カテゴリー別アーカイブ: 天平十八年

相歡歌二首

相歡歌二首 越中守大伴宿祢家持作

庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに

白波の寄する礒廻を漕ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君

右以天平十八年八月掾大伴宿祢池主附大帳使赴向京師 而同年十一月還到本任 仍設詩酒之宴弾絲飲樂 是日也白雪忽降積地尺餘 此時也復漁夫之船入海浮瀾 爰守大伴宿祢家持寄情二眺聊裁所心

正直に言おう。この日のことについては、実のところ歌のみを記録していただけであって詳しいことを私は残していなかった。したがって、十一月というのは確かだが、詳しい日付がとんと思い出せない。ただその日にあったことについての記憶は確かだ。なんといっても、あれほど待ち焦がれていた池主殿がやっと大和から帰ってきたのを歓迎する宴だ。忘れるはずがない。題詞に「相い歡ぶ」という、恋歌(相聞)によく使われ、男女の逢瀬の喜びを表現することの多い言葉(鈴木利一 「相歡歌二首ー家持と池主出会いの宴ー」国文学論叢三十二)を用いたのも、そういった心映えを示そうとの意図があったからだ。そして詠みあげた二首の歌も当然のことながら恋歌仕立てだ。

繰り返す。それほど私は池主殿が大和から帰って来るのを待ち焦がれていたのだ。

過日、八月七日の宴において、池主殿は私が投げかけた歌の数々を見事に受け止め、投げ返してくれた。風雅をともに語るに、この人をおいて他はなし・・・と私はその時実感した。妻や子から離れ、大和からいくつもの山を隔てたこの越中において日々を心豊かに過ごそうとするのなら風雅の道に遊ぶにしくはない。そして、その相手は・・・この人なのだ・・・と。

そんな実感を懐くや否や、彼は大和へと旅立ってしまった。その帰還を私が待っていないはずがない。加えて、この池主殿不在の間、私は弟書持を失った。遠く離れた地にあって、詳しい状況もわからず心許ない思いをしていた私が唯一期待していたの池主殿が仕入れて来るであろう情報であった。書持が世を去ったとき、池主殿は大和の地にあった。同じ大伴の一族のものとして、その時の様子は具に見、聞くはずだと、その時私は思っていた。そして、彼も私に事の次第を語って聞かせねばならぬとあ思ったのであろうか、あれこれと動き回ってくれていたらしい。そんなひとつひとつを一刻も早く聞きたいとも私は思っていたのだ。

さて、宴は始まった。

まず私が無事帰ってきた池主殿を歓待する意味で件の歌、二首を詠み上げた。一首目は、庭に降り敷く雪・・・大和のそれとは比べものにならぬ雪の降りざま・・・これまでのよくある歌い方ならば、「この雪のようにあなたの事を思っていた・・・」と歌うところであろうが、それでは私の池主殿を待ちわびた気持ちを充分に尽くせない。だから少し工夫をして「しかのみに(こんなふうにだけ)」思っていたわけではなく・・・もっと、もっと思っていたのだと歌った。

二首目も趣向は同じ。これまでならば「この荒波に絶え間なく梶をとるように・・・」と歌うのではなく、その「梶をとる間さえなく」と詠むことによって、自分の気持ちが並々ならぬことを表現したつもりだ。そして、池主殿は静かに語り始めた。大和で聞き及んだ書持のことを・・・

詳しくは語るまい・・・全ては私事だ・・・けれども、弟を亡くした我が悲哀だけは皆に知ってもらわねばならない。書持の死を悼む私の思いを池主殿をはじめとしたこの越中の面々に知ってもらうのでなければ、私はその悲哀に押しつぶされてしまう。私はこの心やすき面々の前でかねてから用意しておいた挽歌を披露した。

期待していたとおりであった。皆は私の悲哀をまるで我が悲哀であるかのように受け止めてくれた。その死を悼むものが一人でも多い方が、冥界へと旅だった者はよろこぶはず・・・私はそう思いこの歌を皆の前で披露したのでもあった。そしてその目論見は果たされた。すこし、しんみりとなりすぎた。しかしまあ、これも私にとっては織り込み済みのこと。けれども、せっかく、この越中の心通った一同が集ったのだ。しかも池主殿は久々の越中・・・このまま宴を終わらせるわけにはいかない。いや、宴としてはこれからこそが本番。あとは琴を奏で、飲み歌い楽しむ・・・そんな雰囲気にと場は変化した。下らぬ戯れ歌を歌うものもいた。私とても少々はそのような歌を・・・記録するほどの者は無かったので、ここでは省略したが・・・

楽しい時間だった。実に楽しい・・・弟を失ってからの塞いだ気持ちは幾分かは和らげることが出来た。それに池主殿もこれからはこの越中にいる。これからのここでの生活は・・・ふふ・・・楽しみになってきた。

 

哀傷長逝之弟歌

哀傷長逝之弟歌一首 并短歌

天離る 鄙治めにと 大君の 任けのまにまに 出でて来し 我れを送ると あをによし 奈良山過ぎて 泉川 清き河原に 馬留め 別れし時に ま幸くて 我れ帰り来む 平らけく 斎ひて待てと 語らひて 来し日の極み 玉桙の 道をた遠み 山川の 隔りてあれば 恋しけく 日長きものを 見まく欲り 思ふ間に 玉梓の 使の来れば 嬉しみと 我が待ち問ふに およづれの たはこととかも はしきよし 汝弟の命 なにしかも 時しはあらむを はだすすき 穂に出づる秋の 萩の花 にほへる宿を 言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也 朝庭に 出で立ち平し 夕庭に 踏み平げず 佐保の内の 里を行き過ぎ あしひきの 山の木末に 白雲に 立ちたなびくと 我れに告げつる 佐保山火葬 故謂之佐保の内の里を行き過ぎ

ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも

かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを

右天平十八年秋九月廿五日越中守大伴宿祢家持遥聞弟喪感傷作之也

八月七日のあの宴の後、大伴池主殿は程なく都へと向かった。八月の三十日が各国からのその年の地方台帳の提出期限だからである。そして、九月を迎え、信じられない知らせが、都より私のもとへと届いた。あの書持(フミモチ)の・・・弟の書持の死を告げる知らせだ。去る九月五日、書持はその短い命を終えた。知らせを受けた当初、取り乱した私は、事の次第を受け止めることが出来なかった・・・というよりは、受け止めようとしなかった。遠く離れた都での出来事である故に、この悲しき知らせが事実と受け取ることが出来なかった。

しかし、その死より三七、二十一日を迎えた今日にいたり、取り乱していた私の精神も次第に落ち着きを取り戻し、この認めたくはない事実を、認めなければならないと思うようになった。そうでなければ・・・私がその死を受け止めてやるのでなければ、書持の御霊も浮かばれぬというもの・・・私はこの悲しみを歌にすることにした。それがこの三首である。

つい二ヶ月前、私は泉川で弟と別れた。書持はわざわざ平城の都から山を越えたところの泉川(後に木津川と呼ぶようになった)のほとりまで送ってくれた。幼い頃から余りからだが丈夫ではない弟であった故、私は言葉の限りを尽くし、身体をいたわるように彼に言って聞かせた。けれども、それから二ヶ月が過ぎて私の元についたのはかくも悲しき知らせであった。「およづれの たはこととかも」以下は直接、我が弟に語りかけるつもりで歌った。「何故に・・・お前は、私を置いて長い旅に出てしまったのか・・・」。抗議にも似た言葉をそこに連ねた。これは、人の死を悼む挽歌においては常套的な決まり文句ではあるが、こう言わずには居られないのが、親しい者を失った者の心情だ。私とて、その例外ではない。こう歌わずには居られなかったのだ。そして、長歌の最後の語句を承けて、

ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも

との反歌を詠み、いったんは歌い終えた。しかし、思いの全てをはき出した後、ふと次の一首が脳裡に浮かんだ。

悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを(巻五)

山上憶良殿が妻(私から見れば義母)を亡くした、父、旅人に捧げた歌だ。憶良殿は父の思いに自らの思いを重ねかく詠んだ。

私とて思いは同じだ。こんなふうになるんだったら、越中のこの美しい風景の全てを見せたかった。弟は大和から余り離れたことはなく、海というを見たことはなかった。そして詠んだのが二つ目の反歌、

かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを

である。

この歌を詠んだのは、何も自らの悲しみを癒やすだけのためではない。このやりきれぬ思いを誰かと共有したいとの思いもあった。心通い合う誰か・・・そんな人々と、この悲しみを共有することが出来れば少しは我が悲哀を紛らわせられようと言うもの・・・私の胸中には、この越中の人々・・・過日、あの宴にて心通わせた人々の顔が浮かんだ。とりわけ、池主殿・・・彼は今、大和にいる。弟の死についてのあれこれを聞き及んでいるに違いない。彼が大和より帰ってきたならば、その仔細を語って聞かせてくれるであろう。その時、私は自らの思いを皆に披瀝しよう・・・そう思ったのだ。彼らなら・・・なかでも、池主殿ならば、きっと我が悲哀を受け止めてくれよう。そして、そうすることが書持に対しての一番の供養になるのではないかと思う。
ところで、歌中に

  • 言斯人為性好愛花草花樹而多植於寝院之庭 故謂之花薫庭也
  • 佐保山火葬 故謂之佐保の内の里を行き過ぎ

と二つの傍注をつけた。これは、書持の事をよくは知らないであろう方々の事を配慮してのものだ。本来ならば、そのような事柄も歌中に散りばめ、このような傍注をつけないのが理想であろう。しかし、今の私にはそこまでの力は無かった。ただ恥じ入るのみである。

大目秦忌寸八千嶋之館宴歌

大目秦忌寸八千嶋之館宴歌一首

奈呉の海人の釣する舟は今こそば舟棚打ちてあへて漕ぎ出め

右館之客屋居望蒼海 仍主人八千嶋作此歌也

 昨夜は実に楽しい夜であった。新しくこの越中の地に赴任した私を、主だった面々が快くむかえて下さっていることがあらためて実感することができた。それぞれが風雅を理解し、心優しく気遣いに富んだ方々ばかりである。これからの数年こういった方々とともに仕事ができるということはとても心強いことであるとともに、なにやら楽しげな予感さえ感じられてわくわくする思いである。

ところで、昨夜の宴において私が

馬並めて いざ打ち行かな 澁谿の 清き磯廻に 寄する波見に

と詠み、明日はその澁谿に海を見にいこうと誘いかけたところ「そりゃあいい・・・」と話が盛り上がった。時刻は「月かたぶ」く頃、夜明けは近かった。私たちは仮眠をとった後、空の白むのを待ちかねて「澁谿」へと「馬並めて」出かけていった。

「澁谿」に到着したのが早すぎたかと見えて、「海人」達はまだ船出前といった風情であった。以前、帝が伊勢へとお出ましになられたとき、私も内舎人として供奉する機会を得、海というものは初めてではなかったが、ここ越中の海は伊勢の海のように閉ざされてはいない。その雄大さといったら較べようもないものであった。一首、詠もうとも思ったのだが、まさに言葉が出てこない。自分には、まだこの海を表現するべき語彙が存在しない・・・そんな感覚であった。

・・・と、その時、秦殿が「ここに釣りする海人の船が見えたらもっと興趣があっただろうに・・・」と呟いた。私はまだそれがどのような光景なのか知らなかったので、ただ曖昧にうなずくだけであった。しばらく、その絶景に目を遊ばせた後、秦殿は居合わせた面々を自らの館へといざなった。朝からまだ何も食べていなかったので、朝食をご馳走しようというのだ。我々はそのお言葉に甘えることにして連れ立って秦殿のお宅にお邪魔した。

通された客間がまた絶景であった。部屋に居ながらにして、奈呉の蒼海が見渡せるのだ。我々は朝食を摂りながらしばし見とれていた。その時秦殿がこの歌を詠んだのだ。なんでも、ここの海人達は漁に出かけるとき、その船べりを強く叩き、大きな音を立てて行くのだという。秦殿の説明によれば、それには魔よけの意味があるのだという。これだけ広く波の荒い海に出てゆくのだから、こうやって漁の安全を願う気持ちはよく理解できる。すると、誰だったか・・・たしか池主殿か・・・が、自分は乗り組んだ複数の海人が息を合わせるために船べりを叩くのだと聞いたことがある、といった。私にはどちらが正しいのかは分からない。これからの長い国司としてこの地に留まっている間には「海人」達と言葉を交わすこともあるだろう。もし、その時このことを覚えていたのなら聞いてみようと思う。

題詞には「宴」とは書いたものの、昨夜からの続きでもあり、面々には少々お疲れの気配もあった。また、朝食を摂るといった程度の「宴」でもあったので、ここでは秦殿の歌に応えるものは誰もいなかった。まあ、秦殿もそれは余り期待をしてはいなかったであろう。ということで、この「宴」は程なく終わり、各々が三々五々自らの屋敷へと帰って行った。私が屋敷に帰ったときにはもう日はかなり高い位置にあった。

それにしても眠い・・・どうやら、今日は仕事になりそうもない。

 

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも

右一首守大伴宿祢家持作

をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ

秋の夜は暁寒し白栲の妹が衣手着むよしもがも

霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに

右三首掾大伴宿祢池主作

今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも

天離る鄙に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに

右二首守大伴宿祢家持作

天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや

右一首掾大伴宿祢池主

家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも

右一首守大伴宿祢家持作

ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

右一首大目秦忌寸八千嶋

古歌一首 大原高安真人作  年月不審 但随聞時記載茲焉

妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む

右一首傳誦僧玄勝是也

雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の上に

馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に

右二首守大伴宿祢家持

ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ

右一首史生土師宿祢道良

今日八月七日は大和を出立してからちょうど一ヶ月目にあたる。越中についてからも二十日余りが経った。国司の官舎への引越しの作業や、事務処理の引継ぎなど、まずこなさなければならないことは一通り済み、やっと一息をつけるようになった。そこで越中の主だった面々を集め、挨拶を兼ねての宴を催した。顔ぶれは掾(三等官)の大伴池主殿・大目(四等官)の秦八千島殿・僧の玄勝殿、そして史生(書記官)の土師道良殿だ。道良殿にはこの度の宴を催すにあたって、幹事の任だけではなく、上の歌々の記録をも掌っていただいた。まことに感謝頻りである。ここに越中の国の介(次官)の名がないのは不審に思われるかもしれないが、この職は現在のところ席が空いている。

宴に当たっては池主殿が宴に彩りを添えようと大量の女郎花を持ってきてくださった。楚々たるその風情は実に興をそそるものだ。感謝の意と、宴への歓迎の意味を込めて、まず先に私が

秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が ふさ手折り来る 女郎花かも

と詠んだ。「我が背子」と恋歌仕立てにしたのは、親愛の意を込めてのことである。女郎花を持ってきてくれた池主殿は我が同族、そして以前(天平十年十月)に橘諸兄殿の旧宅で、そのご子息、奈良麻呂殿が宴を催されたとき(巻八)、ともにその進行役を務めた間柄でもある。そんな彼と越中の地でこうやって再会するとは実に奇遇としか思いようがない。彼のような風雅を愛する人と、こうやって風光明媚な異郷の地にしばらくの間、時間を共にするのか思うと、かつて父、旅人が筑紫の地で過ごしたような風流な日々を思わず夢想してしまう。そんな期待が私にこの歌を詠ませた。「秋の田の 穂向き見がてり」と歌ったのは、彼の官人としての職務への熱心さを褒め称えようとの意図があってのことだ。

その私の意図を汲んでか、池主殿も恋歌仕立てで返歌をなされた。私の歌をそのまま承けて、女郎花を歌い、「徘徊り来ぬ」と結んだこの歌は、そのような思いまでしてわざわざここへやって来たことを言っているのだが、これは男が女のもとに訪れたとき、その思いの強さを訴えるための常套句であり、この句を通じて彼は私の越中赴任を歓迎してくれたのだろう。

そして続く二首、

秋の夜は 暁寒し 白布の 妹が衣手 着むよしもがも

霍公鳥 鳴きて過ぎにし 岡辺から 秋風吹きぬ よしもあらなくに

ひょっとしたらこの二首は私を歓迎するためにあらかじめ準備していてくれた歌かもしれない。旅先で迎える秋の夜風を寂しく感じるのは、妻を大和において単身越中に赴任している官人たちにとっては共通の感情だ。今、新たに妻と別れ、この地にやって来た私の寂しさを思いやってこのように詠んでくれたに違いない。その優しさが身に沁みた私はその二首を承け、

今朝の朝明(アサケ) 秋風寒し 遠つ人 雁が来鳴かむ 時近みかも

天ざかる 夷(ヒナ)に月経ぬ しかれども 結ひてし紐を 解きも開けなくに

と応じた。すると池主殿は家で待つ家人の立場に思いを寄せ

天ざかる 夷にある我を うたがたも 紐解き放けず 思ほすらめや

と返してきたので、私はやはりその意を承け、

家にして 結ひてし紐を 解き放けず 思ふ心を 誰れか知らむも

と和した。「思ふ心を 誰れか知らむも」と歌ったのは、こんなにも恋しく家人を思っている我が思いは池主殿ならば、あるいはこの場に居合わせた面々ならばきっと理解して下さることを前提にした句である。

さて、折角の楽しき宴、家のことを思いしょんぼりしているだけではつまらない。それに、機会を得てこの越中の地にやって来たのだ。そのこと自体も楽しまなければ損だ。そんな風に歌い、宴の雰囲気を変えてくれたのが秦殿のこの歌だ。

晩蝉(ヒグラシ)の 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし

季節はまさに秋、その風情を楽しむに絶好の季節である。家にこもってあれこれと物思いに耽るよりは、この季節を充分に楽しもうと私に誘いかけてくれた。秦殿は、ちょいとくだけた人でもあったので「女郎花」の語には越中の女との意もこめられていただろう。故郷の妻は妻で大切に思っておくとして、今いるのは越中。この越中の女もなかなかですよ、と私によからぬ誘いをかけて下さった。すると僧の玄勝殿が、僧の身にありながら

妹が家に 伊久里(イクリ)の杜(モリ)の 藤の花 今来む春も 常かくし見む

という大原高安殿の古歌を教えてくださった。「伊久里」とはここ越中にある地名。新任の国司である私に任地の地名を教えてくださったのだ。もちろん、「藤の花」にも地元の女の意がこめられてあり、彼もまた私に良からぬお誘いをかけて下さっているのだ。そのお誘いに乗るかどうかはまた別の問題だが、このお二人なりの歓迎の意の示しようは妙に私には好ましく感じられた。地元の女、云々のあたりはともかくとして、折角ここまで来たのだから珍しい風景を見てみたい気持ちは強い。そこで「花=女」あたりのところには目をつぶって

雁がねは 使ひに来むと 騒くらむ 秋風寒み その川の辺に

馬並(ナ)めて いざ打ち行かな 澁谿(シブタニ)の 清き磯廻(イソミ)に 寄する波見に

とだけ応えておいた。そして、いつしか夜も更けた。そろそろ・・・と誰もが思いかけたとき、この宴の幹事役をかって出てくれた土師殿が

ぬば玉の 夜は更けぬらし 玉くしげ 二上(フタガミ)山に 月かたぶきぬ

と詠み、和やかなうちにも宴は閉じられた。

・・・と思ったのだが、かように盛り上がった宴、このまま閉じられるのは余りに惜しい。それに私の最後の歌に「馬並めて・・・」とも歌ったように一度早い機会に「澁谿の 清き磯廻」も見てみたい。そこで、一同に明日は如何に・・・と声をかけてみたら、どうやらお付き合いいただけるようだ。なんでも、秦殿のお屋敷の客間からは居ながらにして海を間近に見ることが出来るという。

・・・さて・・・楽しみなことだ・・・

 

天平十八年閏七月 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

大伴宿祢家持以天平十八年閏七月被任越中國守 即取七月赴任所於時 姑大伴氏坂上郎女贈家持歌二首

草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑつ我が床の辺に

今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ

贈越中國歌二首

旅に去にし君しも継ぎて夢に見ゆ我が片恋の繁ければかも

道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまは

昨年一月に従五位の下の位を授かった私は、今年に入り三月に宮内少輔の職に任じられていたが、この六月の二十一日に思いもかけず、越中の守という大役をおおせつかった。越中は能登半島を含む大国であり、地理的には海を隔てて渤海国と向きあう外交上も極めて重要な位置にある。そんな国の国司を任せていただけるということは、私の力をそれほど評価してくださる方がおられるということだ。晴れがましい気持ちとともに、その期待に応えなければならないという責任感に身が引き締まるような思いがあることも事実だ。はたしてこの私にどれほどの仕事ができようか・・・いささかの不安もなきにしもあらずだが、恐れてはいられない。与えられた任を果たすべく全力を傾けるのみだ。

そんな私に叔母である坂上郎女が、任地へと旅立つ前と、任地についてからの二度にわたって歌を贈ってくれた。叔母は、我が父、旅人の異母妹で、我が義母のなきあと、大伴一門の家刀自としての位置に揺るぎないものがある。若い頃は、結構おもてになったようで、初め穂積皇子にお気に入りになられ、皇子が薨去された後、宮廷に留まり命婦として仕えていたとも聞いている。定かではないが、当時、首皇太子と呼ばれていらしゃった今の帝ともお近づきがあったとも聞いている。後に個人的に帝に歌を奉っているところを見るとどうやらそれは確からしい。このあたりのことは今度会ったら聞いてみたいと思う。また、養老の御代にはあの藤原四兄弟の末っ子、麻呂殿ともご関係を持っていらっしゃったとか。まあ、その関係は長く続かなかったようではあるが、もし、そのご関係がその後も続いていらっしゃったら、我が大伴の一門の立場も今とは若干異なったものになっていたことだろう。その後、伯父の大伴宿奈麻呂のもとに嫁がれ、我が妻坂上大嬢をお生みになられた。

さて、その叔母様が贈って下さったこの四首であるが、まず、一首目、「斎瓮イハヒベ」を据えたと言っているが、「斎瓮」とは祭祀のために使う容器のことだ。大和を離れ、越中へと赴く私の無事を祈るためにのものであることは言うまでもない。家刀自としての叔母様の面目躍如といった歌だ。

ところが、二首目、歌の調子は打って変わって恋歌仕立てになっている。私が旅立った後、予想される自らの寂しさを歌っているのだが、私としてはこの歌を我が妻、そして叔母様にとっては愛娘の大嬢の気持ちを代弁しているように思っている。大嬢と私は幼い頃に知り合い、最近になってその関係は深まり、そして正式に妻として迎え入れたばかりだった。その嬢を大和において行くのは私としてもたえがたいことだ。この思いは大嬢とて変わらないことであろう。叔母様は大嬢になりかわってこの歌を詠んだのだろうと思う。ただ、そのあたりはご本人に聞いてみないと何とも言えない。というのは、私たちの時代において家刀自と一族の男たちの・・・特に私と叔母様のような関係にあるものどうしにおいては、平成の御代に生きていらっしゃる皆様には計り知れないような関係があったからだ。かつて、倭健命(ヤマトタケルノミコト)様は、九州を平らげて都の帰った直後、東国を征伐に行けとの父君の酷いご命令が下ったとき、真っ先にすがったのはその叔母君倭姫命(ヤマトヒメミコト)様であった。倭健命様はその叔母君の前で臆面もなく弱音を吐いていらっしゃる。そして、叔母と甥という関係において、私たちとかのお二人はまったく同じ関係で。一族の男たちが母のように、ある場合は妻のように甘えられる存在、それが家刀自だ。ひょっとしたら、叔母様はこのような関係性に則ってかような歌を贈ってくださったのかもしれない。

そして、三首目、私は七月七日に大和をたって、十六日に越中に着いたのだが、この歌がついたのはそれからほどない頃であった。二首目で予想された寂しさが現実のものになってしまった悲しみを歌ったものだ。これまた恋歌仕立て。叔母がどのようなつもりでこの歌を詠んだのかは二首目の歌と同じ事情だろう。

最後に四首目。ここでまた表向きの家刀自の顔が現れた。「道の中」とは私の任地「越中」のこと。その「越中」の地の神に、私のことをまだ右も左も分からぬようなものだからよろしくお願いします。」とお願いする歌なのだが・・・叔母様から見れば、私もまだまだ子供なのだと実感させられてしまう。山上憶良殿のお子様を亡くされたときの歌(巻五)を思わず思い出してしまった。

とにもかくにも、越中での国司としての生活は始まった。この私にどれほどのことができるのか、自分でも未知数である。楽しみと言えば、楽しみだ。また、初めてのこの地、見るもの聞くものなにものもが珍しい。歌を詠むにもその素材は周囲に満ち満ちている・・・これもまた楽しみである。

天平十八年正月白雪多零積地數寸也

天平十八年正月白雪多零積地數寸也於時左大臣橘卿率大納言藤原豊成朝臣及諸王諸臣等参入太上天皇御在所 [中宮西院]供奉掃雪於是降詔大臣参議并諸王者令侍于大殿上諸卿大夫者令侍于南細殿而則賜酒肆宴勅曰汝諸王卿等聊賦此雪各奏其歌

左大臣橘宿祢應詔歌一首

降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか

紀朝臣清人應詔歌一首

天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか

紀朝臣男梶應詔歌一首

山の狭そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば

葛井連諸會應詔歌一首

新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは

大伴宿祢家持應詔歌一首

大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも

藤原豊成朝臣  巨勢奈弖麻呂朝臣  大伴牛養宿祢  藤原仲麻呂朝臣

三原王  智奴王  船王  邑知王  小田王  林王  穂積朝臣老

小田朝臣諸人  小野朝臣綱手  高橋朝臣國足  太朝臣徳太理

高丘連河内  秦忌寸朝元  楢原造東人

右件王卿等應詔作歌依次奏之登時不記其歌漏失但秦忌寸朝元者左大臣橘卿謔云靡堪賦歌以麝贖之因此黙已也

おりからの大雪、常々先の帝と御懇意になされていらっしゃった諸兄殿は大勢の諸王・官人の方々を引き連れて、雪掃いのために中宮の西院に参内になられた。まさに諸兄殿のご威光を誇示するかの様な出来事だったが、居並ぶ諸王・官人の方々もそのお力にはほとほと感服されていたことだろうと思う。

さて、先の帝の御為に雪掃いをさせていただくだけでも恐縮至極のことであるのに、先の帝は私のようなものにまで御酒を賜われ、宴を催してくださった。光栄の至りである。居並ぶ方々は先の帝のお言葉に従って次々と歌をお詠みになられた。どれもこれもお言葉どおり「雪」を詠みこんだ、正月にふさわしいめでたい歌ばかりであった。本来ならばそのすべてを記録しておくべきであったが、それを怠り、上に挙げた数首しか思い出せないのがかえすがえすも残念でならない。

ひとつだけ興味深く思ったのは、最後に書いておいた秦忌寸朝元殿のエピソードだ。朝元殿は遣唐使の一員として二度にわたり唐に渡り、向こうでの留学生活も十数年にわたる才人だ。その語学力たるや、お上の仰せで弟子をとり、唐の言葉を教授するほどのものである。しかしながら、唐での生活が長く大和にて暮らす日々が短かったゆえであろうか、あるいは、秦というそれほど高貴ではいらっしゃらない出自の中、このような場に招かれるような地位にたどり着くため、わき目も降らずご努力なされ、風雅の道に遊ぶ機会が少なかったせいであろうか、(そのいずれもだとは思うが)肝心の大和歌の力は今ひとつであった。この時はからずも先の帝の仰せにより、大和歌を詠まねばならなくなった朝元殿のお困り様は、おなじ南の下の間に座っていた私には手にとるように理解できた。次々と歌は詠まれ、朝元殿の順番は近づいてくる。そのお顔はますます引きつったようになってくる。その時である。一番、上の席に座られていた諸兄殿の「歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよ。」とのお言葉があった。そのお言葉の調子はなかなか歌の詠めない朝元殿をお謔いのようではあったが、そのことで朝元殿が救われるような気持ちになったのは確かだ。麝香は確かに高価な品物ではあるけれども、唐での長い留学生活で医学を学ばれ、当時薬事をつかさどる典薬頭の任にあたられていた(市村宏
「秦忌寸朝元」東洋大学上代文学研究会会報第14号)朝元殿のこと、歌を詠むよりはこちらを工面するほうが容易かったはず・・・・

なんというご配慮であろうか。諸兄殿は表面上は朝元殿をお謔いになられながらも、歌を詠めずに決定的な恥をかくという窮地からお救いあそばしたのだ。人の上に立つものとしてのお心の使いよう、私も肝に銘じておかなければならない。

天平十八年正月のある日のこと、白雪が大いに降り敷いて、地面に数寸降り積もった。時に左大臣橘諸兄殿が大納言藤原豊成殿及び諸王諸臣等を率いて、太上天皇の御在所中宮の西院に参上して、皆で雪掃いの任についた。雪掃いの終わった後、太上天皇は詔を降して、大臣参議並びに諸王はその上の間に座らせ、諸卿大夫は南の下の間に座らせて、酒を賜いて宴を催された。そのお言葉に言う・・・そなたたち、諸王・諸卿等、聊(イササ)か此の雪を素材にして夫々歌を詠み、献上せよ・・・と。
右の挙げた王卿の方々は、皆、お言葉に応えて歌を作り、次々と献上した。その時、うかつにも其の歌を記録することを怠り、その多くを漏失してしまった。ただ、こんなエピソードが一つあった。それは、秦忌寸(ハタノイミキ)朝元殿がなかなか歌を詠めないでいたのに対し、諸兄殿が謔れて、歌が詠めないのならば、代りに麝香を差し出して歌の代わりとせよとおっしゃった。そこで、朝元殿は黙り込んでしまった。

本来の意味での私の歌日記はここから始まる。その冒頭に私はこの日の宴の歌々を据えたいと思う。理由は以下による。
実のところを言えば、これらの歌々は私がおぼろげながらに記憶していたもので、この宴の日、私に歌日記を始めようとの明確な意図を持って記録していたものではない。そのことが、この日お集まりになられていた皆さんの歌すべてをここにお示しできなかった理由だ。
当日、お集まりになられていた諸王、官人もどなたがおいでになられていたか、なんとか遺漏なく思い出せたと思う。ただ、そのお名前の配列だが、本当ならば当日の皆さんの官位・官職をもとに並べておくべきところ、これだけはどうしても正確に思い出せない。したがって、天平二十一年四月一日現在の官位・官職を基準に配列することにした。そしてこのことがは私がこの日の歌々を歌日記の冒頭に据えようと思った理由を如実に示してくれる。
この日、天平二十一年四月一日は陸奥の地にて大仏の建立に必要な黄金が報告され、そのことに感激した帝が宣命が発せられた。元号は「天平勝宝」と改元せられ、私も従五位上と昇進を果たした。
このような良き日、私は、かつて従五位下として新たに本格的な官人としてのスタートを切ったその年の始めに催されたこの宴を思い出した。生まれて初めてかような晴れがましい場に呼んでいただくことができたこの日の晴れがましき体験は今もなお記憶に深々と刻まれている。私はこの歌日記を祝福されためでたき日記にしたいと思う。そして、天平十八年正月のこの雪の宴の歌こそがその冒頭を飾るのにふさわしいめでたき歌々であると確信している。