至水海遊覧之時各述懐作歌
神さぶる 垂姫(タルヒメ)の崎 漕(コ)ぎ廻(メグ)り 見れども飽かず いかに我れせむ
右一首田邊史福麻呂殿
垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ
右一首遊行女婦(ウカレメ)土師(ハニシ)
垂姫の 浦を漕ぐ舟 梶間にも 奈良の我家(ワギヘ)を 忘れて思へや
右一首大伴家持
おろかにぞ 我れは思ひし 乎布(オフ)の浦の 荒礒(アリソ)の廻り 見れど飽かずけり
右一首田邊史福麻呂
めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥(ホトトギス) 何か来鳴かぬ
右一首掾久米朝臣廣縄
多古の崎 木の暗茂(クレシゲ)に 霍公鳥 来鳴き響めば はだ恋ひめやも
右一首大伴宿祢家持
前件十五首歌者廿五日作之
水海では船を繰り出しての遊覧だ。垂姫の崎から水海の南の岸部をたどり、乎布へと船を進めた。初めの三首が垂姫の崎のあたり、次の二首が乎布の崎、そして最後に多古の崎で私が一首詠んでこの日の遊覧は終わった。
まず初めに福麻呂殿が歌う。「見れども飽かず いかに我れせむ」と手放しのお喜びだ。この布勢の水海の絶景を、福麻呂殿はよほどお気に入りになったのであろう。無理もない。海のない大和に住んでいればこのような絶景にお目にかかることはない。かくいう私だって昨年初めて訪れたこの場所の感慨があまりに大きかったから「遊覧布勢水海賦」を詠んで、都にそのすばらしさを伝えようと思ったのだから。
次に遊行女婦の土師の歌。土師はこのあたりでは名の知られた遊行女婦だ。国府に勤務する我々はすべからく単身でこの越中にやってきているので、宴席の場はどうにも花がない。そんな場に花を添えてくれるのが遊行女婦だが、ただそこにいて酌をすると言うだけではない。その場その場にあわせた気の利いた歌や言葉で宴席を盛り上げる才覚がなければ務まらない。その点土師は優れた遊行女婦で、ここでも上手に場の、特に主賓である福麻呂殿の意を汲んで上手に盛り立ててくれた。
そして三首目、私の歌だ。先の二首の歌が垂姫の先の美景をほめたたえる歌であったのに対し、私は少し趣を変えて「家恋い」を主題とした。旅先にあって、その地をほめたたえることと「家恋い」はどちらも欠かすことのできない主題だ。両方があい揃って初めて旅の歌は成立する。ここで垂姫の崎から移動を開始すると言うことなので、私がこの場のとじめとしてこんな歌を詠んだのだ。ところで、この歌の左注には大伴家持とだけあって宿祢という私の姓(カバネ)が抜けている。縷々述べているようにこの日記のこのあたりの部分は私の死後にその損傷が著しかったと見えて、平安の御代の方々が補修のできる部分は補修してくださった。じつはここもそうなのであって、私の名前が欠けていたところを補ってくださったのだが、その際に姓が抜け落ちてしまったものだと思われる。我々平城の都に住をなしていた者にとっては欠かすことのできない姓ではあったが、平安の御代の人々にとってはあまり意をなさぬものであったらしく、うっかりと抜け落ちでしまったものと思われる。
さて場を変えて乎布の崎だ。ここでも主賓である福麻呂殿が第一声を放つ。以前の宴で、私が大和に帰ろうとする福麻呂殿をこの布勢水海の誘って引き留めたとき福麻呂殿は「いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる」と詠んで、この地の絶景ぶりを疑って見せた。その時、それに対し私が乎布の崎を引き合いに出してさらに引き留めた歌を思い出されたのであろう。乎布の崎、ひいては布勢水海の美しさを軽く見ていた反省を歌われている。もちろん、これはそんなそぶりだけであろう。福麻呂殿は先年、私が都に持ち帰った私と池主殿の布勢水海の歌を見て、この地には充分に惹かれていたはずである。
次に歌ったのは久米(クメ)朝臣廣縄(ヒロナハ)殿だ。先年越前に転出なさった池主殿に変わって、この越中に掾としておいでになられた方で非常に謹厳実直、真面目を絵に描いたような方だ。久米氏はかつて我が大伴家の遠祖天忍日(アメノオシヒ)命が配下大来目命の流れの一族。今、大和を離れ越中の地でこうやって上司、部下の関係で働くことになったのも何となく感慨深いものがある。歌の方は霍公鳥の鳴かないのを恨む歌であって直前の福麻呂殿の歌にそぐわないような感じもするが、これは先日の宴で私と福麻呂殿が
藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり(福麻呂殿)
明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも(私)
と歌い交わしたのを踏まえてのもので、この絶景のもと、霍公鳥の美しい鳴き声が加われば風趣はいっそう増したはずなのにと悔やんでいる歌だ。実は先日来の宴の幹事役を廣縄殿に勤めてもらっているのだが、謹厳実直な廣縄殿のこと、こんなことまで我が責任と感じているようだ。
そこで私がとじ目として、部下の謝罪の歌にさらに言葉を添え、福麻呂殿にお詫び申し上げる形で歌い上げたのが六首目の歌だ。歌中、乎布の崎ではなくて多古の崎を詠み込んでいるが、これは場が変わったというより、歌っているうちに船が移動してしまったことから来るものだ。多古の崎は乎布の崎のやや東南。船を一漕ぎすればすぐにたどり着いてしまうほどの距離だ。
さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。
それは・・・
・・・後日・・・その時が来たら・・・