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詠庭中牛麦花歌一首

詠庭中牛麦花歌一首

一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ

右先國師従僧清見可入京師因設飲饌饗宴 于時主人大伴宿祢家持作此歌詞送酒清見也

しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ

右郡司已下子弟已上諸人多集此會 因守大伴宿祢家持作此歌也

ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我れ待つらむぞ

右此夕月光遅流和風稍扇 即因属目聊作此歌也

今日は今度都に帰られることになった先の国師の従僧の清見殿の送別と、この越中の国の郡司、そしてその子弟の方々との顔見せを兼ねての宴があった。この三首はその宴の中で私が歌ったものだ。 一首目は、庭に植えたなでしこを詠んだもの。「牛麦」なんてちょいと変わった書き方をしたが、さてこのように書いてなぜ「なでしこ」とと訓めるのか・・・ここで種明かしをするのは止めておこう。この日記を読む人のたのしみを奪ってはいけない。宴に先立つほんの数日前私は、国司の館の庭に大好きななでしこを植えさせた。なでしこは夏から秋にかけて咲くもの。こんな三月の初旬には蕾すらついていない。本当は自分が好きだからいつも見ていたいと思って植えたものだが、こんな宴の場面では使わない手はない。いかにも清見殿と賞玩するために植えたなでしこであるかのように歌い、惜別の情を示そうとしたのだ。

国師とは中央から諸国の国分寺に派遣されそれぞれの国の僧や尼、寺院の管理を掌るお方である。清見殿はその下にあって身の回りの世話などをおおせつかっていたお方である。

二首目。同じくその場に居合わせた郡司、およびその子弟に対して充分に楽しんでほしい・・・ともに楽しもうと歌った歌である。郡司はそれぞれの国にあって我々のように都から派遣されてきた者の下で働く郡の役人である。地方の豪族か選ばれることが多い。親から子へとその職は受け継がれたので、こうやって親子ともども年に数度顔つなぎに国司の館に集うことがあった。

そして最後の一首。宴も進み、少々酔いもまわってきた。そんな目で月を見た時、ついつい都にいる妻、坂上大嬢のことを思い出してしまった。今、妻がどんなにか自分のことを恋い慕って待っているのかという思いがおさえきれなくなりついつい歌ってしまった。

ところで・・・しばらくぶりに我が歌日記を読み返してみて、ふと今回の宴の歌三首と、この直前にならんでいる久米朝臣廣縄殿の舘にて宴での四首との時間の開きに驚いてしまった。今回の三首が天平二十一年の三月の初旬の歌(日付は・・・書いていたはずであったのだがいかに記す理由のせいかはっきりしない)だから、久米朝臣廣縄殿の舘にて宴があった天平二十年四月一日からはほぼ一年が経っている。 この間一首の歌も詠んでいないはずはないのだが・・・ この日記には管理の不行き届きで幾分かの欠落がある。たぶん・・・ここもそうなのだろう。そのせいでどうやら今回の三首の日付も欠けてしまったようだ。

至水海遊覧之時各述懐作歌

至水海遊覧之時各述懐作歌

神さぶる 垂姫(タルヒメ)の崎 漕(コ)ぎ廻(メグ)り 見れども飽かず いかに我れせむ

右一首田邊史福麻呂殿

垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ

右一首遊行女婦(ウカレメ)土師(ハニシ)

垂姫の 浦を漕ぐ舟 梶間にも 奈良の我家(ワギヘ)を 忘れて思へや

右一首大伴家持

おろかにぞ 我れは思ひし 乎布(オフ)の浦の 荒礒(アリソ)の廻り 見れど飽かずけり

右一首田邊史福麻呂

めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥(ホトトギス) 何か来鳴かぬ

右一首掾久米朝臣廣縄

多古の崎 木の暗茂(クレシゲ)に 霍公鳥 来鳴き響めば はだ恋ひめやも

右一首大伴宿祢家持

前件十五首歌者廿五日作之

水海では船を繰り出しての遊覧だ。垂姫の崎から水海の南の岸部をたどり、乎布へと船を進めた。初めの三首が垂姫の崎のあたり、次の二首が乎布の崎、そして最後に多古の崎で私が一首詠んでこの日の遊覧は終わった。

まず初めに福麻呂殿が歌う。「見れども飽かず いかに我れせむ」と手放しのお喜びだ。この布勢の水海の絶景を、福麻呂殿はよほどお気に入りになったのであろう。無理もない。海のない大和に住んでいればこのような絶景にお目にかかることはない。かくいう私だって昨年初めて訪れたこの場所の感慨があまりに大きかったから「遊覧布勢水海賦」を詠んで、都にそのすばらしさを伝えようと思ったのだから。

次に遊行女婦の土師の歌。土師はこのあたりでは名の知られた遊行女婦だ。国府に勤務する我々はすべからく単身でこの越中にやってきているので、宴席の場はどうにも花がない。そんな場に花を添えてくれるのが遊行女婦だが、ただそこにいて酌をすると言うだけではない。その場その場にあわせた気の利いた歌や言葉で宴席を盛り上げる才覚がなければ務まらない。その点土師は優れた遊行女婦で、ここでも上手に場の、特に主賓である福麻呂殿の意を汲んで上手に盛り立ててくれた。

そして三首目、私の歌だ。先の二首の歌が垂姫の先の美景をほめたたえる歌であったのに対し、私は少し趣を変えて「家恋い」を主題とした。旅先にあって、その地をほめたたえることと「家恋い」はどちらも欠かすことのできない主題だ。両方があい揃って初めて旅の歌は成立する。ここで垂姫の崎から移動を開始すると言うことなので、私がこの場のとじめとしてこんな歌を詠んだのだ。ところで、この歌の左注には大伴家持とだけあって宿祢という私の姓(カバネ)が抜けている。縷々述べているようにこの日記のこのあたりの部分は私の死後にその損傷が著しかったと見えて、平安の御代の方々が補修のできる部分は補修してくださった。じつはここもそうなのであって、私の名前が欠けていたところを補ってくださったのだが、その際に姓が抜け落ちてしまったものだと思われる。我々平城の都に住をなしていた者にとっては欠かすことのできない姓ではあったが、平安の御代の人々にとってはあまり意をなさぬものであったらしく、うっかりと抜け落ちでしまったものと思われる。

さて場を変えて乎布の崎だ。ここでも主賓である福麻呂殿が第一声を放つ。以前の宴で、私が大和に帰ろうとする福麻呂殿をこの布勢水海の誘って引き留めたとき福麻呂殿は「いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる」と詠んで、この地の絶景ぶりを疑って見せた。その時、それに対し私が乎布の崎を引き合いに出してさらに引き留めた歌を思い出されたのであろう。乎布の崎、ひいては布勢水海の美しさを軽く見ていた反省を歌われている。もちろん、これはそんなそぶりだけであろう。福麻呂殿は先年、私が都に持ち帰った私と池主殿の布勢水海の歌を見て、この地には充分に惹かれていたはずである。

次に歌ったのは久米(クメ)朝臣廣縄(ヒロナハ)殿だ。先年越前に転出なさった池主殿に変わって、この越中に掾としておいでになられた方で非常に謹厳実直、真面目を絵に描いたような方だ。久米氏はかつて我が大伴家の遠祖天忍日(アメノオシヒ)命が配下大来目命の流れの一族。今、大和を離れ越中の地でこうやって上司、部下の関係で働くことになったのも何となく感慨深いものがある。歌の方は霍公鳥の鳴かないのを恨む歌であって直前の福麻呂殿の歌にそぐわないような感じもするが、これは先日の宴で私と福麻呂殿が

藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり(福麻呂殿)

明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも(私)

と歌い交わしたのを踏まえてのもので、この絶景のもと、霍公鳥の美しい鳴き声が加われば風趣はいっそう増したはずなのにと悔やんでいる歌だ。実は先日来の宴の幹事役を廣縄殿に勤めてもらっているのだが、謹厳実直な廣縄殿のこと、こんなことまで我が責任と感じているようだ。

そこで私がとじ目として、部下の謝罪の歌にさらに言葉を添え、福麻呂殿にお詫び申し上げる形で歌い上げたのが六首目の歌だ。歌中、乎布の崎ではなくて多古の崎を詠み込んでいるが、これは場が変わったというより、歌っているうちに船が移動してしまったことから来るものだ。多古の崎は乎布の崎のやや東南。船を一漕ぎすればすぐにたどり着いてしまうほどの距離だ。

さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。

それは・・・

・・・後日・・・その時が来たら・・・

 

廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首

廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首

浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟

沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ

先日の宴で約束した通り、今日は布勢の水海の遊覧に出かけた。私が昨年、都への手土産代わりにと作った「布勢水海遊覧賦」並びにそれに対する池主殿の敬和歌にあるがごとく、皆で馬に乗ってである。晴朗なる天気、遙かに見渡す布勢の水海、絶景これに勝るは無しといった按配であった。

もちろんせっかくのこの水海の遊覧であるから浜辺から眺めるだけではつまらない。やっぱりここは船を出さなければ・・・・

そう思い、かねてから船を手配していたのだが、我々がこの場所に着いたのが早すぎたのか、船はまだ着いていない。馬上にて、早く船がやってくることを願いつつ歌ったのが一首目だ。程なく船は来た。私は福麻呂殿にあれが今日の船ですよと指さしつつ歌った。それが二首目である。

ところで、この歌には題詞にも左注にも誰が詠んだ歌かを記していない。これは縷々申し述べているこの日記の保存状態の悪さに由来する。けれども上に述べた事からもわかるように、この歌は私が福麻呂殿に歌いかけた歌。後の世に私の歌巻を写してくれた人々もそのあたりのことは承知の上だったとみえ、その方々の作成によるこの部分の目録にはきちんと私の作である由を書き添えてある。まことにありがたいことだ。

本当にこの歌のあたりはよほど保存の状態が悪かったようだ。私どもの時代には平仮名という文字は存在せず、漢字の音や訓を利用して我が国の言葉を書き表していた。例えば一首目の第一句「浜辺」だが、私どもの時代の仮名遣いでは「波萬部」などとあるべきところだ。ところが、今、皆さんがご覧になっている本では「波萬へ」となっている。またすぐその下の「より」、今皆さんがご覧になっているものは、「余里」となっていると思うのだが、私どもの時代では「・・・より」の「よ」にはこの「余」という文字は使わない。三句目に「宇美邊欲里ウミベヨリ」の「欲」などを使うのが通例だ。これらの二つの文字は昭和の御代では同じ「よ」と発音しているものが、私どもの時代には違う発音で読まれていたことに由来する。あくまでも違う種類の文字なのだ。それがかくも誤用されるのは、時代の推移とともにその保存の状態が悪くなっていったこの部分、文字が読み取れなくなっていたことが原因かと思う。それを後の世・・・おそらくは平仮名も生まれ、「よ」の発音の区別もなくなってしまった平安の御代の人々が今見る形に補ってくださったのかと私は考えている。

造酒歌一首

 造酒歌一首

中臣(ナカトミ)の 太祝詞(フトノリトゴト) 言ひ祓(ハラ)へ 贖(アカ)ふ命も 誰がために汝(ナレ)

右は大伴宿禰家持が作った歌である。

二月に行ったこの越中の国の巡行で面白いものを見た。酒造りである。もちろん大和においても酒を造ってはいるが、そんなことに興味を持つこともなく私は過ごしてきた。

たまたま今回の巡行の途次、あの「はしたての 熊来(クマキ)酒屋に まゐらぬる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まゐらぬる奴 わし」という歌で知られる、酒造りで有名な熊来村を過ぎたとき、偶然にも酒造りの場面に立ち会うことができた。大和にいたころならば何の興味も示さなかったかもしれないが、それはそれ・・・旅先にあるといろんなことに興味がわいてくる。これ幸いに見学させてもらっていると、彼らは声をそろえて歌っていた。おそらくは同じ歌を歌うことで互いの息をそろえようとしているのであろう。船乗りたちが櫂をそろえるため声揃え歌っているのと一緒だろう。

ひどく田舎びた言葉で、私には何と言っているのか聞き取れず、書き取ることもできなかった。けれども、その独特な節回しだけ耳をついて離れずにいる。そこで、戯れにその節回しに私なりに言葉をのせてみた。いかがであろうか・・・

それに間もなく都から左大臣の橘諸兄殿の使者として田邊福麻呂(サキマロ)殿がいらっしゃる。福麻呂殿の都でのお仕事は造酒司(サケノツカサ)の令史(サカン)だ。都において神事に用いられる様々な酒造りにかかわっていらっしゃる。そんな方に田舎の(越中の)酒造りの様子をお話ししたならばきっと喜んでくださるかと思う。加えて福麻呂殿は都で知られた宮廷歌人だ。私の拙い歌もその折の笑い種ぐらいにはなるであろう。

従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首

従珠洲郡發船還太沼郡之時泊長濱灣仰見月光作歌一首

珠洲(スズ)の海に 朝開きして 漕ぎ来れば 長浜の浦に 月照りにけり

右件歌詞者 依春出擧巡行諸郡 當時當所属目作之 大伴宿祢家持

月の初めに国府を発って昨日やっと珠洲の郡までたどり着いた。珠洲の郡は能登の岬の最果ての地、これにて私の今回の巡行は終わる・・・そんな思いで船出をしたのは夜明け前であった。そして、この松田江の長浜にたどり着いた今月が煌々と海を照らしている。一日中の船旅であったゆえ、疲れは並々ならぬものがあるが、そんな疲れも忘れてしまうほどの心地よさが私にはあった。

国守になって初めての巡行であったゆえ、本当に気遣いの絶えない日々であった。けれども、そんな職務を一つ一つが済み、終わりに近づいてゆくのは、やはり充実感が伴う。そしてその職務も昨日でようやく終えた。気分は爽快そのものだ。ゆらゆらと海上に揺れる月明かりが何とも言えず美しい。二月の初旬、国府を発って出挙のための巡行を始めた。国府周辺はあちらこちらと見てまわったが、越中の国全体をこうやって見て回るのは初めてだ。いちいち目に入ってくるものが新鮮でならない。

歌が口をつく。

意図して歌を詠もうとしなくとも、歌が口をつくのだ。しめて九首。そのどれもがちょいとは胸を張れそうな出来栄えだ。昭和の御代に私の歌をひどく言うことの多かったと聞く土屋文明殿でさえも、今日のこの歌はご評価下さったと聞く。

意味のある数日であった・・・・

鳳至郡渡饒石川之時作歌一首

鳳至(フゲシ)郡渡饒石(ニギシ)川之時作歌一首

妹に逢はず 久しくなりぬ 饒石川 清き瀬ごとに 水占(ミナウラ)延(ハ)へてな

熊来からは馬に乗り、藤の瀬・古江・富来と辿ってこの饒石川までやってきた。本当に地の果てまでやってきたとの感慨がしてならない。岩山が海から立ち上がるように岸壁をなす荒涼とした・・・こんな地形は今まで目にすることがなかった。こんなうら寂しい光景に触れ、都に残してきた妻のことがついつい思い出されてしまった。水占とは、他にあんまりする方はいらっしゃらぬが、流れる水の上に呪物を浮かべ、その流れ具合によって事の可否を占うものである。もちろんここでは今度いつ妻に会えるのか・・・そんなことを占ってみたのである。もちろん、この占いをするためには清らかな流れが必要なことは言うまでもない。

能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首

能登郡従香嶋津發船射熊来村徃時作歌二首

鳥総立て 船木伐るといふ 能登の島山 今日見れば 木立繁しも 幾代神びぞ

香島より 熊来をさして 漕ぐ船の 楫取る間なく 都し思ほゆ

先日の気太神宮への参拝の後、私は山道を辿り鹿島の津(平成の御代では七尾と言っていると聞く)へと向かった。そして熊来の村へと舟を進めた。

一首目はちょいと冒険をして旋頭歌を試みてみた。旋頭歌は最近でははやらないものになってしまったが、柿本人麻呂殿の時代までは結構人気のあった歌体だ。人麻呂殿も何首か試していらっしゃるが、その後はどうも人気がなくなってしまったようだ。そこには歌というものの役割の推移というものがあるのだろう。人麻呂殿以前は歌は集団の思いを歌うことが多かったと聞く。そして、その集団の思いを歌に託す場合、この五七七・五七七の旋頭歌という形が、ある場合には適していたのだろう。が、人麻呂殿以来、歌は個人の思いを表出するものとなった。そうなってくるとこの五七七・五七七がどうにも都合が悪いのだ。
今回の試みでそのことが思い知らされたように思う。なんとか体裁を整えることができたが、だいぶ苦労した。

ならば、なぜそんなに苦労してまでこんな実験したのか・・・

これから向かうところが熊来であるということでふと思い当たることがあったのだ。

はしたての 熊来のやらに 新羅斧 落とし入れ わし あげてあげて な泣かしそね 浮き出づるやと 見む わし

はしたての 熊来酒屋に まゐらぬる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まゐらぬる奴 わし

私の歌巻(万葉集)の巻の十六におさめておいた歌だ。この歌を思い出したとき、ちょいと真似をしてみようと思ったのだ。旅にあって旅先の風光をほめたたえるのはその土地の神霊に対してのご挨拶でお決まりのことだ。「幾代神びぞ」なんて言い回しからも皆さんにはうかがい知れるだろう。そして、その地の歌を真似ることも熊来の地の神霊のご機嫌を考えてのことだ

そして二首目、ここでは望郷の念を歌うことにした。これもまた旅の歌のお決まり。今度は思いを向ける先は都であるのだから遠慮なく五七五七七。
・・・やはり・・・こちらのほうがだいぶ楽だ・・・

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首

志雄路(シヲヂ)から 直(タダ)越え来れば 羽咋(ハグヒ)の海 朝なぎしたり 船楫もがも

さあ今日からは能登を巡行する。能登は後の時代に一つの国として独立するようになったが、今はまだ越中の国の一部、私の支配下にある。気多の神宮は大国主大神(大己貴オホナムチ)を祀る。この能登の一の宮である。これからこの半島を巡行するにあたっては先ず第一にご挨拶しなければならないお社だ。

国府の近く阿尾の浦辺りから能登の半島を横切り、志雄へと抜ける山道を志雄路と呼んでいるが、今日はその道を真っ直ぐに越えてきた。すると眼前に拓けてきたのは羽咋の海。朝凪に鏡のように水面は静まりかえっている。半島の外側は荒々しくいつも波立っていると聞いていたが、これならば舟で移動すればさぞや楽であろうに・・・・舟がないことが残念でならない。

新川郡渡延槻河時作歌一首

新川郡渡延槻河時作歌一首

立山の 雪し消(ク)らしも 延槻(ハヒツキ)の 川の渡り瀬 鐙(アブミ)漬かすも

婦負(メヒ)川からさらに東へと向かい延槻川までやってきた。立山連峰の一つ剣岳をその源とするこの川は、平成の御代には少々なまって早月(ハヤツキ)川と呼んでいると聞く。この越中の国でもことに流れの速い川であることで有名だ。

あまりに速いその流れの瀬を渡ろうとしたときに不本意にも鐙を濡らしてしまった。大和にはこんな流れの速い・・・そして清らかな流れを見たことはなかった。まだ風の冷たき季節で、もちろん水も冷たかったのだが、変に爽快な心躍る気持ちになってしまった。雪消にはまだ早い季節のようには思うが、この水の量、そして水の冷たさは・・・私には雪消の水に思えて仕方なかった。そして、この豊かな水流は、この地の豊かな実りを保証しているに違いない。

見潜鵜人作歌一首

見潜鵜人作歌一首

婦負川の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり

鵜坂川に辿り着いたは夕刻であったが、宿を取るためにはもう少し進まねばならない。川沿いにしばらく下る。周囲は婦負の郡となる。したがって川の名も婦負川となる。日は暮れて周囲は次第に漆黒に包まれて行く。宿に早く・・・と、少々焦っていたのは事実だ。ところがその行く手遠くに篝火の灯りが・・・

近寄ってみると、何と鵜を使って漁をしているではないか。今はまだ二月。鵜を使っての漁にはまだ早い。川面にちらつく仄かな明かりを頼りに見れば、漁をしているのはどうやら海士達ではない。このあたりの官人達のようだ。国守の私が今日この地を訪れることは知っていたであろうから、きっと歓迎の意を込めて、このような興をそそるようなことを行ってくれたのであろう。

宿にたどり着いてからの宴には礼の一言も言わなければならない。この歌はその時に披露しようとも思う。