カテゴリー別アーカイブ: 讃美歌

至水海遊覧之時各述懐作歌

至水海遊覧之時各述懐作歌

神さぶる 垂姫(タルヒメ)の崎 漕(コ)ぎ廻(メグ)り 見れども飽かず いかに我れせむ

右一首田邊史福麻呂殿

垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ

右一首遊行女婦(ウカレメ)土師(ハニシ)

垂姫の 浦を漕ぐ舟 梶間にも 奈良の我家(ワギヘ)を 忘れて思へや

右一首大伴家持

おろかにぞ 我れは思ひし 乎布(オフ)の浦の 荒礒(アリソ)の廻り 見れど飽かずけり

右一首田邊史福麻呂

めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥(ホトトギス) 何か来鳴かぬ

右一首掾久米朝臣廣縄

多古の崎 木の暗茂(クレシゲ)に 霍公鳥 来鳴き響めば はだ恋ひめやも

右一首大伴宿祢家持

前件十五首歌者廿五日作之

水海では船を繰り出しての遊覧だ。垂姫の崎から水海の南の岸部をたどり、乎布へと船を進めた。初めの三首が垂姫の崎のあたり、次の二首が乎布の崎、そして最後に多古の崎で私が一首詠んでこの日の遊覧は終わった。

まず初めに福麻呂殿が歌う。「見れども飽かず いかに我れせむ」と手放しのお喜びだ。この布勢の水海の絶景を、福麻呂殿はよほどお気に入りになったのであろう。無理もない。海のない大和に住んでいればこのような絶景にお目にかかることはない。かくいう私だって昨年初めて訪れたこの場所の感慨があまりに大きかったから「遊覧布勢水海賦」を詠んで、都にそのすばらしさを伝えようと思ったのだから。

次に遊行女婦の土師の歌。土師はこのあたりでは名の知られた遊行女婦だ。国府に勤務する我々はすべからく単身でこの越中にやってきているので、宴席の場はどうにも花がない。そんな場に花を添えてくれるのが遊行女婦だが、ただそこにいて酌をすると言うだけではない。その場その場にあわせた気の利いた歌や言葉で宴席を盛り上げる才覚がなければ務まらない。その点土師は優れた遊行女婦で、ここでも上手に場の、特に主賓である福麻呂殿の意を汲んで上手に盛り立ててくれた。

そして三首目、私の歌だ。先の二首の歌が垂姫の先の美景をほめたたえる歌であったのに対し、私は少し趣を変えて「家恋い」を主題とした。旅先にあって、その地をほめたたえることと「家恋い」はどちらも欠かすことのできない主題だ。両方があい揃って初めて旅の歌は成立する。ここで垂姫の崎から移動を開始すると言うことなので、私がこの場のとじめとしてこんな歌を詠んだのだ。ところで、この歌の左注には大伴家持とだけあって宿祢という私の姓(カバネ)が抜けている。縷々述べているようにこの日記のこのあたりの部分は私の死後にその損傷が著しかったと見えて、平安の御代の方々が補修のできる部分は補修してくださった。じつはここもそうなのであって、私の名前が欠けていたところを補ってくださったのだが、その際に姓が抜け落ちてしまったものだと思われる。我々平城の都に住をなしていた者にとっては欠かすことのできない姓ではあったが、平安の御代の人々にとってはあまり意をなさぬものであったらしく、うっかりと抜け落ちでしまったものと思われる。

さて場を変えて乎布の崎だ。ここでも主賓である福麻呂殿が第一声を放つ。以前の宴で、私が大和に帰ろうとする福麻呂殿をこの布勢水海の誘って引き留めたとき福麻呂殿は「いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる」と詠んで、この地の絶景ぶりを疑って見せた。その時、それに対し私が乎布の崎を引き合いに出してさらに引き留めた歌を思い出されたのであろう。乎布の崎、ひいては布勢水海の美しさを軽く見ていた反省を歌われている。もちろん、これはそんなそぶりだけであろう。福麻呂殿は先年、私が都に持ち帰った私と池主殿の布勢水海の歌を見て、この地には充分に惹かれていたはずである。

次に歌ったのは久米(クメ)朝臣廣縄(ヒロナハ)殿だ。先年越前に転出なさった池主殿に変わって、この越中に掾としておいでになられた方で非常に謹厳実直、真面目を絵に描いたような方だ。久米氏はかつて我が大伴家の遠祖天忍日(アメノオシヒ)命が配下大来目命の流れの一族。今、大和を離れ越中の地でこうやって上司、部下の関係で働くことになったのも何となく感慨深いものがある。歌の方は霍公鳥の鳴かないのを恨む歌であって直前の福麻呂殿の歌にそぐわないような感じもするが、これは先日の宴で私と福麻呂殿が

藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり(福麻呂殿)

明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも(私)

と歌い交わしたのを踏まえてのもので、この絶景のもと、霍公鳥の美しい鳴き声が加われば風趣はいっそう増したはずなのにと悔やんでいる歌だ。実は先日来の宴の幹事役を廣縄殿に勤めてもらっているのだが、謹厳実直な廣縄殿のこと、こんなことまで我が責任と感じているようだ。

そこで私がとじ目として、部下の謝罪の歌にさらに言葉を添え、福麻呂殿にお詫び申し上げる形で歌い上げたのが六首目の歌だ。歌中、乎布の崎ではなくて多古の崎を詠み込んでいるが、これは場が変わったというより、歌っているうちに船が移動してしまったことから来るものだ。多古の崎は乎布の崎のやや東南。船を一漕ぎすればすぐにたどり着いてしまうほどの距離だ。

さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。

それは・・・

・・・後日・・・その時が来たら・・・

 

于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌

于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌

いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる

右一首田邊史福麻呂

乎布の崎 漕ぎた廻り ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに 一云君が問はすも

右一首国守大伴宿祢家持

玉櫛笥 いつしか明けむ 布勢の海の 浦を行きつつ 玉も拾はむ

音のみに 聞きて目に見ぬ 布勢の浦を 見ずは上らじ 年は経ぬとも

布勢の浦を 行きてし見てば ももしきの 大宮人に 語り継ぎてむ

梅の花 咲き散る園に 我れ行かむ 君が使を 片待ちがてら

藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり

右五首田邊史福麻呂

明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも 一頭云霍公鳥

右一首大伴宿祢家持和之

前件十首歌者廿四日宴作之

この日の宴はまもなく都に帰る田邊福麻呂殿のはなむけとして行われた宴である。福麻呂殿と私とでしめて十首の歌が詠まれたこと、左注にあるとおりである。けれども、先日述べた理由により現存の我が歌日記には八首しか残っていない。実は福麻呂殿が、この日のはなむけの宴を催してくれたことへの謝意を示す歌があって、その次に私がまさに帰らんとする福麻呂殿を引き留めるため布勢の水海への遊覧にお誘いする歌が冒頭に合ったはずなのだが、残念ながら散逸してしまった。

ただ私の布勢の水海への遊覧への誘いがあったからこそ、福麻呂殿の「いかにある」の歌が詠まれたことだけははっきりと記憶している。まんざら布勢の水海への遊覧に対して興味がないこともないなと見て取れたので私はすかさず「見とも飽くべき 浦にあらなくに」とたたみ込んだのだ。それにしても、「いかにある 布勢の浦ぞも」などといささか抗議めいた口ぶりでお歌いになった福麻呂殿ではあるが、その後お詠みになった五首を見ると、本当のところは布勢の水海に対しては興味津々でいらっしゃったようにしか思えない。この五首には、先年私が上京した際に、橘諸兄殿のお宅でお披露目した歌の中の私と大伴池主殿の間で交わされた布勢の水海についての歌、とりわけ、「敬しみて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる」歌の影響と思われる語句が散見するからである。確かあのときはその場に福麻呂殿がいらっしゃらなかったように記憶するが、諸兄殿と福麻呂殿のこと、必ずや私の歌稿は福麻呂殿のお目にとまったに違いない。そしてその中でも大和では珍しい、海浜の風景を詠み込んだ布勢の水海への憧憬を温めていらっしゃったのではないか。でなければ、私がちょっと誘いかけただけでこうもすらすらとまだ見たこともない場所の歌を五首の歌を詠むことができるはずがない。

ところで、私の詠んだ二首についてであるが、「乎布の崎」の歌の結句を「君が問はすも」、「明日の日の」の歌は初句を「霍公鳥」とという形で、私は福呂殿の前では詠んだ。ただ、それを後から読み返したとき、そのままではどうにも据わりの悪さが感じられ、上のようにあらためたのだ。一つ目の「君が問はすも」はなにやら抗議めいた口調で、このままでは福麻呂殿は戯れに抗議めいた口調で「いかにある・・・」と詠んだのに対して、抗議し返しているように受け取られかねない。当の宴の場においては場の雰囲気もあることだし誤解を受けることはなかったが、こうやって書面に残すとすると後世の人には誤解されかねない。よって「浦にあらなくに」とあらためたのだ。そして、最後の歌。初句を「霍公鳥」と歌い起こしたが、これは直前の福麻呂殿の歌を受けてのものだった。けれども、ここでは「霍公鳥」の語を繰り返さずとも福麻呂殿の歌からの続き、そして私の歌の内容からそれと知れるのであって、ここに「霍公鳥」と入ってしまうとかえってしつっこくなってしまうのではないかと思ってあらためた。

いずれにしろ、この日の福麻呂殿は翌日布勢の水海への遊覧が楽しみでならないご様子だった。

従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首

従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首

珠洲(スズ)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり

右件歌詞者 依春出擧巡行諸郡 當時當所属目作之 大伴宿祢家持

月の初めに国府を発って昨日やっと珠洲の郡までたどり着いた。珠洲の郡は能登の岬の最果ての地、これにて私の今回の巡行は終わる・・・そんな思いで船出をしたのは夜明け前であった。そして、この松田江の長浜にたどり着いた今月が煌々と海を照らしている。一日中の船旅であったゆえ、疲れは並々ならぬものがあるが、そんな疲れも忘れてしまうほどの心地よさが私にはあった。

国守になって初めての巡行であったゆえ、本当に気遣いの絶えない日々であった。けれども、そんな職務を一つ一つが済み、終わりに近づいてゆくのは、やはり充実感が伴う。そしてその職務も昨日でようやく終えた。気分は爽快そのものだ。ゆらゆらと海上に揺れる月明かりが何とも言えず美しい。二月の初旬、国府を発って出挙のための巡行を始めた。国府周辺はあちらこちらと見てまわったが、越中の国全体をこうやって見て回るのは初めてだ。いちいち目に入ってくるものが新鮮でならない。

歌が口をつく。

意図して歌を詠もうとしなくとも、歌が口をつくのだ。しめて九首。そのどれもがちょいとは胸を張れそうな出来栄えだ。昭和の御代に私の歌をひどく言うことの多かったと聞く土屋文明殿でさえも、今日のこの歌はご評価下さったと聞く。

意味のある数日であった・・・・

能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首

能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首

鳥総立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びぞ

香島より 熊来をさして 漕ぐ船の 楫取る間なく 都し思ほゆ

先日の気太神宮への参拝の後、私は山道を辿り鹿島の津(平成の御代では七尾と言っていると聞く)へと向かった。そして熊来の村へと舟を進めた。

一首目はちょいと冒険をして旋頭歌を試みてみた。旋頭歌は最近でははやらないものになってしまったが、柿本人麻呂殿の時代までは結構人気のあった歌体だ。人麻呂殿も何首か試していらっしゃるが、その後はどうも人気がなくなってしまったようだ。そこには歌というものの役割の推移というものがあるのだろう。人麻呂殿以前は歌は集団の思いを歌うことが多かったと聞く。そして、その集団の思いを歌に託す場合、この五七七・五七七の旋頭歌という形が、ある場合には適していたのだろう。が、人麻呂殿以来、歌は個人の思いを表出するものとなった。そうなってくるとこの五七七・五七七がどうにも都合が悪いのだ。
今回の試みでそのことが思い知らされたように思う。なんとか体裁を整えることができたが、だいぶ苦労した。

ならば、なぜそんなに苦労してまでこんな実験したのか・・・

これから向かうところが熊来であるということでふと思い当たることがあったのだ。

はしたての 熊来のやらに 新羅斧 落とし入れ わし あげてあげて な泣かしそね 浮き出づるやと 見む わし

はしたての 熊来酒屋に まゐらぬる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まゐらぬる奴 わし

私の歌巻(万葉集)の巻の十六におさめておいた歌だ。この歌を思い出したとき、ちょいと真似をしてみようと思ったのだ。旅にあって旅先の風光をほめたたえるのはその土地の神霊に対してのご挨拶でお決まりのことだ。「幾代神びぞ」なんて言い回しからも皆さんにはうかがい知れるだろう。そして、その地の歌を真似ることも熊来の地の神霊のご機嫌を考えてのことだ

そして二首目、ここでは望郷の念を歌うことにした。これもまた旅の歌のお決まり。今度は思いを向ける先は都であるのだから遠慮なく五七五七七。
・・・やはり・・・こちらのほうがだいぶ楽だ・・・

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首

志雄路(シヲヂ)から 直(タダ)越え来れば 羽咋(ハグヒ)の海 朝なぎしたり 船楫もがも

さあ今日からは能登を巡行する。能登は後の時代に一つの国として独立するようになったが、今はまだ越中の国の一部、私の支配下にある。気多の神宮は大国主大神(大己貴オホナムチ)を祀る。この能登の一の宮である。これからこの半島を巡行するにあたっては先ず第一にご挨拶しなければならないお社だ。

国府の近く阿尾の浦辺りから能登の半島を横切り、志雄へと抜ける山道を志雄路と呼んでいるが、今日はその道を真っ直ぐに越えてきた。すると眼前に拓けてきたのは羽咋の海。朝凪に鏡のように水面は静まりかえっている。半島の外側は荒々しくいつも波立っていると聞いていたが、これならば舟で移動すればさぞや楽であろうに・・・・舟がないことが残念でならない。

新川郡渡延槻河時作歌一首

新川郡渡延槻河時作歌一首

立山の 雪し消(ク)らしも 延槻(ハヒツキ)の 川の渡り瀬 鐙(アブミ)漬かすも

婦負(メヒ)川からさらに東へと向かい延槻川までやってきた。立山連峰の一つ剣岳をその源とするこの川は、平成の御代には少々なまって早月(ハヤツキ)川と呼んでいると聞く。この越中の国でもことに流れの速い川であることで有名だ。

あまりに速いその流れの瀬を渡ろうとしたときに不本意にも鐙を濡らしてしまった。大和にはこんな流れの速い・・・そして清らかな流れを見たことはなかった。まだ風の冷たき季節で、もちろん水も冷たかったのだが、変に爽快な心躍る気持ちになってしまった。雪消にはまだ早い季節のようには思うが、この水の量、そして水の冷たさは・・・私には雪消の水に思えて仕方なかった。そして、この豊かな水流は、この地の豊かな実りを保証しているに違いない。

見潜鵜人作歌一首

見潜鵜人作歌一首

婦負川の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり

鵜坂川に辿り着いたは夕刻であったが、宿を取るためにはもう少し進まねばならない。川沿いにしばらく下る。周囲は婦負の郡となる。したがって川の名も婦負川となる。日は暮れて周囲は次第に漆黒に包まれて行く。宿に早く・・・と、少々焦っていたのは事実だ。ところがその行く手遠くに篝火の灯りが・・・

近寄ってみると、何と鵜を使って漁をしているではないか。今はまだ二月。鵜を使っての漁にはまだ早い。川面にちらつく仄かな明かりを頼りに見れば、漁をしているのはどうやら海士達ではない。このあたりの官人達のようだ。国守の私が今日この地を訪れることは知っていたであろうから、きっと歓迎の意を込めて、このような興をそそるようなことを行ってくれたのであろう。

宿にたどり着いてからの宴には礼の一言も言わなければならない。この歌はその時に披露しようとも思う。

婦負郡渡鵜坂河邊時作一首

婦負郡渡鵜坂河邊時作一首

鵜坂川 渡る瀬多み この我が馬の 足掻きの水に 衣濡れにけり

鵜坂川は平成の御代でいうと、神通川が富山県の婦負郡婦中町あたりをさしていうらしい。このあたりは川幅が300m程もあり、川が幾筋にも別れている。馬に乗りながらではあったが、渡るには大分苦労した。なんといっても大和にはこのように大きな川はない。どのようにして渡るか、あれこれと土地のものに教わりながらなんとか川を渡りきったものの、乗っていた馬の歩みがもたらすところの飛沫に私の衣はすっかりと濡れてしまった。

こうやって旅先にあるがゆえ、この衣を乾かしてくれる妻もいない。なんともまあ辛いことではあるが、これも公の任務。怠ることはできぬ。それにしても、雪消の頃とはいえ、この越中の国はなんとまあ水の豊かな国であることか。明日また幾つの川を渡ることやら・・・

礪波郡雄神河邊作歌一首

礪波郡雄神河邊作歌一首

雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦付(アシツキ)水松之類取ると 瀬に立たすらし

今日からいよいよ春の出挙(スイコ)の為の巡行だ。これは国司としての当然の任である。本来ならば昨年もこれに出かけねばならなかったのだが、自らの病、そして税帳使としての任が重なり、越中国内を巡行することはかなわなかった。よって今年初めて私は国司として越中の国内を巡る事になる。水挙とは公の稲などを農民に貸し与え、秋になったらその利息も含めて借りた稲を返還すると言う仕組みである。初めは貧農を救済するための対策として生まれた制度であったが、その利息が3~5割と高利であるため、農民にとっては重い税のような性質を持つものに最近なってきた。きちっとした運用をしなければ、農民達は疲弊するばかりである。私にまかされた任は重い・・・ある意味では身が引き締まる思いがする。

とはいえ、いつもは国府周辺をウロウロとすることぐらいしかできない私だが、こうして公務とあれば大手を振って越中のあちらこちらを見に行くことが出来る。ひそかに今日の出立を楽しみにしていた。

まず初日の宿りは砺波の郡は雄神川の畔だ。雄神川は平成の御代において庄川と呼ばれている川だ。国府を出立し辿り着く頃には日暮れが近づいていた。夕陽に照らされた雄神川は紅に輝いていた。キラキラと輝く水面には葦附き海苔を摘んでいる乙女達の姿が遠く見えていた。まぶしいきらめきの中、実際にはその黒い影しか見えなかったのであるが、私はその裳裾を濡らし葦附き海苔を摘む様に、都の女達の姿を重ね合わせてしまった。当然の事ながら、川面が紅に輝いていたのは夕陽のせいであったが、私は「乙女らし」と詠んだ。これだと川面の紅は乙女たちのせいになってしまう。しかし、田舎の娘達のこと身につけているのは地味な色彩の衣服でしかない。どこにも紅に川面を照り映えさせる材料はない。

けれども、私には彼女たちが都の華やかな女たちと二重写しになって見えたのだ。そしてその都の女達は揃いも揃って艶やかな赤裳を身につけていた・・・・

人は虚構に過ぎると笑うかも知れない。しかし、私にはそうとしか見えなかったのだから仕方ない。私は我が目に映ったとおり歌を詠むしかないのだ。

敬和立山賦一首

敬和立山賦一首并二絶

朝日さし そがひに見ゆる 神ながら 御名に帯ばせる 白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて 古ゆ あり来にければ こごしかも 岩の神さび たまきはる 幾代経にけむ 立ちて居て 見れども異し 峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく 万代に 言ひ継ぎゆかむ 川し絶えずは

立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ

落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ

右掾大伴宿祢池主和之 四月廿八日

これまた池主殿に一本とられてしまったようだ。昨日私が長歌の持つ欠陥を前回と同様に池主殿は見事なまでに補完してくださった。思えば私の長歌にはどうしても情に流れる傾向があり、具体的な叙述にかける傾向が多く見られ、実際の対象・・・ここでは「立山」・・・がどのような姿をしているのか、そしてそれがどんな風にすばらしいのかを見たことのない人に伝える力に乏しい。対して、池主殿のこの「和」歌は実に具体的に「立山」を描き出している。都の人々もこれを読めば「立山」がいかに壮麗で神々しい山か容易に想像できるというものだ。本当におそれ入った。「賦」という語を冠すべきはまさにこのような歌がふさわしいようにも思える。本当に勉強になった。自分はまだまだであるということを実感させられた思いがする。
さて歌の方といえば、冒頭の「朝日さし そがひに見ゆる」という一節にまず目が惹かれる。このように朝日に照らす出される対象物を歌うことは古事記にも「纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮・・・」ともあるように宮城讃美の語だ。私が昨日の長歌に宮廷讃歌の手法を取り入れたことを受け止めた歌い出しといってよい。「そがひ」はその使われざまから「背後、後ろ、後方」の意、あるいは「斜め後ろ、横」と理解されていることが多いが、ここはそう考えるとこの歌の魅力は半減してしまう。なぜならば、その理解に基づくならば、ここで歌われた「立山は逆光の中の黒々とした山容を見せているか、あるいは作者である池主殿が「立山」を正面切って見ていないことになるからである。この長歌の歌いざまから考えたとき、池主殿は朝日の中に燦然と輝く「立山」を正面から見据えているのでなければならない。

とすれば、この「そがひ」という語をどのように考えるべきか。思うに池主殿は漢籍に見られる「背向」という語の訳語としてこの語を使ったのではないか、と考える。このように理解すると山々が前後して並んで知る姿を表すことになり、朝日の中に手前にも奥にと重畳と聳える「立山」連峰の姿をありありと思い浮かべることができる。この理解が他のすべての場合にふさわしいか自信はないが、少なくともこの歌に関しては、こう理解するしかないと思う。

続いて、上で述べた池主殿の具体性を次に示したいと思う。

白雲の 千重を押し別け 天そそり 高き立山 冬夏と 別くこともなく 白栲に 雪は降り置きて・・・こごしかも 岩の神さび

何重にもかかった雲を貫き聳える「立山」の姿が眼前に浮かんでくるような表現である。そしてまた、私が「常夏に 雪降り敷きて」としたのよりは、池主殿のこの読みざまの方がはるかにわかりやすいことはいうまでもない。私が歌うことの無かった、その山肌の様子についての既述も「こごしかも 岩の神さび」と忘れることはない。そして、この「山」についての叙述に続き、「川」の叙述である。

峰高み 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内に 朝さらず 霧立ちわたり 夕されば 雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ過ぐさず 行く水の 音もさやけく

もうくどくど説明はしない。しかし、そこにある川のイメージは私の長歌のそれよりもはるかに明瞭である。「峰高み」の一句をはさみ、「山」から「川」へとの対象の転換も見事である。ともあれ、これで都への手土産となるべき歌が一通り揃った。都の人々はどんなに喜んでくれるであろうか・・・