敬和立山賦一首

敬和立山賦一首并二絶

朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは

立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ

落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ

右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日

これまた池主殿に一本とられてしまったようだ。昨日私が長歌の持つ欠陥を前回と同様に池主殿は見事なまでに補完してくださった。思えば私の長歌にはどうしても情に流れる傾向があり、具体的な叙述にかける傾向が多く見られ、実際の対象・・・ここでは「立山」・・・がどのような姿をしているのか、そしてそれがどんな風にすばらしいのかを見たことのない人に伝える力に乏しい。対して、池主殿のこの「和」歌は実に具体的に「立山」を描き出している。都の人々もこれを読めば「立山」がいかに壮麗で神々しい山か容易に想像できるというものだ。本当におそれ入った。「賦」という語を冠すべきはまさにこのような歌がふさわしいようにも思える。本当に勉強になった。自分はまだまだであるということを実感させられた思いがする。
さて歌の方といえば、冒頭の「朝日さし そがひに見ゆる」という一節にまず目が惹かれる。このように朝日に照らす出される対象物を歌うことは古事記にも「纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮・・・」ともあるように宮城讃美の語だ。私が昨日の長歌に宮廷讃歌の手法を取り入れたことを受け止めた歌い出しといってよい。「そがひ」はその使われざまから「背後、後ろ、後方」の意、あるいは「斜め後ろ、横」と理解されていることが多いが、ここはそう考えるとこの歌の魅力は半減してしまう。なぜならば、その理解に基づくならば、ここで歌われた「立山は逆光の中の黒々とした山容を見せているか、あるいは作者である池主殿が「立山」を正面切って見ていないことになるからである。この長歌の歌いざまから考えたとき、池主殿は朝日の中に燦然と輝く「立山」を正面から見据えているのでなければならない。

とすれば、この「そがひ」という語をどのように考えるべきか。思うに池主殿は漢籍に見られる「背向」という語の訳語としてこの語を使ったのではないか、と考える。このように理解すると山々が前後して並んで知る姿を表すことになり、朝日の中に手前にも奥にと重畳と聳える「立山」連峰の姿をありありと思い浮かべることができる。この理解が他のすべての場合にふさわしいか自信はないが、少なくともこの歌に関しては、こう理解するしかないと思う。

続いて、上で述べた池主殿の具体性を次に示したいと思う。

白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて・・・こごしかも 岩の神さび

何重にもかかった雲を貫き聳える「立山」の姿が眼前に浮かんでくるような表現である。そしてまた、私が「常夏に 雪降り敷きて」としたのよりは、池主殿のこの読みざまの方がはるかにわかりやすいことはいうまでもない。私が歌うことの無かった、その山肌の様子についての既述も「こごしかも 岩の神さび」と忘れることはない。そして、この「山」についての叙述に続き、「川」の叙述である。

峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく

もうくどくど説明はしない。しかし、そこにある川のイメージは私の長歌のそれよりもはるかに明瞭である。「峰高み」の一句をはさみ、「山」から「川」へとの対象の転換も見事である。ともあれ、これで都への手土産となるべき歌が一通り揃った。都の人々はどんなに喜んでくれるであろうか・・・

立山賦一首

立山賦一首 并短歌 此山者有新川郡也

天離る 鄙に名懸かす 越の中 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 統め神の 領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて 帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ 万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて 羨しぶるがね

立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし

片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通ひ見む

四月廿七日大伴宿祢家持作之

昨日の宴の中で、これまでに作った「二上山の賦」「遊覧布勢の水海の賦」に加えて、もう一つ、この越中一の秀峰「立山」を詠んだ歌を作らねばという話になった。もちろん都への手土産にだ。都に旅立つまで、あと数日。体調のことやら、何やらがいろいろとあって出立の日を延ばしてきてはいたが、もうこれ以上延ばすことは出来ない。遅くとも5月の薬玉の日を待たずには越中を発たなければならない。これからはその準備に忙殺される日が予想される。加えて「遊覧布勢の水海の賦」が、そうであったように池主殿に「和」していただくことを考えれば、今日中にでも歌を詠み、池主殿にお示ししなければならない。そんなふうに考えて大慌てで作ったのがこの長歌だ。

「立山」はこの越中から隣国飛騨に連なる山塊の主峰で、その巨大さは大和で見ることが出来た山々の比ではない。高さは、平城の都で慣れ親しんでいた春日山の五、六倍はあるだろうか。盛夏のごく一時期を除いては白く雪に覆われている。姿、形こそ違え、山部赤人殿や高橋虫麻呂殿の歌で知られる富士の山もかくやと思われるばかりの神々しさだ。昨日の宴での面々が都への手土産に是非にとおっしゃっていたのも肯われる。その真っ白な山際から朝日が昇りくる姿、夕日に赤く染め上げられる姿は思わず手を合わせたくなるような衝動にかられてしまう。

さて、歌の方だが上に「大慌てで作った」と書いたが、こうやってできあがりを見ると、やはり、それが故の粗雑さが目についてならない。例えば二句目「鄙に名懸かす」。「地方の国でもその名の知られていらっしゃる」の意であるが、この句がどの言葉にかかっているのかはっきりしない。私としては九句を隔てた「立山」を修飾する句として、この句を考えたのだが、素直に読む限り直下の「越の中」にかかっているものと受け止められても仕方がないような出来になってしまった。あれこれと工夫もしてみたのだがどうにも出来ず、結局「立山」の上に「その」とつけて、その係り受けを明らかにしようとしたが、やはりはっきりしない。自らの未熟さを恥じ入るのみである。

ところで今回の長歌は池主殿の「敬しみて遊覧布勢の水海の賦に和する」歌に負けぬようにと、この歌を整然としたものにしたいと思い、次のように対句を構成させてみた。

山)山はしも しじにあれども
(川)川はしも 多に行けども

(山)領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて
(川)帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の

(自分に対して)あり通ひ いや年のはに よそのみも 振り放け見つつ
(他者に対して)万代の 語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ

(音)音のみも
(名)名のみも

けれども、ご覧になってすぐにおわかりのように、二つ目の対句 「領きいます 新川の その立山に 常夏に 雪降り敷きて」、「帯ばせる 片貝川の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の」が「七・五・七・五・七」と「四・七・五・七・五」という具合に、五音句と七音句とがずれてしまった。 無様なことこの上ない。さらには本来一番言葉を費やして叙述するべき、「立山」についての具体的な記述が「常夏に 雪降り敷きて」の二句のみになってしまった。これは伝統的な宮城や国土讃美の手法を意識して「山」「川」の対比を重視した結果、「川」に関しての叙述が重きをなしてしまったが故のことである。「山」そのものを讃美しようとしたこの歌には、この手法は、不適切であったといわざるを得ない。

しかしながら、もはや時間は残されていない。あれこれと手直ししている時間は残されていない。これ以上池主殿にお示しするのが遅くなれば、池主殿が迷惑するだけだ。あとは「敬しみて遊覧布勢の水海の賦に和する」歌がそうであったようにと池主殿が私の長歌の足りないところを補ってくれるだろう。私の長歌と池主殿の「和」の歌とで「立山」の壮麗な姿を都の人々にお伝えできればそれでいい・・・

守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首

守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首 四月廿六日

都辺に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな恋ふる日多けむ

池主殿のお宅での送別の宴は実に楽しいものであった。私が都へ立った後の辛さを歌えば、内蔵忌寸縄麻呂殿が私が旅立った後の寂しさを歌う。そしてそれを承けて私がきたる五月五日の薬玉の楽しみについて歌えば、池主殿がそれにまつわる古歌を伝誦する。更には私が都への手土産にと作った「遊覧布勢の水海の賦」を披露すれば、池主殿がそれに応える・・・

余りに興が盛り上がったので、その場でおひらきにするのも気がひけて、私の館に皆さんをお誘いし、二次会という次第になった。歌の方は池主殿のお宅で充分に楽しんだので、この場では私の挨拶の歌だけを披露し、後は飲みながらつもる話をいつまでも続けた。

ところで、今日の日の宴は、亡き父がかの筑紫の地にて山上憶良殿等と過ごしたような日々が、ここ越中の地においても再現されているかのように思わせるものであった。あまざかる越中の地においてもかような風流な日々繰り返されていることを、私をこの地へと送り込んで下さった橘諸兄殿をはじめとした方々にお伝えせねばならない。 私は昨年この地に赴任して以来の歌々も都に持ち帰るつもりである。

ところで、この宴の中でまた一つ一座の面々から宿題が出された。「二上山」と「布勢の水海」だけでは、都への手土産として不足ではないか、という声が出たのだ。しかし、この越中の風土の全てを歌にするためにはもはや日がない。「都辺に 立つ日近づく」と歌でもいったようにあと数日で私は都へと旅立つ。税帳を都に持ち帰る期限は過ぎようとしている。これ以上、出立が遅れるようなことがあってはならぬ。らばあと一つだけ・・・一同で頭を捻った。そして「立山」である。この国府から南東にはるかに見はるかす「立山」。白く雪を冠する雄大なその姿は神々しくさえある。この山の姿を歌にするのでなくては、越中の名所を歌ったことにならない・・・というのが、一同の答えである。

ともあれ、今日は飲み過ぎた。「立山」の歌を詠むには明日からにしよう。池主殿も「和」をなして下さるとのことだ。今度はどのような「和」をなして下さるのか、これもまた楽しみだ。

 

敬和遊覧布勢水海賦一首

敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶

藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥  鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携(タヅサ)はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚(ス)鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫(ツマ)呼び交す 羨(トモ)しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿(シブ゙タニ)の 荒礒(アリソ)の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒(ヨ)りに 蘰(カヅラ)に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人(アマ)船に ま楫(カジ)掻(カ)い貫き 白栲(シロタヘ)の 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布(ヲフ)の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや

白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜びを

右掾大伴宿祢池主作 四月廿六日追和

今日、私を送別する宴の主賓として私は先ず、その惜別の情を歌った。それを承けた縄麻呂殿は私の好きな「霍公鳥」を素材にこれから訪れるであろう寂しさを歌った。そしてそれに私が応える。一応の区切りとして私が縄麻呂殿の歌を承けた歌に「和」という言葉を附した。そして、その一連の歌に対して池主殿が石川殿の古歌を伝誦した後、おもむろに私は皆に「遊覧布勢の水海の賦」を披露した。前の秦殿のお宅でに宴においての約束であったので、この場の面々もそれを期待していた。これがこの宴の二つ目の目的でもあった。ある意味ではこちらの方が一同の待ち望んでいたことでもあったし、私も早くその批評を受けてみたいとの思いもあった。池主殿はその意をくんで、早々に主人としての自らの役目を終わらせるため、ここは古歌の伝誦のみで済ませたものと思う。ほかならぬ池主殿である。本来ならば、今日の宴の主催者として自作の披露があってもしかるべきところであるが、ことの主眼は私と池主殿との都への手土産となる長歌の披露にある。適切なご判断だったと思う。

そして、この敬和遊覧布勢水海賦の披露だ。いつもながら、「和」の歌として、心憎いばかりの配慮のなされようである。

私が「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」と詠んだ部分を重複を避け、簡単に「思ふどち」の一語で承けて「馬並めて」と簡単に済ませたところを、今度は「馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば」と詳細に表現し、私の長歌の欠けている部分を適切に補ってくれている。なんとも細やかな心配りである。この細やかな心配りは、この長歌の最後まで貫かれている。

続いて「射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き」だ。ここは私の長歌には詠まれてはいない。国府から布施の水海に行こうとすれば、私が詠んだ渋谿にたどり着く前にまず通らねばならないのがこの「射水川」だ。私の歌は明らかに言葉足らずであった。それを目立たぬように池主殿は補ってくださった。おまけに私の歌はどちらかといえば、目にした景物を羅列的に並べたような歌い方であったが、池主殿はここで「港の渚鳥」が「夫呼び交す」姿を歌っている。旅先にあってこのような鳥たちの仲むつまじき姿は我々地方に派遣されているものにとって、都に残してきた家族を思い起こさせるものであって、そこに一抹の旅愁を感じさせる素材である。ここは、単に鳥たちのそのような姿を描写したに過ぎないが、池主殿はそれだけのことで、そこにかような旅愁を漂わすことに成功している。

次に「渋谿の 荒礒の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」である。私はこの「渋谿」において荒磯に寄せる白波を歌っただけに過ぎないが、池主殿は違うところに目をつけた。その波によって岸辺に打ち寄せる「玉藻」がそれだ。そしてその「玉藻」を「片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」と歌うことによって、家人を想起させようとしている。私の即物的な対象のとらえ方に対して、非常に情緒的な捉え方といえよう。私が「景」を歌っていたので、「情」を歌うことによりその重複を避けようとの意図かと思う。ここでも池主殿は私の長歌に欠けているものを補ってくれた。欠けているものは補い、重複するものは省略する・・・それが池主殿の狙いにはあったようだ。

その意図が端的に示されているのは次の部分だ。私の歌った松田江と宇奈比川はばっさりと切られてしまっている。私自身も少々冗漫になりすぎたと思っている部分だ。松田江は長く続く浜辺をおいて他に特筆するべき点はない。したがって私の長歌でも二句を費やしたのみだ。宇奈比川にいたっては行ってもいない場所を、人づてに聞いたことをそのまま歌にしただけであったので、この部分を切り捨てた池主殿のご判断は的確といえよう。

そしてその分、言葉を費やしていらっしゃったのは、「布勢の水海」であった。ここでこれまで一つの場所について八句ずつと整然たる句の配置をなされていた池主殿は、これまでの倍の十六句を費やしている。考えてみればこの場所が今回の遊覧での主たる目的地であるから、この場所に焦点を当てて詠むのが当然のことである。私自身、その長歌で軽く扱ってしまったことは、少し反省せねばならぬ。あちらも、こちらも紹介しようと思い、ついつい「布勢の水海」については簡略に過ぎてしまったようだ。けれども、池主殿はその欠陥を十分すぎるほどに補ってくださった。

まずは「うらぐはし」の一句だ。池主殿は、ここまでそれぞれの地名はその土地について歌っているその冒頭に配してきた。しかるにここだけが二句目にある。そしてその「布勢の水海」という言葉を二句めにと押しやったのがこの「うらぐはし」というほめ言葉である。これはこの場所がほかの場所とは異なって、最も重要な場所であることを聞いているものに意識させようとの意図によるものであろうことは間違いないだろう。そしてさらに私がどちらかといえば抽象的に読んだこの場所を、「乎布の崎」という地名を入れたり、季節にはあわない「あぢ群」を「葦鴨」と言い換えて具体性を待たせてくれた。これによって、この長歌にふれた人はより現実のものとして「布勢の水海」を思い描くことができるであろう。

最後に「秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」である。「秋」とは私が都から帰って来るであろう季節だ。そうして私が帰ってきたならば、また共にこの「布勢の水海」に遊ぼうというのだ。そしてその楽しみは「春さらば」と春になっても繰り返される。さらにいえば、これは一度限りの秋と春に繰り返されるのではなく、永久に繰り返されてほしいとの願いを込めて、「かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」と歌い納めている。そしてこのことは、そういった営為の実現を確信するこの一節は私の旅の無事を予祝するありがたい言葉でもあった。これは二上山賦に「 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと」と詠んだ私の長歌の末部に見事呼応しており、、私の送別の言葉としてはこれに勝るものはない。この日の歌を閉じるには最良のものであるといえよう。感謝、感謝である。

さて、以上のように私の「遊覧布勢の水海の賦」の語句をあるときは補い、またあるときは省略し、それでいてかなり正確に私の意図を読み取って、この「敬和歌」は詠まれた。そのように考えたとき、この二つの長歌の句数の隔たりに、「和」の歌の常として、いささか抵抗を感じるような方が出てくるかも知れない。確かに、私の詠んだ長歌の三十七句に対して池主殿のそれは五十七句。二十句も多い。以前、私の病が回復しかけの頃、六十一句の長歌(三月三日)を送ったとき、その返歌は四十二句であった。池主殿は決して自らをひけらかそうとはしない。常に相手への配慮を怠らず、控えめ方だ。そして、そのように控え目であることが池主殿の「和」の姿勢であった。と、するならば、この二十句はそのような彼にしてはいささか出過ぎたような感があるように思われる方も出てくるようになるのではないかと言う意味においてである。

私はこの点について、この冒頭の二十句について次のように考えた。

藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと

ここはその二十句のうち、私の長歌の冒頭の「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」を受けた「思ふどち」より前の部分である。この部分は明らかに私の長歌に欠落している部分である。私の長歌はこのように具体的な季節は歌うことをしなかった。年間を通じた、一般論としての「布勢の水海」を詠んだ。それに対して、池主殿は具体的な季節をここに挿入した。そしてそこに描かれたような好季に誘われ遊覧に出で立ったように歌うための導入としてその役割を充分に果たしている。句数にして十二句。ここをさし引くならば、私の長歌の句数を上回るのは八句のみとなり、そう目立った差はなくなる。(ここから先は、私の推測だ。本当は池主殿に直接聞けば良かったのだが、そのぐらいのことが聞かねば分からないのかと思われるのも癪だったので聞かないでいた。)

この十二句に歌われている素材は藤波・卯の花・霍公鳥の三つ。当然の事ながら初夏の風物である。藤は今、季節を過ぎ眼前にはない。今、目の前に咲き誇っているのは卯の花。そして聞こえてくるのが霍公鳥の声。私にはこの部分がはじめから池主殿の原稿に書いてあったとは思えない。あれほど私の歌に忠実に「和」する池主殿だ。私の作を出し抜くような形では歌うようなことはしない。ひょっとすると、ここに抜き出した十二句を除いた部分のみが原稿として用意されていたのではないか・・・

そして、その原稿を懐中にして池主殿はその作の披露の時を待った。私的な宴とはいえ、国府の面々がうち揃うような宴だ。一定の形式は守らなければならない。その形式を守るべく、主賓たる私、そしてその次の地位にある介の内蔵忌寸縄麻呂が惜別をテーマとして歌をやり取りし、それを承けて、池主殿は古歌を伝誦し、宴は佳境へ入った。私の「遊覧布勢の水海賦」の披露の時が来た・・・・が、ここまでの間、池主殿はここまでの歌の流れを見過ごしてはいなかった。霍公鳥(縄麻呂殿)→霍公鳥・玉(私)→玉・橘(池主殿)というのが、ここまでの宴で詠まれた歌の素材の流れである。そして、池主殿の「敬和歌」へと続く。藤は「藤波の、咲き行く見れば、霍公鳥(ほととぎす)、鳴くべき時に、近づきにけり」とあるように霍公鳥とともに詠まれることの多い花、卯の花は「時ならず 玉をぞ貫ける 卯の花の 五月を待たば 久しくあるべみ」 (巻十)ともあるように玉として貫く事のある植物でもある。ここに見られる素材の重なりを考えた時、池主殿の「敬和歌」の冒頭部は、この日の宴で歌われた初夏の景物を意識して作られたと考えてもいいように思う。

私の長歌の披露が終わり、彼の「敬和歌」の披露の場となった。それまでの歌の流れを承けて、池主殿は予め準備していた歌稿に、以上の部分を付け加えこの「敬和歌」を池主殿は詠み上げたのではないか。この際、その歌稿にいささか手を加えたのかも知れない。そんな作業があったので、私の縄麻呂殿への「和」を承けた場面においては自作を披露するのではなく、古歌の伝誦に終わったように私には思える。そして、披露されたこの長歌・・・「敬和遊覧布勢水海賦」は、単に私の長歌に応えたものにとどまらず、今日の日の宴の楽しいやり取りをも反映されたものとなった。そしてその結びは、先に述べたように、このような楽しき日々がいつまでも続くことを予祝する確信に満ちた言葉で終わっている。この越中の面々といつまでも楽しく過ごしたいと思う私を都に送る宴の閉じめの歌としてまたとないものにだったのだ。

最後に、蛇足ながら・・・この長歌の題詞に池主殿は「一絶」という言葉を使われた。これは反歌として詠まれた短歌をさしていうものであることは説明がいらない。ただ、それをなぜ「一首」ではなく「一絶」としたのか。「絶」とは「絶句」。短い唐土の詩形をさす。私が長歌をあえて「賦」と漢風に表現したのに応じての工夫であろう。

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 恋しけむかも 一に云ふ 見ぬ日久しみ恋しけむかも

右一首大伴宿祢家持作之

我が背子が 国へましなば 霍公鳥 鳴かむ五月は 寂しけむかも

右一首介内蔵忌寸縄麻呂作之

我れなしと なわび我が背子 霍公鳥 鳴かむ五月は 玉を貫かさね

右一首守大伴宿祢家持和

石川朝臣水通橘歌一首

我が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ我が貫く 待たば苦しみ

右一首傳誦主人大伴宿祢池主云尓

先日(二十日)の大目の秦殿のお宅での送別の宴に続いて、今日は我が歌友の池主殿がそのお宅で送別の宴を催して下さった。こうも度々このような場を設けていただいて非常に心苦しくは思うのだが、せっかくのお心遣いをお断りするのもなにやら申し訳なくも思うのでお言葉に甘えさせていただいた。

宴にあっては、まず私が旅立つものの立場から別れのつらさを歌った。当初、「見ぬ日久しみ」との歌稿を用意しておいたのだが、どうにもありきたりのような気がして「見ぬ日さまねみ」を改めた上で、皆の前には披露した。こっちのほうが私の心情をより的確に表現できているように思う。

続いてその歌に縄麻呂殿がお応え下さった。この場においては私に次ぐ地位であり、私の不在の間、私の職務を代行して下さる縄麻呂殿がここでまず私の歌にお応え下さるのは、お決まりのこととはいえようが、縄麻呂殿は単に私の歌の言葉をそのまま承けるだけではなく、今の季節の風物である「霍公鳥」を詠み込んだ上で、これから離れて暮らすつらさを素直に歌にしてくれた。

そこで私はその「霍公鳥」なる言葉を承けて上記のように「和」した。普通、このようにその宴の目的(今日の場合は私を送別すること)がはっきりしている場合、「和」と記さないのが通例だ。その宴に目的に沿って歌詠をなす場合、必然的にその歌は「和」の歌であるはずであり、わざわざ「和」と記す必要がないからだ。だから、ここで私があえて「和」と記したのはそれなりの意味を持たせてのことである。つまり冒頭の私の歌と、続く縄麻呂殿の二首にてこの宴の目的は果たされた。いつまでも別れを悲しんでめそめそしてはいられない。後は自由に季節の風物を歌を詠み、せっかくのこの宴を楽しきものにしようとの配慮から、私はこの三首目を詠んだのだ。そういった私の意図を、よりはっきり示そうとここにあえて「和」という文字を入れてみた。

すると、さすが池主殿である。そのような私の意図を充分にくみ取って石川朝臣水通殿のの橘の歌を伝誦することで、その任を充分に果たして下さった。結句「待たば苦しみ」はもちろん橘の結実の時を待つことが苦しいという意味で歌われているのであるが、そこに私の帰着を「待たば苦しみ」との思いを漂わせているのだろうと思う。さすがである。

ただ、後の人がこの日記を読んだ時、一つ不審に思いかもしれない点がある。それはあの池主殿がここにおいて古歌の伝誦のみでこの宴を結んでいるという点についてである。歌を得意としていない他の方ならばいざ知らず、あの池主殿が自分がその主催した宴において自作の歌を披露しないというのは、誰が見ても不自然であろう。また池主殿と私の関係については、後の人々の間でも知られているように、並々ならぬものがあった。その私の餞の場においてのことであれば、その感はなお強いものがあるだろうと思う。加えて、今お手元に私の歌巻(万葉集)をお持ちの方であるならば、さらにご不審に思う点があろう。それは池主殿の「敬和歌」についてである。私の歌巻を見るならば、その「敬和歌」はこの送別の宴の歌の前に配列されている。けれども私はその「敬和歌」をとばして、今日の宴の歌についてを今書いている。これはどうしたことだろうか?そんなふうにお思っていらっしゃるかたも多いであろう。

この二つの不審なる事実はすべて池主殿の「敬和歌」の披露のあり方に由来する。次回、その「敬和歌」について語る予定であるが、その中でこの点について詳らかにしてゆきたいと思う。

遊覧布勢水海賦一首

遊覧布勢水海賦一首并短歌 此海者有射水郡舊江村也

もののふの 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)の 思ふどち 心遣(ヤ)らむと 馬並(ナ)めて うちくちぶりの 白波の 荒礒(アリソ)に寄する 渋谿(シブタニ)の 崎た廻(モト)り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比(ウナヒ)川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群(ムラ)騒き 島廻(ミ)には 木末(コヌレ)花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥(クシゲ) 二上山に 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ

右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日

実に楽しい一日であった。大和へと旅立つ日を目前にひかえ、国府の面々と布勢の水海まで足をのばし、その美しい風景をしっかりとこの目に焼き付けることが出来た。布勢の水海というのは後に十二町潟と呼ばれるようになった二上山北西の低地に広がる湖で、土砂の堆積と徳川殿が幕府を開かれて以降の相次ぐ干拓のため、昭和の御代の頃には見る影も無くなっていると聞く。私が国守としてこの地にいた頃は、それはそれは美しい湖であっただけに、なんとも残念な話である。

それはともかくとして、先日の秦殿のお宅での送別の宴において私は「二上山賦」を披露し、これを都への土産としたい旨の話をした。すると一同は、それだけでは物足りなかろう、この越中の地にはもっと都で語るべき場所が多くある。他の地も歌にして都に伝えなければならないだろう・・・と口々になさった。それでは・・・ということで、今回の布勢の水海への遊覧ということになった。もちろん目的はそれだけではない。その送別の宴でわざわざ私のために集まって下さった皆さんへの感謝の意をも込めて私がお誘いしたのだ。都への出立の日も近くそう遠くまでは足を運べないという事情もあってこの地を遊覧の地に選んだのだが、国府からほんの少し足をのばしただけでこのようにすばらしい場所があるとは・・・・越中は本当にすばらしい国だ。

渋谿の崎の荒磯、松田江の美しい浜辺・・・布勢の水海までの道行きだけでも心惹かれる景色がある。そして目的の布勢の水海では舟に乗っての遊覧・・・本当に楽しかった。もちろん、この楽しさはその風景の素晴らしさだけに由来するものではない。ともにこの遊覧を楽しんだ面々があればこそである。私は程なく都へと旅立つ。しばしのお別れだ。けれども私が都から無事に帰着したならば、再び同じ顔ぶれでこの地を訪れたいものだ。長歌の終わりの方や、反歌はそんな思いを込めて詠んだ。

ところで先日都への土産歌の素材にしたのは「二上山」。そしてこの度は「布勢の水海」。これで越中の代表的な「山」と「水」を詠んだことになる。これは論語にある「智水仁山」を意識したもので、漢詩の世界ではごく一般的になされる対比である。くわえて、人麻呂殿、赤人殿、そして我が父旅人の吉野讃歌で使われた技法でもある。ただあえてその違いを言えば、それらは一首の中に「山」「水」の対比を描いたが、私はここで二首の長歌にわたってそれをなしたと言うことだ。

・・・とここまで書いてきて、目を再び長歌に戻したとき、いささか盛り沢山にすぎたきらいがあるように思えてきた。我ながらくどい歌だとも感じないではない。すべてを都に伝えなければと思うばかりに、行ってもいないところまで詠み込んでしまった。それもこれも都人にこの越中の素晴らしさを伝えんがための虚構だ。許されることであろうと思う。

さて、先の宴において池主殿が我が作に「和」をなしてくれるとの約束であった。明後日、二十六日には池主殿が私を送る宴を催して下さる予定で、その場において私はこの歌を池主殿はその「和」の歌を披露する予定だ。少しでも早くこの歌をお届けしなければ、池主殿の「和」が、その宴に間に合わなくなってしまう。急ぎ、清書して送らなければ・・・

大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌

大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌二首

奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば

我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きて行かば惜し

右守大伴宿祢家持以正税帳須入京師 仍作此歌聊陳送別之嘆  四月廿日

いよいよ都へと旅立つ日が近づいてきた。今日は大目の秦忌寸八千嶋がその餞の宴を催して下さるということなので、お言葉に甘えてお宅へとうかがった。以前私の歓迎の宴の二次会でお世話になった館である。客間からは洋々たる海が見える。

昨年七月にこの地に赴任して以来、私が病の床にある時にも何かとよくして下さったこの越中の国府の面々がその場に集ってくれた。秋になれば再びこの地にてまみえることになることは分かっていながらも、やはり、数ヶ月の間この方々とお別れするのは辛い。またこの地の国守たる私がこの地を留守にすると言うことは、残された方々になにかとご迷惑をかけることになるだけに複雑な思いが私のうちにはある。そんな思いを私はこの二首に託した。

一首目。繰り返しては寄せる奈呉の海の白波を題材に、残される方々への思いを歌ったが、この着想は、秦殿の客間から見える大海に着想を得たものである。

二首目。やや恋歌めいた歌いざまにはなったが、それは残される面々への私の思いがそれほど強いものである事を言わんとしようとしたからである。

そして、この二首の後、私は先日作った「二上山賦」を皆の前で披露した。そしてこの作を今回の上京に際しての手土産にしたいとの私の思いつきを聞いていただいた。すると・・・ご一同は「それはよい考えだ。」と、すっかり盛り上がってしまい、この後はそれぞれが歌を詠むことも忘れ、この私の着想を更に充実したものにするためにはどうしたらよかろうという話になってきた。

越中の風土を大和の人々に伝えようとするならば、これだけでは物足りなかろう・・・どんな場所を歌に詠んだらよかろうか・・・・そのためには実際に行ってみなくては・・・・

延々とそんな話ばかりが続いた。

さて、いったいどこの景色詠むべきか?

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌一首

ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥 鳴く音遥けし 里遠みかも

右大伴宿祢家持作之

霍公鳥の初音を聞いた。先月の二九日、この私の愛する鳥の声が立夏を過ぎても鳴かぬ事を恨みに思う歌を詠んだ。その翌日には「二上山賦」という長歌をものし、その反歌にも霍公鳥への思いを歌った。私はこの声を今か今かと待ち焦がれていた。しかし、都へと出立する日が近づくにつれ、私の周囲は次第に慌ただしくなり、私自身も都へと携えるべき公簿類の整理点検に追われ、次第に余裕は無くなってきていた。今日も夜も遅くまでその作業に追われ、一息ついたのがついさっきであった。

ふっと息を抜き、都の懐かしい人のことなどを思い出していたとき、私はこの耳で確かに聞いた。あれほど恋い焦がれた 霍公鳥の今年初めてのさえずりを・・・

それは消え入るようなかすかな声であった。あまりにもかすかなるが故、普通ならば「声」と詠むべきところを「音」と詠んだ。生あるものが発するものを「声」、それ以外のものの発するものを「音」と表現するのが本来ではあろうが、今日の霍公鳥の「声」はあまりにかすかに過ぎて、それが本当に霍公鳥のものかと疑われるほどのものであったので、ここでは「音」と詠んだのだ。

歌中の「ぬばたまの」の使い方はちょっとした工夫だ。この枕詞、「黒」「夜」などのかかるのが通例で、「月」のように光を放つものにかかるのは異例と言ってもよかろう。私としては、たとえ月があったにしろ、自分が見たいはずの霍公鳥の声のする方向が闇に覆われ、何も見えていないことからこの枕詞を使ったのだが、この歌を読んだ人はいかに受け取るであろうか・・・少し心配はある。

ただその下の「月に向かひて」は少し自信がある。闇の中、他のいずこでもなく「月」に向って鳴いている霍公鳥のその姿を幻視し、このように詠んだのだが我ながらうまくできたと思っている。このような言い回しを私は他に知らない。私だけの表現だ。

私だけの・・・ということにこだわれば「遙けし」という語も私だけのような気がする。いったい私はこのての言葉が好きで、他にも「遙けさ」「遙々(ハロハロ)」などをよく使う。それは対象物が遙か遠くに見えるという意味ではなく、対象物の「声」「音」が、遠くからかすかに聞こえてくるという意味で使う。何気なく過ごしているだけでは聞こえてこない・・・目を閉じて聴覚を研ぎすまなければ聞こえてこない「声」「音」を聞くのが私は好きだ。そんな私の嗜好に、この言葉はとても馴染んでくれる。

今日も夜遅く、皆が寝静まり他の音が一切絶えた中、私はひそかに耳を澄ませていた。未だ鳴かぬかの鳥の声が聞こえてはこないかと思ってのことである。遠く波の音が単調に繰り返される。ひたすら霍公鳥の初音を待つ私の耳には、その波の音すら、次第に無きがごとくになってくる。そして、一切の夾雑物が排除された私の耳に聞こえたのが、この「遙け」き霍公鳥だった。あるいはその声を聞きたいばっかりの空耳だったのかもしれぬ。けれども、それは、もはや私にはどうでもいいことになっていた。現実のものであるか否かを超えて、私の耳には霍公鳥の初音が確かに聞こえたのだ。

思えば立夏を過ぎてはや数旬。霍公鳥の初音がこれほど遅いのは大和では考えられぬこと。この度の上京の土産話の一つとなろう。ともあれ、3月29日、30日の二つの歌はこの霍公鳥の初音によって完結する。歌の良し悪しはともかく、大和と越中の風土の違いは都の風流人士を驚かせるにたることであろう。

二上山賦一首

二上山賦一首 此山者有射水郡也

射水川 い行き廻れる 玉櫛笥(クシゲ) 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ統(ス)め神の 裾廻(スソミ)の山の 渋谿(シブタニ)の 崎の荒礒(アリソ)に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ

渋谿の 崎の荒礒に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ

玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり

右三月卅日依興作之 大伴宿祢家持

二上山といっても大和にある二上山ではない。ここ越中、射水の郡に聳える山のことだ。大和にあるそれと同じように二つの頂を持っていることにこの名の由来がある。高さは大和の二上山の半分・・・いや、それよりはやや高い。けれどもこの地の国府とはかなり近い位置にあるので、それなりの高さを感じる。

対して、大和の二上山は、坂上大嬢の育った竹田の庄からその姿を愛でることが主であったので、あまりその高さを感じることはなかった。そのせいか、本来ならば大和のそれよりもかなり低いはずのこの越中の二上山の方がより威圧感を以て我々に迫ってくるものがある。ただ、やはりその名といい、大和のそれに似た山容といい、妙に大和を懐かしませる・・・そんな山だ。それゆえか大和に旅立つ日が近づきつつある今この山がやたらと気にかかるようになってきた。

題詞にある「賦」とは唐土の詩文・・・特に私の愛読している「文選」や「芸文類聚」あたりによく見られる詩文の形式の名ではあるが、我々の言うところの長歌にその趣がよく似ているところから、これに擬えてこのように題してみた。内容は、感じるところをそのままに詠じる、形式的に見れば長い体裁を持つ・・・というのが唐土での意味であるので(「毛詩」大序・ 「文心雕竜」詮賦)、こういった使い方をしても大きな過ちであるとはいえないであろう。二月の末より、三月の初めにかけて池主殿と漢詩文のやりとりを数度行ったせいか、妙に唐土かぶれしてしまい、こういったことを一度試みてみたいと思ったのだ。

けれども「賦」と題しただけであっては、この試みも何の意味もない。そこで長歌は、その前半おいて「山」、後半において「海」を歌い、その「山・水」の春秋・朝夕にわたっての美しさを褒め称えた。この際、それぞれの部分をを十四句・十五句とほぼ均等に割り付け、全体の釣り合いを重視した。いわゆる「山ぼめ」の歌ではあるが、念頭に山部赤人殿や高橋虫麻呂殿の富士の山の歌を置きつつも、語句の方はは柿本人麻呂殿や笠金村殿、同じく赤人殿の吉野讃歌から多くの言葉を借りて、それらの言葉を三つの二句対に配した。「賦」という題ににふさわしきように整然たる形に仕上げようと努めたのだ。ここに新しい表現形式を構築し得たといささか自負を感じないでもない。

更に短歌。一首目は長歌の中の「いにしへゆ」なる語をそのまま承けて詠んだものだ。そして二首目。昨日は「あしひきの 山も近きを 霍公鳥(ホトトギス)・・・」と詠んだが、それはこの山のことを念頭に置いてのことだ。池主殿達の言によれば、この山は季節になれば、霍公鳥がうるさいほどに鳴く山だという。そしてその鳴くべき季節は今、到来しつつある。ここでその声さえ聞こえてくれれば、私のこの山への賛美は完成する・・・そのことを祈念して最後の短歌を添えてみた。

さて、霍公鳥はいつ鳴いてくれる事やら・・・

ところで、このように霍公鳥の鳴く日が遅いのは大和では考えられぬ事だ。このことを今度の上京の際に皆に話したならばきっと驚くに違いない。それこそ、土産話というものだ。加えて、この越中の地に大和と同じく二上山という名の山があること、これもまた都の風流人士には興味深いことであろう。そして越中国府はその山裾にいだかれるように存する。私はこの山のことも都人に伝えようと思う。題詞に「此の山は射水郡にある」と注を付け加えたのも地方の地理に疎い大和の人々を思ってのことだ。きっと喜んで下さるものと思う。

最後にもうひとつ。この歌の左注には「興に依って(依興)」との一語を添えた。考えようによっては、少々おかしい。何となれば、いやしくも一首をものしようとするならば、そこには何らかの興趣の働きかけがあってはじめてその歌は詠み出されるものだからである。であるから、そこにほあえて「興に依って(依興)」と書き添える必要は何処にもないはずだ。けれども。私はここにこの一節を添えずにはいられなかった。今まで歌を詠もうとした時に感じた興趣とは、なにか異質の・・・何と説明したらよいのか上手く説明できないが、何かしら歌を詠まずに入られないような思いが、私の内からせり上がってきて・・・・。通常とは逆の力が私に働きかけてきたのだ。今は上手く説明できないこの思い・・・私にこの歌を詠ませたのだ。

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌二首

あしひきの 山も近きを 霍公鳥(ホトトギス) 月立つまでに 何か来鳴かぬ

玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし

霍公鳥者立夏之日来鳴必定 又越中風土希有橙橘也 因此大伴宿祢家持感發於懐聊於裁此歌 三月廿九日

私はことのほか「霍公鳥」が好きだ。もちろんその鳴き声を愛でているのだ。この鳥の声はある時には亡き人を、またある時には恋人を・・・と、懐かしい人のその面影を彷彿とさせてくれる。後の世の人の数えたところによると私の歌巻(万葉集)には153首の歌に詠まれているとか・・・そのうち63首は私の歌だそうだ。あまり意識してはいなかったが、この数字を見ると、それほどのものかと我ながらあきれてしまう。まあ、私の他にも90首ほど「霍公鳥」を詠んだ歌があるそうなのだからこの傾向は私に限ったことではあるまい。ただ少し私にその傾向が強かったのだ。

とはいえ、わたしがこの鳥が飛来し、鳴き出すはずの季節になるといてもたってもいられなくなるのは事実であり、この二首もそんな思いを詠んだものである事は説明するまでもないであろう。私の待ち遠しい気持ちは、その題詞に示しておいた。

というのはこの歌を詠んだ今日は3月29日で、未だ4月にはなっていない。夏は4月の1日に始まる。けれども、月齢の進行と、暦には毎年若干の食い違いがある。今年(天平19年)は3月の21日が立夏だ。である以上その日からもう夏なのだ。夏である以上それは4月・・・私の意識の上でことではあるが・・・・。他の方からみれば、多少無茶苦茶に思えるような論理ではあるが、「霍公鳥」の飛来を待つ私の心持ちから言えば何の矛盾もそこにはない。

・・・ひょっとしたら、上京予定の4月が少しでも早く来てほしいとの私の願いが、暗に表出したものなのかもしれないが・・・

それにしても遅い・・・大和ならば立夏の頃にはあの懐かしい声が聞こえてしかるべきなのだが・・・

聞けば、唐土にあっては「霍公鳥」が暮春に飛来するとの考えが一般的らしく、最も早いものは春分、最も遅いものは立夏とする考えもあるらしい(「子規と郭公」青木正兒全集巻八)。ここで私は我が国の実情に合わせ「霍公鳥は立夏の日になれば飛来しその鳴き声を聞かせてくれるのが必定」と書いた。

なのに、まだ鳴かない・・・

この寒冷な越中の風土のせいか、あるいはこの鳥の連れ合いと言っても過分ではない「橘」がこの越中の地にはまれにしか見られないからであろうか。ともあれ、私は同じこの国にあって、かくも違いがあることに大いに興味を抱いた。