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守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

守大伴宿祢家持贈大伴宿祢池主悲歌二首

忽沈枉疾累旬痛苦 祷恃百神且得消損 而由身體疼羸筋力怯軟 未堪展謝係戀弥深 方今春朝春花流馥於春苑 春暮春鴬囀聲於春林 對此節候琴罇可翫矣 雖有乗興之感不耐策杖之勞 獨臥帷幄之裏 聊作寸分之歌 軽奉机下犯解玉頤 其詞曰

春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも

鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ

二月廿九日大伴宿祢家持

本当に辛い日々が続いた。北国の冬がこんなに厳しいものとは思ってもいなかった。初めは風邪ぐらいかなと思っていたのだが、症状は日に日に重くなり、一時は自分で我が命を諦めかけるほどであった。しかしながら、幸いにも百神のご加護、そして身の周りであれこれと気苦労を重ねてくれた方々のおかげで、ようやく小康を得るに至った。しかしながら、長い闘病生活のせいか、どうにも体に力が入らない。まだ、節々にだるさや痛みが残り、外へ出て気晴らしするような気持ちにはなれない。季節はまさに春。歌の左注には二月二十九日とは書いたが、これは平成の御代の暦ならば四月も半ば頃。この春遅き北国もようやく春爛漫と言った風情である。本来なら序文にも書いたようにその楽しみを味わい尽くすべきこの時期、今年ばかりはどうやら楽しめそうもない。それがいかにも残念でならない。

先日池主殿がおいでになって、「季節も季節ですから、お病が良くなられたら一緒にどこぞにでかけ、歌などを詠んで楽しみを尽くしましょうぞ。」とのお誘いをうけた。けれども身体が身体だ。今年は我慢したいとの旨をお伝えしておいた。もうじき上巳の宴だ。それも今年は我慢だ。どうやら何ともつまらぬ春になりそうで、たまらない気持ちだ。

そこで、私はひらめいた。外に出ずとも私には歌があるではないか。こんな時にこそ、この「いぶせき」思いを歌にのせて払うのだ
・・・と思ったとき、私は父上の

大宰帥大伴卿報凶問歌一首

禍故重疊し、 凶問累集す。永く崩心の悲懐き、獨り断腸の泣を流す。但だ兩君大助依りて傾命を纔かに継ぐのみ 筆言を尽くさず、古今の嘆く所なり

世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり(巻五)

という一首をを思い出した。

そうだ・・・序文をつけてみよう。和歌に漢文による序文を付すのは父上の独創であった。それまで歌の前に付されていた題詞は単に当該の歌の事情説明であり、それ自体を創作と呼ぶに価するものではなかった。しかしながら、この父上が独創されたこの形式は唐土においての詩に序を付する形を模倣するものではあったが、わが国に於いてのこの父上の試みは、すこぶる新鮮な創作であった。そして、その事が山上憶良殿との関係を取り持つことにつながり、ひいては筑紫歌壇の成立の大いなるきっかけと相成った。

してみれば、ここで私がこのような形式の歌を池主殿に送ったならば、文才に長けた池主殿のことだ。きっと反応してくれるに違いない。そうなれば・・・父上があの筑紫で送ったような有意義な日々を、この越中でも送ることが出来るようになるのではないのだろうか
・・・いや、余り先のことは考えないでおこう。とにかく、今外に出かけられず家の中で鬱々として過ごさねばならぬ私が、少しでもその気を晴らすには歌を詠むことぐらいしかない。そして、それに応えてくれる人があれば今は、それで満足だ・・・・

<補>

漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために二首の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽ちに枉疾に沈み、累旬痛苦す。百神に祷(コ)ひ恃(タノ)み、且つ消損を得たり。 しかしてなほ身体疼羸(ドウルイ)、筋力怯軟(ケフゼン)たり。 未(イマ)だ展謝堪(ア)へず、係恋いよいよ深し。 方今(イマシ)春朝の春花、馥(ニホヒ)を春苑に流し、 春暮の春鴬、声を春林に囀る。此の節候に対(ムカ)ひ琴罇(キンソン)翫(モテアソ)ぶべし。興に乗るの感有れども、杖を策(ツ)くの労に堪(ア)へず。独り帷幄(イアク)の裏(ウチ)に臥して、いささかに寸分の歌を作る。軽(カルガル)しく机下に奉り、玉頤(ギョクイ)を解かむことを犯す。 其の詞に曰はく

 

思いもよらぬ重病に陥り、数十日の間、痛み苦しんでおりました。多くの神々に祈り、頼って、ようやく小康を得ることができました。とはいえ、なお身体は痛み、やつれが残り、この身にはいっこうに力が入りません。いまだお礼を申し上げに伺うことも適わず、お逢いしたい気持ちは増す一方でございます。まさに今、春の朝、春の花々がなんともいえぬ香りを春の園に漂わせ、春の夕には春の鴬がその高らかな声を春の林に響かせています。この時候にあたって、琴や樽を傍らにおいて興を尽くすべきもの。私とて感興はそそられるものの、杖を突いて外出する労に耐え、外出するだけの力が湧いてきません。ひとり帳の中に臥して、気まぐれに拙い歌をいささか作りました。軽率を顧みず、お手元に奉りあなたのお目を汚して、お笑いの種にして頂きとうございます。その歌というのは次の通りでございます。

忽沈枉疾殆臨泉路仍作歌詞以申悲緒一首

忽沈枉疾殆臨泉路 仍作歌詞以申悲緒一首 并短歌

大君の 任(マ)けのまにまに 大夫(マスラヲ)の 心振り起し あしひきの 山坂越えて 天離(ザカ)る 鄙(ヒナ)に下り来 息だにも いまだ休めず 年月も いくらもあらぬに うつせみの 世の人なれば うち靡(ナビ)き 床に臥(コ)い伏し 痛けくし 日に異(ケ)に増さる たらちねの 母の命の 大船の ゆくらゆくらに 下恋に いつかも来むと 待たすらむ 心寂しく はしきよし 妻の命も 明けくれば 門に寄り立ち 衣手(コロモデ)を 折り返しつつ 夕されば 床打ち払ひ ぬばたまの 黒髪敷きて いつしかと 嘆かすらむぞ 妹(イモ)も兄(セ)も 若き子どもは をちこちに  騒き泣くらむ 玉桙(タマホコ)の 道をた遠み 間使も 遺るよしもなし 思ほしき 言伝て遣らず 恋ふるにし 心は燃えぬ  たまきはる 命惜しけど 為むすべの たどきを知らに かくしてや 荒し男すらに 嘆き伏せらむ

右天平十九年春二月廿日越中國守之舘臥病悲傷聊作此歌

十一月に池主殿が都より戻ってこられ、本来の任務に戻られた。これで越中の国府としては平常通りの業務が出来る。池主殿は和歌をよくするばかりではなく、漢詩も得意であると聞いている。これから、池主殿との交誼を結んで行く中で、そう言ったものも学んで行きたいと思っていた矢先、初めての越中の冬に体調を崩してしまった。大和とは比べものにならない冬の厳しさが越中にはあった。加えて、いかに国府の面々が快く迎え入れたとはいえ、新しき地においてその長たる立場でありつつけることは、やはり気苦労の種ではあった。書持の死も、私には痛手であった。

そして、年が明けて・・・本来ならば、ここで新しき年を言祝ぐような宴を催すべきであったのだろうが、それも出来なかった。国府の面々も私の体調を気遣ってか、そのような楽しみごとについては一切口に出すことはなかった。
一月半ば、いよいよ病は重篤なものとなった。来る日も来る日も続く高熱と、どうしようもない呼吸の乱れ・・・肺炎というやつか・・・私は死を覚悟した。そして死を思った私の脳裡をよぎったのは・・・母、妻、そしてまだ幼気な子ども達の姿であった。書持と私と続けて子を失う母の悲しみはいかばかりであろう。私の無事を祈りつつ帰りを待つ妻は・・・今頃、泣いて母親を困らせている子ども達は・・・私はあえぐ息の中、家族を思うていた。
ところで、聞けば、この歌の「母」が誰をさすのか、平成の御代においては若干の論議があるらしい。私を生んだ実の母なのか、それとも私を幼少の頃より育て上げてくれ、今なお我が義母「としてご健在でいらっしゃる大伴坂上郎女なのか・・・と。その答えは・・・・私がこの場で言うのは余りに無粋であるだろう。しばらくは平成の御代の諸賢の論議の種として提供しておこう。
二月に入り、十日を過ぎた頃。ようやく病はその峠を越えたようだ。次第に熱も下がり、まともに呼吸が出来るようになってきた。食事も次第に喉を通るようになった。まだ起きて外に出歩く等と言うことは出来そうもないが、書物を繰ることぐらいなら出来るところまでは回復してきた。
その時私が惹きつけられたのは、存命のおりの山上憶良殿からいただいた歌巻(この歌巻と父旅人から受け継いだ歌巻とをあわせ、我が歌巻の巻の五とした)にあった、「沈痾自哀文」であった。今の私の痛み、苦しみはまさにそこに書いてあるとおりであった。そして、その痛み、苦しみを通うに表現することも風雅の一端としてあり得ることなのだと実感した。
・・・私にも出来るであろうか・・・
まだまだ試作の段階である。人に見せるつもりはない・・・。その歌が誰に聞いてもらうか、どのように評価してもらいたいか、そんなことは考えずにこの歌を詠んだ。ただ自らの今の思い・・・感情を言葉に置き換えただけの歌である。けれども、他人に知らせないことを前提に歌を詠んでみて、ふと気がつくことがあった。
聞いてくれる誰かを想定しない、評価されることは初めから考えない・・・このような態度で歌に臨んだとき、意外にもそれまでの「いぶせき」思いが少しずつ解きほぐされ、心が晴れ晴れとしてくれることに気がついたのだ。他人の目を気にせずに、自分のその時々の思い、感情をつぶさに言葉に置き換えて行くというこの作業が意外に我が内側に滞る心の塵埃を払い落としてくれるのだ。
これも、「歌」というものに臨む一つの態度ではないか・・・
「歌」というものは、他人に思いを伝えたり、宴の場で大勢で楽しんだりするためだけのものではない・・・己の内面をのぞき込み、その作業を通して見えてくる想念を言葉に置き換えてみる・・・ただそれだけであっても充分に機能するものなのだ。私はこの歌を詠むことによってその事に気がついた。これからの「和歌」はこのような方向に進んでいっても良いのではないか・・・そんなふうに思えてならない。そして、その事に気がついたことは、この歌を詠んだ私にとっての大きな収穫であった。