天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言兼帥如舊上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首
我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ
右一首三野連石守作
荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か我が恋ひざらむ
礒ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ礒の知らなく
昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも
淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ
たまはやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ
家にてもたゆたふ命波の上に思ひし居れば奥か知らずも [一云 浮きてし居れば]
大海の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
大船の上にし居れば天雲のたどきも知らず歌ひこそ我が背
海人娘子漁り焚く火のおぼほしく角の松原思ほゆるかも
右九首作者不審姓名
あれは、そう、天平2年(730)のことだから、私が数えで十三歳の年の十一月。父、旅人はそれまで任じられていた大宰府長官の職の上に、大納言の職を仰せつかった。大宰府の長官という職はそのままだったが、大納言の職を優先するため筑紫より都へと上った。その時、父の一行は陸路大和へと向かったが、家の使用人たちは船路で都へと向かった。その道すがら彼らの歌だ。初めの一首だけは作者についての記録が残っているのだが、後の九首は記録がもれてしまった。今、思い出そうにもどうしても思い出せない・・・まあ、思い出そうにも私は父に同行して陸路を大和へと向かっていて、この歌の場にはいなかったのだから仕方がないといえば仕方がないのだが
ただ、昭和天皇の御世の代表的な文芸評論家、山本健吉殿は私がこの船に乗っていたのではないかと想像していると聞く。山本殿は私の叔母の大伴坂上郎女の「帥の家を発ち、道に上り筑前国宗形郡の名児山を超えし時作る歌一首」とともに「京に向かへる海路に浜の貝を見て作る歌一首」が私の歌巻(万葉集)の巻六にあることを挙げ、叔母が名児山を越える際に大伴家の平安を祈るために宗像神社に参詣し、次いで崗の水門に出て、船なる使用人たちに合流したのはないかとされた。そして叔母が、当時母のない私の母親代わりであったことを考えれば、そこに私が同行していた可能性が高いと推測されている。そして物心のつき始めた私が彼らの歌に接したことが、私の後の歌人としての人生に大きな影響を与えたのではないかと山本殿はお考えになられた。
他の多くの諸賢の考え・・・父とともに陸路、都へと上ったとする考えと、この山本氏の考えのいずれが正鵠をえているか。答えは当然のことながら我が胸中にある。しかし、ここで当の本人の私が軽々とその答えを明かしてしまうのは、千年を越える長い歳月の間私どものことについてあれやこれやと考え続けてくれた方々に対して、余りにも非礼であると言うべきであろう。よってここではその答えは明かさないでおこうと思う。
ところで、この時、父、旅人がなぜ筑紫の地において大宰府の長官たる任にあったかについて、後の世の方々にあっては、これを左遷ととらえるむきがあると聞く。都での藤原家の方々を中心とした政争に巻き込まれての結果だというのだ。しかし・・・まだ幼かった私は、そのように考えていなかったのは事実だ。あるいはそれは父がまだ子供だった私にそのような醜い争いが大人の世界あることを知らせたくはなかったからかもしれない。私は次のように父から聞いていた。
我が大伴の家は神武の帝の御世から代々、武門の家としてお仕え申し上げている。私もこの人生の中、今に至るまでいくつかの武勲を挙げてきた。確かお前が3歳の時であるからはっきりとは覚えていまいが、この九州の地で隼人どもが反乱を起こしたときも、この私が将軍としてその反乱を鎮静させたのだ。そのような功績を帝は評価して、九州を任せるのならお前しかいないと、西の守りの要地であるこの地に派遣なされたのだ
と。
またあとからこんな話も聞いた。父が筑紫にいる間に長屋王様のあの痛ましい事件があったことは多くの肩が方がご存じかと思う。古来軍事を以て帝につかえ、どちらかといえば守旧派と思われがちであったわが大伴の家の宗主であったわが父は、同じく守旧派であった長屋王様に近いのではないかと、長屋王様と対立されていらっしゃった藤原家の方々(四兄弟)が邪魔に思われて、厄介払いとして、その職としては父が文句のつけようのない大宰府の長官にしたのだと・・・
けれども、この頃、この方々と父が、あるいは長屋王様がそんなに険悪な関係であったとは私には思えない。父は父で、この兄弟の次男の房前殿とはかなり親しくしておられたようで手紙や歌のやり取りもあったらしい。それは私の歌巻の巻の五に収めておいた通りであるまた房前殿も、その弟の宇合殿も長屋王様の家での宴会で漢詩を詠まれるなど親しくしておられた。それにこの兄弟の末っ子麻呂殿は我が叔母大伴坂上郎女に懸想していたこともあるし・・・それなのにこんなことになるなんて・・・おとなの世界とは恐ろしいものだと子供心に思ったものだ。
あの痛ましい事件の後、天然痘の流行で藤原の四兄弟の方々すべてが亡くなられてからも長い歳月が流れた今、事の真相は誰にもわからない。知っているとすればそれは帝・・・あるいはお后様・・・しかし、私のようなものがそれを尋ねてみることなど不可能だ言われているような、藤原四兄弟の方々の謀略か・・・私にはそうは思えない。とすれば・・・憶測に過ぎないが、私はこの兄弟のご長男、武智麻呂殿の単独の行いかと思っている。この方だけが長屋王様、そして我が大伴家と接点がない。捕縛された長屋王様を問い詰め、自殺に追い込んだのもこの方だ。記録によれば、事件当日、宇合殿が長屋王様の御邸宅を取り囲み、軟禁状態にしたとあるが、これは宇合殿の御本意とは思えない。あるいは・・・その背後に帝のご意思が・・・いや、やはりこれはあまりに恐れ多い。