)のほとりまで送ってくれた。幼い頃から余りからだが丈夫ではない弟であった故、私は言葉の限りを尽くし、身体をいたわるように彼に言って聞かせた。けれども、それから二ヶ月が過ぎて私の元についたのはかくも悲しき知らせであった。「およづれの たはこととかも」以下は直接、我が弟に語りかけるつもりで歌った。「何故に・・・お前は、私を置いて長い旅に出てしまったのか・・・」。抗議にも似た言葉をそこに連ねた。これは、人の死を悼む挽歌においては常套的な決まり文句ではあるが、こう言わずには居られないのが、親しい者を失った者の心情だ。私とて、その例外ではない。こう歌わずには居られなかったのだ。そして、長歌の最後の語句を承けて、

ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも

との反歌を詠み、いったんは歌い終えた。しかし、思いの全てをはき出した後、ふと次の一首が脳裡に浮かんだ。

悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを(巻五)

山上憶良殿が妻(私から見れば義母)を亡くした、父、旅人に捧げた歌だ。憶良殿は父の思いに自らの思いを重ねかく詠んだ。

私とて思いは同じだ。こんなふうになるんだったら、越中のこの美しい風景の全てを見せたかった。弟は大和から余り離れたことはなく、海というを見たことはなかった。そして詠んだのが二つ目の反歌、

かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを

である。

この歌を詠んだのは、何も自らの悲しみを癒やすだけのためではない。このやりきれぬ思いを誰かと共有したいとの思いもあった。心通い合う誰か・・・そんな人々と、この悲しみを共有することが出来れば少しは我が悲哀を紛らわせられようと言うもの・・・私の胸中には、この越中の人々・・・過日、あの宴にて心通わせた人々の顔が浮かんだ。とりわけ、池主殿・・・彼は今、大和にいる。弟の死についてのあれこれを聞き及んでいるに違いない。彼が大和より帰ってきたならば、その仔細を語って聞かせてくれるであろう。その時、私は自らの思いを皆に披瀝しよう・・・そう思ったのだ。彼らなら・・・なかでも、池主殿ならば、きっと我が悲哀を受け止めてくれよう。そして、そうすることが書持に対しての一番の供養になるのではないかと思う。
ところで、歌中に

  • 言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也
  • 佐保山火葬 故謂之佐保の内の里を行き過ぎ

と二つの傍注をつけた。これは、書持の事をよくは知らないであろう方々の事を配慮してのものだ。本来ならば、そのような事柄も歌中に散りばめ、このような傍注をつけないのが理想であろう。しかし、今の私にはそこまでの力は無かった。ただ恥じ入るのみである。