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大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌

大目秦忌寸八千嶋之舘餞守大伴宿祢家持宴歌二首

奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば

我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きて行かば惜し

右守大伴宿祢家持以正税帳須入京師 仍作此歌聊陳送別之嘆  四月廿日

いよいよ都へと旅立つ日が近づいてきた。今日は大目の秦忌寸八千嶋がその餞の宴を催して下さるということなので、お言葉に甘えてお宅へとうかがった。以前私の歓迎の宴の二次会でお世話になった館である。客間からは洋々たる海が見える。

昨年七月にこの地に赴任して以来、私が病の床にある時にも何かとよくして下さったこの越中の国府の面々がその場に集ってくれた。秋になれば再びこの地にてまみえることになることは分かっていながらも、やはり、数ヶ月の間この方々とお別れするのは辛い。またこの地の国守たる私がこの地を留守にすると言うことは、残された方々になにかとご迷惑をかけることになるだけに複雑な思いが私のうちにはある。そんな思いを私はこの二首に託した。

一首目。繰り返しては寄せる奈呉の海の白波を題材に、残される方々への思いを歌ったが、この着想は、秦殿の客間から見える大海に着想を得たものである。

二首目。やや恋歌めいた歌いざまにはなったが、それは残される面々への私の思いがそれほど強いものである事を言わんとしようとしたからである。

そして、この二首の後、私は先日作った「二上山賦」を皆の前で披露した。そしてこの作を今回の上京に際しての手土産にしたいとの私の思いつきを聞いていただいた。すると・・・ご一同は「それはよい考えだ。」と、すっかり盛り上がってしまい、この後はそれぞれが歌を詠むことも忘れ、この私の着想を更に充実したものにするためにはどうしたらよかろうという話になってきた。

越中の風土を大和の人々に伝えようとするならば、これだけでは物足りなかろう・・・どんな場所を歌に詠んだらよかろうか・・・・そのためには実際に行ってみなくては・・・・

延々とそんな話ばかりが続いた。

さて、いったいどこの景色詠むべきか?

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌

四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌一首

ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥 鳴く音遥けし 里遠みかも

右大伴宿祢家持作之

霍公鳥の初音を聞いた。先月の二九日、この私の愛する鳥の声が立夏を過ぎても鳴かぬ事を恨みに思う歌を詠んだ。その翌日には「二上山賦」という長歌をものし、その反歌にも霍公鳥への思いを歌った。私はこの声を今か今かと待ち焦がれていた。しかし、都へと出立する日が近づくにつれ、私の周囲は次第に慌ただしくなり、私自身も都へと携えるべき公簿類の整理点検に追われ、次第に余裕は無くなってきていた。今日も夜も遅くまでその作業に追われ、一息ついたのがついさっきであった。

ふっと息を抜き、都の懐かしい人のことなどを思い出していたとき、私はこの耳で確かに聞いた。あれほど恋い焦がれた 霍公鳥の今年初めてのさえずりを・・・

それは消え入るようなかすかな声であった。あまりにもかすかなるが故、普通ならば「声」と詠むべきところを「音」と詠んだ。生あるものが発するものを「声」、それ以外のものの発するものを「音」と表現するのが本来ではあろうが、今日の霍公鳥の「声」はあまりにかすかに過ぎて、それが本当に霍公鳥のものかと疑われるほどのものであったので、ここでは「音」と詠んだのだ。

歌中の「ぬばたまの」の使い方はちょっとした工夫だ。この枕詞、「黒」「夜」などのかかるのが通例で、「月」のように光を放つものにかかるのは異例と言ってもよかろう。私としては、たとえ月があったにしろ、自分が見たいはずの霍公鳥の声のする方向が闇に覆われ、何も見えていないことからこの枕詞を使ったのだが、この歌を読んだ人はいかに受け取るであろうか・・・少し心配はある。

ただその下の「月に向かひて」は少し自信がある。闇の中、他のいずこでもなく「月」に向って鳴いている霍公鳥のその姿を幻視し、このように詠んだのだが我ながらうまくできたと思っている。このような言い回しを私は他に知らない。私だけの表現だ。

私だけの・・・ということにこだわれば「遙けし」という語も私だけのような気がする。いったい私はこのての言葉が好きで、他にも「遙けさ」「遙々(ハロハロ)」などをよく使う。それは対象物が遙か遠くに見えるという意味ではなく、対象物の「声」「音」が、遠くからかすかに聞こえてくるという意味で使う。何気なく過ごしているだけでは聞こえてこない・・・目を閉じて聴覚を研ぎすまなければ聞こえてこない「声」「音」を聞くのが私は好きだ。そんな私の嗜好に、この言葉はとても馴染んでくれる。

今日も夜遅く、皆が寝静まり他の音が一切絶えた中、私はひそかに耳を澄ませていた。未だ鳴かぬかの鳥の声が聞こえてはこないかと思ってのことである。遠く波の音が単調に繰り返される。ひたすら霍公鳥の初音を待つ私の耳には、その波の音すら、次第に無きがごとくになってくる。そして、一切の夾雑物が排除された私の耳に聞こえたのが、この「遙け」き霍公鳥だった。あるいはその声を聞きたいばっかりの空耳だったのかもしれぬ。けれども、それは、もはや私にはどうでもいいことになっていた。現実のものであるか否かを超えて、私の耳には霍公鳥の初音が確かに聞こえたのだ。

思えば立夏を過ぎてはや数旬。霍公鳥の初音がこれほど遅いのは大和では考えられぬこと。この度の上京の土産話の一つとなろう。ともあれ、3月29日、30日の二つの歌はこの霍公鳥の初音によって完結する。歌の良し悪しはともかく、大和と越中の風土の違いは都の風流人士を驚かせるにたることであろう。

二上山賦一首

二上山賦一首 此山者有射水郡也

射水川 い行き廻れる 玉櫛笥(クシゲ) 二上山は 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振り放け見れば 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ統(ス)め神の 裾廻(スソミ)の山の 渋谿(シブタニ)の 崎の荒礒(アリソ)に 朝なぎに 寄する白波 夕なぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに 懸けて偲はめ

渋谿の 崎の荒礒に 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ

玉櫛笥 二上山に 鳴く鳥の 声の恋しき 時は来にけり

右三月卅日依興作之 大伴宿祢家持

二上山といっても大和にある二上山ではない。ここ越中、射水の郡に聳える山のことだ。大和にあるそれと同じように二つの頂を持っていることにこの名の由来がある。高さは大和の二上山の半分・・・いや、それよりはやや高い。けれどもこの地の国府とはかなり近い位置にあるので、それなりの高さを感じる。

対して、大和の二上山は、坂上大嬢の育った竹田の庄からその姿を愛でることが主であったので、あまりその高さを感じることはなかった。そのせいか、本来ならば大和のそれよりもかなり低いはずのこの越中の二上山の方がより威圧感を以て我々に迫ってくるものがある。ただ、やはりその名といい、大和のそれに似た山容といい、妙に大和を懐かしませる・・・そんな山だ。それゆえか大和に旅立つ日が近づきつつある今この山がやたらと気にかかるようになってきた。

題詞にある「賦」とは唐土の詩文・・・特に私の愛読している「文選」や「芸文類聚」あたりによく見られる詩文の形式の名ではあるが、我々の言うところの長歌にその趣がよく似ているところから、これに擬えてこのように題してみた。内容は、感じるところをそのままに詠じる、形式的に見れば長い体裁を持つ・・・というのが唐土での意味であるので(「毛詩」大序・ 「文心雕竜」詮賦)、こういった使い方をしても大きな過ちであるとはいえないであろう。二月の末より、三月の初めにかけて池主殿と漢詩文のやりとりを数度行ったせいか、妙に唐土かぶれしてしまい、こういったことを一度試みてみたいと思ったのだ。

けれども「賦」と題しただけであっては、この試みも何の意味もない。そこで長歌は、その前半おいて「山」、後半において「海」を歌い、その「山・水」の春秋・朝夕にわたっての美しさを褒め称えた。この際、それぞれの部分をを十四句・十五句とほぼ均等に割り付け、全体の釣り合いを重視した。いわゆる「山ぼめ」の歌ではあるが、念頭に山部赤人殿や高橋虫麻呂殿の富士の山の歌を置きつつも、語句の方はは柿本人麻呂殿や笠金村殿、同じく赤人殿の吉野讃歌から多くの言葉を借りて、それらの言葉を三つの二句対に配した。「賦」という題ににふさわしきように整然たる形に仕上げようと努めたのだ。ここに新しい表現形式を構築し得たといささか自負を感じないでもない。

更に短歌。一首目は長歌の中の「いにしへゆ」なる語をそのまま承けて詠んだものだ。そして二首目。昨日は「あしひきの 山も近きを 霍公鳥(ホトトギス)・・・」と詠んだが、それはこの山のことを念頭に置いてのことだ。池主殿達の言によれば、この山は季節になれば、霍公鳥がうるさいほどに鳴く山だという。そしてその鳴くべき季節は今、到来しつつある。ここでその声さえ聞こえてくれれば、私のこの山への賛美は完成する・・・そのことを祈念して最後の短歌を添えてみた。

さて、霍公鳥はいつ鳴いてくれる事やら・・・

ところで、このように霍公鳥の鳴く日が遅いのは大和では考えられぬ事だ。このことを今度の上京の際に皆に話したならばきっと驚くに違いない。それこそ、土産話というものだ。加えて、この越中の地に大和と同じく二上山という名の山があること、これもまた都の風流人士には興味深いことであろう。そして越中国府はその山裾にいだかれるように存する。私はこの山のことも都人に伝えようと思う。題詞に「此の山は射水郡にある」と注を付け加えたのも地方の地理に疎い大和の人々を思ってのことだ。きっと喜んで下さるものと思う。

最後にもうひとつ。この歌の左注には「興に依って(依興)」との一語を添えた。考えようによっては、少々おかしい。何となれば、いやしくも一首をものしようとするならば、そこには何らかの興趣の働きかけがあってはじめてその歌は詠み出されるものだからである。であるから、そこにほあえて「興に依って(依興)」と書き添える必要は何処にもないはずだ。けれども。私はここにこの一節を添えずにはいられなかった。今まで歌を詠もうとした時に感じた興趣とは、なにか異質の・・・何と説明したらよいのか上手く説明できないが、何かしら歌を詠まずに入られないような思いが、私の内からせり上がってきて・・・・。通常とは逆の力が私に働きかけてきたのだ。今は上手く説明できないこの思い・・・私にこの歌を詠ませたのだ。

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌

立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨歌二首

あしひきの 山も近きを 霍公鳥(ホトトギス) 月立つまでに 何か来鳴かぬ

玉に貫く 花橘を ともしみし この我が里に 来鳴かずあるらし

霍公鳥者立夏之日来鳴必定 又越中風土希有橙橘也 因此大伴宿祢家持感發於懐聊於裁此歌 三月廿九日

私はことのほか「霍公鳥」が好きだ。もちろんその鳴き声を愛でているのだ。この鳥の声はある時には亡き人を、またある時には恋人を・・・と、懐かしい人のその面影を彷彿とさせてくれる。後の世の人の数えたところによると私の歌巻(万葉集)には153首の歌に詠まれているとか・・・そのうち63首は私の歌だそうだ。あまり意識してはいなかったが、この数字を見ると、それほどのものかと我ながらあきれてしまう。まあ、私の他にも90首ほど「霍公鳥」を詠んだ歌があるそうなのだからこの傾向は私に限ったことではあるまい。ただ少し私にその傾向が強かったのだ。

とはいえ、わたしがこの鳥が飛来し、鳴き出すはずの季節になるといてもたってもいられなくなるのは事実であり、この二首もそんな思いを詠んだものである事は説明するまでもないであろう。私の待ち遠しい気持ちは、その題詞に示しておいた。

というのはこの歌を詠んだ今日は3月29日で、未だ4月にはなっていない。夏は4月の1日に始まる。けれども、月齢の進行と、暦には毎年若干の食い違いがある。今年(天平19年)は3月の21日が立夏だ。である以上その日からもう夏なのだ。夏である以上それは4月・・・私の意識の上でことではあるが・・・・。他の方からみれば、多少無茶苦茶に思えるような論理ではあるが、「霍公鳥」の飛来を待つ私の心持ちから言えば何の矛盾もそこにはない。

・・・ひょっとしたら、上京予定の4月が少しでも早く来てほしいとの私の願いが、暗に表出したものなのかもしれないが・・・

それにしても遅い・・・大和ならば立夏の頃にはあの懐かしい声が聞こえてしかるべきなのだが・・・

聞けば、唐土にあっては「霍公鳥」が暮春に飛来するとの考えが一般的らしく、最も早いものは春分、最も遅いものは立夏とする考えもあるらしい(「子規と郭公」青木正兒全集巻八)。ここで私は我が国の実情に合わせ「霍公鳥は立夏の日になれば飛来しその鳴き声を聞かせてくれるのが必定」と書いた。

なのに、まだ鳴かない・・・

この寒冷な越中の風土のせいか、あるいはこの鳥の連れ合いと言っても過分ではない「橘」がこの越中の地にはまれにしか見られないからであろうか。ともあれ、私は同じこの国にあって、かくも違いがあることに大いに興味を抱いた。

述戀緒歌一首

述戀緒歌一首 併短歌

妹も我れも 心は同じ たぐへれど いやなつかしく 相見れば 常(トコ)初花に 心ぐし めぐしもなしに はしけやし 我が奥妻(オクヅマ) 大君の 命畏み あしひきの 山越え野行き 天離(サカ)る 鄙(ヒナ)治めにと 別れ来し その日の極み あらたまの 年行き返り 春花の うつろふまでに 相見ねば いたもすべなみ 敷栲(シキタヘ)の 袖返しつつ 寝る夜おちず 夢には見れど うつつにし 直にあらねば 恋しけく 千重に積もりぬ 近くあらば 帰りにだにも うち行きて 妹が手枕 さし交へて 寝ても来ましを 玉桙の 道はし遠く 関さへに へなりてあれこそ よしゑやし よしはあらむぞ 霍公鳥 来鳴かむ月に いつしかも 早くなりなむ 卯の花の にほへる山を よそのみも 振り放け見つつ 近江道に い行き乗り立ち あをによし 奈良の我家(ワギヘ)に ぬえ鳥の うら泣けしつつ 下恋に 思ひうらぶれ 門に立ち 夕占(ユフケ)問ひつつ 我を待つと 寝すらむ妹を 逢ひてはや見む

あらたまの 年返るまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも

ぬばたまの 夢にはもとな 相見れど 直にあらねば 恋ひやまずけり

あしひきの 山きへなりて 遠けども 心し行けば 夢に見えけり

春花の うつろふまでに 相見ねば 月日数みつつ 妹待つらむぞ

右三月廿日夜裏忽兮起戀情作 大伴宿祢家持

我々国守の任にある者は、年に四つの事柄を報告するために文書を作成し、都に使いせねばならぬ。徴税の根幹となる住民台帳たる大帳を携える大帳使・地方の収支報告書たる正税帳を携える正税帳使・様々な貢ぎ物の収集状況を報告したり、その貢ぎ物を都へと運ぶための貢調使・地方官人の勤務状況を報告する朝集使がそれだ。

昨年の秋には池主殿は大帳使として都に赴いて下さった。そして、そのころからこの春の正税帳使にはこの私が行くことに決まっていた。一時的にしろ都の戻り、妻をはじめとした家族と再会できることを楽しみにしていたのだが、この一月からの病によって、それが危うい状況になっていた。ところが、三月に入り私の体調も急速に快復し初め、先日、やはり私が正税帳使として都に赴くことが本決まりになった。

正税帳使は本来二月の末日までというのが決まりではあったが、越中のように雪深い土地の場合は四月の末日まで待ってもらえる。加えて、この度は、私が体調を崩したこともあって、もう数日の日延べをご許可いただいた。四月の末から五月の初めにこちらを出立できればと思っている。

ともあれ、都に帰ることが本決まりとなって、恥ずかしながら少々里心がついたようだ。あれこれと都に行ってからのことを考えているうちに急に妻への恋情がたかまり、それを押さえきれなくなってしまった。こんな時はその思いを歌に詠むことが、その押さえきれぬ思いを制御する方策として最良であることを私は先日(二月二十日)の詠歌により知った。そして詠んだのがこの歌だ。

初めの十句、「我が奥妻」までは我が妻、大嬢に対しての呼びかけになっている。「常初花」のような我が妻をいかに恋しく思っているかを表現したつもりだ。続いて「大君の」から「へなりてあれこそ」まではその妻に自由に会えない切なさを歌った。冗漫に過ぎるほどくだくだしく我が思いを書き連ねたが、私はここまで書かないとどうにも満足できない。性分と言えばそれまでだが、もとよりこの歌は誰に示そうとの考えも無いままに詠んだ歌でもあり、それも許されることかと思う。そして「よしゑやし」から最後まで。ここがこの歌の眼目になるだろうか。「霍公鳥 来鳴かむ月」になって妻と再会するその時のことを、この越中からの道行きを含めて空想しながら詠んだ。こうやって空想することによって、はやる気持ちを抑え、それまでの逢えぬ辛さを少しでも紛らわそうとしたのである。

最後に反歌として添えた短歌四首。これらは長歌の・・・特に「大君の」以降を反復、あるいは要約し、いささかの感慨を申し添えたものだ。長歌を詠むだけではおさまることを知らなかった我が叙情の噴出は、ここにいたって初めて小康を得た。

都へと出立するまで、あと一月あまり。あれこれと庶務を整理しなければならない。正税帳も再度点検しておかなければならないであろう。また、この越中の面々もただでは私を都へと送ってはくれない。もうすでに幾つかの餞の宴にも誘われている。それに久しぶりの都だ。手ぶらで・・・というわけにも行かぬ。手土産となるようなものも・・・歌も・・・用意せねばならぬ。

まことに忙しいかぎりである。

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩

昨暮来使幸也以垂晩春遊覧之詩今朝累信辱也以貺相招望野之歌 一看玉藻稍寫欝結二吟秀句已除愁緒 非此眺翫孰能暢心乎 但惟下僕禀性難彫闇神靡塋 握翰腐毫對研忘渇 終日目流綴之不能 所謂文章天骨習之不得也 豈堪探字勒韻叶和雅篇哉 抑聞鄙里少児 古今人言无不酬 聊裁拙詠敬擬解咲焉 如今賦言勒韵同斯雅作之篇 豈殊将石間瓊唱聲極乏曲歟 抑小児譬濫謡 敬寫葉端式擬乱曰

七言一首

杪春餘日媚景麗 初巳和風拂自輕
来燕銜泥賀宇入 歸鴻引蘆迥赴瀛
聞君嘯侶新流曲 禊飲催爵泛河清
雖欲追尋良此宴 還知染懊脚跉趶

短歌二首

咲けりとも 知らずしあらば 黙(モダ)もあらむ この山吹を 見せつつもとな

葦垣の ほかにも君が よりたたし 恋ひけれこそば 夢に見えけれ

三月五日、大伴宿祢家持、臥病作之

昨日いただいた序文付きの漢詩、そして今朝いただいたお便りに対しての返信が、なんとか・・・本当になんとかではあるができあがった。その出来に関しては池主殿にご寛恕いただく他はない。なにしろ、あまり試したことのないの漢詩だ。自信はない。ごらんの通り平仄はもとより、押韻のほうも整ってはいない。けれども序文にも書いたように「古人は言に酬いずといふこと無しといふ」である。自信はなくともひと気張りしないではいられない。

「翰を握りて毫を腐し、研に対ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。」というありさまになろうことは、予想されたことであるが、今朝いただいた池主殿の一文に励まされ、恥をさらす結果になることを覚悟で取り組んでみた。「禀性彫り難く、闇神瑩くこと靡」きことを、あらためて実感させられてしまったというのが実情で、まさに「鄙里の小児」の勝手な口ずさみにしか相当しないような出来ではあったが、その出来はともかくとして、いささかながらの新工夫が無かったわけでもない。それは漢詩の三句目と四句目。池主殿は詩のこの部分を承けて考えたものであるが、池主殿のそれはここで「柳」と「桃」を題材として扱っていた。けれども、私はそれを直接は承けず、「燕」と「雁」を題材とした。池主殿の「花」に対して、私は「鳥」で承けたわけである。これは唐土において、六朝の頃からこういった詩文においてその題材に「花鳥」の双方を取り扱うのが流行になっていることを意識してのものだ。だから、私は池主殿のそれに欠けていた「鳥」を読み込むことによって、そこを補完しようと試みたのだ。

なおかつ、私は北に「帰る雁」をここで取り扱った。今まで和歌の世界においてあまり素材にはならなかったものだ。これも私の新たな試みといえる。風雅な素材として「花鳥」の取り合わせを意識すること・家人の使いとしてではなく、北に帰るものとして「雁」を歌うこと・・・これは、今後の和歌の世界の一つの指針になるのではないかとひそかには自負しているところである。その点に免じて、池主殿には詩文の不出来はお許ししていただくこととしよう。

ところで、序文の最後の方に小字で記した一節がある。実はこの部分は、私の初案で、池主殿に贈ったのはそれを除いた部分のみだ。どうにもごちゃごちゃした文になってしまったのと、「豈石を将ちて瓊に間ふるに殊ならめや」という一節が先日の手紙で既に使ってしまっていたのとで、上のように改めたのであるが、自分の文章の生成の過程を記録しておきたいとの思いもあり、この私の手元の資料では、決定稿の後に上記のように小さく初案を書き添えておいた。

さて和歌についてだ。池主殿の長歌は先日も書いたように、その前の私の贈った長歌に対して、これぞ返歌の鏡というべきほどに、私の歌の語句に対して逐一応じた歌いぶりであったので、今回私としてはこれ以上述べることはない。しかしながら、池主殿はその長歌の最後に私を野遊びに誘って下さっている。このことに対しては、漢詩の最後の部分でもお答えしたが、和歌としてもお答えしなければならないと思う。くわえて、この手紙に添えて、池主殿は出られない私を思い、山吹の花まで添えて下さった。そこで短歌の二首をもってこれに応えることにした。

一首目は私の歌巻(万葉集)の巻の十におさめた古歌を流用させていただいたもので、「秋萩」を「山吹」と入れ替えただけのものである。まだ充分に病の癒えていない私に「山吹」を見せたりしたら、かえって辛くなるだろうとの少々恨み言めいた歌だ。池主殿はその長歌の最後を「ことはたなゆひ」と少々ふざけた形で私を野遊びへと誘ってくれた。これが、まだそのことが出来ない私に対する思いやりであることは言うまでもない。あまり生真面目に誘われたならば、かえってそれが私に負担になってしまう事をご理解されての表現だ。である以上私も少々ふざけてこれに返答するのが礼儀というものであろう。だから、あえて古歌の語句を入れ替えた恨み言めいた歌を詠んだ。池主殿ならば、それがその長歌末部のおふざけに対応してのものである事はきっとご理解いただけるものと思う。もちろん、それだけでは池主殿のお誘いに対して充分に答えにはなっていないので、二首目は少々真面目に一連のお誘いに対しての謝意を詠み、結びとした。

あと少しすれば、私の体も全快ということになろう。そうしたならば私も初めての越中の春を存分に楽しんでみたいと思う・・・が、そうなったならばそうなったで私にはしなければならないこともある。おまけに長く休んでいたせいで、たまりにたまった仕事もそのままにしてはおけない。どうやらこの春は、このまま終わってしまいそうだ。池主殿とこうやって詩文、和歌のやりとりを出来たと言うことだけが、唯一の収穫と言うことになるのだろうか。

<補>

またまた蛇足である。これもまた念のため・・・

昨暮の来使は、幸(サキハ)ひに晩春遊覧の詩を垂れ、今朝の累信は、辱なくも相招望野の歌を貺(タマ)ふ。一たび玉藻を看て、稍(ヤクヤ)く鬱結を写(ノゾ)き、二たび秀句を吟じて、已に愁緒を蠲(ノゾ)く。此の眺翫にあらずは、孰(タレ)か能く心を暢(ノ)べむ。但惟(タダシ)下僕(ワレ)、禀性彫(ヱ)り難く、闇神瑩(ミガ)くこと靡(ナ)し。翰を握(ト)りて毫を腐(クタ)し、研(ケン)に対(ムカ)ひて渇くことを忘る。終日に目流して、綴れども能はず。所謂(イハユル)文章は天骨にして、之を習ふこと得ず。豈(アニ)字を探り韻を勒して、雅篇に叶和するに堪(ア)へめや。抑(ソモソ)も鄙里の小児に聞こえむ。古今、人は言に酬いずといふこと無しといふ。聊(イササ)かに拙詠を裁(ツク)り、敬みて解咲に擬す。如今(イマシ)言を賦し韻を勒し、この雅作の篇に同ず。豈石を将ちて瓊(タマ)に間(マジ)ふるに殊ならめや。声に唱へ走(ワ)が曲を遊ぶといふか 抑(ハ)た小児の濫りに謡ふが譬(ごと)きか。敬みて葉端に写し、式(モチ)て乱に擬ひて曰く

昨夕のお使いでは、幸いにも晩春遊覧の詩を下さり、今朝の重ねてのお便りでは、有り難くも野遊びへのお誘いの歌を賜りました。ひとたびご高作を拝見しては、鬱々と結ぼほれた魂も次第にほどけ、続けて秀歌を口ずさめば、もはや愁いに沈む心も除かれました。このような叙景の詩歌でなくして、いったい誰が心を晴らすことができるでしょうか。ただし小生、生まれつきの乏しい素質は鍛錬のしようもなく、暗愚な心は磨こうにも磨きようがありません。筆を取っても文が書けず、空しく筆先を腐らせてしまい、硯に向かっても書きあぐねて、硯の水が乾くのを忘れてしまう有り様でございます。一日中、周囲に目を遊ばせるばかりで、文を綴ろうとしてもどうにも綴れません。いわゆる文章の才能というものは生来のものであって、習って得られるようなものではございません。字を探し、韻を整えて、貴兄の雅趣あふるる詩に唱和することなど、どうして出来ましょうか。村里の小児の口ずさみに聞こえましょう。とはいえ、昔のひとは、人は贈られた文章には必ず答えるものであると言っています。そこで拙い詩を作り、謹んでお笑いの種に供する次第にございます。今、詩を作り韻を整えて、貴兄の風雅な御作に唱和致します。石を玉にまじえるとのたとえとなんの変わりがございましょう。声を張り上げては自分勝手な歌を歌っているかのようです。さしずめ小児の出まかせ歌にもたとえられましょう。ともあれ、恐れ多いことではありますが、この拙作を謹んで紙片に書き記し、乱・・・締めくくりの詞・・・の真似事といたします。

杪春(ベウシユン)の餘日媚景は麗しく
初巳の和風は拂ひて自らに輕(カロ)し
来燕は泥(ヒヂ)を銜(フフ)みて宇(イヘ)を賀(ホ)きて入り
歸鴻は蘆を引きて迥(ハロ)かに瀛(オキ)に赴(オモブ)く
聞くならく君が侶(トモ)に嘯(ウソブ)きて流曲を新たにし
禊飲に爵(サカヅキ)を催(ウナガ)して河の清きに泛(ウカ)べつと
追ひて良き此の宴を尋ねんと欲(ホ)りすれど
還りて知る懊(ヤマヒ)に染みて脚の跉趶なることを(「趶」・・・正しくは足偏に「丁」)

暮春ののどかな一日、うららかな景色が美しく、初巳(三月の最初の巳の日)の柔らかな風は地にふれて自ずから軽やかに吹きすぎて行きます。
南より飛び来たった燕は泥を銜え祝福し家の軒に入り、北に帰る雁は蘆の葉をくわえ、遥か遠く沖へと去って行きます。
聞けばあなた様は友と語らい詩を吟じ、曲水の流れを新たにして、
みそぎの酒宴に盃を急き立てて清流に浮かべられたとのこと。
後を追ってこの良き宴の仲間入りをしたいとは思いますが、
病のために足がふらつくこともまた思い知りました。

昨日述短懐今朝汗耳目

昨日述短懐今朝汗耳目  更承賜書且奉不次死罪々々  不遺下賎頻恵徳音  英霊星氣逸調過人  智水仁山既韞琳瑯之光彩潘江陸海自坐詩書之廊廟  騁思非常託情有理七歩成章數篇満紙  巧遣愁人之重患能除戀者之積思  山柿歌泉比此如蔑彫龍筆海粲然得看矣  方知僕之有幸也  敬和歌其詞云

大君の 命(ミコト)畏(カシ)み あしひきの 山野障(サハ)らず 天離(アマザカ)る 鄙(ヒナ)も治むる 大夫(マスラヲ)や なにか物思ふ あをによし 奈良道来通ふ 玉梓(タマヅサ)の 使絶えめや 隠り恋ひ 息づきわたり 下思(シタモヒ)に 嘆かふ我が背 いにしへゆ 言ひ継ぎくらし 世間は 数なきものぞ 慰むる こともあらむと 里人の 我れに告ぐらく 山びには 桜花散り 貌(カホ)鳥の 間なくしば鳴く 春の野に すみれを摘むと 白栲の 袖折り返し 紅の 赤裳裾引き 娘子らは 思ひ乱れて 君待つと うら恋すなり 心ぐし いざ見に行かな ことはたなゆひ

山吹は 日に日(ケ)に咲きぬ うるはしと 我が思ふ君は しくしく思ほゆ

我が背子に 恋ひすべながり 葦垣の 外に嘆かふ 我れし悲しも

三月五日大伴宿祢池主

昨日の池主殿からの書簡には、それは見事な序文と詩が記してあった。そのご返事をと昨夕から硯に向っていたところ、今朝になってその後を追うようにこの便りがあった。思っていたとおり、私が先日お贈りした書簡へのお答えであった。

しかしまあよくもこれほどと思えるほどにの私のあるか無きかの文才をお褒め下さっている。まことに恥ずかしい限りではあるが、そのありがたいお言葉に励まされ、また遅々として進まぬ筆をとる勇気も生まれてくるというものである。序文中の「智水仁山」は論語の一節を借用したものであろうが、その直後の「既に琳瑯の光彩を韞み」が文選の文賦「石韞玉而山輝、水懐珠而川媚」を下敷きにしていると考えると、ここは原義通りというよりは単に「水」と「山」の形容と考えるべきであろうか。

それにしても私の子供の落書きのような序文をその豊かな文才を「江」や「海」にも喩えられている晉の潘岳と陸機と並べ称すとは・・・加えて、「山柿歌泉も此に比ぶれば蔑きが如く」と来ている。ここまで来ると、褒め称えられているというの本人としては苦笑を禁じ得ない。

長歌の方は、お見事と言うしか言いようがない。私が先日(三月三日)贈った長歌の語句にいちいち即応し、歌の返しとはこのように行うべきとのお手本のような歌いぶりである。ある部分では私の言葉をそのまま肯定し、また私が弱気なことを言っている部分に対しては温かくたしなめて下さっている。少しも窮屈なところのないのびやかな歌いぶりで、私を励まそうという意を充分に尽くしている。

長歌の結び「たなゆひ」はあまり和歌の世界では用いない言葉で有るが、ここは池主殿お得意のおふざけでもあろう。「しっかりと約束しましたよ」などと子供じみた言葉遣いで私を笑わそうとでもされたのだろう。私の体調が快復してから、共に野遊びに出かけようと押しつけがましくなく結んでおられる。ただ、長歌ではこれほど厳密に私の歌に即応していたかかわらず、反歌の方は私の三首に対して、二首しかお返しがない。これは今回の書簡に山吹の一枝をお添え下さったので、それにあわせたものなのだろう。

昨日、あれほどの技を凝らした詩文をお贈り下さった上に、今日このようにお心のこもったご返事を下さったと言うことは、池主殿もだいぶご無理なさったのではなかろうか。こんなに朝早くにこの書簡をお贈りいただいたと言うことはひょっとしたら夕べは徹夜なされたに違いない。この御厚情身に沁むばかりである。私も昨日の詩文に対しての言承けを急がねばならない。

<補>

ここもまた蛇足ではあるが、念のため・・・

昨日短懐を述べ、今朝耳目を汗(ケガ)す。更に賜書を承り、且つ不次を奉る。 死罪死罪。 下賎を遺(ワス)れず、頻りに徳音を恵みたまふ。英霊星氣あり、逸調人に過ぐ。 智水仁山、既に琳瑯の光彩を韞(ツツ)み、潘江陸海自(モトヨ)り詩書の廊廟に坐す。思を非常に騁(ハ)せ、情を有理に託(フ)す。 七歩にして章を成し、数篇紙に満つ。 巧(ヨ)く愁人の重患を遣り、 能(ヨ)く恋者の積思を除く。 山柿歌泉も此に比ぶれば蔑(ナ)きが如く、 彫龍の筆海は粲然として看ることを得たり。 方(マサ)に僕(ワ)が幸(サキハ)ひ有るを知る。 敬みて和ふる歌、其の詞に云はく。

昨日は拙い思いを申し述べ、今朝はまたこのようなつまらぬ手紙をさし上げることをお許し下さい。さらにお便りをいただき、性懲りもなくまた乱文をさし上げること、まことに恐れ入ります。私のようないやしき者のこともお忘れになることもなく、このようにしきりにありがたい便りをお恵みいただきました。その文才は星のように輝き、秀でた歌の調子は人並みをはずれております。あなた様の川が蕩々と流れるような、山のように泰然たる文才は、既に玉のような輝きを内包し、潘江・陸海に比すべき才能はもともと詩文の殿堂に至るほどの者であります。着想は非凡であり、その詩情は筋道の通ったものになっています。かつて曹植が魏の文帝に命じられ、七歩を歩む間に詩を作ったように、即座に詩を作り、その数篇が紙に満ちるといった有様です。見事に愁いに沈む私の心を晴らし、よく積もりに積もった私の恋情を除いて下さいました。あなた様の作品に比べれば、かの「山柿」の歌々も無きに等しく、龍を彫った細工のように巧みに飾られた文章を私は目の当たりにすることが出来ました。まさしく我が幸福を知ることが出来ました。そこで謹んでお応え申し上げる歌を詠みました。その歌は次のようなものです。

七言、晩春三日遊覧一首

七言晩春三日遊覧一首 并序
上巳名辰暮春麗景 桃花昭瞼以分紅柳色含苔而競緑 于時也携手曠望江河之畔訪酒迥過野客之家 既而也琴罇得性蘭契和光 嗟乎今日所恨徳星已少歟 若不扣寂含章何以攄逍遥之趣 忽課短筆聊勒四韻云尓

餘春媚日宜怜賞 上已風光足覧遊
柳陌臨江縟袨服 桃源通海泛仙舟
雲罍酌桂三清湛 羽爵催人九曲流
縦酔陶心忘彼我 酩酊无處不淹留

三月四日大伴宿祢池主

昨日、序文を併せた長歌を書簡として池主殿のもとに贈ったばかりなのに、もうその返事が来た・・・と思い、喜び勇んで封を切ったけれども、どうやらこのご返事は私の書簡とは入れ違いに贈られてきたらしい。そこに記されていたのは、上掲の序文を併せた漢詩であって、私の贈ったものに応えた内容ではなく、昨日池主殿たちがお出かけになった上巳の吉日の遊覧についての内容であった。

それにしても、本当に楽しい一日をお過ごしになったように見える。病で寝込んでいたせいで、ついついこう言ったことに気が回らずにいたが、そういえば昨日は三月三日、上巳であった。古く唐土の国で始まったというこの行事は、もともと暮春三月の最初の巳の日に身の汚れをそそぐ習慣から始まったらしい。いつのまにかそれが三月三日の日に行うものと定まり、風雅な遊びを伴うものとなった。我が国においても文武の帝の御代あたりから定着し、都ではこの日曲水の宴を催すことがならいとなっている。もちろん、ここは越中。曲水の宴を行うような場所はなかろうから、池主殿たちはどうやら連れだって野遊びをしていたらしい。

どんな楽しい一日をお過ごしになったのかと思い、少々うきうきとした気分で読み始めたところ「桃花は瞼を昭らして紅を分ち」の部分が少し気になった。遊仙窟あたりで桃の花が「臉(ホホ)」に照り映えるというような表現は目にしたことはあるのだが・・・・「瞼(マナブタ)」とは・・・池主殿の工夫なのだろうか。それとも、私の目にはこの文字の篇が「目」に見えるのだが、ひょっとしたら「月」なのかもしれない。・・・このあたりはご本人に聞いて見ねばなるまい。いずれにしろ、よく文意は通じているし、作の良し悪しに関わるものではない。ただ、桃はこの越中あたりには見られないものであるから、池主殿は都の様子をご想像になってこう書かれたのだろう。その後に柳のことが書かれているから、ここにどうしても桃は出てこなければならないだろう。それゆえ、この柳と桃の対は詩の中にも用いられている。

それにしても「酒を訪ひ野客の家に逈く過る」とは、なんともしゃれた趣向だ。こんな所に「野客(隠者)」などおるまいに、さしづめこの日の一同のどなたかを「野客」に擬え、そこで一献傾けたことをこのように表現したのであろう。そのような場においてであるから、「蘭契光を和げたり」の一節も効いてくる。世に隠れ住む賢者たちが、その光(学才・徳)をひけらかさずに和やかに交わりあっている様だ。そんな「賢者」たちが私のことを「徳星(君子)」と呼んでいるのだから、恐れ入ってしまう。なんとももったいないお声かけであることか・・・私としても出来ればその場に居合わせたかったもの。かえすがえすも残念でならない。
そして私を何よりも驚かせたのはこの池主殿の漢詩である。何ともまあ見事に韻を踏んでおられることか・・・。「遊」「舟」「流」「留」の四文字、韻のつながりだけではなく、その意味においてもよくよく字を選んでいるようにさえ思われる。これまでのやりとりの中で文をお作りになる力量については充分に知っていたつもりではあったが、詩の方のお力もこれほどのものとは思ってはいなかった。昨日の楽しい遊覧の様子が目を閉じれば浮かんでくるようだ。

「柳陌は江に臨みて袨服を縟にし」のあたりは暖かい春風に柔らかく揺れる柳や、その下に集うご一同の晴れやかなお姿が彷彿とされる。「桃源は海に通ひて仙舟を泛ぶ」については、寡聞にして桃源郷が海に通じるなどという文や詩は今まで見たことがない。ここはおそらくこの越中の地形を表現したものであろうか。春のうららかなこのあたりの風景がご一同には桃源郷に続くもののように感じられたのであろう。それにしても池主殿も想像力が逞しい。曲水もあるわけではないのに「羽爵人を催して九曲を流る」とは・・・上巳というこの吉日、想像の世界だけでも、その風雅を味わおうとでも言うのだろうか。実際にその場に居合わせなかっただけに、この仮想の曲水が、私には現実の曲水のように思われてならない。「縦酔陶心彼我を忘れ 酩酊し処として淹留せずといふこと無し」のあたりは、思わず吹き出しそうになってしまった。酒によいくだを巻いているご一同のお姿が眼前のもののように思えて仕方がない。

この楽しい集いに参加できなかったことはなんとも残念で仕方がない。けれども、こうやって序文と詩を読ませていただき、なにやら私もその場にいたような楽しげな気分になれたのはありがたい。池主殿のお気遣いには本当に感謝してもしきれない。これはこのまま貰いっぱなしにしておくことは出来ない。なんとしてもお返しせねばとは思うが、これまで漢詩などはあまり作ったことはない。池主殿の作に見合うだけのものができるかどうか、はなはだ心許ない。とはいえ、何事も始めてみなければことは始まらぬ。さて、早速とりかかるとするか・・・

<補>

少々くどくはなるが、念のために・・・

七言の詩、晩春の三日の遊覧の一首 序を併せた
上巳(ジャウシ)の名辰は、暮春の麗景なり。桃花は瞼(マナブタ)を昭(テ)らして紅を分ち、柳色は苔を含(フフ)みて緑を競(キホ)ふ。時に、手を携はり江河の畔を曠(ハル)かに望み、酒を訪(トブラ)ひ野客の家に逈(トホ)く過(ヨキ)る。既にして、琴罇性を得、蘭契(ランケイ)光を和(ヤハラ)げたり。嗚呼、今日恨むるところは、徳星すでに少なきことか。もし寂を扣(タタ)き章を含まずは、何をもちてか逍遙の趣を攄(ノ)べむ。たちまちに短筆に課(オホ)せて、いささかに四韻を勒(ロク)すと云爾(シカイフ)。

三月三日の吉日、暮春の麗しい風景です。桃のは見る人の瞼もあかあかと照り映え、柳の色は苔を含んで、その緑を色の鮮やかさを競い合っております。この時に、友と手を携えて川のほとりを遥かに望み、酒を求めて遠い隠者の家を尋ねます。こうしてもはや琴と酒は存分に本性を発揮し、蘭の花の香のように清い賢者の交わりを和やかに結んでおります。ああ、今日残念なことは、あなた様がいらっしゃららないことです。もし詩文を作るのでなかったならば、どうして今日の逍遙の趣を述べることが出来ましょう。たまたま拙い筆に命じて、いささか四韻の詩を作ったという次第にございます。

余春の媚日(ビジツ)は怜賞するに宜(ヨ)く
上巳の風光は覧遊するに足る
柳陌(リウバク)は江(カハ)に臨みて袨服(ゲンブク)を縟(マダラカ)にし
桃源は海に通ひて仙舟を泛(ウカ)ぶ
雲罍(ウンライ)桂を酌みて三清を湛(タタ)へ
羽爵(ウシヤク)人を催(ウナガ)して九曲を流る
縦酔(シヨウスイ)陶心彼我を忘れ
酩酊し処として淹留(エンリウ)せずといふこと無し

暮春の麗らかな日は賞美するによく、三月三日の風光は遊覧するにふさわしい。
柳の並木は川沿いに伸びて、人々の晴れ着をまだらに彩り、桃源郷は海に通じていて仙人の舟を浮かべている。
雷雲の形を刻んだ樽に桂酒を酌めば美酒が満ち、鳥の翼を象った酒杯は人に詩作にとせきたて、曲がりくねった岸辺を流れて行く。
思うがまま酔いしれて何もかも忘れ、酩酊して行く所々で足を留めないことはない。

更贈歌一首

更贈歌一首
含弘之徳垂恩蓬体不貲之思報慰陋心 載荷来眷無堪所喩也 但以稚時不渉遊藝之庭 横翰之藻自乏彫蟲焉 幼年未逕山柿之門 裁歌之趣 詞失乎聚林矣 爰辱以藤續錦之言更題将石間瓊之詠 固是俗愚懐癖 不能黙已 仍捧數行式酬嗤咲其詞曰

大君の 任けのまにまに しなざかる 越を治めに 出でて来し ますら我れすら 世間の 常しなければ うち靡き 床に臥い伏し 痛けくの 日に異に増せば 悲しけく ここに思ひ出 いらなけく そこに思ひ出 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山きへなりて 玉桙の 道の遠けば 間使も 遣るよしもなみ 思ほしき 言も通はず たまきはる 命惜しけど せむすべの たどきを知らに 隠り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに 春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折りかざさず 春の野の 茂み飛び(グ)潜く 鴬の 声だに聞かず 娘子らが 春菜摘ますと 紅の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを いたづらに 過ぐし遣りつれ 偲はせる 君が心を うるはしみ この夜すがらに 寐(イ)も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居る

あしひきの 山桜花 一目だに 君とし見てば 我れ恋ひめやも

山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも

出で立たむ力をなみと隠り居て君に恋ふるに心どもなし

三月三日大伴宿祢家持

これもまた池主殿に贈った書簡である。先日頂戴した池主殿の書簡にあった序文と短歌二首は療養中の私の弱った心にしみ入るようなお気遣いにあふれていた。まことに感謝しきりである。その上、私の拙い文章に「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉までいただいて、恐れ入るばかりである。ここは「石を以て玉に交じ」るようなことになっても、是非ともお返ししなければならない・・・そんなふうに思い、早速ご返事申し上げた。

序文の方は・・・(先日の書簡の序文を含め)自らの文の拙さを弁明したものに過ぎないが、そんな拙い文に、誠意にあふれた、しかも格調高き文を贈って下さった池主殿への感謝の念を表現したつもりである。思いが充分に伝わったかどうかは自信はないが、私なりに力を尽くしたつもりだ。長歌の方はいささか説明的で冗長の誹りはまぬがれえぬかもしれない。しかしながら、この数日の間、私の胸中に去来した様々な思いのすべてを池主殿にご理解いただくことを主眼において詠んだものなので、ここは歌の出来不出来には目をつぶってもらわなければならない。

すべての起点は、二十日の私の作にある。この日の歌の題詞にあった「悲緒」を詳細に綴ったのが、二十九日に池主殿に贈った歌の序文である。そして、そして、その二十五日の序文の意とするところと、二十日の長歌を一つにまとめ、構成し直したものが今回の長歌となる。なにせ二十日の段階で、あの歌は自らの鬱積した思いを晴らすためだけに詠んだもので、もとより誰にも披露してはいない。しかし、池主殿がかくも私の意をご理解くだされ、お気遣いして下さっている以上、私はすべてを池主殿にお伝えしなければならない・・・

このように思い、私はこの長歌を詠んだ。

ところで、聞くところによれば私がこの長歌の序文に用いた「山柿の門」という言葉が後の世の人々の論議を呼んでいると言うことらしい。「山柿」なる語が、誰を指し示す言葉であるかという点についてである。

このことについて、私が歌巻(万葉集)を編んだ百年ほど後に、紀貫之殿という歌人が帝の仰せを承けてお編みになられた「古今和歌集」という歌巻以降、明治の御代に至るまで、「山」とは山辺赤人殿・「柿」は柿本人麻呂殿を指し示す語であるという認識は揺らぐことはなかった。しかし、明治の御代も終わりの頃、これに異を唱えた方が現れた。歌人としての自らの創作と共に、私の歌巻の研究に生涯を捧げられた佐佐木幸綱殿である。佐佐木殿は「山」、山辺赤人殿・「柿」、柿本人麻呂殿との上掲の見解を、「古今和歌集」以降の歌に対する考え方の影響であると考えられた。そして、その歌数、歌人としての格からして、柿本人麻呂殿と並び立つ歌人は山上憶良殿の方がよりふさわしいだろうと考えられた。

そして、この考えに真っ先に反対の意思を表明されたのは同じくこの時期を代表する歌人である島木赤彦殿だ。島木殿は佐佐木殿とは逆に山辺赤人殿を高く評価し、この「山」は山辺赤人殿でなければないと強く訴えた。以降、数多くの賢き人々がこの点についてご発言になられた。以下にその論拠ともいえる部分を示しておこう。

<赤人殿と考える説>

1. 人麻呂殿と並ぶべき歌人は赤人殿である。

2. 私の歌風が赤人殿に近い。

3. 赤人殿を私が尊敬し、推奨している。

4. 憶良殿ならば私が幼年期入門しえたはずである。

5. 赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。

6. 私が伝統的な歌に憧れており、憶良殿の作ははどちらかと言えばそのような伝統にはない。

<憶良殿と考える説>

1. 憶良殿の歌への追和の歌が私にはある。

2. 地方の国守の経験が共にある。

3. 今回の作のように漢文の序をつけるという形が憶良殿に倣ったものである。

4. 我が大伴家と憶良殿は近い関係にある。

5. 憶良殿も中央では知られた歌人である。

6. 今回の序文中の「聚林」なる語が憶良殿の類聚歌林をさす。

7. 赤人殿の長歌は未熟で、私がこれを参考にしたとは思えない。

8. 私の歌には憶良殿の使った語句が多く見られる。

まさに諸説紛々である。私から見ても「なるほど・・・そんなふうにも見えるか・・・」というようなご指摘も中にはある。特に、「赤人殿は中央で活躍された歌人であり、憶良殿はそうではない。」というご指摘だ。後の反論に有るように、憶良殿もその歌才はその学才とともに中央でも充分に知られていたが、柿本人麻呂殿の持つ公的な色彩を受け継ぐのは、どちらかと言えば赤人どのであろう。憶良殿はいささかその詠歌が私的なものに偏りを持つ。傾聴するべき視点であろう。ただ、初めの頃にあったどちらが優れた歌人であるかなどという論議には少し首をかしげたくなる。「それは後の世の方々の見方ではないか。」と言いたくなるのだが、。問題は後の世の方々がこのお二人をどう評価なされるかではなく、私がこのお二人をどう見ていたかにあるからだ。

ともあれ、以上のようにこの問題についての論議がなされる中、昭和の御代の大戦も終わった頃、唐土の文に深い造詣をお持ちの小島憲之殿が、私の書いた序文が漢文である以上どこかに典拠を持つ言葉でなければならないとされ、「文選」の「南都賦(巻四)」に「・・・桜、梅、山柿、・・・」という用例を挙げ、ここから「山柿」で一語であること、すなわち「山柿」で柿本人麻呂殿のお一人を指すものである事を唱えられた。また、小島殿に先立つこと十五年前、折口信夫殿はその一文「柿本人麻呂」でこのことを直感的に感じておられたようだ。

しかしながら、このお二方の考えは、その後顧みられることはなく再び同様の考えが世に示されるのは昭和の御代の五十三年を待たねばならなかった。この年、村田正博殿が世に示した「山柿の門」(「万葉集を学ぶ」巻八)は、この問題についての長年の論争を極めて明瞭に語整理下さり、その結論として私の持つ“古典意識”にふれられた。私は私の歌巻を編むとき常に「いにしえ」と「今」との対比を常に念頭に置いてきた。そしてその意識の中において、「いにしえ」に属する歌人は柿本人麻呂殿であり、山部赤人殿・山上憶良殿のいずれもが私の意識の中にあっては「今」に属する歌人であるとご指摘なされた。そして、私が自らの歌作にあたって、常に“古典”を意識していたと思われることから、「山柿」とはこの柿本人麻呂殿のお一人を指すと言及された。

また他に山辺赤人殿、お一人が「山柿」だとの考えが、同じ昭和の御代の四十一年に中西進殿という方から提起されたとも聞き及んでいる。

その後、それぞれの立場からもそれぞれの考えを補強なされるような考えが提出され、この段階で考え得る諸説は出尽くしたと言って良いだろう。そしてその結論は未だ決着を見ない。

さて・・・この語を使った当の本人として、「山柿」なる語がいかなる意味を持った言葉であるか、当然のことながら私は知っている。というよりも、このことは平城の御代において歌作に関わったものならば、それは共通認識と言ってよい。 したがって、ここでその種明かしをしてしまうことはたやすい。しかしそれは余りに興ざめな行いであると言わざるを得ない。加えて、後の世の人々が私が残したものについてかように熱心にお考えになられていること自体が私にはこの上なくうれしいことでもある。それを私自身の発言によって強引に決着させてしまうのは、いかにも残念なことだ。もうしばらくはこの論争の推移を見守って行きたいと思う。

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

含弘の徳、恩を蓬体に垂れ、不貲の恩、慰を陋心に報ふ。来眷を載荷し、喩ふる所に堪(ア)ふる所無し。但(タダ)し、稚き時遊芸の庭に渉らざるを以て、横翰の藻、自ら彫虫に乏(トモ)し。 幼年未だ山柿の門に渉らずして、裁歌の趣、詞を聚林に失ふ。ここに藤を以て錦を続(ツ)ぐの言を辱(カタジケナ)みし、更に石を将(モチ)て瓊(タマ)に間(マジ)ふるの詠(ウタ)を題(シル)す。固(モトヨ)り是れ俗愚にして癖を懐(ムダ)き、黙(モダ)して已(ヤ)むことあたはず。仍(ヨ)りて、數行を捧げ式(モチ)て嗤咲に酬(ムク)いむ、其の詞に曰はく、

あなた様の宏大な御仁徳は、蓬のようにつまらぬ我が身を思いやって下さり、計り知れぬ御温情は、我が心を慰めて下さいました。お心をお寄せ下さって、その喜びは譬えようもございません。小生、年少の頃詩文の道に深く関わることもなく、思いつくまま書きつけた文章は自ずと面白みに乏しく、若い頃に山柿の門に関わったこともないが故・・・和歌の道を正しく学ばなかった故・・・、折角詠んだ歌の言葉も言葉の林に見失うがごとくでたらめな言葉遣いです。ここに、「藤を以て錦に継ぐ」というもったいないお言葉をいただき、それに乗じて「石を以て玉に交じ」るような拙い歌を詠みました。もとより小生、生まれながらの俗愚の徒、持ち前の性癖か黙ってすませることが出来ません。よって数行の歌をさし上げ、お笑いぐさまでにお答えいたします。その歌詞と申しますのは・・・

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦

忽辱芳音翰苑凌雲 兼垂倭詩詞林舒錦 以吟以詠能蠲戀緒春可樂 暮春風景最可怜 紅桃灼々戯蝶廻花儛 翠柳依々嬌鴬隠葉歌 可樂哉 淡交促席得意忘言 樂矣美矣 幽襟足賞哉豈慮乎蘭蕙隔藂琴罇無用 空過令節物色軽人乎 所怨有此不能黙已 俗語云以藤續錦 聊擬談咲耳

山峽(カヒ)に 咲ける桜を ただ一目 君に見せてば 何をか思はむ

鴬の 来鳴く山吹 うたがたも 君が手触れず 花散らめやも

沽洗(三月)二日 掾大伴宿祢池主

先日私が贈った書簡の歌に池主殿がかようにお応え下さった。父上や山上憶良殿がよくやっていた漢文の序を和歌に付するという形式を、私が戯れに試みたところ、池主殿はそれにみごとに対応して下さった。

やはり、漢文がお得意な池主殿だ。その序文の中には、六朝詩や遊仙窟によく使われている「紅桃」「戯蝶」「翠柳」「嬌鴬」、荘子に見られる「淡交」、そして初唐の詩人王勃の「林泉孤飲」にあった「物色軽人」を初めとした数々の麗しき語をちりばめられてあり、「翰苑雲を凌ぐ。」とは私の駄文よりは、池主殿のこの序文にこそふさわしい言葉である。

また私が病の床にあるがため、会うこともままならない状況を「蘭蕙、藂を隔て」などという言い回しで表現するなんて私は思いもつかないことだ。本当に恐れ入るばかりだ。「藤を以ちて錦を続ぐ。」は「錦を以て藤を続ぐ。」と言い改めたいほどだ。

そして二首の短歌。私が贈った二首の中では単に「春の花」とだけいってあるところを、「桜」「山吹」と置き換えて下さっている。このように病の床にあってこの越中の山野に今頃どんな花が咲いているのかもわからず、「春の花」と極めて曖昧な形でしか詠むことが出来なかったのを承けて、具体的に二つの花を挙げ、私にそれとなくそれらの花が咲いていることを教えて下さっている。我が意を得たりとは、まさにこのような返歌のあり方を言うのではないかとさえ思われる。

とにもかくにも、池主殿のこの序文と歌には更にお応えせずばなるまい・・・

<補>

ここもまた漢文を読み慣れぬ平成の御代の方々のために短歌の前に添えた序文の読みやすく改めたものを下に記した。ご参考までに・・・

忽(タチマチニ)に芳音を屈(カタジケナ)みし、翰苑(カンエン)雲を凌ぐ。兼(サラ)に倭詩を垂れ、詞林錦を舒ぶ。以て吟じ、以て詠じ、能(ヨ)く恋緒をのぞく蠲(ノゾ)く。春は楽しぶべく、暮春の風景は最も怜れむべし。紅桃灼々、戯蝶は花を廻りて儛ひ、 翠柳依々、嬌鴬葉に隠れて歌ふ。楽しぶべきかも。淡交に席(ムシロ)に促(チカヅ)け、意を得て言を忘る。楽しきかも、美(ウルハ)しきかも。幽襟賞(メ)づるに足る。豈(ア)に慮(ハカ)りけめや、蘭蕙(ランケイ)、藂(クサムラ)を隔て、琴罇用ゐるところなく、空しく令節を過ぐして、物色人を軽みせむとは。怨むる所、此(ココ)にあり。黙(モダ)して已(ヤ)むことを能(アタ)はず。俗(ヨ)の語に云ふ「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」と。いささかに談咲に擬(ナゾラ)ふのみ。

思いもかけずありがたいお便りを頂きましたが、その文の筆のさえはまさに雲を凌ぐばかりです。加えて、和歌までこの私めにお恵みくだされましたが、これまたそのお言葉の綾たるやまるで錦を広げたようです。いくたびも、いくたびも吟詠しその度にあなた様への恋しさもはれる思いです。春はもとより楽しいはずの季節、なかんずく暮春・・・三月の風景はもっとも賞美するにふさわしい頃でございます。桃の花の紅は輝くばかり、浮かれた蝶が花々の間を舞い飛び、緑の柳はなよなよとその葉を揺らし、鶯は葉陰に隠れ可憐な歌声を聞かせてくれます。なんという楽しさでしょうか。君子との席を近づけ淡々と交わりにおいて、心通えば言葉はもはや無用の長物。ああ、何という楽しさ、何という素晴らしさ・・・まさに君子の語にふさわしいあなた様の深いみ心は賞でるに余りあるほどです。どうして想像できたでしょうか、蘭と蕙が草むらに隔てられるように、あなた様とお会い出来ず、琴も罇も用もないままに空しくこの良き季節を過ごし、自然の風趣が我々人間を軽く見るとは。恨めしいのはまさにこの点なのです。黙ったまま過ごすことはとても出来ません。俗なことわざに「藤を以ちて錦を続(ツ)ぐ。」とあるように、あなた様の秀作に私の駄作を続け、お笑いの種にとお示し致すだけです。