カテゴリー別アーカイブ: 贈答

越中守大伴宿祢家持報歌并所心三首

越中守大伴宿祢家持報歌并所心三首

天離あまざひなやつこ天人あまひとしかく恋すらば生けるしるしあり

常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ばになひあへむかも

別所心一首

(あかとき)に名告り鳴くなる霍公鳥(ほととぎす)いやめづらしく思ほゆるかも

右四日附使贈上京師

右の歌 四月四日に京師(みやこ)に上る使いに附した。 先日、都の義母(叔母でもある)よりいただいた歌は諧謔に富んだ、しかも離れて暮らす私に対する思いの溢れる二首であった。諧謔に応うるには諧謔を以て、というのが礼儀というものであろう。そんな意図の元に最初の二首は詠んだ。

一首目、「鄙の奴」とは私にこと。「天人」とはもちろん義母のことである。この国にあって、都は天上界のごとく尊い場所。であるなら、そこに住まいする義母は「天人」に違いあるまい。先日の義母の歌に私のことを「常人」と詠んでいたところに、ちょっと絡んでみた。四句目に「かく恋すらば」とあるのはあまり聞き慣れない物言いだがその意は「かく恋すらむは」と同じ。この場所での字余りは少し体裁が悪いのでこんなふうにいってみた。

二首目、義母のいうところの「常人」の恋でさえこの私の肩に重くのしかかっているのに、その上、荷馬でさえ背負いかねるような恋まで都から送り届けられてきたらこんな私にはとても背負いきれるものではないとふざけ返してみた。

さて、三首目であるが、これは贈られて来た歌に対して忠実に応えるという礼儀を果たした後、今の私の思いを詠んでみたものだ。せっかくへの都への使いに附する手紙だ。送られた歌に対して返答しただけであっては、応えるということがいかにも義務的に見えてしまう。先月の池主殿への返歌もそうであったように、歌を贈ってくださった相手には今の自分の思いを伝えるということは・・・特にこうして離れて暮らし、頻繁にやりとりが出来ない場合は・・・大切なことだと私は思う。

ところでこの歌において「霍公鳥」を「名告り鳴く」鳥と規定した。夜といわず昼といわず自らの所在を告げるかのような声で鳴き続ける様をこういったのであるが、認識としてはこれまでも「霍公鳥」は「名告り鳴く」鳥ではあった(近江の御代の頃からかと聞いている)が、これを歌に詠み込んだのは私の新工夫だ。平城の御代に時代にはあまりこれに同調なさる方もなかったが、平安の御代にいたって同じように歌に詠む方が多く現れてきたと聞く。創案者としてはちょいと鼻が高い・・・・

姑大伴氏坂上郎女来贈越中守大伴宿祢家持歌二首

姑大伴氏坂上郎女来贈越中守大伴宿祢家持歌二首

常人つねひとの恋ふといふよりはあまりにて我れは死ぬべくなりにたらずや

片思かたもひを馬にふつまにほせ持てこしに遣らば人かたはむかも

()とは妻の母、或いは父の姉妹をさす語。叔母であり、かつ妻の坂上大嬢の母でもある坂上郎女をさすにふさわしい語だ。先日の池主殿の書状をもたらした使いが、この懐かしい叔母の二首をももたらしてくれた。

一首目。叔母の私を思う恋心は他の人の比ではなく、その思いの深さに今にも死にそうだといっているのであるが、この大げささがいかにも叔母らしくて思わず笑みが浮かんでしまう。

二首目に至っては大笑いだ。自分の片恋の想いは、この越中への使いの馬にも乗せかねるほど重く、誰かその助けをしてくれぬか・・・などとはよく言ったものだ。

恋歌仕立てのこの二首は、その大げささから一見冗談とも受け取れるような作にはなっているが、その奥底に遠く離れて暮らす甥の私に対する深い想いが感じられる。さらには健気にも一人家を守り、弱音を私には示さぬように努めている我が妻の大嬢の心情をも代弁してくれているのだとも思う。我が歌の師の一人でもある叔母、往年の才媛「大伴坂上郎女」の面目躍如といった風情の才気あふれる作だ。 私とて平城の地に残してきた妻や子、そして叔母をはじめとした一族の人々を思わぬ日はない。

くわえて、大伴家の嫡流の血を受け継ぐ者として都を離れていることに不安が無いわけではない。けれども、このような叔母が(いえ)()()として大和の地にひかえてくれていることはまことに心強い。それでこそ安心して公務に専念できるというものだ。 次の都への使いは四月に入ってからだ。それまでに私もこの二首に応えるにふさわしい歌を作っておかなければならない。

越中國守大伴家持報贈歌四首

 越中國守大伴家持報贈歌四首

一 答古人云

あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を心隔てつ

一 答属目發思兼詠云遷任舊宅西北隅櫻樹

我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね

一 答所心即以古人之跡代今日之意

恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり

一 更矚目

三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ

       三月十六日

池主殿からの書状は三月十五日と日付があったが、私の手元に届いたのは、今日、十六日である。この越中との国境の深見村から、この越中国府までの道のりを考えれば、至極当然のことではある。おそらく池主殿は駅使の警護見送りのため深見村までやってきていたのであろう。そして国境の山々を見晴るかしながら、そのこちらにいる私に思いをはせてくれたに違いない。 深見村から越前国府まで戻る道のりは、同所からこの越中国府までの道のりの三倍・・・・さぞや、越中に・・・との思いは強かったに違いない。そのことを承知の上で私は少し池主殿を困らせることにした。

一首目は池主殿の一首目に応えたものだが、私との間に立ちふさがる山を口実に、池主殿が会いに来てくれないことをなじるような恋歌仕立てにしてみた。

二首目もやはり池主殿の二首目に応えたもの。以前、池主殿が暮らしていらっしゃった旧宅の庭の桜(池主殿ご自慢の桜であった)が折も折、今にも咲き出しそうに蕾んでいる様を詠み、池主殿をこの越中に誘うように歌った。

そして三首目。これも池主殿の三首目に応えたもの。池主殿が私に逢えない苦しみを歌ったものだから、これも恋歌の作法にならってその苦しみは私の方が強いと歌ったものである。 私とて官人のはしくれ、諸国の官人が帝のご命令のまにまに、勝手にその任地を出ることが出来ないことぐらい十分に承知している。だから、こんなに近くまでいらっしゃった池主殿が泣く泣く越前の国府に帰ったであろうことは知っている。そしてこんな歌を贈ってやれば池主殿がきっと困ることも知っている。けれども、人は心に思うことは止めることの出来ないもの。そして、心に浮かんだならばそれを歌に書き留めずにいられないのは歌人でもある私の性。池主殿もその辺りは承知してくださることと思う。

そうして、その押さえきれぬ思いを私はさらに嘱目として四首目を詠んだのだ。今、越中は霞たなびくうららかな春。けれども、そんな麗しい季節となっても私の心は未だ冬・・・それは、あなたに会えないからだ・・・と伝えたかった。 池主殿からは、それは格調の高い序を添えての三首いただいた。本来ならば私も同じように序を添えたほうが形式としては整ったものになったであろう。けれども、文をしたためる、そのわずかな時間さえもどかしかった。一刻も早く我が思いを池主殿に伝えたかった。わき上がる感情をいちいち整理して文にまとめる時間が惜しかった。歌ならばわき上がるその思いを思いのままに書き付ければよい。そして・・・それが私には最もふさわしいやり方なのだ。

越前國掾大伴宿祢池主来贈歌三首

越前國掾大伴宿祢池主来贈歌三首

以今月十四日到来深見村 望拜彼北方常念芳徳 何日能休 兼以隣近忽増戀 加以先書云 暮春可惜 促膝未期 生 別悲兮 夫復何言臨紙悽断奉状不備

三月十五日大伴宿祢池主

一 古人云

月見れば 同じ国なり 山こそば 君があたりを 隔てたりけれ

一 属物發思

桜花 今ぞ盛りと 人は言へど 我れは寂しも 君としあらねば

一 所心歌

相思はず あるらむ君を あやしくも 嘆きわたるか 人の問ふまで

思い返せば二年前、初めて経験する越中の冬の寒さにひどく体調を崩した私に、何かと暖かいお言葉をかけて励ましてくださったのが池主殿だった。春になり私の病も癒えはじめると、暮春の越中の風光を賞美しようと遊覧にお誘いいただいたのも池主殿であった。春のうちにはとうとう体調も回復しきらず、ともに越中の地を遊覧したのは四月に入ってからであった。けれどもその楽しさは本当に格別なもので、その時の歌に「いや年のはにかくし遊ばむ今も見るごと」と歌い、次の年も、またその次の年もと願ったものだ。けれども残念なことにその年のうちに池主殿は越前の国へと御転任なさってしまい、その約束は果たせなくなってしまった。その無念さが春になる度に思い出され、その思いを書状に書き付けて池主殿に送ったのが先日のこと。

御書面を見るに池主殿はお仕事の関係で、この越中との国境、深見の村までお越しになっていたらしい。そこには「隣近なるを以て忽に戀諸を増す」と書いてはおられるが、それは私とて同じこと。せっかくここまで来たのならばあと少し足を伸ばし私のところまで来ていただけば良かったのにとは思うものの、それは我々公の身、個人的な感情で自らの任地を離れることもかなわぬこと。この切なさは何と言葉で言い表したらよいものか。

一首目の歌にある通り山が私の住む越中と池主殿の住んでいらっしゃる越前を隔てている。私はこの国府の南方に見える山々を望みつつ、今は逢うこともかなわぬ池主殿への思いをつのらせた。二首目。私とて思いは同じである。同じ桜を見るにしても、池主殿とともに眺め、歌を交わしあうことが出来たのならばどれほど楽しいことか。三首目の歌には「相思はず」などと詠んでいらっしゃるが、そんなことがあるはずもないことを池主殿はよく分かっていらっしゃるはずだ。私だって「あやしくも 嘆きわたるか 人の問ふまで」という状態で日々を過ごしているのだ。


参考までに池主殿のお手紙を読みやすいようにしておく。

越前国の掾大伴宿禰池主の来贈(おこ)せる歌三首

今月十四日をもちて、深見村に到来し、かの北方を望拝ぼうはいす。つねに芳徳を思ふこと、いづれの日にかよくまむ。兼ねて隣近なるをもちて、たちまちに恋を増す。加 以しかのみにあらず、先の書に云はく、「暮春惜しむべし、膝を促くることいまだ期せず、生別の悲しび、それまたいかにか言はむ」と。紙にのぞみて悽断し、状を奉ること不備なり。

三月十五日、大伴宿禰池主

今月の十四日、深見の村に参り、あなたのいらっしゃる北方を遙かに望みました。常々あなたの御高徳をお慕い申し上げている私の気持ちはいつになったら止む日が来るのでしょうか。いいえそんな日が来るはずがございません。加えてここ深見はあなたのお住まいにも近く、にわかにお慕い申し上げる気持ちがつのるばかりです。それだけではありません。先日いただいた御書面に「暮春三月の名残は尽きない。けれども逢える日がいつとも計りがたい。生きてある身の別れは悲しい。けれども、その思いをどのように言い表せばいいのか。」とありました。この私も紙を前にして心を痛め、書状を差し上げるにも形が整いません。

三月十五日、大伴宿禰池主

 

廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首

廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首

浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟

沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ

先日の宴で約束した通り、今日は布勢の水海の遊覧に出かけた。私が昨年、都への手土産代わりにと作った「布勢水海遊覧賦」並びにそれに対する池主殿の敬和歌にあるがごとく、皆で馬に乗ってである。晴朗なる天気、遙かに見渡す布勢の水海、絶景これに勝るは無しといった按配であった。

もちろんせっかくのこの水海の遊覧であるから浜辺から眺めるだけではつまらない。やっぱりここは船を出さなければ・・・・

そう思い、かねてから船を手配していたのだが、我々がこの場所に着いたのが早すぎたのか、船はまだ着いていない。馬上にて、早く船がやってくることを願いつつ歌ったのが一首目だ。程なく船は来た。私は福麻呂殿にあれが今日の船ですよと指さしつつ歌った。それが二首目である。

ところで、この歌には題詞にも左注にも誰が詠んだ歌かを記していない。これは縷々申し述べているこの日記の保存状態の悪さに由来する。けれども上に述べた事からもわかるように、この歌は私が福麻呂殿に歌いかけた歌。後の世に私の歌巻を写してくれた人々もそのあたりのことは承知の上だったとみえ、その方々の作成によるこの部分の目録にはきちんと私の作である由を書き添えてある。まことにありがたいことだ。

本当にこの歌のあたりはよほど保存の状態が悪かったようだ。私どもの時代には平仮名という文字は存在せず、漢字の音や訓を利用して我が国の言葉を書き表していた。例えば一首目の第一句「浜辺」だが、私どもの時代の仮名遣いでは「波萬部」などとあるべきところだ。ところが、今、皆さんがご覧になっている本では「波萬へ」となっている。またすぐその下の「より」、今皆さんがご覧になっているものは、「余里」となっていると思うのだが、私どもの時代では「・・・より」の「よ」にはこの「余」という文字は使わない。三句目に「宇美邊欲里ウミベヨリ」の「欲」などを使うのが通例だ。これらの二つの文字は昭和の御代では同じ「よ」と発音しているものが、私どもの時代には違う発音で読まれていたことに由来する。あくまでも違う種類の文字なのだ。それがかくも誤用されるのは、時代の推移とともにその保存の状態が悪くなっていったこの部分、文字が読み取れなくなっていたことが原因かと思う。それを後の世・・・おそらくは平仮名も生まれ、「よ」の発音の区別もなくなってしまった平安の御代の人々が今見る形に補ってくださったのかと私は考えている。

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶

あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山 手向けの神に 幣奉り 我が祈ひ祷まく はしけやし 君が直香を ま幸くも ありた廻り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ

玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ

うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む

右大伴宿祢池主報贈和歌五月二日

なんとも心のこもった歌ではないか。先日私は池主殿にこのたびの別れの悲しみを訴えた。それに応じたのがこの歌だ。池主殿も同じ思いでいらっしゃることがひしひしと伝わってくるような歌である。公用の旅とはいえ、安全の保証は何もないこの時代に片道ほぼ十日前後の道行きは私とて全く不安がないこともない。そういった思いは残される側においてはひとしおのものなのだろう。

反歌(絶と表現されている)の第一首には池主殿のそんな思いが記されている。その下敷きには私が今回の越中下向の際、持参した歌巻にあった山上憶良殿の

若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉(シタヒ)の使 負ひて通らせ(巻五)

があるのだろうか。憶良殿がそのお子様を亡くしたときの悲しみを歌った歌ではあるが、過日、私の館で件の歌巻を興味深げに池主殿はご覧になっていたが、その際にご記憶にとどめておかれていたのだろうか。それとも、我が義母、大伴坂上郎女が今回の赴任にあたって贈ってくれた

道の中 国つみ神は 旅行きも し知らぬ君を 恵みたまはな(巻十七)

が念頭にあったのだろうか。これもまた池主殿が私の館にいらっしゃったときにお示しした覚えがある。おそらくは両者ともに意識のうちにあったに違いない。だいぶ前のことであったが、池主殿の胸中に深く刻まれた歌であったのだろう。

さらに長歌を見れば「見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音(ネ)のみし泣かゆ」と、おそらく今回の上京にあたっての四月二十六日のはなむけの宴での私の歌

我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね

あたりを踏まえて歌っていらっしゃる。

ただ今回のこの長歌はそれだけにとどまらず新たに「なでしこ」の花が詠み込まれることになった。反歌の第二首も然り。私が再び越中に戻るのは秋八月頃。そしてその季節に私の館を飾っているだろう花はこの「なでしこ」である。池主殿の御心の中にはもうすでに再会の季節があるのだ。くわえて、「なでしこ」は私が好きな花。池主殿はそこも踏まえてこうお詠みになったのだ。なんともありがたいお心遣いではないか。

さあ、いよいよ旅立ちだ。公務の旅とはいえ、妻や家族、そして橘諸兄殿をはじめとした人々に会える。その際、この一年足らずの間に私が詠み、そして集めた歌々をお示ししようと思っている。いかにご評価くださるだろうか、楽しみである。ただ、昨年七月、私を「奈良山過ぎて 泉川 清き河原」まで送ってくれた書持(フミモチ)だけにはもう会えない。昨年の秋、朝露のごとく儚くなった弟にはもう会えないのだ。こうやって大和を長く離れ単身で異郷に住まいしていると、そのことが観念的にしか理解できない。今度、都に帰ってしまえばそれが現実のものとして実感せざるを得ない。私はそれを恐れる。けれども、それが現実であるならばそれを事実として受け止めなければならない。しっかり供養してやらねば・・・

 

入京漸近悲情難撥述懐一首

入京漸近悲情難撥述懐一首并一絶

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨しみ 偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇の 食す国なれば 御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども 玉桙の 道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく 日の長けむぞ そこ思へば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し

我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ

右大伴宿祢家持贈掾大伴宿祢池主 四月卅日

出立する日まであと数日となった。五月の三日には国司の館を出なければならない。都で報告するべき帳簿類の整理もめどがついたので、手土産として持ち帰る歌々に再び目を通し整理をしていると、この越中にて過ごしてきた数ヶ月の日々が瞼の裏に蘇ってくる。とりわけ今年に入ってからの大病、そして税帳使として都へ赴くことが決まって以来の越中の面々との交流は何物にも代え難い記憶として私の胸中に存している。これらの日々を思うにつけても、彼らとの別離がことのほか重く心にのしかかり、私の思いを沈めるものとなっている。このような思いは以前も述べたように歌を以てのみ撥いうるものである。今回もその例外ではない。私は自然に筆を執るに至った。その歌はいきおい、これまで私が、池主殿が、そしてそのほかの面々が詠んだ歌を承けたものになった。

詠み出しの「かき数ふ 二上山に」は「二上山賦」を意識してのもの。「港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し」「霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて」はそれぞれ「遊覧布勢の水海の賦」、四月二十六日の送別の宴の歌々を承けたものであることはすぐにわかっていただけると思う。

反歌もそうだ。また題詞に「一絶を併せた」としたのは、情を詠んだこの長歌に、事物を詠み込んだ歌に対して付する「賦」とは題することができなかったことによる。しかしながら、この長歌もまた越中の自然を詠み込んだ長歌群の流れと意識の面ではつながっている。そこで「絶」と池主殿のまねをすることにより、その意識を明示しようとしたのだ。

こうして私は、越中赴任以来、こちらの人々が私に示してくださった厚情に謝意を示そうとの意を持ってこの長歌をものしたわけであるが、その意の中心にあるのはもちろん池主殿だ。同族でもある池主殿は、私の最良の歌友であることは、私の病が癒え始めたあたりからの彼との歌の贈答からも、後の世の人々に容易にうかがい知れよう。私は歌について彼から多くのことを学んだ。池主殿の存在は私にはなくてはならないものとなっていたのである。そのことを歌の中に示した部分が冒頭の

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てるつがの木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて

である。この中の「立てるつがの木 本も枝(エ)も 同じときはに」の部分は私と彼が同族の出身として強い紐帯に結ばれていることを示そうとしたものだ。何も大伴宗家である私が「本」、支族である池主殿が「枝」といっているわけではない。それほど強い絆で私たちが結ばれているということを言いたかっただけだ。そして、その帰結として私たちは「朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて」と互いに気遣いあってきた。そんな池主殿(もちろん他の人々に対してもそうではあるが)と、たとえ数ヶ月ではあっても分かれることはつらい。ここ数ヶ月の歌共としての交流がここで途絶するのも残念でならない。そんな思いがこうして一つの長歌として結晶した。歌としての善し悪しは知らぬ。けれども歌わずにおれなかった私の気持ちは池主殿が誰よりも理解してくださるだろうと確信している。

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩今朝累信辱也以貺相招望野之歌 一看玉藻稍寫欝結二吟秀句已除愁緒 非此眺翫孰能暢心乎 但惟下僕禀性難彫闇神靡塋 握翰腐毫對研忘渇 終日目流綴之不能 所謂文章天骨習之不得也 豈堪探字勒韻叶和雅篇哉 抑聞鄙里少児 古今人言无不酬 聊裁拙詠敬擬解咲焉 如今賦言勒韵同斯雅作之篇 豈殊将石間瓊唱聲極乏曲歟 抑小児譬濫謡 敬寫葉端式擬乱曰

七言一首

杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕
来燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清
雖欲追尋良此宴 還知染懊脚跉趶

短歌二首

咲けりとも 知らずしあらば 黙(モダ)もあらむ この山吹を 見せつつもとな

葦垣の ほかにも君が よりたたし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ

三月五日、大伴宿祢家持、臥病作之

昨日いただいた序文付きの漢詩、そして今朝いただいたお便りに対しての返信が、なんとか・・・本当になんとかではあるができあがった。その出来に関しては池主殿にご寛恕いただく他はない。なにしろ、あまり試したことのないの漢詩だ。自信はない。ごらんの通り平仄はもとより、押韻のほうも整ってはいない。けれども序文にも書いたように「古人は言に酬いずといふこと無しといふ」である。自信はなくともひと気張りしないではいられない。

「翰を握りて毫を腐し、研に対ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。」というありさまになろうことは、予想されたことであるが、今朝いただいた池主殿の一文に励まされ、恥をさらす結果になることを覚悟で取り組んでみた。「禀性彫り難く、闇神瑩くこと靡」きことを、あらためて実感させられてしまったというのが実情で、まさに「鄙里の小児」の勝手な口ずさみにしか相当しないような出来ではあったが、その出来はともかくとして、いささかながらの新工夫が無かったわけでもない。それは漢詩の三句目と四句目。池主殿は詩のこの部分を承けて考えたものであるが、池主殿のそれはここで「柳」と「桃」を題材として扱っていた。けれども、私はそれを直接は承けず、「燕」と「雁」を題材とした。池主殿の「花」に対して、私は「鳥」で承けたわけである。これは唐土において、六朝の頃からこういった詩文においてその題材に「花鳥」の双方を取り扱うのが流行になっていることを意識してのものだ。だから、私は池主殿のそれに欠けていた「鳥」を読み込むことによって、そこを補完しようと試みたのだ。

なおかつ、私は北に「帰る雁」をここで取り扱った。今まで和歌の世界においてあまり素材にはならなかったものだ。これも私の新たな試みといえる。風雅な素材として「花鳥」の取り合わせを意識すること・家人の使いとしてではなく、北に帰るものとして「雁」を歌うこと・・・これは、今後の和歌の世界の一つの指針になるのではないかとひそかには自負しているところである。その点に免じて、池主殿には詩文の不出来はお許ししていただくこととしよう。

ところで、序文の最後の方に小字で記した一節がある。実はこの部分は、私の初案で、池主殿に贈ったのはそれを除いた部分のみだ。どうにもごちゃごちゃした文になってしまったのと、「豈石を将ちて瓊に間ふるに殊ならめや」という一節が先日の手紙で既に使ってしまっていたのとで、上のように改めたのであるが、自分の文章の生成の過程を記録しておきたいとの思いもあり、この私の手元の資料では、決定稿の後に上記のように小さく初案を書き添えておいた。

さて和歌についてだ。池主殿の長歌は先日も書いたように、その前の私の贈った長歌に対して、これぞ返歌の鏡というべきほどに、私の歌の語句に対して逐一応じた歌いぶりであったので、今回私としてはこれ以上述べることはない。しかしながら、池主殿はその長歌の最後に私を野遊びに誘って下さっている。このことに対しては、漢詩の最後の部分でもお答えしたが、和歌としてもお答えしなければならないと思う。くわえて、この手紙に添えて、池主殿は出られない私を思い、山吹の花まで添えて下さった。そこで短歌の二首をもってこれに応えることにした。

一首目は私の歌巻(万葉集)の巻の十におさめた古歌を流用させていただいたもので、「秋萩」を「山吹」と入れ替えただけのものである。まだ充分に病の癒えていない私に「山吹」を見せたりしたら、かえって辛くなるだろうとの少々恨み言めいた歌だ。池主殿はその長歌の最後を「ことはたなゆひ」と少々ふざけた形で私を野遊びへと誘ってくれた。これが、まだそのことが出来ない私に対する思いやりであることは言うまでもない。あまり生真面目に誘われたならば、かえってそれが私に負担になってしまう事をご理解されての表現だ。である以上私も少々ふざけてこれに返答するのが礼儀というものであろう。だから、あえて古歌の語句を入れ替えた恨み言めいた歌を詠んだ。池主殿ならば、それがその長歌末部のおふざけに対応してのものである事はきっとご理解いただけるものと思う。もちろん、それだけでは池主殿のお誘いに対して充分に答えにはなっていないので、二首目は少々真面目に一連のお誘いに対しての謝意を詠み、結びとした。

あと少しすれば、私の体も全快ということになろう。そうしたならば私も初めての越中の春を存分に楽しんでみたいと思う・・・が、そうなったならばそうなったで私にはしなければならないこともある。おまけに長く休んでいたせいで、たまりにたまった仕事もそのままにしてはおけない。どうやらこの春は、このまま終わってしまいそうだ。池主殿とこうやって詩文、和歌のやりとりを出来たと言うことだけが、唯一の収穫と言うことになるのだろうか。

<補>

またまた蛇足である。これもまた念のため・・・

昨暮の来使は、幸(サキハ)ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、辱なくも相招望野の歌を貺(タマ)ふ。一たび玉藻を看て、稍(ヤクヤ)く鬱結を写(ノゾ)き、二たび秀句を吟じて、已に愁緒を蠲(ノゾ)く。此の眺翫にあらずは、孰(タレ)か能く心を暢(ノ)べむ。但惟(タダシ)下僕(ワレ)、禀性彫(ヱ)り難く、闇神瑩(ミガ)くこと靡(ナ)し。翰を握(ト)りて毫を腐(クタ)し、研(ケン)に対(ムカ)ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。所謂(イハユル)文章は天骨にして、之を習ふこと得ず。豈(アニ)字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪(ア)へめや。抑(ソモソ)も鄙里の小児に聞こえむ。古今、人は言に酬いずといふこと無しといふ。聊(イササ)かに拙詠を裁(ツク)り、敬みて解咲に擬す。如今(イマシ)言を賦し韻を勒し、この雅作の篇に同ず。豈石を将ちて瓊(タマ)に間(マジ)ふるに殊ならめや。声に唱へ走(ワ)が曲を遊ぶといふか 抑(ハ)た小児の濫りに謡ふが譬(ごと)きか。敬みて葉端に写し、式(モチ)て乱に擬ひて曰く

昨夕のお使いでは、幸いにも晩春遊覧の詩を下さり、今朝の重ねてのお便りでは、有り難くも野遊びへのお誘いの歌を賜りました。ひとたびご高作を拝見しては、鬱々と結ぼほれた魂も次第にほどけ、続けて秀歌を口ずさめば、もはや愁いに沈む心も除かれました。このような叙景の詩歌でなくして、いったい誰が心を晴らすことができるでしょうか。ただし小生、生まれつきの乏しい素質は鍛錬のしようもなく、暗愚な心は磨こうにも磨きようがありません。筆を取っても文が書けず、空しく筆先を腐らせてしまい、硯に向かっても書きあぐねて、硯の水が乾くのを忘れてしまう有り様でございます。一日中、周囲に目を遊ばせるばかりで、文を綴ろうとしてもどうにも綴れません。いわゆる文章の才能というものは生来のものであって、習って得られるようなものではございません。字を探し、韻を整えて、貴兄の雅趣あふるる詩に唱和することなど、どうして出来ましょうか。村里の小児の口ずさみに聞こえましょう。とはいえ、昔のひとは、人は贈られた文章には必ず答えるものであると言っています。そこで拙い詩を作り、謹んでお笑いの種に供する次第にございます。今、詩を作り韻を整えて、貴兄の風雅な御作に唱和致します。石を玉にまじえるとのたとえとなんの変わりがございましょう。声を張り上げては自分勝手な歌を歌っているかのようです。さしずめ小児の出まかせ歌にもたとえられましょう。ともあれ、恐れ多いことではありますが、この拙作を謹んで紙片に書き記し、乱・・・締めくくりの詞・・・の真似事といたします。

杪春(ベウシユン)の餘日媚景は麗しく
初巳の和風は拂ひて自らに輕(カロ)し
来燕は泥(ヒヂ)を銜(フフ)みて宇(イヘ)を賀(ホ)きて入り
歸鴻は蘆を引きて迥(ハロ)かに瀛(オキ)に赴(オモブ)く
聞くならく君が侶(トモ)に嘯(ウソブ)きて流曲を新たにし
禊飲に爵(サカヅキ)を催(ウナガ)して河の清きに泛(ウカ)べつと
追ひて良き此の宴を尋ねんと欲(ホ)りすれど
還りて知る懊(ヤマヒ)に染みて脚の跉趶なることを(「趶」・・・正しくは足偏に「丁」)

暮春ののどかな一日、うららかな景色が美しく、初巳(三月の最初の巳の日)の柔らかな風は地にふれて自ずから軽やかに吹きすぎて行きます。
南より飛び来たった燕は泥を銜え祝福し家の軒に入り、北に帰る雁は蘆の葉をくわえ、遥か遠く沖へと去って行きます。
聞けばあなた様は友と語らい詩を吟じ、曲水の流れを新たにして、
みそぎの酒宴に盃を急き立てて清流に浮かべられたとのこと。
後を追ってこの良き宴の仲間入りをしたいとは思いますが、
病のために足がふらつくこともまた思い知りました。

昨日述短懐今朝汗耳目

昨日述短懐今朝汗耳目  更承賜書且奉不次死罪々々  不遺下賎頻恵徳音  英霊星氣逸調過人  智水仁山既韞琳瑯之光彩潘江陸海自坐詩書之廊廟  騁思非常託情有理七歩成章數篇満紙  巧遣愁人之重患能除戀者之積思  山柿歌泉比此如蔑彫龍筆海粲然得看矣  方知僕之有幸也  敬和歌其詞云

大君の 命(ミコト)畏(カシ)み あしひきの 山野障(サハ)らず 天離(アマザカ)る 鄙(ヒナ)も治むる 大夫(マスラヲ)や なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓(タマヅサ)の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思(シタモヒ)に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り 貌(カホ)鳥の 間なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ

山吹は 日に日(ケ)に咲きぬ うるはしと 我が思ふ君は しくしく思ほゆ

我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我れし悲しも

三月五日大伴宿祢池主

昨日の池主殿からの書簡には、それは見事な序文と詩が記してあった。そのご返事をと昨夕から硯に向っていたところ、今朝になってその後を追うようにこの便りがあった。思っていたとおり、私が先日お贈りした書簡へのお答えであった。

しかしまあよくもこれほどと思えるほどにの私のあるか無きかの文才をお褒め下さっている。まことに恥ずかしい限りではあるが、そのありがたいお言葉に励まされ、また遅々として進まぬ筆をとる勇気も生まれてくるというものである。序文中の「智水仁山」は論語の一節を借用したものであろうが、その直後の「既に琳瑯の光彩を韞み」が文選の文賦「石韞玉而山輝、水懐珠而川媚」を下敷きにしていると考えると、ここは原義通りというよりは単に「水」と「山」の形容と考えるべきであろうか。

それにしても私の子供の落書きのような序文をその豊かな文才を「江」や「海」にも喩えられている晉の潘岳と陸機と並べ称すとは・・・加えて、「山柿歌泉も此に比ぶれば蔑きが如く」と来ている。ここまで来ると、褒め称えられているというの本人としては苦笑を禁じ得ない。

長歌の方は、お見事と言うしか言いようがない。私が先日(三月三日)贈った長歌の語句にいちいち即応し、歌の返しとはこのように行うべきとのお手本のような歌いぶりである。ある部分では私の言葉をそのまま肯定し、また私が弱気なことを言っている部分に対しては温かくたしなめて下さっている。少しも窮屈なところのないのびやかな歌いぶりで、私を励まそうという意を充分に尽くしている。

長歌の結び「たなゆひ」はあまり和歌の世界では用いない言葉で有るが、ここは池主殿お得意のおふざけでもあろう。「しっかりと約束しましたよ」などと子供じみた言葉遣いで私を笑わそうとでもされたのだろう。私の体調が快復してから、共に野遊びに出かけようと押しつけがましくなく結んでおられる。ただ、長歌ではこれほど厳密に私の歌に即応していたかかわらず、反歌の方は私の三首に対して、二首しかお返しがない。これは今回の書簡に山吹の一枝をお添え下さったので、それにあわせたものなのだろう。

昨日、あれほどの技を凝らした詩文をお贈り下さった上に、今日このようにお心のこもったご返事を下さったと言うことは、池主殿もだいぶご無理なさったのではなかろうか。こんなに朝早くにこの書簡をお贈りいただいたと言うことはひょっとしたら夕べは徹夜なされたに違いない。この御厚情身に沁むばかりである。私も昨日の詩文に対しての言承けを急がねばならない。

<補>

ここもまた蛇足ではあるが、念のため・・・

昨日短懐を述べ、今朝耳目を汗(ケガ)す。更に賜書を承り、且つ不次を奉る。 死罪死罪。 下賎を遺(ワス)れず、頻りに徳音を恵みたまふ。英霊星氣あり、逸調人に過ぐ。 智水仁山、既に琳瑯の光彩を韞(ツツ)み、潘江陸海自(モトヨ)り詩書の廊廟に坐す。思を非常に騁(ハ)せ、情を有理に託(フ)す。 七歩にして章を成し、数篇紙に満つ。 巧(ヨ)く愁人の重患を遣り、 能(ヨ)く恋者の積思を除く。 山柿歌泉も此に比ぶれば蔑(ナ)きが如く、 彫龍の筆海は粲然として看ることを得たり。 方(マサ)に僕(ワ)が幸(サキハ)ひ有るを知る。 敬みて和ふる歌、其の詞に云はく。

昨日は拙い思いを申し述べ、今朝はまたこのようなつまらぬ手紙をさし上げることをお許し下さい。さらにお便りをいただき、性懲りもなくまた乱文をさし上げること、まことに恐れ入ります。私のようないやしき者のこともお忘れになることもなく、このようにしきりにありがたい便りをお恵みいただきました。その文才は星のように輝き、秀でた歌の調子は人並みをはずれております。あなた様の川が蕩々と流れるような、山のように泰然たる文才は、既に玉のような輝きを内包し、潘江・陸海に比すべき才能はもともと詩文の殿堂に至るほどの者であります。着想は非凡であり、その詩情は筋道の通ったものになっています。かつて曹植が魏の文帝に命じられ、七歩を歩む間に詩を作ったように、即座に詩を作り、その数篇が紙に満ちるといった有様です。見事に愁いに沈む私の心を晴らし、よく積もりに積もった私の恋情を除いて下さいました。あなた様の作品に比べれば、かの「山柿」の歌々も無きに等しく、龍を彫った細工のように巧みに飾られた文章を私は目の当たりにすることが出来ました。まさしく我が幸福を知ることが出来ました。そこで謹んでお応え申し上げる歌を詠みました。その歌は次のようなものです。

七言、晩春三日遊覧一首

七言晩春三日遊覧一首 并序
上巳名辰暮春麗景 桃花昭瞼以分紅柳色含苔而競緑 于時也携手曠望江河之畔訪酒迥過野客之家 既而也琴罇得性蘭契和光 嗟乎今日所恨徳星已少歟 若不扣寂含章何以攄逍遥之趣 忽課短筆聊勒四韻云尓

餘春媚日宜怜賞 上已風光足覧遊
柳陌臨江縟袨服 桃源通海泛仙舟
雲罍酌桂三清湛 羽爵催人九曲流
縦酔陶心忘彼我 酩酊无處不淹留

三月四日大伴宿祢池主

昨日、序文を併せた長歌を書簡として池主殿のもとに贈ったばかりなのに、もうその返事が来た・・・と思い、喜び勇んで封を切ったけれども、どうやらこのご返事は私の書簡とは入れ違いに贈られてきたらしい。そこに記されていたのは、上掲の序文を併せた漢詩であって、私の贈ったものに応えた内容ではなく、昨日池主殿たちがお出かけになった上巳の吉日の遊覧についての内容であった。

それにしても、本当に楽しい一日をお過ごしになったように見える。病で寝込んでいたせいで、ついついこう言ったことに気が回らずにいたが、そういえば昨日は三月三日、上巳であった。古く唐土の国で始まったというこの行事は、もともと暮春三月の最初の巳の日に身の汚れをそそぐ習慣から始まったらしい。いつのまにかそれが三月三日の日に行うものと定まり、風雅な遊びを伴うものとなった。我が国においても文武の帝の御代あたりから定着し、都ではこの日曲水の宴を催すことがならいとなっている。もちろん、ここは越中。曲水の宴を行うような場所はなかろうから、池主殿たちはどうやら連れだって野遊びをしていたらしい。

どんな楽しい一日をお過ごしになったのかと思い、少々うきうきとした気分で読み始めたところ「桃花は瞼を昭らして紅を分ち」の部分が少し気になった。遊仙窟あたりで桃の花が「臉(ホホ)」に照り映えるというような表現は目にしたことはあるのだが・・・・「瞼(マナブタ)」とは・・・池主殿の工夫なのだろうか。それとも、私の目にはこの文字の篇が「目」に見えるのだが、ひょっとしたら「月」なのかもしれない。・・・このあたりはご本人に聞いて見ねばなるまい。いずれにしろ、よく文意は通じているし、作の良し悪しに関わるものではない。ただ、桃はこの越中あたりには見られないものであるから、池主殿は都の様子をご想像になってこう書かれたのだろう。その後に柳のことが書かれているから、ここにどうしても桃は出てこなければならないだろう。それゆえ、この柳と桃の対は詩の中にも用いられている。

それにしても「酒を訪ひ野客の家に逈く過る」とは、なんともしゃれた趣向だ。こんな所に「野客(隠者)」などおるまいに、さしづめこの日の一同のどなたかを「野客」に擬え、そこで一献傾けたことをこのように表現したのであろう。そのような場においてであるから、「蘭契光を和げたり」の一節も効いてくる。世に隠れ住む賢者たちが、その光(学才・徳)をひけらかさずに和やかに交わりあっている様だ。そんな「賢者」たちが私のことを「徳星(君子)」と呼んでいるのだから、恐れ入ってしまう。なんとももったいないお声かけであることか・・・私としても出来ればその場に居合わせたかったもの。かえすがえすも残念でならない。
そして私を何よりも驚かせたのはこの池主殿の漢詩である。何ともまあ見事に韻を踏んでおられることか・・・。「遊」「舟」「流」「留」の四文字、韻のつながりだけではなく、その意味においてもよくよく字を選んでいるようにさえ思われる。これまでのやりとりの中で文をお作りになる力量については充分に知っていたつもりではあったが、詩の方のお力もこれほどのものとは思ってはいなかった。昨日の楽しい遊覧の様子が目を閉じれば浮かんでくるようだ。

「柳陌は江に臨みて袨服を縟にし」のあたりは暖かい春風に柔らかく揺れる柳や、その下に集うご一同の晴れやかなお姿が彷彿とされる。「桃源は海に通ひて仙舟を泛ぶ」については、寡聞にして桃源郷が海に通じるなどという文や詩は今まで見たことがない。ここはおそらくこの越中の地形を表現したものであろうか。春のうららかなこのあたりの風景がご一同には桃源郷に続くもののように感じられたのであろう。それにしても池主殿も想像力が逞しい。曲水もあるわけではないのに「羽爵人を催して九曲を流る」とは・・・上巳というこの吉日、想像の世界だけでも、その風雅を味わおうとでも言うのだろうか。実際にその場に居合わせなかっただけに、この仮想の曲水が、私には現実の曲水のように思われてならない。「縦酔陶心彼我を忘れ 酩酊し処として淹留せずといふこと無し」のあたりは、思わず吹き出しそうになってしまった。酒によいくだを巻いているご一同のお姿が眼前のもののように思えて仕方がない。

この楽しい集いに参加できなかったことはなんとも残念で仕方がない。けれども、こうやって序文と詩を読ませていただき、なにやら私もその場にいたような楽しげな気分になれたのはありがたい。池主殿のお気遣いには本当に感謝してもしきれない。これはこのまま貰いっぱなしにしておくことは出来ない。なんとしてもお返しせねばとは思うが、これまで漢詩などはあまり作ったことはない。池主殿の作に見合うだけのものができるかどうか、はなはだ心許ない。とはいえ、何事も始めてみなければことは始まらぬ。さて、早速とりかかるとするか・・・

<補>

少々くどくはなるが、念のために・・・

七言の詩、晩春の三日の遊覧の一首 序を併せた
上巳(ジャウシ)の名辰は、暮春の麗景なり。桃花は瞼(マナブタ)を昭(テ)らして紅を分ち、柳色は苔を含(フフ)みて緑を競(キホ)ふ。時に、手を携はり江河の畔を曠(ハル)かに望み、酒を訪(トブラ)ひ野客の家に逈(トホ)く過(ヨキ)る。既にして、琴罇性を得、蘭契(ランケイ)光を和(ヤハラ)げたり。嗚呼、今日恨むるところは、徳星すでに少なきことか。もし寂を扣(タタ)き章を含まずは、何をもちてか逍遙の趣を攄(ノ)べむ。たちまちに短筆に課(オホ)せて、いささかに四韻を勒(ロク)すと云爾(シカイフ)。

三月三日の吉日、暮春の麗しい風景です。桃のは見る人の瞼もあかあかと照り映え、柳の色は苔を含んで、その緑を色の鮮やかさを競い合っております。この時に、友と手を携えて川のほとりを遥かに望み、酒を求めて遠い隠者の家を尋ねます。こうしてもはや琴と酒は存分に本性を発揮し、蘭の花の香のように清い賢者の交わりを和やかに結んでおります。ああ、今日残念なことは、あなた様がいらっしゃららないことです。もし詩文を作るのでなかったならば、どうして今日の逍遙の趣を述べることが出来ましょう。たまたま拙い筆に命じて、いささか四韻の詩を作ったという次第にございます。

余春の媚日(ビジツ)は怜賞するに宜(ヨ)く
上巳の風光は覧遊するに足る
柳陌(リウバク)は江(カハ)に臨みて袨服(ゲンブク)を縟(マダラカ)にし
桃源は海に通ひて仙舟を泛(ウカ)ぶ
雲罍(ウンライ)桂を酌みて三清を湛(タタ)へ
羽爵(ウシヤク)人を催(ウナガ)して九曲を流る
縦酔(シヨウスイ)陶心彼我を忘れ
酩酊し処として淹留(エンリウ)せずといふこと無し

暮春の麗らかな日は賞美するによく、三月三日の風光は遊覧するにふさわしい。
柳の並木は川沿いに伸びて、人々の晴れ着をまだらに彩り、桃源郷は海に通じていて仙人の舟を浮かべている。
雷雲の形を刻んだ樽に桂酒を酌めば美酒が満ち、鳥の翼を象った酒杯は人に詩作にとせきたて、曲がりくねった岸辺を流れて行く。
思うがまま酔いしれて何もかも忘れ、酩酊して行く所々で足を留めないことはない。