カテゴリー別アーカイブ: 天平感寶元年

同月九日諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴 於時主人造白合花縵三枚疊置豆器捧贈賓客 各賦此縵作三首

同月九日諸僚會少目秦伊美吉石竹之舘飲宴 於時主人造白合花縵三枚疊置豆器捧贈賓客 各賦此縵作三首

油火あぶらひの光に見ゆる吾がかづらさ百合の花のまはしきかも

右一首守大伴宿祢家持

灯火ともしびの光に見ゆるさ百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき

右一首介内蔵伊美吉縄麻呂

さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ

右一首大伴宿祢家持 

東大寺からいらっしゃった平榮殿たちを都にお送りしたその4日後の9日に、越中の官人たちが少目さかんはたの伊美吉いみき石竹いはたけ殿の館に集まり宴を催した。先月、私のもとに従五位上への昇進の知らせが届いたのだが、この宴はその昇進をみなが祝ってくれる・・・という趣旨のものでまことにうれしい限りである。

加えて主人の石竹殿は百合の花縵を三枚も作って、高坏に重ね置いて私たち来客をもてなしてくださった。なんとまあ・・・お手間な、それでいて風流なお気遣いであることほとほと感心させられた。そこでその感謝の意を込めて私と内蔵うちつくらの伊美吉縄麻呂殿が詠んだ歌が以上の3首である。

本来ならば、ここに居合わせた大目さかん秦伊美吉八千島殿の歌もあってしかるべきなのではと思うのだが、八千島殿は少々歌が苦手でいらっしゃる。それにもまして、縄麻呂のお歌が「ゆりも逢はむと」などと、少々場違いであったため、私がすかさず「今のまさかもうるはしみすれ」と応じなければならなくなったゆえ、その後を継ぐことが出来なくなってしまわれた。少々申し訳ないことをしたと後悔してもいる・・・

この宴の参加者は、場の主人としてこの越中の国の少目である秦伊美吉石竹殿。客は国守である私。すけである内蔵伊美吉縄麻呂殿、大目である秦伊美吉八千島の3人である。だから、花縵も3枚用意してくださったわけである。本当ならばじょうである久米朝臣広縄もここにいるべきではあったが、なにぶん都への使いとして出張中でいらっしゃったためこの宴には参加することが出来なかった。

残念である・・・

天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等 于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首

天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等 于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首

焼太刀やきたち砺波となみの関に明日よりは守部もりへ遣りそへ君を留めむ

今年(749年)2月22日、みちのくより黄金が産したとの報告があった。我が国にあっては初めてのことである。平城の都の東、若草山の麓に築きつつある東大寺の大いなる御仏の御身を荘厳する黄金が不足し、帝がお心を悩ませているとのうわさを耳にしてはいたのだが、これで帝も一安心なさっていることかと思う。この国の青人草だけではなく、天地までもが帝のこの大事業に加わっている・・・そんな思いがする。

4月1日にはそのことをことほぐ、類まれなる長大な勅が発布され、さらにはその14日に天平感寶との改元が実施された。帝のお喜びの様が目に浮かぶようである。

さて、その4月1日の勅には我が大伴の一族にはうれしい限りのお言葉もあった。が、それについてはまたいつかの機会に・・・ということにしておいて、今は今回の宴のことについて少々書きとどめなければならない。件の勅において、帝は

又寺寺に墾田はりた地許ところゆるし奉り、ほふしつかさを始てもろもろほふしあまゐやまひ問ひ治め賜ひ

と仰せられ、寺々にも新たに地を拓き田地となして所有することをお認めになられた。僧の平榮殿たちは、その土地の所属状況を確認するために東大寺から派遣されて、わざわざ越中までおいでになられていた。このたびその任も果たされ、都にお帰りになるというので、最後にちょいと杯をお送りしようと思い一席を設けた次第である。こうやって都から離れて暮らしていると、少しでも都のにおいのする方は言い知れず懐かしい。そんな方が都に戻られるとあっては、やはり何とも言えぬ寂しさがあるものだ。この歌はそんな思いを込めたものだ。

砺波の関は砺波山に置かれた関所で、平榮殿達はここを通って都に帰られる。そこに関守を遣ってでもこの越中の地に平榮殿たちをお留めしたい・・・そんな思いから、この1首を詠んだ。

「焼太刀を」の一語は、「太刀」は「鋭い・・・き(利き)」ものであるところから、「砺波」の「(砺)」にかけて用いた枕詞である(人によっては焼き上げた太刀は「ぐ(研ぐ)」ものであるから「」にかけるのだという人もいるらしい)

ともあれ、このような方々と今回のような宴の場を設けるのも我々国守の任であるが、先にも述べたように都の匂いのする方々と少しでも時を過ごしたい・・・そんな思いも本音である。