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怨鴬晩哢歌一首

怨鴬晩哢歌一首

鴬は 今は鳴かむと 片待てば 霞たなびき 月は経につつ

二月の初めから、ほぼ二旬にわたった越中国内の巡行も終わり、ようやく国守の館にたどり着いた。二月も、もはや幾日かを残すのみ。春の気配は今ぞ盛りぞ…といった具合か。ここまで春の気配が濃厚になってきたならば、鶯の一声があってもしかるべきなのになかなかその声を聴くことはできない。

思えば昨年初夏、私は郭公鳥を声を待ち焦がれ何首も歌を詠んだ。その時もなかなか鳴かない郭公鳥にしびれを切らせていたが、鶯もまたこの越中ではなかなか泣き始めない。同じ大和の国だというのに・・・・その気候の違いにはあらためて驚かされるものだ。

天平廿年春正月廿九日

東風越俗語東風謂之あゆの風是也いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小船 漕ぎ隠る見ゆ

港風 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻呼び交し 鶴多に鳴く[一云 鶴騒くなり

天離る 鄙ともしるく ここだくも 繁き恋かも なぐる日もなく

越の海の 信濃濱名也の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや

右四首天平廿年春正月廿九日大伴宿祢家持

 今日、一月の二十九日は平成の御代の暦で言えば三月のはじめ。寒さの厳しい越中の国といえど、ほのかの春の気配があちらこちらに漂う季節である。その陽気に誘われて国府近くの海浜をそぞろ歩きしながら作ったのがこの四首だ。いちいちの歌の出来はさほど自慢は出来ないが、それなりに工夫はしてある。特にその配列には格別の気配りをなしたつもりだ。

一口で言えば、漢詩の起承転結の構成に倣ったものと言えようか。一首目に奈呉の海の沖辺を行く漁師達の小舟を歌い、二首目はそれを承けて港近くの江の鶴を歌う。遠景から近景へと視点を変化させた。加えて、一首目が視覚を中心に歌ったのに対し、二首目は聴覚を中心に歌うといった風に変化をつけている。遠と近、景と音を対比しながら、この二首で今日のそぞろ歩きにおいて、私が接し得た全てを表現しようとしたのだ。

そして三首目。漢詩で言えば「転」の句にあたる。私もその作法に倣い、ここで私の「情」の部分を歌の中心においた。遠く大和を離れ、異郷に暮らし続ける哀しみ・・・「旅愁」を主題として歌ってみた。これは、二首目の「妻呼び交し 鶴多に鳴く」の句を受けてのものだ。「転」の句ではあっても、これまでの二首と遊離してしまっては何にもならない。ここはちょいと腕の見せ所だったと思う。そして、四首目。「結」の句に相当するこの歌は上三句で旅にある自分を歌い(これは一首目、二首目を受けたもの)、下二句で故郷の妻達を思う気持ちを歌う(三首目を受けたもの)形で締めくくりとする・・・・

以前、大伴池主殿とのやり取りの中で漢詩を作ってみたこともあったが、だいぶと苦労した上、池主殿のお目を汚してしまうような結果になってしまったことを考えると、この短歌四首で漢詩のように起承転結を構成するやり方の方が私には向いているのかも知れない。またこうした旅先にあっての作歌の作法として「旅」と「家」を対比することが重要なことであるのだが、これまた起承にあたる二首で越中の景物を歌い、転結相当の二首が家への思いを歌うというふうに、これもまたこの起承転結の構成の中にうまく取り込むことが出来た。

最後に上の歌中に加えた割注について説明しておこう。

一首目の注。越中の地においては東風のことを「あゆの風」という。ちょいとひなぶりの雰囲気を出してみたいと思い、「東風」と書いてあえて「あゆの風」と読ませようとしたものだ。ただし、ここでは厳密に東方から吹いてくる風と言うよりは、おおむねそちらの方から吹いてくる暖かな春の風という意味で使っている。
二首目の注。割注は初案である。今、この日記に書きつけるにあたり、「鶴多に鳴く」と改め、これを決定稿とした。四首目の注。私自身がこの「信濃」という語に興味を覚えてこの歌を作ったのだが、大和にあっては山国の名である「信濃」という言葉が浜の名であることが一見して、この歌を読む人にひっかかりを感じさせるかも知れないと思い、蛇足ながら付け加えたものである。

思放逸鷹夢見感悦作歌

思放逸鷹夢見感悦作歌一首  并短歌

大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に追へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥すだけりと 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に [大黒者蒼鷹之名也] 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さ慣らへる 鷹はなけむと 心には 思ひほこりて 笑まひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 我れには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥猟すと 名のみを告りて 三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと 帰り来て しはぶれ告ぐれ 招くよしの そこになければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り 守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ祷みて 我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つ鷹は 松田江の 浜行き暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多古の島 飛びた廻り 葦鴨の すだく古江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日のをちは 過ぎめやも 来なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとぞ いまに告げつる

矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける

二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも

松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ

心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ

右射水郡古江村取獲蒼鷹 形容美麗鷙雉秀群也 於時養吏山田史君麻呂調試失節野猟乖候 摶風之翅高翔匿雲 腐鼠之餌呼留靡驗 於是張設羅網窺乎非常奉幣神祇恃乎不虞也粤以夢裏有娘子喩曰 使君勿作苦念空費精神 放逸彼鷹獲得未幾矣哉 須叟覺寤有悦於懐 因作却恨之歌式旌感信 守大伴宿祢家持 九月廾六日作也

久しぶりに歌を詠んだ。都での滞在が長くなってしまい、その間は様々な報告ごとや、久々にあった妻の坂上大嬢、叔母であり義母でもある坂上郎女、そして我が子たちといった家族のご機嫌取りに忙しく、歌を詠むどころではなかったからだ。それに去年の秋、世を去った弟、書持の供養もあってなかなか忙しい在京であった。

それに、それらの諸事を終えて越中に帰ってきたら、思いもかけない状況に出くわしてしまったことも私の歌興をそいでしまった。昨年、越中に赴任して以来、私にあれこれと気を遣ってくれた大伴池主殿が越中を去り、越前へと赴任してしまっていたのだ。池主殿は私の他には代え難い歌友であり、彼なしではどうにも歌を詠む気になれなかったのだ。

寂しい思いをしている私にさらに残念なことが重なった。歌中にもあるように私ども地方に赴任している官人の秋の楽しみに「鷹狩り」がある。平城の都の方ではすでに禁令が出て行えなくなっている「鷹狩り」ではあったが、越中のような地方ではお目こぼしをいただいている。私も越中に来てからすばらしい蒼鷹(オホタカと詠むのが通例)を手に入れた。それはそれはすばらしい鷹であった。蒼鷹はもともと気性が荒く、「鷹狩り」には好適な鷹ではあるが、その中でもこの蒼鷹は飛びきりであった。私はこの鷹に「大黒」と名付けた。しかもこの鷹が私によくなついてくれたのだ。大和での任務を終えた私は、この「大黒」で秋の越中の野において「鷹狩り」をすることを夢想しながら北陸路を北へと向かった。そして越中に着いてからも朝な夕なにこの鷹の姿を見ては「鷹狩り」の季節の到来を待った。

ところが・・・そんな季節でもないのに、この鷹の養育を任せていた山田史君麻呂が、猟の訓練だということで私の許可も得ないで野に連れ出してしまったのだ。「大黒」は空高くいずこへか飛び去っていってしまった。池主殿不在のこの越中の秋のせめてもの楽しみをも私はなくしてしまった。山田史君麻呂に対する怒りは抑えがたいものがあった。けれどもこうなってしまった後、いくら怒ってみても仕方がない。あちらこちらに鳥網を張って再度捕獲しようとしてみたり、神に祈ったりと尽くせるだけの手は尽くした。その甲斐があってか、数日たったある日私はある夢を見た。夢の内容は歌中、左注にあるがごとしである。私の喜びは尋常のものではなかった。そしてその喜びが久しぶりに私に歌興を呼び起こしてくれた。

喜びの大きさが、この歌を思いもかけず長々とした歌にした。こうやってできあがって読み直してみても、なかなかのできばえだ。一つの物語としてある程度はまとまったものになったのではないかと思う。これほどの長さを感情に流されず、破綻なく最後まで歌いおおせたことに我ながら驚いている。これもまた、春に池主殿と数度に渡って歌を交わした成果であろうか。とすれば、あの数ヶ月は私の歌人としての力量を高めるに非常に大きな役割を果たしてくれたのではなかろうかと思う。本当に充実した数ヶ月であったのだと、今さらながら池主殿に感謝している。

それにしても、この歌を見せるべき池主殿がこの越中の地に居ないことだけが何とも残念でならない。私はこの歌を詠みながら、逃げ去った「大黒」に、知らず知らずに池主殿の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

<補>

蛇足ではあるが漢文の左注をわかりやすく書き改めてみた。ご参考までに・・・

右の歌は射水郡古江村で捕獲した蒼(オホ)鷹についてのものだ。その姿は美麗であってその荒々しい気性は群を抜いていた。ある日養吏の山田史君麻呂が猟(カ)りに備えての訓練の季節を間違え、秋から冬への季節に背き、猟りに出かけてしまった。その蒼鷹の風を切って羽ばたく翼は、空高く翔り、雲間に隠れてしまった。鼠などのつまらぬ餌で呼び戻そうとしたがその効果があるはずはなかった。そこであちらこちらに鳥網をはって、あり得ぬことではあると思うがその鷹を捕まえようとし、神に幣を奉り、思いがけず鷹が帰ってくることを願った。すると夢に少女が現れ、私に諭すように言った。「あなたはそんなに苦しい思いをしてむなしく心を疲れさせてはならない。逃げた鷹を取り戻すのはそれほど遠い先の話ではない。」と。たちまちにして私は目覚め、そして喜んだ。よって恨みに思う気持ちを払う歌を作り、心に感じたしるしとした。

国守大伴宿祢家持  九月二十六日作

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌一首

ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥 鳴く音遥けし 里遠みかも

右大伴宿祢家持作之

霍公鳥の初音を聞いた。先月の二九日、この私の愛する鳥の声が立夏を過ぎても鳴かぬ事を恨みに思う歌を詠んだ。その翌日には「二上山賦」という長歌をものし、その反歌にも霍公鳥への思いを歌った。私はこの声を今か今かと待ち焦がれていた。しかし、都へと出立する日が近づくにつれ、私の周囲は次第に慌ただしくなり、私自身も都へと携えるべき公簿類の整理点検に追われ、次第に余裕は無くなってきていた。今日も夜も遅くまでその作業に追われ、一息ついたのがついさっきであった。

ふっと息を抜き、都の懐かしい人のことなどを思い出していたとき、私はこの耳で確かに聞いた。あれほど恋い焦がれた 霍公鳥の今年初めてのさえずりを・・・

それは消え入るようなかすかな声であった。あまりにもかすかなるが故、普通ならば「声」と詠むべきところを「音」と詠んだ。生あるものが発するものを「声」、それ以外のものの発するものを「音」と表現するのが本来ではあろうが、今日の霍公鳥の「声」はあまりにかすかに過ぎて、それが本当に霍公鳥のものかと疑われるほどのものであったので、ここでは「音」と詠んだのだ。

歌中の「ぬばたまの」の使い方はちょっとした工夫だ。この枕詞、「黒」「夜」などのかかるのが通例で、「月」のように光を放つものにかかるのは異例と言ってもよかろう。私としては、たとえ月があったにしろ、自分が見たいはずの霍公鳥の声のする方向が闇に覆われ、何も見えていないことからこの枕詞を使ったのだが、この歌を読んだ人はいかに受け取るであろうか・・・少し心配はある。

ただその下の「月に向かひて」は少し自信がある。闇の中、他のいずこでもなく「月」に向って鳴いている霍公鳥のその姿を幻視し、このように詠んだのだが我ながらうまくできたと思っている。このような言い回しを私は他に知らない。私だけの表現だ。

私だけの・・・ということにこだわれば「遙けし」という語も私だけのような気がする。いったい私はこのての言葉が好きで、他にも「遙けさ」「遙々(ハロハロ)」などをよく使う。それは対象物が遙か遠くに見えるという意味ではなく、対象物の「声」「音」が、遠くからかすかに聞こえてくるという意味で使う。何気なく過ごしているだけでは聞こえてこない・・・目を閉じて聴覚を研ぎすまなければ聞こえてこない「声」「音」を聞くのが私は好きだ。そんな私の嗜好に、この言葉はとても馴染んでくれる。

今日も夜遅く、皆が寝静まり他の音が一切絶えた中、私はひそかに耳を澄ませていた。未だ鳴かぬかの鳥の声が聞こえてはこないかと思ってのことである。遠く波の音が単調に繰り返される。ひたすら霍公鳥の初音を待つ私の耳には、その波の音すら、次第に無きがごとくになってくる。そして、一切の夾雑物が排除された私の耳に聞こえたのが、この「遙け」き霍公鳥だった。あるいはその声を聞きたいばっかりの空耳だったのかもしれぬ。けれども、それは、もはや私にはどうでもいいことになっていた。現実のものであるか否かを超えて、私の耳には霍公鳥の初音が確かに聞こえたのだ。

思えば立夏を過ぎてはや数旬。霍公鳥の初音がこれほど遅いのは大和では考えられぬこと。この度の上京の土産話の一つとなろう。ともあれ、3月29日、30日の二つの歌はこの霍公鳥の初音によって完結する。歌の良し悪しはともかく、大和と越中の風土の違いは都の風流人士を驚かせるにたることであろう。

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌二首

あしひきの 山も近きを 霍公鳥(ホトトギス) 月立つまでに 何か来鳴かぬ

玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし

霍公鳥者立夏之日来鳴必定 又越中風土希有橙橘也 因此大伴宿祢家持感發於懐聊於裁此歌 三月廿九日

私はことのほか「霍公鳥」が好きだ。もちろんその鳴き声を愛でているのだ。この鳥の声はある時には亡き人を、またある時には恋人を・・・と、懐かしい人のその面影を彷彿とさせてくれる。後の世の人の数えたところによると私の歌巻(万葉集)には153首の歌に詠まれているとか・・・そのうち63首は私の歌だそうだ。あまり意識してはいなかったが、この数字を見ると、それほどのものかと我ながらあきれてしまう。まあ、私の他にも90首ほど「霍公鳥」を詠んだ歌があるそうなのだからこの傾向は私に限ったことではあるまい。ただ少し私にその傾向が強かったのだ。

とはいえ、わたしがこの鳥が飛来し、鳴き出すはずの季節になるといてもたってもいられなくなるのは事実であり、この二首もそんな思いを詠んだものである事は説明するまでもないであろう。私の待ち遠しい気持ちは、その題詞に示しておいた。

というのはこの歌を詠んだ今日は3月29日で、未だ4月にはなっていない。夏は4月の1日に始まる。けれども、月齢の進行と、暦には毎年若干の食い違いがある。今年(天平19年)は3月の21日が立夏だ。である以上その日からもう夏なのだ。夏である以上それは4月・・・私の意識の上でことではあるが・・・・。他の方からみれば、多少無茶苦茶に思えるような論理ではあるが、「霍公鳥」の飛来を待つ私の心持ちから言えば何の矛盾もそこにはない。

・・・ひょっとしたら、上京予定の4月が少しでも早く来てほしいとの私の願いが、暗に表出したものなのかもしれないが・・・

それにしても遅い・・・大和ならば立夏の頃にはあの懐かしい声が聞こえてしかるべきなのだが・・・

聞けば、唐土にあっては「霍公鳥」が暮春に飛来するとの考えが一般的らしく、最も早いものは春分、最も遅いものは立夏とする考えもあるらしい(「子規と郭公」青木正兒全集巻八)。ここで私は我が国の実情に合わせ「霍公鳥は立夏の日になれば飛来しその鳴き声を聞かせてくれるのが必定」と書いた。

なのに、まだ鳴かない・・・

この寒冷な越中の風土のせいか、あるいはこの鳥の連れ合いと言っても過分ではない「橘」がこの越中の地にはまれにしか見られないからであろうか。ともあれ、私は同じこの国にあって、かくも違いがあることに大いに興味を抱いた。

述戀緒歌一首

述戀緒歌一首 併短歌

妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常(トコ)初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻(オクヅマ) 大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離(サカ)る 鄙(ヒナ)治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年行き返り 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ 敷栲(シキタヘ)の 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど うつつにし 直にあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ 近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕 さし交へて 寝ても来ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも 振り放け見つつ 近江道に い行き乗り立ち あをによし 奈良の我家(ワギヘ)に ぬえ鳥の うら泣けしつつ 下恋に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占(ユフケ)問ひつつ 我を待つと 寝すらむ妹を 逢ひてはや見む

あらたまの 年返るまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも

ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋ひやまずけり

あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり

春花の うつろふまでに 相見ねば 月日数みつつ 妹待つらむぞ

右三月廿日夜裏忽兮起戀情作 大伴宿祢家持

我々国守の任にある者は、年に四つの事柄を報告するために文書を作成し、都に使いせねばならぬ。徴税の根幹となる住民台帳たる大帳を携える大帳使・地方の収支報告書たる正税帳を携える正税帳使・様々な貢ぎ物の収集状況を報告したり、その貢ぎ物を都へと運ぶための貢調使・地方官人の勤務状況を報告する朝集使がそれだ。

昨年の秋には池主殿は大帳使として都に赴いて下さった。そして、そのころからこの春の正税帳使にはこの私が行くことに決まっていた。一時的にしろ都の戻り、妻をはじめとした家族と再会できることを楽しみにしていたのだが、この一月からの病によって、それが危うい状況になっていた。ところが、三月に入り私の体調も急速に快復し初め、先日、やはり私が正税帳使として都に赴くことが本決まりになった。

正税帳使は本来二月の末日までというのが決まりではあったが、越中のように雪深い土地の場合は四月の末日まで待ってもらえる。加えて、この度は、私が体調を崩したこともあって、もう数日の日延べをご許可いただいた。四月の末から五月の初めにこちらを出立できればと思っている。

ともあれ、都に帰ることが本決まりとなって、恥ずかしながら少々里心がついたようだ。あれこれと都に行ってからのことを考えているうちに急に妻への恋情がたかまり、それを押さえきれなくなってしまった。こんな時はその思いを歌に詠むことが、その押さえきれぬ思いを制御する方策として最良であることを私は先日(二月二十日)の詠歌により知った。そして詠んだのがこの歌だ。

初めの十句、「我が奥妻」までは我が妻、大嬢に対しての呼びかけになっている。「常初花」のような我が妻をいかに恋しく思っているかを表現したつもりだ。続いて「大君の」から「へなりてあれこそ」まではその妻に自由に会えない切なさを歌った。冗漫に過ぎるほどくだくだしく我が思いを書き連ねたが、私はここまで書かないとどうにも満足できない。性分と言えばそれまでだが、もとよりこの歌は誰に示そうとの考えも無いままに詠んだ歌でもあり、それも許されることかと思う。そして「よしゑやし」から最後まで。ここがこの歌の眼目になるだろうか。「霍公鳥 来鳴かむ月」になって妻と再会するその時のことを、この越中からの道行きを含めて空想しながら詠んだ。こうやって空想することによって、はやる気持ちを抑え、それまでの逢えぬ辛さを少しでも紛らわそうとしたのである。

最後に反歌として添えた短歌四首。これらは長歌の・・・特に「大君の」以降を反復、あるいは要約し、いささかの感慨を申し添えたものだ。長歌を詠むだけではおさまることを知らなかった我が叙情の噴出は、ここにいたって初めて小康を得た。

都へと出立するまで、あと一月あまり。あれこれと庶務を整理しなければならない。正税帳も再度点検しておかなければならないであろう。また、この越中の面々もただでは私を都へと送ってはくれない。もうすでに幾つかの餞の宴にも誘われている。それに久しぶりの都だ。手ぶらで・・・というわけにも行かぬ。手土産となるようなものも・・・歌も・・・用意せねばならぬ。

まことに忙しいかぎりである。

忽沈枉疾殆臨泉路仍作歌詞以申悲緒一首

忽沈枉疾殆臨泉路 仍作歌詞以申悲緒一首 并短歌

大君の 任(マ)けのまにまに 大夫(マスラヲ)の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離(ザカ)る 鄙(ヒナ)に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡(ナビ)き 床に臥(コ)い伏し 痛けくし 日に異(ケ)に増さる たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと 待たすらむ 心寂しく はしきよし 妻の命も 明けくれば 門に寄り立ち 衣手(コロモデ)を 折り返しつつ 夕されば 床打ち払ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹(イモ)も兄(セ)も 若き子どもは をちこちに  騒き泣くらむ 玉桙(タマホコ)の 道をた遠み 間使も 遺るよしもなし 思ほしき 言伝て遣らず 恋ふるにし 心は燃えぬ  たまきはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒し男すらに 嘆き伏せらむ

右天平十九年春二月廿日越中國守之舘臥病悲傷聊作此歌

十一月に池主殿が都より戻ってこられ、本来の任務に戻られた。これで越中の国府としては平常通りの業務が出来る。池主殿は和歌をよくするばかりではなく、漢詩も得意であると聞いている。これから、池主殿との交誼を結んで行く中で、そう言ったものも学んで行きたいと思っていた矢先、初めての越中の冬に体調を崩してしまった。大和とは比べものにならない冬の厳しさが越中にはあった。加えて、いかに国府の面々が快く迎え入れたとはいえ、新しき地においてその長たる立場でありつつけることは、やはり気苦労の種ではあった。書持の死も、私には痛手であった。

そして、年が明けて・・・本来ならば、ここで新しき年を言祝ぐような宴を催すべきであったのだろうが、それも出来なかった。国府の面々も私の体調を気遣ってか、そのような楽しみごとについては一切口に出すことはなかった。
一月半ば、いよいよ病は重篤なものとなった。来る日も来る日も続く高熱と、どうしようもない呼吸の乱れ・・・肺炎というやつか・・・私は死を覚悟した。そして死を思った私の脳裡をよぎったのは・・・母、妻、そしてまだ幼気な子ども達の姿であった。書持と私と続けて子を失う母の悲しみはいかばかりであろう。私の無事を祈りつつ帰りを待つ妻は・・・今頃、泣いて母親を困らせている子ども達は・・・私はあえぐ息の中、家族を思うていた。
ところで、聞けば、この歌の「母」が誰をさすのか、平成の御代においては若干の論議があるらしい。私を生んだ実の母なのか、それとも私を幼少の頃より育て上げてくれ、今なお我が義母「としてご健在でいらっしゃる大伴坂上郎女なのか・・・と。その答えは・・・・私がこの場で言うのは余りに無粋であるだろう。しばらくは平成の御代の諸賢の論議の種として提供しておこう。
二月に入り、十日を過ぎた頃。ようやく病はその峠を越えたようだ。次第に熱も下がり、まともに呼吸が出来るようになってきた。食事も次第に喉を通るようになった。まだ起きて外に出歩く等と言うことは出来そうもないが、書物を繰ることぐらいなら出来るところまでは回復してきた。
その時私が惹きつけられたのは、存命のおりの山上憶良殿からいただいた歌巻(この歌巻と父旅人から受け継いだ歌巻とをあわせ、我が歌巻の巻の五とした)にあった、「沈痾自哀文」であった。今の私の痛み、苦しみはまさにそこに書いてあるとおりであった。そして、その痛み、苦しみを通うに表現することも風雅の一端としてあり得ることなのだと実感した。
・・・私にも出来るであろうか・・・
まだまだ試作の段階である。人に見せるつもりはない・・・。その歌が誰に聞いてもらうか、どのように評価してもらいたいか、そんなことは考えずにこの歌を詠んだ。ただ自らの今の思い・・・感情を言葉に置き換えただけの歌である。けれども、他人に知らせないことを前提に歌を詠んでみて、ふと気がつくことがあった。
聞いてくれる誰かを想定しない、評価されることは初めから考えない・・・このような態度で歌に臨んだとき、意外にもそれまでの「いぶせき」思いが少しずつ解きほぐされ、心が晴れ晴れとしてくれることに気がついたのだ。他人の目を気にせずに、自分のその時々の思い、感情をつぶさに言葉に置き換えて行くというこの作業が意外に我が内側に滞る心の塵埃を払い落としてくれるのだ。
これも、「歌」というものに臨む一つの態度ではないか・・・
「歌」というものは、他人に思いを伝えたり、宴の場で大勢で楽しんだりするためだけのものではない・・・己の内面をのぞき込み、その作業を通して見えてくる想念を言葉に置き換えてみる・・・ただそれだけであっても充分に機能するものなのだ。私はこの歌を詠むことによってその事に気がついた。これからの「和歌」はこのような方向に進んでいっても良いのではないか・・・そんなふうに思えてならない。そして、その事に気がついたことは、この歌を詠んだ私にとっての大きな収穫であった。

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

十六年四月五日獨居平城故宅作歌六首

橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ

霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ

橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを

あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに

鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿

かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり

右六首歌者天平十六年四月五日獨居於平城故郷舊宅大伴宿祢家持作

都である恭仁の地を離れ、私がなぜ平城の旧宅に居たのかを語らねばなるまい。

本当に、この年の初めはいろいろなことがあった。閏の正月一日早々に聖武の帝は諸臣をお集めになり、都を恭仁と難波の何れにするべきかを、お問いになられた。諸臣の意見はわずかの差で恭仁の都を良しとする意見がまさった。けれども、帝の意思は難波に大きく傾かれておられ、これを覆すほどの差ではなかったのだろうか、はっきりとした決定のないまま行幸が挙行されることとなった。

十一日、鈴鹿王様・藤原仲麻呂殿を留守役として、帝は難波へと向かわれたその日のことだ。同行なさっていた安積皇子様が急に倒れられたのだ。その日のことを、後に書かれた続日本紀では次のように記してある。

是の日、安積親王、脚病に縁りて桜井頓宮より還る。丁丑、薨しぬ。時に年十七。従四位下大市王・紀飯麻呂らを遣して葬事を監護せしむ。親王は天皇の皇子なり。母は夫人県犬養宿禰広刀自、従五位下唐が女なり。(「丁丑」は二日後の十三日のこと。「脚病」は「脚気」のこと。)

本当に御労しい最後でいらっしゃった。皇太子としてはすでに阿倍内親王様がいらっしゃったが、安積皇子様は帝の唯一の男皇子として、我々臣下の期待は並々ではなかった。それがかくも儚くなられるとは・・・人あって言う・・・藤原出身の光明皇后様の御子でいらっしゃる阿倍内親王の即位を脅かすとすれば、それは安積皇子様。事実、私をはじめ安積皇子様をお慕い申し上げている臣下は少なくはなかった。故に、その存在を邪魔にお感じになられていた藤原仲麻呂殿一派が毒殺を企てたのだ・・・と。

何が正しいのか、私にはなんとも言いようがない。ただ、私は内舎人として帝のご奉仕すると共に、安積皇子様のお世話もさせて頂いていたのだが、皇子様がお体にご不安を持っていらっしゃったのも事実である。以前から抱いていた不安が・・・現実になった。私個人としての実感はそれ以上ではない。そして、その安積皇子様のお世話をさせて頂いていた関係で私は、そのご葬儀のお手伝いをさせて頂くことになった。私の歌巻の巻三にはその際に詠んだ挽歌も収録しておいたのだが、そのように葬儀にしばらくかかわっていたような身で、すぐにはおそれおおくも帝の身近に仕えることは避けなければならない。私はしばらくの間、休日をいただくこととなった。まあ、平成の御代で言えば・・・忌引き・・・といったところか。「死」の「穢れ」に関わったものとして、それが薄れ去るまでは通常の生活に戻れないのが私の時代の常識だ。その休日を利用して平城の旧宅へと帰っていた時の歌がこの六首である。

久しぶりに家族と過ごす日々は、それなりに心安らぐ毎日であった。心優しき弟、書持とも好きな和歌の話は出来る。長らく会うことの出来なかった恋人坂上大嬢とも頻繁に言葉を交わすことが出来る。しかしながら一抹の寂しさもなきにしもあらず・・・と言った感じだ。ここ数年、共に新しい都を作り上げようと力を合わせて来た同僚達と離れて過ごすというのは何とも言えぬ思いだ。何か置き去りにされてしまうような・・・そんな屈折した思いの中、興がのってしまって思わず六首も詠んでしまった。今頃、恭仁の地では橘はその満開の時期を迎え、しきりに霍公鳥が啼いていることだろう。こうやって一人平城に閉じこもっている間にその季節が過ぎてしまわないかちょっぴり不安になって詠み始めたのだが、よく考えてみればこの古びた平城の都にも橘の花は咲くし、霍公鳥は飛来し、その声を聞かせてくれる。ただひとつ、心残りなのが今年の薬狩りに参加できないことだ。毎年五月五日、端午の節句に向けて、我々は薬狩りを行う。その華やかさ、楽しさといったら・・・それも今年は無理だ。何とも残念な事よ・・・というのが最後の一首である。

<追記>

ところで、今回、私の歌日記をブログとしてアップし始めて結構な時間が経過した。ここまでお付き合い頂いた方ならふと気づかないだろうか・・・日記というわりには、妙に日があいているな・・・と。以下にその日付だけ列挙してみよう。

天平二年十一月

天平十年七月七日

天平十二年十二月九日

天平十三年二月

同年四月二日同年

四月三日

年次不詳

天平十六年四月五日

日記と呼ぶにはあまりにもまばらすぎる。しかも、私自身の作は、太字の部分のみだ。これでは私の歌日記と呼ぶにふさわしいものとは言えない。それもその筈だ。正確な意味での私の歌日記は次の歌から始まる。ここまでの三十二首は後から追補したものなのだ。私は皆さんもご存じのように万葉集と呼ばれる歌巻を編みつつあった。その大まかな姿は私の存命中に完成を見ていたのだが、その構成は巻の一から十六まで(巻一、二の古の部・巻三~十六の今の部・・・ただし、十六は付録)と巻十七~二十となっている。実はここまでの三十二首は、これらの形がある程度定まってから、私の手元に入ってきたものをその後にあえて挿入したものなのだ。

それでは、この三十二首はそれまで何処にあったのか・・・

詳しく話せば長くなる。端的に言おう。弟、書持の遺品の中にだ。身体の強くなかった書持は私が越中の国の国司として派遣されて間もない頃世を去った。その遺品の中にこれらの歌が収められていたのだ。書持は自作の数首の短歌や、私がかつて贈った私の作、そして紹介した他の人の作をこうやって保存してくれていたのだ。それらの歌を私は何とか構成に残してやりたいと思った。心優しく、風雅を愛したあの弟の生きていた形跡を少しでも多く残したいと思った。しかし、歌巻・・・万葉集はほぼその姿を固めつつある・・・悩んだ私は、自らの歌日記の前にこれらの三十二首を置くこととした。ここならば、年次的な矛盾が生じないし、それまでの巻の歌々とこれから始まる私の歌日記との中継ぎをこの三十二首が果たしてくれるからだ。

かくして、正確な意味での私の歌日記は次回から始まることとなる。最後に一つ付け加えておこう。この六首を詠んだ天平十六年、私は、言ってみれば官人の見習い期間でもある内舎人の期間を終え、正式に任官する。従五位下・・・それが私のスタートだ。

追和大宰之時梅花新歌六首

追和大宰之時梅花新歌六首

み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし

梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ

春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも

梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり

遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも

御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ

右十二年十二月九日大伴宿祢書持作

大伴宿禰書持とは私の弟である。この六首の歌は、後に私の歌巻の写し間違いがあって、私の作であると記された写本が出回っていた。「十二年十二月九日、大伴宿禰書持」の部分の「書持」が「家持」となってしまったのである。こんなふうに弟の作が私の作と考えられてしまうと、折角の、そう多くはない弟の創作が人に知られないままになってしまう。私は何とかこの誤りを後世の人々に伝えたいと思っていたけれど、そのすべのないままに千年以上の歳月が流れてしまった。

明治の帝の御世のあたりからこれが誤りで、これらの六首が弟の作であると言って下さる方々が出て来られ、最近では多くの方々がそのように理解されているようで私としてはひと安心である。中でも、橋本四郎という方はその御論文「大伴書持追和の梅花歌」(『万葉』116号)において助詞・助動詞・接頭語などの形式語や構文のあり方などを詳細に検討され、私(家持)の作でないことをあきらかにして下さった。まことに有難いことである。

さて、この六首は父、旅人が大宰府の長官であったころ多くの方を招いて催した歌宴での作品群「梅花の歌三十二首」(巻五)の冒頭八首の内の六首に追って和した歌である。なぜか、その八首の中の山上憶良殿・豊後の守大伴の太夫の御作には和していない。以下にその二首を除いた六首を挙げてみよう。

正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ

大弐紀卿

梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも

少弐小野大夫

梅の花咲きたる園の青柳は縵にすべくなりにけらずや

少弐粟田大夫

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり

筑後守葛井大夫

青柳梅との花を折り挿頭し飲みての後は散りぬともよし

笠沙弥

我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも

主人

最後の歌の主人とはこの宴の催主、父、旅人だ。書持の歌はこれらの六首に順に対応し詠まれている。大弐紀卿「正月立ち春の来らば」に対して書持の「み冬継ぎ 春は来たれど」、少弐小野大夫の「梅の花今咲けるごと」に対して書持の「梅の花 み山としみに」と言う具合にである。

ただそうやって、それぞれの歌の対応関係を見て行くと、ふと「おやっ」と感じてしまう部分がないでもない。書持の歌は対応する歌に対して、一応は共感の意を表してはいる。しかしながらよく見ると、父、旅人の作以外に歌に対しては、敬意を表し、共感の意を示しながらも、やや対立的に異を唱える形で詠まれていることに気づく。

ここでその全てを説明するわけにはいかないが、最もわかりやすいところで説明するならば・・・そう、この歌が適当か・・・

梅の花今盛りなり思ふどち挿頭にしてな今盛りなり

筑後守葛井大夫

この歌は「盛りに咲いた梅の花手折っては髪に飾ろう」との趣旨の歌であるが、これに対する書持の歌はこうである。

梅の花 いつは折らじと いとはねど 咲きの盛りは 惜しきものなり

梅を枝を手折ることは、確かに否定はしていない。それが「いとはねど」だ。しかしながら、そのあと「咲きの盛りは 惜しきものなり」と、盛りの今手折ることについては明確に否定している。程度の差こそあれ、これがこの六首を詠む書持の基本的な姿勢である。けれども最後の父の作に対しては、全面的に賛意を示しつつ六首を詠み終えている。先の五首と父の作との違いはどこにあるのか・・・

先行する歌に対して共感の意を示すのが「和」の歌の常である。ましてや「追和」となればその傾向は一層強くなるものだ

明確には私も弟の意図はわからない。ただ、弟には感性として、私よりもより父に近いものがあったように思えてならないのだ。父は武人ではあったが、花を愛し風雅を愛した方であった。死ぬ間際まで「萩は咲いたか?」などと気にしていたぐらいだ。

書持は父のそういう部分のみを受け継いだ弟だった。生来、身体の強くはなかった彼はあまり立身という野望を持たぬまま成長した。けれども・・・というよりは、だからこそ太宰府でのこのような風雅な催しに強く興味を示したのかもしれない。そして、そんな彼こそが、父の風雅を愛してやまないその性質をより強く受け継いだように私には思える・・・・

今でもふと思う。それは・・・はかない幻想かも知れない・・・作の巧拙は私には何とも言い難いが、若くして世を去った彼が、もし私よりも長く生きていれば・・・との思いをかき消すことが出来ないままでいる。それは所詮「もし」なのだ・・・

ところで、この年天平十二年は穏やかならぬ年であった。太宰府におられた藤原広嗣殿が下道真備殿、僧玄昉殿の更迭を求め、反乱を起こされたのだ。かの四兄弟がお亡くなりになって朝廷での藤原氏の凋落ぶりに焦りを感じられたのであろうか・・・凋落とは行っても、私にはかの四兄弟の頃が異常なだけであって、今の状況であっても、藤原の家は充分に栄えているとは思うのだが・・・まあ、これは個人的な感慨に過ぎない。広嗣殿には広嗣殿なりの思いがあったのかも知れない。

乱はほどなく鎮圧されたが、これに前後し帝は急遽、東国への行幸を挙行された。何もこんな時にと思い惑うのは私だけではなかった。けれども、帝には帝なりの思いが逢ったに違いない。

・・・そんなふうに思い始めたのは、行幸を始めてどれだけたった頃であっただろうか。その道のりにふと思い当たるものがあった。伊勢・・・不破・・・近江・・・これは天武の帝がかの壬申の大乱の際に進んだ道のりではないか・・・ほんの僅かの舎人を引き連れて、吉野を出奔なされた天武の帝・・・いや、その時はまだ皇子でいらっしゃったか・・・は伊賀を越え伊勢に向かい数万の軍勢となり、不破を通って近江の都と陥れになられた。

今の帝はこれに倣おうというのか・・・そして、その力をもって広嗣殿を・・・いや、伊勢にいた頃にはもうこの反乱が収まったとの報告が入っている・・・帝は久々におくつろぎになり鷹狩りなどを楽しんでおられた・・・ならばなぜ・・・。

今にして思えば、天平と年号が変わってから何かしら落ち着かぬ日々が続いていた。先ずその始まりが長屋王様の御一件、そして天然痘の流行、そしてこの度の反乱、帝のお心はお疲れになっていたのであろう。この国をお治めになる帝のお心の衰えはとりもなおさずこの国の衰え・・・帝はそれを憂えていらっしゃった。この国を再生させるためには自らの魂魄を再生しなければ・・・帝はきっとそのように思われたに違いない。それがこの道のりではなかったか。

十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首

十年七月七日之夜獨仰天漢聊述懐一首

織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる

右一首大伴宿祢家持作

今頃、帝の主催の宴が平城宮の西池宮で盛大に催されている。もちろん、七夕の詩宴だ。仕え始めたばかり・・・二〇才を過ぎたばかり、内舎人の私などには目のくらむような方々ばかりの宴だ。並み居る立派な方々が、それは優美な詩を披露し合っていることであろう。私も興味がないわけではないが、こんな若輩の私にお呼びがかかるわけもない。ただ、こうやって自分の家で一人、その華やかな宴に思いを馳せるだけである。・・・いつかは、私もそんな場に呼ばれるようになってみたいものだ。