忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶
あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山 手向けの神に 幣奉り 我が祈ひ祷まく はしけやし 君が直香を ま幸くも ありた廻り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ
玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ
うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む
右大伴宿祢池主報贈和歌五月二日
なんとも心のこもった歌ではないか。先日私は池主殿にこのたびの別れの悲しみを訴えた。それに応じたのがこの歌だ。池主殿も同じ思いでいらっしゃることがひしひしと伝わってくるような歌である。公用の旅とはいえ、安全の保証は何もないこの時代に片道ほぼ十日前後の道行きは私とて全く不安がないこともない。そういった思いは残される側においてはひとしおのものなのだろう。
反歌(絶と表現されている)の第一首には池主殿のそんな思いが記されている。その下敷きには私が今回の越中下向の際、持参した歌巻にあった山上憶良殿の
若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉(シタヒ)の使 負ひて通らせ(巻五)
があるのだろうか。憶良殿がそのお子様を亡くしたときの悲しみを歌った歌ではあるが、過日、私の館で件の歌巻を興味深げに池主殿はご覧になっていたが、その際にご記憶にとどめておかれていたのだろうか。それとも、我が義母、大伴坂上郎女が今回の赴任にあたって贈ってくれた
道の中 国つみ神は 旅行きも し知らぬ君を 恵みたまはな(巻十七)
が念頭にあったのだろうか。これもまた池主殿が私の館にいらっしゃったときにお示しした覚えがある。おそらくは両者ともに意識のうちにあったに違いない。だいぶ前のことであったが、池主殿の胸中に深く刻まれた歌であったのだろう。
さらに長歌を見れば「見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音(ネ)のみし泣かゆ」と、おそらく今回の上京にあたっての四月二十六日のはなむけの宴での私の歌
我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね
あたりを踏まえて歌っていらっしゃる。
ただ今回のこの長歌はそれだけにとどまらず新たに「なでしこ」の花が詠み込まれることになった。反歌の第二首も然り。私が再び越中に戻るのは秋八月頃。そしてその季節に私の館を飾っているだろう花はこの「なでしこ」である。池主殿の御心の中にはもうすでに再会の季節があるのだ。くわえて、「なでしこ」は私が好きな花。池主殿はそこも踏まえてこうお詠みになったのだ。なんともありがたいお心遣いではないか。
さあ、いよいよ旅立ちだ。公務の旅とはいえ、妻や家族、そして橘諸兄殿をはじめとした人々に会える。その際、この一年足らずの間に私が詠み、そして集めた歌々をお示ししようと思っている。いかにご評価くださるだろうか、楽しみである。ただ、昨年七月、私を「奈良山過ぎて 泉川 清き河原」まで送ってくれた書持(フミモチ)だけにはもう会えない。昨年の秋、朝露のごとく儚くなった弟にはもう会えないのだ。こうやって大和を長く離れ単身で異郷に住まいしていると、そのことが観念的にしか理解できない。今度、都に帰ってしまえばそれが現実のものとして実感せざるを得ない。私はそれを恐れる。けれども、それが現実であるならばそれを事実として受け止めなければならない。しっかり供養してやらねば・・・