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守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首

守大伴宿祢家持舘飲宴歌一首 四月廿六日

都辺に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな恋ふる日多けむ

池主殿のお宅での送別の宴は実に楽しいものであった。私が都へ立った後の辛さを歌えば、内蔵忌寸縄麻呂殿が私が旅立った後の寂しさを歌う。そしてそれを承けて私がきたる五月五日の薬玉の楽しみについて歌えば、池主殿がそれにまつわる古歌を伝誦する。更には私が都への手土産にと作った「遊覧布勢の水海の賦」を披露すれば、池主殿がそれに応える・・・

余りに興が盛り上がったので、その場でおひらきにするのも気がひけて、私の館に皆さんをお誘いし、二次会という次第になった。歌の方は池主殿のお宅で充分に楽しんだので、この場では私の挨拶の歌だけを披露し、後は飲みながらつもる話をいつまでも続けた。

ところで、今日の日の宴は、亡き父がかの筑紫の地にて山上憶良殿等と過ごしたような日々が、ここ越中の地においても再現されているかのように思わせるものであった。あまざかる越中の地においてもかような風流な日々繰り返されていることを、私をこの地へと送り込んで下さった橘諸兄殿をはじめとした方々にお伝えせねばならない。 私は昨年この地に赴任して以来の歌々も都に持ち帰るつもりである。

ところで、この宴の中でまた一つ一座の面々から宿題が出された。「二上山」と「布勢の水海」だけでは、都への手土産として不足ではないか、という声が出たのだ。しかし、この越中の風土の全てを歌にするためにはもはや日がない。「都辺に 立つ日近づく」と歌でもいったようにあと数日で私は都へと旅立つ。税帳を都に持ち帰る期限は過ぎようとしている。これ以上、出立が遅れるようなことがあってはならぬ。らばあと一つだけ・・・一同で頭を捻った。そして「立山」である。この国府から南東にはるかに見はるかす「立山」。白く雪を冠する雄大なその姿は神々しくさえある。この山の姿を歌にするのでなくては、越中の名所を歌ったことにならない・・・というのが、一同の答えである。

ともあれ、今日は飲み過ぎた。「立山」の歌を詠むには明日からにしよう。池主殿も「和」をなして下さるとのことだ。今度はどのような「和」をなして下さるのか、これもまた楽しみだ。

 

敬和遊覧布勢水海賦一首

敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶

藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥  鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携(タヅサ)はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚(ス)鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫(ツマ)呼び交す 羨(トモ)しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿(シブ゙タニ)の 荒礒(アリソ)の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒(ヨ)りに 蘰(カヅラ)に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人(アマ)船に ま楫(カジ)掻(カ)い貫き 白栲(シロタヘ)の 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布(ヲフ)の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや

白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜びを

右掾大伴宿祢池主作 四月廿六日追和

今日、私を送別する宴の主賓として私は先ず、その惜別の情を歌った。それを承けた縄麻呂殿は私の好きな「霍公鳥」を素材にこれから訪れるであろう寂しさを歌った。そしてそれに私が応える。一応の区切りとして私が縄麻呂殿の歌を承けた歌に「和」という言葉を附した。そして、その一連の歌に対して池主殿が石川殿の古歌を伝誦した後、おもむろに私は皆に「遊覧布勢の水海の賦」を披露した。前の秦殿のお宅でに宴においての約束であったので、この場の面々もそれを期待していた。これがこの宴の二つ目の目的でもあった。ある意味ではこちらの方が一同の待ち望んでいたことでもあったし、私も早くその批評を受けてみたいとの思いもあった。池主殿はその意をくんで、早々に主人としての自らの役目を終わらせるため、ここは古歌の伝誦のみで済ませたものと思う。ほかならぬ池主殿である。本来ならば、今日の宴の主催者として自作の披露があってもしかるべきところであるが、ことの主眼は私と池主殿との都への手土産となる長歌の披露にある。適切なご判断だったと思う。

そして、この敬和遊覧布勢水海賦の披露だ。いつもながら、「和」の歌として、心憎いばかりの配慮のなされようである。

私が「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」と詠んだ部分を重複を避け、簡単に「思ふどち」の一語で承けて「馬並めて」と簡単に済ませたところを、今度は「馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば」と詳細に表現し、私の長歌の欠けている部分を適切に補ってくれている。なんとも細やかな心配りである。この細やかな心配りは、この長歌の最後まで貫かれている。

続いて「射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き」だ。ここは私の長歌には詠まれてはいない。国府から布施の水海に行こうとすれば、私が詠んだ渋谿にたどり着く前にまず通らねばならないのがこの「射水川」だ。私の歌は明らかに言葉足らずであった。それを目立たぬように池主殿は補ってくださった。おまけに私の歌はどちらかといえば、目にした景物を羅列的に並べたような歌い方であったが、池主殿はここで「港の渚鳥」が「夫呼び交す」姿を歌っている。旅先にあってこのような鳥たちの仲むつまじき姿は我々地方に派遣されているものにとって、都に残してきた家族を思い起こさせるものであって、そこに一抹の旅愁を感じさせる素材である。ここは、単に鳥たちのそのような姿を描写したに過ぎないが、池主殿はそれだけのことで、そこにかような旅愁を漂わすことに成功している。

次に「渋谿の 荒礒の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」である。私はこの「渋谿」において荒磯に寄せる白波を歌っただけに過ぎないが、池主殿は違うところに目をつけた。その波によって岸辺に打ち寄せる「玉藻」がそれだ。そしてその「玉藻」を「片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」と歌うことによって、家人を想起させようとしている。私の即物的な対象のとらえ方に対して、非常に情緒的な捉え方といえよう。私が「景」を歌っていたので、「情」を歌うことによりその重複を避けようとの意図かと思う。ここでも池主殿は私の長歌に欠けているものを補ってくれた。欠けているものは補い、重複するものは省略する・・・それが池主殿の狙いにはあったようだ。

その意図が端的に示されているのは次の部分だ。私の歌った松田江と宇奈比川はばっさりと切られてしまっている。私自身も少々冗漫になりすぎたと思っている部分だ。松田江は長く続く浜辺をおいて他に特筆するべき点はない。したがって私の長歌でも二句を費やしたのみだ。宇奈比川にいたっては行ってもいない場所を、人づてに聞いたことをそのまま歌にしただけであったので、この部分を切り捨てた池主殿のご判断は的確といえよう。

そしてその分、言葉を費やしていらっしゃったのは、「布勢の水海」であった。ここでこれまで一つの場所について八句ずつと整然たる句の配置をなされていた池主殿は、これまでの倍の十六句を費やしている。考えてみればこの場所が今回の遊覧での主たる目的地であるから、この場所に焦点を当てて詠むのが当然のことである。私自身、その長歌で軽く扱ってしまったことは、少し反省せねばならぬ。あちらも、こちらも紹介しようと思い、ついつい「布勢の水海」については簡略に過ぎてしまったようだ。けれども、池主殿はその欠陥を十分すぎるほどに補ってくださった。

まずは「うらぐはし」の一句だ。池主殿は、ここまでそれぞれの地名はその土地について歌っているその冒頭に配してきた。しかるにここだけが二句目にある。そしてその「布勢の水海」という言葉を二句めにと押しやったのがこの「うらぐはし」というほめ言葉である。これはこの場所がほかの場所とは異なって、最も重要な場所であることを聞いているものに意識させようとの意図によるものであろうことは間違いないだろう。そしてさらに私がどちらかといえば抽象的に読んだこの場所を、「乎布の崎」という地名を入れたり、季節にはあわない「あぢ群」を「葦鴨」と言い換えて具体性を待たせてくれた。これによって、この長歌にふれた人はより現実のものとして「布勢の水海」を思い描くことができるであろう。

最後に「秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」である。「秋」とは私が都から帰って来るであろう季節だ。そうして私が帰ってきたならば、また共にこの「布勢の水海」に遊ぼうというのだ。そしてその楽しみは「春さらば」と春になっても繰り返される。さらにいえば、これは一度限りの秋と春に繰り返されるのではなく、永久に繰り返されてほしいとの願いを込めて、「かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」と歌い納めている。そしてこのことは、そういった営為の実現を確信するこの一節は私の旅の無事を予祝するありがたい言葉でもあった。これは二上山賦に「 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと」と詠んだ私の長歌の末部に見事呼応しており、、私の送別の言葉としてはこれに勝るものはない。この日の歌を閉じるには最良のものであるといえよう。感謝、感謝である。

さて、以上のように私の「遊覧布勢の水海の賦」の語句をあるときは補い、またあるときは省略し、それでいてかなり正確に私の意図を読み取って、この「敬和歌」は詠まれた。そのように考えたとき、この二つの長歌の句数の隔たりに、「和」の歌の常として、いささか抵抗を感じるような方が出てくるかも知れない。確かに、私の詠んだ長歌の三十七句に対して池主殿のそれは五十七句。二十句も多い。以前、私の病が回復しかけの頃、六十一句の長歌(三月三日)を送ったとき、その返歌は四十二句であった。池主殿は決して自らをひけらかそうとはしない。常に相手への配慮を怠らず、控えめ方だ。そして、そのように控え目であることが池主殿の「和」の姿勢であった。と、するならば、この二十句はそのような彼にしてはいささか出過ぎたような感があるように思われる方も出てくるようになるのではないかと言う意味においてである。

私はこの点について、この冒頭の二十句について次のように考えた。

藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと

ここはその二十句のうち、私の長歌の冒頭の「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」を受けた「思ふどち」より前の部分である。この部分は明らかに私の長歌に欠落している部分である。私の長歌はこのように具体的な季節は歌うことをしなかった。年間を通じた、一般論としての「布勢の水海」を詠んだ。それに対して、池主殿は具体的な季節をここに挿入した。そしてそこに描かれたような好季に誘われ遊覧に出で立ったように歌うための導入としてその役割を充分に果たしている。句数にして十二句。ここをさし引くならば、私の長歌の句数を上回るのは八句のみとなり、そう目立った差はなくなる。(ここから先は、私の推測だ。本当は池主殿に直接聞けば良かったのだが、そのぐらいのことが聞かねば分からないのかと思われるのも癪だったので聞かないでいた。)

この十二句に歌われている素材は藤波・卯の花・霍公鳥の三つ。当然の事ながら初夏の風物である。藤は今、季節を過ぎ眼前にはない。今、目の前に咲き誇っているのは卯の花。そして聞こえてくるのが霍公鳥の声。私にはこの部分がはじめから池主殿の原稿に書いてあったとは思えない。あれほど私の歌に忠実に「和」する池主殿だ。私の作を出し抜くような形では歌うようなことはしない。ひょっとすると、ここに抜き出した十二句を除いた部分のみが原稿として用意されていたのではないか・・・

そして、その原稿を懐中にして池主殿はその作の披露の時を待った。私的な宴とはいえ、国府の面々がうち揃うような宴だ。一定の形式は守らなければならない。その形式を守るべく、主賓たる私、そしてその次の地位にある介の内蔵忌寸縄麻呂が惜別をテーマとして歌をやり取りし、それを承けて、池主殿は古歌を伝誦し、宴は佳境へ入った。私の「遊覧布勢の水海賦」の披露の時が来た・・・・が、ここまでの間、池主殿はここまでの歌の流れを見過ごしてはいなかった。霍公鳥(縄麻呂殿)→霍公鳥・玉(私)→玉・橘(池主殿)というのが、ここまでの宴で詠まれた歌の素材の流れである。そして、池主殿の「敬和歌」へと続く。藤は「藤波の、咲き行く見れば、霍公鳥(ほととぎす)、鳴くべき時に、近づきにけり」とあるように霍公鳥とともに詠まれることの多い花、卯の花は「時ならず 玉をぞ貫ける 卯の花の 五月を待たば 久しくあるべみ」 (巻十)ともあるように玉として貫く事のある植物でもある。ここに見られる素材の重なりを考えた時、池主殿の「敬和歌」の冒頭部は、この日の宴で歌われた初夏の景物を意識して作られたと考えてもいいように思う。

私の長歌の披露が終わり、彼の「敬和歌」の披露の場となった。それまでの歌の流れを承けて、池主殿は予め準備していた歌稿に、以上の部分を付け加えこの「敬和歌」を池主殿は詠み上げたのではないか。この際、その歌稿にいささか手を加えたのかも知れない。そんな作業があったので、私の縄麻呂殿への「和」を承けた場面においては自作を披露するのではなく、古歌の伝誦に終わったように私には思える。そして、披露されたこの長歌・・・「敬和遊覧布勢水海賦」は、単に私の長歌に応えたものにとどまらず、今日の日の宴の楽しいやり取りをも反映されたものとなった。そしてその結びは、先に述べたように、このような楽しき日々がいつまでも続くことを予祝する確信に満ちた言葉で終わっている。この越中の面々といつまでも楽しく過ごしたいと思う私を都に送る宴の閉じめの歌としてまたとないものにだったのだ。

最後に、蛇足ながら・・・この長歌の題詞に池主殿は「一絶」という言葉を使われた。これは反歌として詠まれた短歌をさしていうものであることは説明がいらない。ただ、それをなぜ「一首」ではなく「一絶」としたのか。「絶」とは「絶句」。短い唐土の詩形をさす。私が長歌をあえて「賦」と漢風に表現したのに応じての工夫であろう。

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 恋しけむかも 一に云ふ 見ぬ日久しみ恋しけむかも

右一首大伴宿祢家持作之

我が背子が 国へましなば 霍公鳥 鳴かむ五月は 寂しけむかも

右一首介内蔵忌寸縄麻呂作之

我れなしと なわび我が背子 霍公鳥 鳴かむ五月は 玉を貫かさね

右一首守大伴宿祢家持和

石川朝臣水通橘歌一首

我が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ我が貫く 待たば苦しみ

右一首傳誦主人大伴宿祢池主云尓

先日(二十日)の大目の秦殿のお宅での送別の宴に続いて、今日は我が歌友の池主殿がそのお宅で送別の宴を催して下さった。こうも度々このような場を設けていただいて非常に心苦しくは思うのだが、せっかくのお心遣いをお断りするのもなにやら申し訳なくも思うのでお言葉に甘えさせていただいた。

宴にあっては、まず私が旅立つものの立場から別れのつらさを歌った。当初、「見ぬ日久しみ」との歌稿を用意しておいたのだが、どうにもありきたりのような気がして「見ぬ日さまねみ」を改めた上で、皆の前には披露した。こっちのほうが私の心情をより的確に表現できているように思う。

続いてその歌に縄麻呂殿がお応え下さった。この場においては私に次ぐ地位であり、私の不在の間、私の職務を代行して下さる縄麻呂殿がここでまず私の歌にお応え下さるのは、お決まりのこととはいえようが、縄麻呂殿は単に私の歌の言葉をそのまま承けるだけではなく、今の季節の風物である「霍公鳥」を詠み込んだ上で、これから離れて暮らすつらさを素直に歌にしてくれた。

そこで私はその「霍公鳥」なる言葉を承けて上記のように「和」した。普通、このようにその宴の目的(今日の場合は私を送別すること)がはっきりしている場合、「和」と記さないのが通例だ。その宴に目的に沿って歌詠をなす場合、必然的にその歌は「和」の歌であるはずであり、わざわざ「和」と記す必要がないからだ。だから、ここで私があえて「和」と記したのはそれなりの意味を持たせてのことである。つまり冒頭の私の歌と、続く縄麻呂殿の二首にてこの宴の目的は果たされた。いつまでも別れを悲しんでめそめそしてはいられない。後は自由に季節の風物を歌を詠み、せっかくのこの宴を楽しきものにしようとの配慮から、私はこの三首目を詠んだのだ。そういった私の意図を、よりはっきり示そうとここにあえて「和」という文字を入れてみた。

すると、さすが池主殿である。そのような私の意図を充分にくみ取って石川朝臣水通殿のの橘の歌を伝誦することで、その任を充分に果たして下さった。結句「待たば苦しみ」はもちろん橘の結実の時を待つことが苦しいという意味で歌われているのであるが、そこに私の帰着を「待たば苦しみ」との思いを漂わせているのだろうと思う。さすがである。

ただ、後の人がこの日記を読んだ時、一つ不審に思いかもしれない点がある。それはあの池主殿がここにおいて古歌の伝誦のみでこの宴を結んでいるという点についてである。歌を得意としていない他の方ならばいざ知らず、あの池主殿が自分がその主催した宴において自作の歌を披露しないというのは、誰が見ても不自然であろう。また池主殿と私の関係については、後の人々の間でも知られているように、並々ならぬものがあった。その私の餞の場においてのことであれば、その感はなお強いものがあるだろうと思う。加えて、今お手元に私の歌巻(万葉集)をお持ちの方であるならば、さらにご不審に思う点があろう。それは池主殿の「敬和歌」についてである。私の歌巻を見るならば、その「敬和歌」はこの送別の宴の歌の前に配列されている。けれども私はその「敬和歌」をとばして、今日の宴の歌についてを今書いている。これはどうしたことだろうか?そんなふうにお思っていらっしゃるかたも多いであろう。

この二つの不審なる事実はすべて池主殿の「敬和歌」の披露のあり方に由来する。次回、その「敬和歌」について語る予定であるが、その中でこの点について詳らかにしてゆきたいと思う。

遊覧布勢水海賦一首

遊覧布勢水海賦一首并短歌 此海者有射水郡舊江村也

もののふの 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)の 思ふどち 心遣(ヤ)らむと 馬並(ナ)めて うちくちぶりの 白波の 荒礒(アリソ)に寄する 渋谿(シブタニ)の 崎た廻(モト)り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比(ウナヒ)川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群(ムラ)騒き 島廻(ミ)には 木末(コヌレ)花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥(クシゲ) 二上山に 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと

布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ

右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日

実に楽しい一日であった。大和へと旅立つ日を目前にひかえ、国府の面々と布勢の水海まで足をのばし、その美しい風景をしっかりとこの目に焼き付けることが出来た。布勢の水海というのは後に十二町潟と呼ばれるようになった二上山北西の低地に広がる湖で、土砂の堆積と徳川殿が幕府を開かれて以降の相次ぐ干拓のため、昭和の御代の頃には見る影も無くなっていると聞く。私が国守としてこの地にいた頃は、それはそれは美しい湖であっただけに、なんとも残念な話である。

それはともかくとして、先日の秦殿のお宅での送別の宴において私は「二上山賦」を披露し、これを都への土産としたい旨の話をした。すると一同は、それだけでは物足りなかろう、この越中の地にはもっと都で語るべき場所が多くある。他の地も歌にして都に伝えなければならないだろう・・・と口々になさった。それでは・・・ということで、今回の布勢の水海への遊覧ということになった。もちろん目的はそれだけではない。その送別の宴でわざわざ私のために集まって下さった皆さんへの感謝の意をも込めて私がお誘いしたのだ。都への出立の日も近くそう遠くまでは足を運べないという事情もあってこの地を遊覧の地に選んだのだが、国府からほんの少し足をのばしただけでこのようにすばらしい場所があるとは・・・・越中は本当にすばらしい国だ。

渋谿の崎の荒磯、松田江の美しい浜辺・・・布勢の水海までの道行きだけでも心惹かれる景色がある。そして目的の布勢の水海では舟に乗っての遊覧・・・本当に楽しかった。もちろん、この楽しさはその風景の素晴らしさだけに由来するものではない。ともにこの遊覧を楽しんだ面々があればこそである。私は程なく都へと旅立つ。しばしのお別れだ。けれども私が都から無事に帰着したならば、再び同じ顔ぶれでこの地を訪れたいものだ。長歌の終わりの方や、反歌はそんな思いを込めて詠んだ。

ところで先日都への土産歌の素材にしたのは「二上山」。そしてこの度は「布勢の水海」。これで越中の代表的な「山」と「水」を詠んだことになる。これは論語にある「智水仁山」を意識したもので、漢詩の世界ではごく一般的になされる対比である。くわえて、人麻呂殿、赤人殿、そして我が父旅人の吉野讃歌で使われた技法でもある。ただあえてその違いを言えば、それらは一首の中に「山」「水」の対比を描いたが、私はここで二首の長歌にわたってそれをなしたと言うことだ。

・・・とここまで書いてきて、目を再び長歌に戻したとき、いささか盛り沢山にすぎたきらいがあるように思えてきた。我ながらくどい歌だとも感じないではない。すべてを都に伝えなければと思うばかりに、行ってもいないところまで詠み込んでしまった。それもこれも都人にこの越中の素晴らしさを伝えんがための虚構だ。許されることであろうと思う。

さて、先の宴において池主殿が我が作に「和」をなしてくれるとの約束であった。明後日、二十六日には池主殿が私を送る宴を催して下さる予定で、その場において私はこの歌を池主殿はその「和」の歌を披露する予定だ。少しでも早くこの歌をお届けしなければ、池主殿の「和」が、その宴に間に合わなくなってしまう。急ぎ、清書して送らなければ・・・

大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌

大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌二首

奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば

我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きて行かば惜し

右守大伴宿祢家持以正税帳須入京師 仍作此歌聊陳送別之嘆  四月廿日

いよいよ都へと旅立つ日が近づいてきた。今日は大目の秦忌寸八千嶋がその餞の宴を催して下さるということなので、お言葉に甘えてお宅へとうかがった。以前私の歓迎の宴の二次会でお世話になった館である。客間からは洋々たる海が見える。

昨年七月にこの地に赴任して以来、私が病の床にある時にも何かとよくして下さったこの越中の国府の面々がその場に集ってくれた。秋になれば再びこの地にてまみえることになることは分かっていながらも、やはり、数ヶ月の間この方々とお別れするのは辛い。またこの地の国守たる私がこの地を留守にすると言うことは、残された方々になにかとご迷惑をかけることになるだけに複雑な思いが私のうちにはある。そんな思いを私はこの二首に託した。

一首目。繰り返しては寄せる奈呉の海の白波を題材に、残される方々への思いを歌ったが、この着想は、秦殿の客間から見える大海に着想を得たものである。

二首目。やや恋歌めいた歌いざまにはなったが、それは残される面々への私の思いがそれほど強いものである事を言わんとしようとしたからである。

そして、この二首の後、私は先日作った「二上山賦」を皆の前で披露した。そしてこの作を今回の上京に際しての手土産にしたいとの私の思いつきを聞いていただいた。すると・・・ご一同は「それはよい考えだ。」と、すっかり盛り上がってしまい、この後はそれぞれが歌を詠むことも忘れ、この私の着想を更に充実したものにするためにはどうしたらよかろうという話になってきた。

越中の風土を大和の人々に伝えようとするならば、これだけでは物足りなかろう・・・どんな場所を歌に詠んだらよかろうか・・・・そのためには実際に行ってみなくては・・・・

延々とそんな話ばかりが続いた。

さて、いったいどこの景色詠むべきか?

相歡歌二首

相歡歌二首 越中守大伴宿祢家持作

庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに

白波の寄する礒廻を漕ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君

右以天平十八年八月掾大伴宿祢池主附大帳使赴向京師 而同年十一月還到本任 仍設詩酒之宴弾絲飲樂 是日也白雪忽降積地尺餘 此時也復漁夫之船入海浮瀾 爰守大伴宿祢家持寄情二眺聊裁所心

正直に言おう。この日のことについては、実のところ歌のみを記録していただけであって詳しいことを私は残していなかった。したがって、十一月というのは確かだが、詳しい日付がとんと思い出せない。ただその日にあったことについての記憶は確かだ。なんといっても、あれほど待ち焦がれていた池主殿がやっと大和から帰ってきたのを歓迎する宴だ。忘れるはずがない。題詞に「相い歡ぶ」という、恋歌(相聞)によく使われ、男女の逢瀬の喜びを表現することの多い言葉(鈴木利一 「相歡歌二首ー家持と池主出会いの宴ー」国文学論叢三十二)を用いたのも、そういった心映えを示そうとの意図があったからだ。そして詠みあげた二首の歌も当然のことながら恋歌仕立てだ。

繰り返す。それほど私は池主殿が大和から帰って来るのを待ち焦がれていたのだ。

過日、八月七日の宴において、池主殿は私が投げかけた歌の数々を見事に受け止め、投げ返してくれた。風雅をともに語るに、この人をおいて他はなし・・・と私はその時実感した。妻や子から離れ、大和からいくつもの山を隔てたこの越中において日々を心豊かに過ごそうとするのなら風雅の道に遊ぶにしくはない。そして、その相手は・・・この人なのだ・・・と。

そんな実感を懐くや否や、彼は大和へと旅立ってしまった。その帰還を私が待っていないはずがない。加えて、この池主殿不在の間、私は弟書持を失った。遠く離れた地にあって、詳しい状況もわからず心許ない思いをしていた私が唯一期待していたの池主殿が仕入れて来るであろう情報であった。書持が世を去ったとき、池主殿は大和の地にあった。同じ大伴の一族のものとして、その時の様子は具に見、聞くはずだと、その時私は思っていた。そして、彼も私に事の次第を語って聞かせねばならぬとあ思ったのであろうか、あれこれと動き回ってくれていたらしい。そんなひとつひとつを一刻も早く聞きたいとも私は思っていたのだ。

さて、宴は始まった。

まず私が無事帰ってきた池主殿を歓待する意味で件の歌、二首を詠み上げた。一首目は、庭に降り敷く雪・・・大和のそれとは比べものにならぬ雪の降りざま・・・これまでのよくある歌い方ならば、「この雪のようにあなたの事を思っていた・・・」と歌うところであろうが、それでは私の池主殿を待ちわびた気持ちを充分に尽くせない。だから少し工夫をして「しかのみに(こんなふうにだけ)」思っていたわけではなく・・・もっと、もっと思っていたのだと歌った。

二首目も趣向は同じ。これまでならば「この荒波に絶え間なく梶をとるように・・・」と歌うのではなく、その「梶をとる間さえなく」と詠むことによって、自分の気持ちが並々ならぬことを表現したつもりだ。そして、池主殿は静かに語り始めた。大和で聞き及んだ書持のことを・・・

詳しくは語るまい・・・全ては私事だ・・・けれども、弟を亡くした我が悲哀だけは皆に知ってもらわねばならない。書持の死を悼む私の思いを池主殿をはじめとしたこの越中の面々に知ってもらうのでなければ、私はその悲哀に押しつぶされてしまう。私はこの心やすき面々の前でかねてから用意しておいた挽歌を披露した。

期待していたとおりであった。皆は私の悲哀をまるで我が悲哀であるかのように受け止めてくれた。その死を悼むものが一人でも多い方が、冥界へと旅だった者はよろこぶはず・・・私はそう思いこの歌を皆の前で披露したのでもあった。そしてその目論見は果たされた。すこし、しんみりとなりすぎた。しかしまあ、これも私にとっては織り込み済みのこと。けれども、せっかく、この越中の心通った一同が集ったのだ。しかも池主殿は久々の越中・・・このまま宴を終わらせるわけにはいかない。いや、宴としてはこれからこそが本番。あとは琴を奏で、飲み歌い楽しむ・・・そんな雰囲気にと場は変化した。下らぬ戯れ歌を歌うものもいた。私とても少々はそのような歌を・・・記録するほどの者は無かったので、ここでは省略したが・・・

楽しい時間だった。実に楽しい・・・弟を失ってからの塞いだ気持ちは幾分かは和らげることが出来た。それに池主殿もこれからはこの越中にいる。これからのここでの生活は・・・ふふ・・・楽しみになってきた。

 

大目秦忌寸八千嶋之館宴歌

大目秦忌寸八千嶋之館宴歌一首

奈呉の海人の釣する舟は今こそば舟棚打ちてあへて漕ぎ出め

右館之客屋居望蒼海 仍主人八千嶋作此歌也

 昨夜は実に楽しい夜であった。新しくこの越中の地に赴任した私を、主だった面々が快くむかえて下さっていることがあらためて実感することができた。それぞれが風雅を理解し、心優しく気遣いに富んだ方々ばかりである。これからの数年こういった方々とともに仕事ができるということはとても心強いことであるとともに、なにやら楽しげな予感さえ感じられてわくわくする思いである。

ところで、昨夜の宴において私が

馬並めて いざ打ち行かな 澁谿の 清き磯廻に 寄する波見に

と詠み、明日はその澁谿に海を見にいこうと誘いかけたところ「そりゃあいい・・・」と話が盛り上がった。時刻は「月かたぶ」く頃、夜明けは近かった。私たちは仮眠をとった後、空の白むのを待ちかねて「澁谿」へと「馬並めて」出かけていった。

「澁谿」に到着したのが早すぎたかと見えて、「海人」達はまだ船出前といった風情であった。以前、帝が伊勢へとお出ましになられたとき、私も内舎人として供奉する機会を得、海というものは初めてではなかったが、ここ越中の海は伊勢の海のように閉ざされてはいない。その雄大さといったら較べようもないものであった。一首、詠もうとも思ったのだが、まさに言葉が出てこない。自分には、まだこの海を表現するべき語彙が存在しない・・・そんな感覚であった。

・・・と、その時、秦殿が「ここに釣りする海人の船が見えたらもっと興趣があっただろうに・・・」と呟いた。私はまだそれがどのような光景なのか知らなかったので、ただ曖昧にうなずくだけであった。しばらく、その絶景に目を遊ばせた後、秦殿は居合わせた面々を自らの館へといざなった。朝からまだ何も食べていなかったので、朝食をご馳走しようというのだ。我々はそのお言葉に甘えることにして連れ立って秦殿のお宅にお邪魔した。

通された客間がまた絶景であった。部屋に居ながらにして、奈呉の蒼海が見渡せるのだ。我々は朝食を摂りながらしばし見とれていた。その時秦殿がこの歌を詠んだのだ。なんでも、ここの海人達は漁に出かけるとき、その船べりを強く叩き、大きな音を立てて行くのだという。秦殿の説明によれば、それには魔よけの意味があるのだという。これだけ広く波の荒い海に出てゆくのだから、こうやって漁の安全を願う気持ちはよく理解できる。すると、誰だったか・・・たしか池主殿か・・・が、自分は乗り組んだ複数の海人が息を合わせるために船べりを叩くのだと聞いたことがある、といった。私にはどちらが正しいのかは分からない。これからの長い国司としてこの地に留まっている間には「海人」達と言葉を交わすこともあるだろう。もし、その時このことを覚えていたのなら聞いてみようと思う。

題詞には「宴」とは書いたものの、昨夜からの続きでもあり、面々には少々お疲れの気配もあった。また、朝食を摂るといった程度の「宴」でもあったので、ここでは秦殿の歌に応えるものは誰もいなかった。まあ、秦殿もそれは余り期待をしてはいなかったであろう。ということで、この「宴」は程なく終わり、各々が三々五々自らの屋敷へと帰って行った。私が屋敷に帰ったときにはもう日はかなり高い位置にあった。

それにしても眠い・・・どうやら、今日は仕事になりそうもない。

 

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも

右一首守大伴宿祢家持作

をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ

秋の夜は暁寒し白栲の妹が衣手着むよしもがも

霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに

右三首掾大伴宿祢池主作

今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも

天離る鄙に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに

右二首守大伴宿祢家持作

天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや

右一首掾大伴宿祢池主

家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも

右一首守大伴宿祢家持作

ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

右一首大目秦忌寸八千嶋

古歌一首 大原高安真人作  年月不審 但随聞時記載茲焉

妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む

右一首傳誦僧玄勝是也

雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の上に

馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に

右二首守大伴宿祢家持

ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ

右一首史生土師宿祢道良

今日八月七日は大和を出立してからちょうど一ヶ月目にあたる。越中についてからも二十日余りが経った。国司の官舎への引越しの作業や、事務処理の引継ぎなど、まずこなさなければならないことは一通り済み、やっと一息をつけるようになった。そこで越中の主だった面々を集め、挨拶を兼ねての宴を催した。顔ぶれは掾(三等官)の大伴池主殿・大目(四等官)の秦八千島殿・僧の玄勝殿、そして史生(書記官)の土師道良殿だ。道良殿にはこの度の宴を催すにあたって、幹事の任だけではなく、上の歌々の記録をも掌っていただいた。まことに感謝頻りである。ここに越中の国の介(次官)の名がないのは不審に思われるかもしれないが、この職は現在のところ席が空いている。

宴に当たっては池主殿が宴に彩りを添えようと大量の女郎花を持ってきてくださった。楚々たるその風情は実に興をそそるものだ。感謝の意と、宴への歓迎の意味を込めて、まず先に私が

秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が ふさ手折り来る 女郎花かも

と詠んだ。「我が背子」と恋歌仕立てにしたのは、親愛の意を込めてのことである。女郎花を持ってきてくれた池主殿は我が同族、そして以前(天平十年十月)に橘諸兄殿の旧宅で、そのご子息、奈良麻呂殿が宴を催されたとき(巻八)、ともにその進行役を務めた間柄でもある。そんな彼と越中の地でこうやって再会するとは実に奇遇としか思いようがない。彼のような風雅を愛する人と、こうやって風光明媚な異郷の地にしばらくの間、時間を共にするのか思うと、かつて父、旅人が筑紫の地で過ごしたような風流な日々を思わず夢想してしまう。そんな期待が私にこの歌を詠ませた。「秋の田の 穂向き見がてり」と歌ったのは、彼の官人としての職務への熱心さを褒め称えようとの意図があってのことだ。

その私の意図を汲んでか、池主殿も恋歌仕立てで返歌をなされた。私の歌をそのまま承けて、女郎花を歌い、「徘徊り来ぬ」と結んだこの歌は、そのような思いまでしてわざわざここへやって来たことを言っているのだが、これは男が女のもとに訪れたとき、その思いの強さを訴えるための常套句であり、この句を通じて彼は私の越中赴任を歓迎してくれたのだろう。

そして続く二首、

秋の夜は 暁寒し 白布の 妹が衣手 着むよしもがも

霍公鳥 鳴きて過ぎにし 岡辺から 秋風吹きぬ よしもあらなくに

ひょっとしたらこの二首は私を歓迎するためにあらかじめ準備していてくれた歌かもしれない。旅先で迎える秋の夜風を寂しく感じるのは、妻を大和において単身越中に赴任している官人たちにとっては共通の感情だ。今、新たに妻と別れ、この地にやって来た私の寂しさを思いやってこのように詠んでくれたに違いない。その優しさが身に沁みた私はその二首を承け、

今朝の朝明(アサケ) 秋風寒し 遠つ人 雁が来鳴かむ 時近みかも

天ざかる 夷(ヒナ)に月経ぬ しかれども 結ひてし紐を 解きも開けなくに

と応じた。すると池主殿は家で待つ家人の立場に思いを寄せ

天ざかる 夷にある我を うたがたも 紐解き放けず 思ほすらめや

と返してきたので、私はやはりその意を承け、

家にして 結ひてし紐を 解き放けず 思ふ心を 誰れか知らむも

と和した。「思ふ心を 誰れか知らむも」と歌ったのは、こんなにも恋しく家人を思っている我が思いは池主殿ならば、あるいはこの場に居合わせた面々ならばきっと理解して下さることを前提にした句である。

さて、折角の楽しき宴、家のことを思いしょんぼりしているだけではつまらない。それに、機会を得てこの越中の地にやって来たのだ。そのこと自体も楽しまなければ損だ。そんな風に歌い、宴の雰囲気を変えてくれたのが秦殿のこの歌だ。

晩蝉(ヒグラシ)の 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし

季節はまさに秋、その風情を楽しむに絶好の季節である。家にこもってあれこれと物思いに耽るよりは、この季節を充分に楽しもうと私に誘いかけてくれた。秦殿は、ちょいとくだけた人でもあったので「女郎花」の語には越中の女との意もこめられていただろう。故郷の妻は妻で大切に思っておくとして、今いるのは越中。この越中の女もなかなかですよ、と私によからぬ誘いをかけて下さった。すると僧の玄勝殿が、僧の身にありながら

妹が家に 伊久里(イクリ)の杜(モリ)の 藤の花 今来む春も 常かくし見む

という大原高安殿の古歌を教えてくださった。「伊久里」とはここ越中にある地名。新任の国司である私に任地の地名を教えてくださったのだ。もちろん、「藤の花」にも地元の女の意がこめられてあり、彼もまた私に良からぬお誘いをかけて下さっているのだ。そのお誘いに乗るかどうかはまた別の問題だが、このお二人なりの歓迎の意の示しようは妙に私には好ましく感じられた。地元の女、云々のあたりはともかくとして、折角ここまで来たのだから珍しい風景を見てみたい気持ちは強い。そこで「花=女」あたりのところには目をつぶって

雁がねは 使ひに来むと 騒くらむ 秋風寒み その川の辺に

馬並(ナ)めて いざ打ち行かな 澁谿(シブタニ)の 清き磯廻(イソミ)に 寄する波見に

とだけ応えておいた。そして、いつしか夜も更けた。そろそろ・・・と誰もが思いかけたとき、この宴の幹事役をかって出てくれた土師殿が

ぬば玉の 夜は更けぬらし 玉くしげ 二上(フタガミ)山に 月かたぶきぬ

と詠み、和やかなうちにも宴は閉じられた。

・・・と思ったのだが、かように盛り上がった宴、このまま閉じられるのは余りに惜しい。それに私の最後の歌に「馬並めて・・・」とも歌ったように一度早い機会に「澁谿の 清き磯廻」も見てみたい。そこで、一同に明日は如何に・・・と声をかけてみたら、どうやらお付き合いいただけるようだ。なんでも、秦殿のお屋敷の客間からは居ながらにして海を間近に見ることが出来るという。

・・・さて・・・楽しみなことだ・・・

 

天平十八年正月白雪多零積地數寸也

天平十八年正月白雪多零積地數寸也於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 [中宮西院]供奉掃雪於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌

左大臣橘宿祢應詔歌一首

降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

紀朝臣清人應詔歌一首

天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか

紀朝臣男梶應詔歌一首

山の狭そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば

葛井連諸會應詔歌一首

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは

大伴宿祢家持應詔歌一首

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

藤原豊成朝臣  巨勢奈弖麻呂朝臣  大伴牛養宿祢  藤原仲麻呂朝臣

三原王  智奴王  船王  邑知王  小田王  林王  穂積朝臣老

小田朝臣諸人  小野朝臣綱手  高橋朝臣國足  太朝臣徳太理

高丘連河内  秦忌寸朝元  楢原造東人

右件王卿等應詔作歌依次奏之登時不記其歌漏失但秦忌寸朝元者左大臣橘卿謔云靡堪賦歌以麝贖之因此黙已也

おりからの大雪、常々先の帝と御懇意になされていらっしゃった諸兄殿は大勢の諸王・官人の方々を引き連れて、雪掃いのために中宮の西院に参内になられた。まさに諸兄殿のご威光を誇示するかの様な出来事だったが、居並ぶ諸王・官人の方々もそのお力にはほとほと感服されていたことだろうと思う。

さて、先の帝の御為に雪掃いをさせていただくだけでも恐縮至極のことであるのに、先の帝は私のようなものにまで御酒を賜われ、宴を催してくださった。光栄の至りである。居並ぶ方々は先の帝のお言葉に従って次々と歌をお詠みになられた。どれもこれもお言葉どおり「雪」を詠みこんだ、正月にふさわしいめでたい歌ばかりであった。本来ならばそのすべてを記録しておくべきであったが、それを怠り、上に挙げた数首しか思い出せないのがかえすがえすも残念でならない。

ひとつだけ興味深く思ったのは、最後に書いておいた秦忌寸朝元殿のエピソードだ。朝元殿は遣唐使の一員として二度にわたり唐に渡り、向こうでの留学生活も十数年にわたる才人だ。その語学力たるや、お上の仰せで弟子をとり、唐の言葉を教授するほどのものである。しかしながら、唐での生活が長く大和にて暮らす日々が短かったゆえであろうか、あるいは、秦というそれほど高貴ではいらっしゃらない出自の中、このような場に招かれるような地位にたどり着くため、わき目も降らずご努力なされ、風雅の道に遊ぶ機会が少なかったせいであろうか、(そのいずれもだとは思うが)肝心の大和歌の力は今ひとつであった。この時はからずも先の帝の仰せにより、大和歌を詠まねばならなくなった朝元殿のお困り様は、おなじ南の下の間に座っていた私には手にとるように理解できた。次々と歌は詠まれ、朝元殿の順番は近づいてくる。そのお顔はますます引きつったようになってくる。その時である。一番、上の席に座られていた諸兄殿の「歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよ。」とのお言葉があった。そのお言葉の調子はなかなか歌の詠めない朝元殿をお謔いのようではあったが、そのことで朝元殿が救われるような気持ちになったのは確かだ。麝香は確かに高価な品物ではあるけれども、唐での長い留学生活で医学を学ばれ、当時薬事をつかさどる典薬頭の任にあたられていた(市村宏
「秦忌寸朝元」東洋大学上代文学研究会会報第14号)朝元殿のこと、歌を詠むよりはこちらを工面するほうが容易かったはず・・・・

なんというご配慮であろうか。諸兄殿は表面上は朝元殿をお謔いになられながらも、歌を詠めずに決定的な恥をかくという窮地からお救いあそばしたのだ。人の上に立つものとしてのお心の使いよう、私も肝に銘じておかなければならない。

天平十八年正月のある日のこと、白雪が大いに降り敷いて、地面に数寸降り積もった。時に左大臣橘諸兄殿が大納言藤原豊成殿及び諸王諸臣等を率いて、太上天皇の御在所中宮の西院に参上して、皆で雪掃いの任についた。雪掃いの終わった後、太上天皇は詔を降して、大臣参議並びに諸王はその上の間に座らせ、諸卿大夫は南の下の間に座らせて、酒を賜いて宴を催された。そのお言葉に言う・・・そなたたち、諸王・諸卿等、聊(イササ)か此の雪を素材にして夫々歌を詠み、献上せよ・・・と。
右の挙げた王卿の方々は、皆、お言葉に応えて歌を作り、次々と献上した。その時、うかつにも其の歌を記録することを怠り、その多くを漏失してしまった。ただ、こんなエピソードが一つあった。それは、秦忌寸(ハタノイミキ)朝元殿がなかなか歌を詠めないでいたのに対し、諸兄殿が謔れて、歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよとおっしゃった。そこで、朝元殿は黙り込んでしまった。

本来の意味での私の歌日記はここから始まる。その冒頭に私はこの日の宴の歌々を据えたいと思う。理由は以下による。
実のところを言えば、これらの歌々は私がおぼろげながらに記憶していたもので、この宴の日、私に歌日記を始めようとの明確な意図を持って記録していたものではない。そのことが、この日お集まりになられていた皆さんの歌すべてをここにお示しできなかった理由だ。
当日、お集まりになられていた諸王、官人もどなたがおいでになられていたか、なんとか遺漏なく思い出せたと思う。ただ、そのお名前の配列だが、本当ならば当日の皆さんの官位・官職をもとに並べておくべきところ、これだけはどうしても正確に思い出せない。したがって、天平二十一年四月一日現在の官位・官職を基準に配列することにした。そしてこのことがは私がこの日の歌々を歌日記の冒頭に据えようと思った理由を如実に示してくれる。
この日、天平二十一年四月一日は陸奥の地にて大仏の建立に必要な黄金が報告され、そのことに感激した帝が宣命が発せられた。元号は「天平勝宝」と改元せられ、私も従五位上と昇進を果たした。
このような良き日、私は、かつて従五位下として新たに本格的な官人としてのスタートを切ったその年の始めに催されたこの宴を思い出した。生まれて初めてかような晴れがましい場に呼んでいただくことができたこの日の晴れがましき体験は今もなお記憶に深々と刻まれている。私はこの歌日記を祝福されためでたき日記にしたいと思う。そして、天平十八年正月のこの雪の宴の歌こそがその冒頭を飾るのにふさわしいめでたき歌々であると確信している。

思霍公鳥歌一首 田口朝臣馬長作

思霍公鳥歌一首 田口朝臣馬長作

霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも

右傳云 一時交遊集宴 此日此處霍公鳥不喧 仍作件歌 以陳思慕之意 但其宴所并年月未得詳審也年次不詳

せっかく霍公鳥の声を聞こうと宴を催したというのに、その声が聞こえてこないというのはなんとも残念な話だ。困りきった馬長殿のお顔が目に浮かぶようだ。面目丸つぶれというのはこのことだろう。

ただ、その弁明に詠んだこの歌は、実にしょっている。「今し」の「し」という強めの言葉はとても大切な言葉だ。宴も始まりなかなか霍公鳥は啼かない。次第に焦ってくるのは馬長殿だ。他のどんな時でも啼かなくてもいいから、せめて今のこの瞬間だけでも一声啼いてほしい・・・切実な願いであろう。それにしても「万代に 語り継ぐべく」の一節はなんともまあ、おおげさな・・・との感じないでもない。私などは思わず、山上憶良殿の

士やも 空しくあるべき 万代に 語り継ぐべき 名はたてずして

の一首を思い出してしまった。憶良殿のこの一首は、その生涯を振り返っての悲痛な叫びであったが、ここでの馬長殿の置かれてる位置はそれほどのことでもあるまいに・・・まあ、それほど焦っていらっしゃったのだろう。

最後に長い左注になってしまった。分かりにくいと思われる方は次を参考にしていただければと思う。

人から伝え聞いた歌だ。あるとき、田口の朝臣馬長殿が親しい友人を集め、宴を催した。霍公鳥の声を肴に一杯という趣向だったのに、この日に限っていっこうにその声が聞こえてこない。そこで、この歌を詠み、その声を思慕する思いを述べることで、集まった友人たちに対する弁明とした。ただ、この話を聞いたとき、この歌が何時、どんな場所であったことなのかを聞くことを忘れていたので、今、それを明らかにすることはできない。