カテゴリー別アーカイブ:

従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首

従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首

珠洲(スズ)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり

右件歌詞者 依春出擧巡行諸郡 當時當所属目作之 大伴宿祢家持

月の初めに国府を発って昨日やっと珠洲の郡までたどり着いた。珠洲の郡は能登の岬の最果ての地、これにて私の今回の巡行は終わる・・・そんな思いで船出をしたのは夜明け前であった。そして、この松田江の長浜にたどり着いた今月が煌々と海を照らしている。一日中の船旅であったゆえ、疲れは並々ならぬものがあるが、そんな疲れも忘れてしまうほどの心地よさが私にはあった。

国守になって初めての巡行であったゆえ、本当に気遣いの絶えない日々であった。けれども、そんな職務を一つ一つが済み、終わりに近づいてゆくのは、やはり充実感が伴う。そしてその職務も昨日でようやく終えた。気分は爽快そのものだ。ゆらゆらと海上に揺れる月明かりが何とも言えず美しい。二月の初旬、国府を発って出挙のための巡行を始めた。国府周辺はあちらこちらと見てまわったが、越中の国全体をこうやって見て回るのは初めてだ。いちいち目に入ってくるものが新鮮でならない。

歌が口をつく。

意図して歌を詠もうとしなくとも、歌が口をつくのだ。しめて九首。そのどれもがちょいとは胸を張れそうな出来栄えだ。昭和の御代に私の歌をひどく言うことの多かったと聞く土屋文明殿でさえも、今日のこの歌はご評価下さったと聞く。

意味のある数日であった・・・・

鳳至郡渡饒石川之時作歌一首

鳳至(フゲシ)郡渡饒石(ニギシ)川之時作歌一首

妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川 清き瀬ごとに 水占(ミナウラ)延(ハ)へてな

熊来からは馬に乗り、藤の瀬・古江・富来と辿ってこの饒石川までやってきた。本当に地の果てまでやってきたとの感慨がしてならない。岩山が海から立ち上がるように岸壁をなす荒涼とした・・・こんな地形は今まで目にすることがなかった。こんなうら寂しい光景に触れ、都に残してきた妻のことがついつい思い出されてしまった。水占とは、他にあんまりする方はいらっしゃらぬが、流れる水の上に呪物を浮かべ、その流れ具合によって事の可否を占うものである。もちろんここでは今度いつ妻に会えるのか・・・そんなことを占ってみたのである。もちろん、この占いをするためには清らかな流れが必要なことは言うまでもない。

能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首

能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首

鳥総立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びぞ

香島より 熊来をさして 漕ぐ船の 楫取る間なく 都し思ほゆ

先日の気太神宮への参拝の後、私は山道を辿り鹿島の津(平成の御代では七尾と言っていると聞く)へと向かった。そして熊来の村へと舟を進めた。

一首目はちょいと冒険をして旋頭歌を試みてみた。旋頭歌は最近でははやらないものになってしまったが、柿本人麻呂殿の時代までは結構人気のあった歌体だ。人麻呂殿も何首か試していらっしゃるが、その後はどうも人気がなくなってしまったようだ。そこには歌というものの役割の推移というものがあるのだろう。人麻呂殿以前は歌は集団の思いを歌うことが多かったと聞く。そして、その集団の思いを歌に託す場合、この五七七・五七七の旋頭歌という形が、ある場合には適していたのだろう。が、人麻呂殿以来、歌は個人の思いを表出するものとなった。そうなってくるとこの五七七・五七七がどうにも都合が悪いのだ。
今回の試みでそのことが思い知らされたように思う。なんとか体裁を整えることができたが、だいぶ苦労した。

ならば、なぜそんなに苦労してまでこんな実験したのか・・・

これから向かうところが熊来であるということでふと思い当たることがあったのだ。

はしたての 熊来のやらに 新羅斧 落とし入れ わし あげてあげて な泣かしそね 浮き出づるやと 見む わし

はしたての 熊来酒屋に まゐらぬる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まゐらぬる奴 わし

私の歌巻(万葉集)の巻の十六におさめておいた歌だ。この歌を思い出したとき、ちょいと真似をしてみようと思ったのだ。旅にあって旅先の風光をほめたたえるのはその土地の神霊に対してのご挨拶でお決まりのことだ。「幾代神びぞ」なんて言い回しからも皆さんにはうかがい知れるだろう。そして、その地の歌を真似ることも熊来の地の神霊のご機嫌を考えてのことだ

そして二首目、ここでは望郷の念を歌うことにした。これもまた旅の歌のお決まり。今度は思いを向ける先は都であるのだから遠慮なく五七五七七。
・・・やはり・・・こちらのほうがだいぶ楽だ・・・

天平廿年春正月廿九日

東風越俗語東風謂之あゆの風是也いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小船 漕ぎ隠る見ゆ

港風 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻呼び交し 鶴多に鳴く[一云 鶴騒くなり

天離る 鄙ともしるく ここだくも 繁き恋かも なぐる日もなく

越の海の 信濃濱名也の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや

右四首天平廿年春正月廿九日大伴宿祢家持

 今日、一月の二十九日は平成の御代の暦で言えば三月のはじめ。寒さの厳しい越中の国といえど、ほのかの春の気配があちらこちらに漂う季節である。その陽気に誘われて国府近くの海浜をそぞろ歩きしながら作ったのがこの四首だ。いちいちの歌の出来はさほど自慢は出来ないが、それなりに工夫はしてある。特にその配列には格別の気配りをなしたつもりだ。

一口で言えば、漢詩の起承転結の構成に倣ったものと言えようか。一首目に奈呉の海の沖辺を行く漁師達の小舟を歌い、二首目はそれを承けて港近くの江の鶴を歌う。遠景から近景へと視点を変化させた。加えて、一首目が視覚を中心に歌ったのに対し、二首目は聴覚を中心に歌うといった風に変化をつけている。遠と近、景と音を対比しながら、この二首で今日のそぞろ歩きにおいて、私が接し得た全てを表現しようとしたのだ。

そして三首目。漢詩で言えば「転」の句にあたる。私もその作法に倣い、ここで私の「情」の部分を歌の中心においた。遠く大和を離れ、異郷に暮らし続ける哀しみ・・・「旅愁」を主題として歌ってみた。これは、二首目の「妻呼び交し 鶴多に鳴く」の句を受けてのものだ。「転」の句ではあっても、これまでの二首と遊離してしまっては何にもならない。ここはちょいと腕の見せ所だったと思う。そして、四首目。「結」の句に相当するこの歌は上三句で旅にある自分を歌い(これは一首目、二首目を受けたもの)、下二句で故郷の妻達を思う気持ちを歌う(三首目を受けたもの)形で締めくくりとする・・・・

以前、大伴池主殿とのやり取りの中で漢詩を作ってみたこともあったが、だいぶと苦労した上、池主殿のお目を汚してしまうような結果になってしまったことを考えると、この短歌四首で漢詩のように起承転結を構成するやり方の方が私には向いているのかも知れない。またこうした旅先にあっての作歌の作法として「旅」と「家」を対比することが重要なことであるのだが、これまた起承にあたる二首で越中の景物を歌い、転結相当の二首が家への思いを歌うというふうに、これもまたこの起承転結の構成の中にうまく取り込むことが出来た。

最後に上の歌中に加えた割注について説明しておこう。

一首目の注。越中の地においては東風のことを「あゆの風」という。ちょいとひなぶりの雰囲気を出してみたいと思い、「東風」と書いてあえて「あゆの風」と読ませようとしたものだ。ただし、ここでは厳密に東方から吹いてくる風と言うよりは、おおむねそちらの方から吹いてくる暖かな春の風という意味で使っている。
二首目の注。割注は初案である。今、この日記に書きつけるにあたり、「鶴多に鳴く」と改め、これを決定稿とした。四首目の注。私自身がこの「信濃」という語に興味を覚えてこの歌を作ったのだが、大和にあっては山国の名である「信濃」という言葉が浜の名であることが一見して、この歌を読む人にひっかかりを感じさせるかも知れないと思い、蛇足ながら付け加えたものである。

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 恋しけむかも 一に云ふ 見ぬ日久しみ恋しけむかも

右一首大伴宿祢家持作之

我が背子が 国へましなば 霍公鳥 鳴かむ五月は 寂しけむかも

右一首介内蔵忌寸縄麻呂作之

我れなしと なわび我が背子 霍公鳥 鳴かむ五月は 玉を貫かさね

右一首守大伴宿祢家持和

石川朝臣水通橘歌一首

我が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ我が貫く 待たば苦しみ

右一首傳誦主人大伴宿祢池主云尓

先日(二十日)の大目の秦殿のお宅での送別の宴に続いて、今日は我が歌友の池主殿がそのお宅で送別の宴を催して下さった。こうも度々このような場を設けていただいて非常に心苦しくは思うのだが、せっかくのお心遣いをお断りするのもなにやら申し訳なくも思うのでお言葉に甘えさせていただいた。

宴にあっては、まず私が旅立つものの立場から別れのつらさを歌った。当初、「見ぬ日久しみ」との歌稿を用意しておいたのだが、どうにもありきたりのような気がして「見ぬ日さまねみ」を改めた上で、皆の前には披露した。こっちのほうが私の心情をより的確に表現できているように思う。

続いてその歌に縄麻呂殿がお応え下さった。この場においては私に次ぐ地位であり、私の不在の間、私の職務を代行して下さる縄麻呂殿がここでまず私の歌にお応え下さるのは、お決まりのこととはいえようが、縄麻呂殿は単に私の歌の言葉をそのまま承けるだけではなく、今の季節の風物である「霍公鳥」を詠み込んだ上で、これから離れて暮らすつらさを素直に歌にしてくれた。

そこで私はその「霍公鳥」なる言葉を承けて上記のように「和」した。普通、このようにその宴の目的(今日の場合は私を送別すること)がはっきりしている場合、「和」と記さないのが通例だ。その宴に目的に沿って歌詠をなす場合、必然的にその歌は「和」の歌であるはずであり、わざわざ「和」と記す必要がないからだ。だから、ここで私があえて「和」と記したのはそれなりの意味を持たせてのことである。つまり冒頭の私の歌と、続く縄麻呂殿の二首にてこの宴の目的は果たされた。いつまでも別れを悲しんでめそめそしてはいられない。後は自由に季節の風物を歌を詠み、せっかくのこの宴を楽しきものにしようとの配慮から、私はこの三首目を詠んだのだ。そういった私の意図を、よりはっきり示そうとここにあえて「和」という文字を入れてみた。

すると、さすが池主殿である。そのような私の意図を充分にくみ取って石川朝臣水通殿のの橘の歌を伝誦することで、その任を充分に果たして下さった。結句「待たば苦しみ」はもちろん橘の結実の時を待つことが苦しいという意味で歌われているのであるが、そこに私の帰着を「待たば苦しみ」との思いを漂わせているのだろうと思う。さすがである。

ただ、後の人がこの日記を読んだ時、一つ不審に思いかもしれない点がある。それはあの池主殿がここにおいて古歌の伝誦のみでこの宴を結んでいるという点についてである。歌を得意としていない他の方ならばいざ知らず、あの池主殿が自分がその主催した宴において自作の歌を披露しないというのは、誰が見ても不自然であろう。また池主殿と私の関係については、後の人々の間でも知られているように、並々ならぬものがあった。その私の餞の場においてのことであれば、その感はなお強いものがあるだろうと思う。加えて、今お手元に私の歌巻(万葉集)をお持ちの方であるならば、さらにご不審に思う点があろう。それは池主殿の「敬和歌」についてである。私の歌巻を見るならば、その「敬和歌」はこの送別の宴の歌の前に配列されている。けれども私はその「敬和歌」をとばして、今日の宴の歌についてを今書いている。これはどうしたことだろうか?そんなふうにお思っていらっしゃるかたも多いであろう。

この二つの不審なる事実はすべて池主殿の「敬和歌」の披露のあり方に由来する。次回、その「敬和歌」について語る予定であるが、その中でこの点について詳らかにしてゆきたいと思う。

遊覧布勢水海賦一首

遊覧布勢水海賦一首并短歌 此海者有射水郡舊江村也

もののふの 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)の 思ふどち 心遣(ヤ)らむと 馬並(ナ)めて うちくちぶりの 白波の 荒礒(アリソ)に寄する 渋谿(シブタニ)の 崎た廻(モト)り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比(ウナヒ)川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群(ムラ)騒き 島廻(ミ)には 木末(コヌレ)花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥(クシゲ) 二上山に 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ

右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日

実に楽しい一日であった。大和へと旅立つ日を目前にひかえ、国府の面々と布勢の水海まで足をのばし、その美しい風景をしっかりとこの目に焼き付けることが出来た。布勢の水海というのは後に十二町潟と呼ばれるようになった二上山北西の低地に広がる湖で、土砂の堆積と徳川殿が幕府を開かれて以降の相次ぐ干拓のため、昭和の御代の頃には見る影も無くなっていると聞く。私が国守としてこの地にいた頃は、それはそれは美しい湖であっただけに、なんとも残念な話である。

それはともかくとして、先日の秦殿のお宅での送別の宴において私は「二上山賦」を披露し、これを都への土産としたい旨の話をした。すると一同は、それだけでは物足りなかろう、この越中の地にはもっと都で語るべき場所が多くある。他の地も歌にして都に伝えなければならないだろう・・・と口々になさった。それでは・・・ということで、今回の布勢の水海への遊覧ということになった。もちろん目的はそれだけではない。その送別の宴でわざわざ私のために集まって下さった皆さんへの感謝の意をも込めて私がお誘いしたのだ。都への出立の日も近くそう遠くまでは足を運べないという事情もあってこの地を遊覧の地に選んだのだが、国府からほんの少し足をのばしただけでこのようにすばらしい場所があるとは・・・・越中は本当にすばらしい国だ。

渋谿の崎の荒磯、松田江の美しい浜辺・・・布勢の水海までの道行きだけでも心惹かれる景色がある。そして目的の布勢の水海では舟に乗っての遊覧・・・本当に楽しかった。もちろん、この楽しさはその風景の素晴らしさだけに由来するものではない。ともにこの遊覧を楽しんだ面々があればこそである。私は程なく都へと旅立つ。しばしのお別れだ。けれども私が都から無事に帰着したならば、再び同じ顔ぶれでこの地を訪れたいものだ。長歌の終わりの方や、反歌はそんな思いを込めて詠んだ。

ところで先日都への土産歌の素材にしたのは「二上山」。そしてこの度は「布勢の水海」。これで越中の代表的な「山」と「水」を詠んだことになる。これは論語にある「智水仁山」を意識したもので、漢詩の世界ではごく一般的になされる対比である。くわえて、人麻呂殿、赤人殿、そして我が父旅人の吉野讃歌で使われた技法でもある。ただあえてその違いを言えば、それらは一首の中に「山」「水」の対比を描いたが、私はここで二首の長歌にわたってそれをなしたと言うことだ。

・・・とここまで書いてきて、目を再び長歌に戻したとき、いささか盛り沢山にすぎたきらいがあるように思えてきた。我ながらくどい歌だとも感じないではない。すべてを都に伝えなければと思うばかりに、行ってもいないところまで詠み込んでしまった。それもこれも都人にこの越中の素晴らしさを伝えんがための虚構だ。許されることであろうと思う。

さて、先の宴において池主殿が我が作に「和」をなしてくれるとの約束であった。明後日、二十六日には池主殿が私を送る宴を催して下さる予定で、その場において私はこの歌を池主殿はその「和」の歌を披露する予定だ。少しでも早くこの歌をお届けしなければ、池主殿の「和」が、その宴に間に合わなくなってしまう。急ぎ、清書して送らなければ・・・

天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言兼帥如舊上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首

天平二年庚午冬十一月大宰帥大伴卿被任大納言兼帥如舊上京之時傔従等別取海路入京 於是悲傷羇旅各陳所心作歌十首

我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ

右一首三野連石守作

荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か我が恋ひざらむ

礒ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ礒の知らなく

昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも

淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ

たまはやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ

家にてもたゆたふ命波の上に思ひし居れば奥か知らずも [一云 浮きてし居れば]

大海の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも

大船の上にし居れば天雲のたどきも知らず歌ひこそ我が背

海人娘子漁り焚く火のおぼほしく角の松原思ほゆるかも

右九首作者不審姓名

あれは、そう、天平2年(730)のことだから、私が数えで十三歳の年の十一月。父、旅人はそれまで任じられていた大宰府長官の職の上に、大納言の職を仰せつかった。大宰府の長官という職はそのままだったが、大納言の職を優先するため筑紫より都へと上った。その時、父の一行は陸路大和へと向かったが、家の使用人たちは船路で都へと向かった。その道すがら彼らの歌だ。初めの一首だけは作者についての記録が残っているのだが、後の九首は記録がもれてしまった。今、思い出そうにもどうしても思い出せない・・・まあ、思い出そうにも私は父に同行して陸路を大和へと向かっていて、この歌の場にはいなかったのだから仕方がないといえば仕方がないのだが

ただ、昭和天皇の御世の代表的な文芸評論家、山本健吉殿は私がこの船に乗っていたのではないかと想像していると聞く。山本殿は私の叔母の大伴坂上郎女の「帥の家を発ち、道に上り筑前国宗形郡の名児山を超えし時作る歌一首」とともに「京に向かへる海路に浜の貝を見て作る歌一首」が私の歌巻(万葉集)の巻六にあることを挙げ、叔母が名児山を越える際に大伴家の平安を祈るために宗像神社に参詣し、次いで崗の水門に出て、船なる使用人たちに合流したのはないかとされた。そして叔母が、当時母のない私の母親代わりであったことを考えれば、そこに私が同行していた可能性が高いと推測されている。そして物心のつき始めた私が彼らの歌に接したことが、私の後の歌人としての人生に大きな影響を与えたのではないかと山本殿はお考えになられた。

他の多くの諸賢の考え・・・父とともに陸路、都へと上ったとする考えと、この山本氏の考えのいずれが正鵠をえているか。答えは当然のことながら我が胸中にある。しかし、ここで当の本人の私が軽々とその答えを明かしてしまうのは、千年を越える長い歳月の間私どものことについてあれやこれやと考え続けてくれた方々に対して、余りにも非礼であると言うべきであろう。よってここではその答えは明かさないでおこうと思う。

ところで、この時、父、旅人がなぜ筑紫の地において大宰府の長官たる任にあったかについて、後の世の方々にあっては、これを左遷ととらえるむきがあると聞く。都での藤原家の方々を中心とした政争に巻き込まれての結果だというのだ。しかし・・・まだ幼かった私は、そのように考えていなかったのは事実だ。あるいはそれは父がまだ子供だった私にそのような醜い争いが大人の世界あることを知らせたくはなかったからかもしれない。私は次のように父から聞いていた。

我が大伴の家は神武の帝の御世から代々、武門の家としてお仕え申し上げている。私もこの人生の中、今に至るまでいくつかの武勲を挙げてきた。確かお前が3歳の時であるからはっきりとは覚えていまいが、この九州の地で隼人どもが反乱を起こしたときも、この私が将軍としてその反乱を鎮静させたのだ。そのような功績を帝は評価して、九州を任せるのならお前しかいないと、西の守りの要地であるこの地に派遣なされたのだ

と。

またあとからこんな話も聞いた。父が筑紫にいる間に長屋王様のあの痛ましい事件があったことは多くの肩が方がご存じかと思う。古来軍事を以て帝につかえ、どちらかといえば守旧派と思われがちであったわが大伴の家の宗主であったわが父は、同じく守旧派であった長屋王様に近いのではないかと、長屋王様と対立されていらっしゃった藤原家の方々(四兄弟)が邪魔に思われて、厄介払いとして、その職としては父が文句のつけようのない大宰府の長官にしたのだと・・・

けれども、この頃、この方々と父が、あるいは長屋王様がそんなに険悪な関係であったとは私には思えない。父は父で、この兄弟の次男の房前殿とはかなり親しくしておられたようで手紙や歌のやり取りもあったらしい。それは私の歌巻の巻の五に収めておいた通りであるまた房前殿も、その弟の宇合殿も長屋王様の家での宴会で漢詩を詠まれるなど親しくしておられた。それにこの兄弟の末っ子麻呂殿は我が叔母大伴坂上郎女に懸想していたこともあるし・・・それなのにこんなことになるなんて・・・おとなの世界とは恐ろしいものだと子供心に思ったものだ。

あの痛ましい事件の後、天然痘の流行で藤原の四兄弟の方々すべてが亡くなられてからも長い歳月が流れた今、事の真相は誰にもわからない。知っているとすればそれは帝・・・あるいはお后様・・・しかし、私のようなものがそれを尋ねてみることなど不可能だ言われているような、藤原四兄弟の方々の謀略か・・・私にはそうは思えない。とすれば・・・憶測に過ぎないが、私はこの兄弟のご長男、武智麻呂殿の単独の行いかと思っている。この方だけが長屋王様、そして我が大伴家と接点がない。捕縛された長屋王様を問い詰め、自殺に追い込んだのもこの方だ。記録によれば、事件当日、宇合殿が長屋王様の御邸宅を取り囲み、軟禁状態にしたとあるが、これは宇合殿の御本意とは思えない。あるいは・・・その背後に帝のご意思が・・・いや、やはりこれはあまりに恐れ多い。