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四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四首

四月一日掾久米朝臣廣縄之舘宴歌四

卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも

右一首守大伴宿祢家持作之

二上の山に隠れる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ

右一首遊行女婦土師作之

居り明かしも今夜は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ二日應立夏節 故謂之明旦将喧也

右一首守大伴宿祢家持作之

明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜のからに恋ひわたるかも

右一首羽咋郡擬主帳能登臣乙美作

今日は廣縄殿のお宅で宴があった。先日(三月二十六日)の廣縄殿のお宅での田邊福麻呂殿を送別する宴の際に聞くことのできなかった霍公鳥の声がもしかして聞くことができればとの縄麻呂殿の発案である。

縄麻呂殿のお宅は霍公鳥の渡りの通過点と言うこともあり、この辺りでは他所よりも一足早く霍公鳥の声を聞くことができる場所だ。福麻呂殿の送別の宴の際は三月も末ということもあって、ひょっとしたら霍公鳥の歌声が聞こえればと思って場の設定をしたのであるが、ついぞその声を聞くことができなかった。福麻呂殿はそのことにいたく責任を感じておられ、ここ数日ちょいと沈んでおられた。今日はその名誉挽回という次第である。

暦の上では明日二日が立夏、霍公鳥が鳴くべき日である。ということは、渡りの通過点にある廣縄殿のお宅ならば一日早くその声を聞くことができないかとお考えになられたらしい。けれども、霍公鳥はなかなか鳴いてはくれなかった。縄麻呂殿は責任を感じられ、ますます沈む一方である。まことに生真面目な方ゆえ、その責任の感じ方は尋常ではない。

私はそんな縄麻呂殿の気持ちを考えると少しでも早く「来鳴き響めよ」と歌わずにはおれなかった。その私の思いに上手に応じて歌ってくれたのが遊行女婦の土師だ。さすがは遊行女婦である。場の雰囲気を的確に読み取って・・・就中、縄麻呂殿と私の思いを・・・かく歌ってくれた。歌中の「君」とはこの歌が直接的には私の歌に応えたものであるから私のことをさしてはいる事は疑えないがが、その裏の意は縄麻呂殿をさしているに相違ない。土師は縄麻呂殿のためにも早く鳴いておくれと歌ったのだ。

それでも霍公鳥はなかなか鳴かない。縄麻呂殿はますます恐れ入ってしまい歌を詠むどころではなかったようだ。それで仕方なく詠んだのが私の「明日よりは」の歌だ。暦の上では霍公鳥が鳴くのは立夏となる明日。明日になればきっと鳴くからと詠むことで縄麻呂殿の負担を少しでも少なくしようと思ったのだ。

それに対しては羽咋の郡の擬主帳、能登臣乙美がみごとに応えてくれた。彼はこの日たまたま公務で国府に出てきていたのだが、せっかくだからと思い、この宴に誘っておいたのだ。身分は低いながらも私の思いを正確に読み取ってのこの詠みざまは特筆に値するものであると思い彼の歌もここにのせておいた。

後追和橘歌二首

後追和橘歌二首

常世物この橘のいや照りにわご大君は今も見るごと

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして

右二首大伴宿祢家持作之

射水郡驛舘之屋柱題著歌一首

朝開き入江漕ぐなる楫の音のつばらつばらに我家し思ほゆ

右一首山上臣作 不審名 或云憶良大夫之男 但其正名未詳也

田邊福麻呂がこちらにいらっしゃってともに過ごしたこの数日間は本当に楽しいものであった。布勢の水海の遊覧、そしてそこで教えていただいた難波の宮での歌々・・・忘れがたい思い出となった。明日福麻呂殿は平城の都にお帰りになる。こんなにも楽しい日々を過ごしたのだから、これを都の人々・・・とりわけ橘諸兄殿にも是非ともお知りいただきたいと思う。ということで二十四日の宴から今日の縄麻呂殿のお宅における宴で交わされた数々の歌を簡素なものながらも歌巻にして、手土産代わりに福麻呂殿に持って帰っていただこうと考えている。

ついては、私が直接かかわることのできなかった難波の宮での歌に対して遅ればせながら「和」をなそうと思って詠んだのが、先の二首、「後に橘の歌に追和した二首」である。一見して分かるように諸兄殿のお宅での先の帝とお二人の女王様のお詠みになった三首に和したものである。これらの歌々は諸兄殿の御威光をほめたたえ、その長久をお祈りになった歌だけに、私もその意を汲んで詠んでみた。ただ、私としては諸兄殿の長久だけをお祈りするわけにはいかない。その場には先の帝もいらっしゃったわけだから、こちらの方にも意を注がねばならない。そこで、少々回りくどい詠みざまではあるが、先の帝の長久をお祈りすることを通して、諸兄殿の御威光を賛美するように詠んでみた。諸兄殿が一見してその意をくみ取れるように詠めたかどうか、少々不安でもあるが、ご聡明な諸兄殿のこと、きっと我が意をくみ取ってくださることだろうと思う。

最期の一首は私がこの春、この国を巡行した際に見つけた歌である。このような鄙の地において、かの山上憶良殿の後子孫の歌に接するとは思ってもみなかった。これまた諸兄殿におかれてはご興味の対象となることと思い最期にこの手土産としての歌巻に付け加えておいた。

難波堀江の船遊びの際の歌については、布勢の水海での歌がその「和」としてのはたらきもあろうかと思い直接「和」をなすことはしなかった。

太上皇御在於難波宮之時歌七首

太上皇御在於難波宮之時歌七首 清足姫天皇也

左大臣橘宿祢歌一首

堀江には玉敷かましを大君を御船(ミフネ)漕がむとかねて知りせば

御製歌一首

玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ或云 玉扱き敷きて

右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏并御製

御製歌一首

橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を

 河内女王歌一首

橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも

粟田女王歌一首

月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ

右件歌者在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌并奏歌也

堀江より水脈引きしつつ御船さすしづ男の伴は川の瀬申せ

夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ

右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也 傳誦之人田邊史福麻呂是也

大上皇は清足姫天皇、すなわち元正天皇でいらっしゃった先の帝のである。左大臣橘宿祢はいうまでもなく私が信頼申し上げている橘諸兄様のことである。題詞にお名前の方を書いていないのは、もちろん私の諸兄様に対する敬意の現れである。これらの七首は福麻呂殿によれば天平十六年(744)に上皇が難波の宮においでになった際の歌々だそうだ。この時の難波行きの時には多くの官人たちが難波に行ったのだが、私はゆえあって平城の自宅に籠もっており、ご一緒することができなかったのだ。

この年の閏正月十一日に帝を始めとした百官がうち揃って難波の宮への行幸があった。よく二月の二十四日には帝は紫香楽の宮へと移ったのであるが、どういう事情か知らないが、先の帝と諸兄様だけが難波の宮に十一月まで残っていらっしゃったのだ。これらの歌はその頃のものなのだそうだ。諸兄殿のお近くに仕えていた福麻呂殿はそのおそばにて、これら尊い方々の宴に侍り、その雅やかな空気に触れることができたことをとても幸せそうに語っておられた。なんともうらやましい限りである。

初めの二首は夏に催された船遊びのおりのもの。お二人の親しいご関係がそのやりとりの中から自然に伝わってくるような御歌である。

続く三首は諸兄様のお屋敷にて催された宴にての御歌。いずれの歌も橘の木を歌いつつ、場の主人の諸兄様をほめたたえる歌となっている。先の帝の「八つ代にも 我れは忘れじ この橘を」というくだりは諸兄様に対しての無限の信頼感が読んでとれる。またほかのお二方の御歌にも先の帝と諸兄様の御威光を手放しで賞賛される内容で、諸兄様もさぞかしご満足であったに違いない。

ところでこの三首、どのようなおりの作がどうか、福麻呂殿にお聞きするのを忘れていた。そこがどうにも残念でならない。おそらく宴のとじ目の歌として役割を果たしたと思われる粟田女王様の御歌に「あから橘」とある。これを「明ら橘」と考え、橘の花の輝きを詠んだ歌と考えることが可能だ。そうするとこれらの歌は夏に詠まれたことになり、船遊びが終わった後、そのまま諸兄様のお屋敷で宴が行われたと考えることができる。

ただ・・・上皇の御歌に「とをの橘」とあるのは豊かに実をならせた橘の姿が歌ったもの。だとすれば、これらの三首は冬に詠まれたことになる。粟田女王様の御歌の「あから橘」も豊かに実った橘の実の輝きを歌ったもの解しなければならないだろう。私にはどちらとも決めかねる・・・どう考えればいいのか・・・福麻呂殿が御出立になられた後となればもうお聞きできない。返す返すも残念だ。

さて最後の二首。これは言うまでもなく福麻呂殿が初めの二首に和したものだ。本来ならば、その二首のすぐ後に配列するべきなのだろうが、福麻呂殿が上皇を始めとした尊いお方の中に自らの歌を並べるのは分不相応だとしてご遠慮なされて後から「私もこの時、こんなのを詠んだのですが・・・」と遠慮がちに教えてくださったのだ。

ところで以前私は次のように書いた。

さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。

それは・・・後日・・・その時が来たら・・・

実は今がその時なのである。左注には十五首とあるところに歌が八首しかない。つまり七首不足しているのである。その七首が・・・実はこれらの歌なのだ。福麻呂殿は布施の水海で私が歌の中で「御船」という言葉を使ったところ、ふと難波での舟遊びのことを思い出されて・・・そういえばといってこれらの歌を教えてくださったのだ。福麻呂殿が歌い終わるとかねてから申し付けておいた船がやってきた。布施の水海の遊覧の始まりだった。だからこれら七首の歌は、はじめ私が布施の水海のほとりにて船を待っていた時の二首と、船に乗っての遊覧が始まってからの六首の間に確かに存在していた。左注に十五首とあるのはその意味では間違いがなかったのである。

その翌日、三月二十六日、久米廣縄殿のお館にての餞の宴にて話題は都のことと相成った。その際に皆にせがまれて福麻呂殿は再びこれらの歌をご披露なされた。そしてその時は二首目の先の帝の御製の四句目、先日の遊覧のおりには「玉扱(コ)きしきて」とお誦みなさったところを、この日は「玉敷き満てて」と誦み換えなさった。聞けば先の帝は、この句について二案をお持ちになっておられ、この二つの句の案をどうするべきか、最後まで迷ってあおられたそうである。そんなことまで福麻呂殿は教えてくださった。

そして、いったんは上に述べた位置にこれらの七首を配置した私であるが・・・福麻呂殿歓迎のためにその時詠まれた歌の中に、急に以前の難波の宮にての歌が入ると何かしら不自然な気がしてならなくなった。それに、先の帝や諸兄様の御歌を我々のようなものの宴の歌の中に挟み込むなど、あまりにももったいないこと・・・ここはその歌を耳にした順番を変えてでも、福麻呂殿歓迎の歌を一まとめにし、難波での歌はそこから切り出したほうが方が良かろうと思うようになった。結果、今ある形になったのである。そのとき・・・恥ずかしながら左注の方まで気が回らなかった。だから、今もなお上記の左注にはこれら七首を含めた、十五首と書いてあるのだ。

掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首

 掾久米朝臣廣縄之舘饗田邊史福麻呂宴歌四首

霍公鳥今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも

右一首田邊史福麻呂

木の暗になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時

右一首久米朝臣廣縄

霍公鳥こよ鳴き渡れ燈火を月夜になそへその影も見む

可敝流廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れ我れをし思はば

右二首大伴宿祢家持

前件歌者廿六日作之

いよいよ福麻呂殿の帰京が明日にと迫った今日の日、今回の一連の宴の幹事役を務めてくれた廣縄殿のお宅にて最後の送別の宴を催した。実直な廣縄殿は最後までよくその任を果たしてくださった。本来ならばこの日の宴も国守である私の館で行うべきもののはずではあったが、幹事役を見事に果たしてくださった廣縄殿のたっての希望もあり、今日は廣縄殿にお願いすることにした。

例によって最初は主賓である福麻呂殿の挨拶代わりの一首。期待に反して鳴くことのなかった霍公鳥を咎める歌だ。見ようによっては、その霍公鳥をうまく鳴かすことができなかった幹事を責めるような歌であり、廣縄殿には少々きつい歌ではあるが、よくよく読んでみれば、かくも懇切に宴席を手配した廣縄殿の思いに応えることなく鳴かなかった霍公鳥を責める内容になっており、決して廣縄殿を責める内容ではないことが分かる。それどころかそこまで心を尽くしてくれた幹事役に対して遠回しに謝辞を述べる歌のようになっていることは廣縄殿も充分に感じ得たであろう。その上で廣縄殿は、再度自らの不手際を、前日の私の歌を踏まえて詠んだのである。

そうなると上司の私としても儚い望みながら、ここで霍公鳥の声が聞こえて来ることを願わずにはいられなかった。それが三首目の私の歌である。今日三月二十六日は月の出も遅く、かなり遅くならなければ月は出ない。けれども福麻呂殿は明日御出立の身。そんなに遅くまでお付き合いいただく訳にはいかない。そこで燈火を月に見立ててみた。月と霍公鳥の組み合わせは私ももっとも好むもので以前、

ぬばたまの 月に向かひて 霍公鳥 鳴く音遙けし 里遠みかも

と詠んだこともある。春から夏にかけてのややおぼろな月・・・そして、その月明かりの中、いずことも鳴く聞こえて来るしみ通るような霍公鳥の声・・・歌材としてはこれに勝るもののない取り合わせであると私は確信している。さらにである・・・ここ廣縄殿の館はかつて池主殿が住んでいらっしゃった場所、平成の御代でいえば富山県高岡市伏木東一宮で、霍公鳥が渡ってくる際の通過点でもある。私がやや季節としては早いながらもその声を期待しない訳はない。

さて、最後の一首だ。幹事役は廣縄殿にお任せはしていたが、この越中の国守は私である。客人である福麻呂殿への主送りの歌を詠むのは私でなければなるまい。福麻呂殿がお帰りの際、きっとお通りになるであろう越前は敦賀の郡、可蔽流(鹿留)・五幡を詠み込んでお別れの歌とした。この辺りの峠を越えればもうそこは近江の地、都はほど近く、越中を含めた越の国とはそこが最期の場所となる。そんな場所で私たちのことを思い出して欲しいと歌ったのだ。「可蔽流み」という言葉に「帰る身」という意味をにおわせたのは、都に帰ることのできる福麻呂殿に対する羨ましさが多少あったのかも知れない・・・・

至水海遊覧之時各述懐作歌

至水海遊覧之時各述懐作歌

神さぶる 垂姫(タルヒメ)の崎 漕(コ)ぎ廻(メグ)り 見れども飽かず いかに我れせむ

右一首田邊史福麻呂殿

垂姫の 浦を漕ぎつつ 今日の日は 楽しく遊べ 言ひ継ぎにせむ

右一首遊行女婦(ウカレメ)土師(ハニシ)

垂姫の 浦を漕ぐ舟 梶間にも 奈良の我家(ワギヘ)を 忘れて思へや

右一首大伴家持

おろかにぞ 我れは思ひし 乎布(オフ)の浦の 荒礒(アリソ)の廻り 見れど飽かずけり

右一首田邊史福麻呂

めづらしき 君が来まさば 鳴けと言ひし 山霍公鳥(ホトトギス) 何か来鳴かぬ

右一首掾久米朝臣廣縄

多古の崎 木の暗茂(クレシゲ)に 霍公鳥 来鳴き響めば はだ恋ひめやも

右一首大伴宿祢家持

前件十五首歌者廿五日作之

水海では船を繰り出しての遊覧だ。垂姫の崎から水海の南の岸部をたどり、乎布へと船を進めた。初めの三首が垂姫の崎のあたり、次の二首が乎布の崎、そして最後に多古の崎で私が一首詠んでこの日の遊覧は終わった。

まず初めに福麻呂殿が歌う。「見れども飽かず いかに我れせむ」と手放しのお喜びだ。この布勢の水海の絶景を、福麻呂殿はよほどお気に入りになったのであろう。無理もない。海のない大和に住んでいればこのような絶景にお目にかかることはない。かくいう私だって昨年初めて訪れたこの場所の感慨があまりに大きかったから「遊覧布勢水海賦」を詠んで、都にそのすばらしさを伝えようと思ったのだから。

次に遊行女婦の土師の歌。土師はこのあたりでは名の知られた遊行女婦だ。国府に勤務する我々はすべからく単身でこの越中にやってきているので、宴席の場はどうにも花がない。そんな場に花を添えてくれるのが遊行女婦だが、ただそこにいて酌をすると言うだけではない。その場その場にあわせた気の利いた歌や言葉で宴席を盛り上げる才覚がなければ務まらない。その点土師は優れた遊行女婦で、ここでも上手に場の、特に主賓である福麻呂殿の意を汲んで上手に盛り立ててくれた。

そして三首目、私の歌だ。先の二首の歌が垂姫の先の美景をほめたたえる歌であったのに対し、私は少し趣を変えて「家恋い」を主題とした。旅先にあって、その地をほめたたえることと「家恋い」はどちらも欠かすことのできない主題だ。両方があい揃って初めて旅の歌は成立する。ここで垂姫の崎から移動を開始すると言うことなので、私がこの場のとじめとしてこんな歌を詠んだのだ。ところで、この歌の左注には大伴家持とだけあって宿祢という私の姓(カバネ)が抜けている。縷々述べているようにこの日記のこのあたりの部分は私の死後にその損傷が著しかったと見えて、平安の御代の方々が補修のできる部分は補修してくださった。じつはここもそうなのであって、私の名前が欠けていたところを補ってくださったのだが、その際に姓が抜け落ちてしまったものだと思われる。我々平城の都に住をなしていた者にとっては欠かすことのできない姓ではあったが、平安の御代の人々にとってはあまり意をなさぬものであったらしく、うっかりと抜け落ちでしまったものと思われる。

さて場を変えて乎布の崎だ。ここでも主賓である福麻呂殿が第一声を放つ。以前の宴で、私が大和に帰ろうとする福麻呂殿をこの布勢水海の誘って引き留めたとき福麻呂殿は「いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる」と詠んで、この地の絶景ぶりを疑って見せた。その時、それに対し私が乎布の崎を引き合いに出してさらに引き留めた歌を思い出されたのであろう。乎布の崎、ひいては布勢水海の美しさを軽く見ていた反省を歌われている。もちろん、これはそんなそぶりだけであろう。福麻呂殿は先年、私が都に持ち帰った私と池主殿の布勢水海の歌を見て、この地には充分に惹かれていたはずである。

次に歌ったのは久米(クメ)朝臣廣縄(ヒロナハ)殿だ。先年越前に転出なさった池主殿に変わって、この越中に掾としておいでになられた方で非常に謹厳実直、真面目を絵に描いたような方だ。久米氏はかつて我が大伴家の遠祖天忍日(アメノオシヒ)命が配下大来目命の流れの一族。今、大和を離れ越中の地でこうやって上司、部下の関係で働くことになったのも何となく感慨深いものがある。歌の方は霍公鳥の鳴かないのを恨む歌であって直前の福麻呂殿の歌にそぐわないような感じもするが、これは先日の宴で私と福麻呂殿が

藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり(福麻呂殿)

明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも(私)

と歌い交わしたのを踏まえてのもので、この絶景のもと、霍公鳥の美しい鳴き声が加われば風趣はいっそう増したはずなのにと悔やんでいる歌だ。実は先日来の宴の幹事役を廣縄殿に勤めてもらっているのだが、謹厳実直な廣縄殿のこと、こんなことまで我が責任と感じているようだ。

そこで私がとじ目として、部下の謝罪の歌にさらに言葉を添え、福麻呂殿にお詫び申し上げる形で歌い上げたのが六首目の歌だ。歌中、乎布の崎ではなくて多古の崎を詠み込んでいるが、これは場が変わったというより、歌っているうちに船が移動してしまったことから来るものだ。多古の崎は乎布の崎のやや東南。船を一漕ぎすればすぐにたどり着いてしまうほどの距離だ。

さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。

それは・・・

・・・後日・・・その時が来たら・・・

 

廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首

廿五日徃布勢水海道中馬上口号二首

浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟

沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ

先日の宴で約束した通り、今日は布勢の水海の遊覧に出かけた。私が昨年、都への手土産代わりにと作った「布勢水海遊覧賦」並びにそれに対する池主殿の敬和歌にあるがごとく、皆で馬に乗ってである。晴朗なる天気、遙かに見渡す布勢の水海、絶景これに勝るは無しといった按配であった。

もちろんせっかくのこの水海の遊覧であるから浜辺から眺めるだけではつまらない。やっぱりここは船を出さなければ・・・・

そう思い、かねてから船を手配していたのだが、我々がこの場所に着いたのが早すぎたのか、船はまだ着いていない。馬上にて、早く船がやってくることを願いつつ歌ったのが一首目だ。程なく船は来た。私は福麻呂殿にあれが今日の船ですよと指さしつつ歌った。それが二首目である。

ところで、この歌には題詞にも左注にも誰が詠んだ歌かを記していない。これは縷々申し述べているこの日記の保存状態の悪さに由来する。けれども上に述べた事からもわかるように、この歌は私が福麻呂殿に歌いかけた歌。後の世に私の歌巻を写してくれた人々もそのあたりのことは承知の上だったとみえ、その方々の作成によるこの部分の目録にはきちんと私の作である由を書き添えてある。まことにありがたいことだ。

本当にこの歌のあたりはよほど保存の状態が悪かったようだ。私どもの時代には平仮名という文字は存在せず、漢字の音や訓を利用して我が国の言葉を書き表していた。例えば一首目の第一句「浜辺」だが、私どもの時代の仮名遣いでは「波萬部」などとあるべきところだ。ところが、今、皆さんがご覧になっている本では「波萬へ」となっている。またすぐその下の「より」、今皆さんがご覧になっているものは、「余里」となっていると思うのだが、私どもの時代では「・・・より」の「よ」にはこの「余」という文字は使わない。三句目に「宇美邊欲里ウミベヨリ」の「欲」などを使うのが通例だ。これらの二つの文字は昭和の御代では同じ「よ」と発音しているものが、私どもの時代には違う発音で読まれていたことに由来する。あくまでも違う種類の文字なのだ。それがかくも誤用されるのは、時代の推移とともにその保存の状態が悪くなっていったこの部分、文字が読み取れなくなっていたことが原因かと思う。それを後の世・・・おそらくは平仮名も生まれ、「よ」の発音の区別もなくなってしまった平安の御代の人々が今見る形に補ってくださったのかと私は考えている。

于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌

于時期之明日将遊覧布勢水海仍述懐各作歌

いかにある 布勢の浦ぞも ここだくに 君が見せむと 我れを留むる

右一首田邊史福麻呂

乎布の崎 漕ぎた廻り ひねもすに 見とも飽くべき 浦にあらなくに 一云君が問はすも

右一首国守大伴宿祢家持

玉櫛笥 いつしか明けむ 布勢の海の 浦を行きつつ 玉も拾はむ

音のみに 聞きて目に見ぬ 布勢の浦を 見ずは上らじ 年は経ぬとも

布勢の浦を 行きてし見てば ももしきの 大宮人に 語り継ぎてむ

梅の花 咲き散る園に 我れ行かむ 君が使を 片待ちがてら

藤波の 咲き行く見れば 霍公鳥 鳴くべき時に 近づきにけり

右五首田邊史福麻呂

明日の日の 布勢の浦廻の 藤波に けだし来鳴かず 散らしてむかも 一頭云霍公鳥

右一首大伴宿祢家持和之

前件十首歌者廿四日宴作之

この日の宴はまもなく都に帰る田邊福麻呂殿のはなむけとして行われた宴である。福麻呂殿と私とでしめて十首の歌が詠まれたこと、左注にあるとおりである。けれども、先日述べた理由により現存の我が歌日記には八首しか残っていない。実は福麻呂殿が、この日のはなむけの宴を催してくれたことへの謝意を示す歌があって、その次に私がまさに帰らんとする福麻呂殿を引き留めるため布勢の水海への遊覧にお誘いする歌が冒頭に合ったはずなのだが、残念ながら散逸してしまった。

ただ私の布勢の水海への遊覧への誘いがあったからこそ、福麻呂殿の「いかにある」の歌が詠まれたことだけははっきりと記憶している。まんざら布勢の水海への遊覧に対して興味がないこともないなと見て取れたので私はすかさず「見とも飽くべき 浦にあらなくに」とたたみ込んだのだ。それにしても、「いかにある 布勢の浦ぞも」などといささか抗議めいた口ぶりでお歌いになった福麻呂殿ではあるが、その後お詠みになった五首を見ると、本当のところは布勢の水海に対しては興味津々でいらっしゃったようにしか思えない。この五首には、先年私が上京した際に、橘諸兄殿のお宅でお披露目した歌の中の私と大伴池主殿の間で交わされた布勢の水海についての歌、とりわけ、「敬しみて布勢の水海に遊覧する賦に和ふる」歌の影響と思われる語句が散見するからである。確かあのときはその場に福麻呂殿がいらっしゃらなかったように記憶するが、諸兄殿と福麻呂殿のこと、必ずや私の歌稿は福麻呂殿のお目にとまったに違いない。そしてその中でも大和では珍しい、海浜の風景を詠み込んだ布勢の水海への憧憬を温めていらっしゃったのではないか。でなければ、私がちょっと誘いかけただけでこうもすらすらとまだ見たこともない場所の歌を五首の歌を詠むことができるはずがない。

ところで、私の詠んだ二首についてであるが、「乎布の崎」の歌の結句を「君が問はすも」、「明日の日の」の歌は初句を「霍公鳥」とという形で、私は福呂殿の前では詠んだ。ただ、それを後から読み返したとき、そのままではどうにも据わりの悪さが感じられ、上のようにあらためたのだ。一つ目の「君が問はすも」はなにやら抗議めいた口調で、このままでは福麻呂殿は戯れに抗議めいた口調で「いかにある・・・」と詠んだのに対して、抗議し返しているように受け取られかねない。当の宴の場においては場の雰囲気もあることだし誤解を受けることはなかったが、こうやって書面に残すとすると後世の人には誤解されかねない。よって「浦にあらなくに」とあらためたのだ。そして、最後の歌。初句を「霍公鳥」と歌い起こしたが、これは直前の福麻呂殿の歌を受けてのものだった。けれども、ここでは「霍公鳥」の語を繰り返さずとも福麻呂殿の歌からの続き、そして私の歌の内容からそれと知れるのであって、ここに「霍公鳥」と入ってしまうとかえってしつっこくなってしまうのではないかと思ってあらためた。

いずれにしろ、この日の福麻呂殿は翌日布勢の水海への遊覧が楽しみでならないご様子だった。

天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒

天平廿年春三月廾三日左大臣橘家之使者造酒司令史田邊福麻呂饗于守大伴宿祢家持舘爰作新歌并便誦古詠各述心緒

奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む

波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間なき恋にぞ年は経にける

奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる

霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ

右四首田邊史福麻呂

二月、私が越中の国内の巡行に出かけて入る間に、かねがねお世話になっている左大臣橘諸兄様の家の使いとして、造酒司の令史の田辺福麻呂殿が越中においでになっていた。福麻呂殿は宮中で用いる酒や酢などの醸造を一手に引き受けている造酒司に勤めておいでで、その位階こそ大初位の上と低い身分にあるお方だが、宮廷においては様々な行事の場面で歌を奉る宮廷歌人として活躍しておられる方だ。加えて、我が敬愛する諸兄様の家司としての任にもついているお方で、私にとっては二重にも三重にも大切なお方だ。

本来ならば越中においでになったその日にでもこうやっておもてなししなければならなかったのだが、あいにく私が任地の巡行に出ていたためそれができなかった。そして私が国府に帰ったときには、今度は福麻呂殿が越中の国内にある諸兄殿の所領の見回りに出かけていたがため、つい先日までお会いすることができなかった。

福麻呂殿が、今回の任である諸兄殿の所領の見回りが終わり、いよいよ都に帰ると国府の方に挨拶にいらっしゃったので、これはいい機会とささやかながら国司の館で宴を催させて頂いた。福麻呂殿は名に負う歌人。次から次と口をついて出てくるお歌は、そのどれもこれもがすばらしい。それに、私が異常なまでに「霍公鳥」に執心なのをちゃんと心得ていらっしゃって、最後にはそれにまつわる古歌まで歌ってくださった。心憎いばかりである。
それにしても、我が歌友大伴池主殿が他所に赴任してしまった後、長らく歌について語り合う相手がいなくなってしまい、若干、寂しい思いをしていたが、今日は充分に語り合うことができた。諸兄殿のもとで私どもが集めていた歌巻についても、今後それをどうしてゆくべきか参考になるようなお考えを聞くことができた。

本当に意義のある宴であった。

ところで、この日の宴では私もいささかの歌をものし、福麻呂殿にお応えさせていただいたのだが・・・
実は、この日記のこれからのしばらくの間の部分(後の世で言われる万葉集巻十八)には数カ所かの欠損がある。私の死後、この歌巻が平城の帝によって見いだされるまでの間、管理が充分でなかったためのようだ。その後、平安の御代の方々が補修を加えてくださった形跡もあるのだが、欠損してしまった部分はどうしようもない。貴重な歌がいくつか失われてしまった。そしてこの日の宴での私の歌も・・・残念なことではあるがどうにも思い出せない。仕方がないので、今、皆様の目の前にあるのと同じ形で今日の日記を終えるしかない。

造酒歌一首

 造酒歌一首

中臣(ナカトミ)の 太祝詞(フトノリトゴト) 言ひ祓(ハラ)へ 贖(アカ)ふ命も 誰がために汝(ナレ)

右は大伴宿禰家持が作った歌である。

二月に行ったこの越中の国の巡行で面白いものを見た。酒造りである。もちろん大和においても酒を造ってはいるが、そんなことに興味を持つこともなく私は過ごしてきた。

たまたま今回の巡行の途次、あの「はしたての 熊来(クマキ)酒屋に まゐらぬる奴 わし さすひ立て 率て来なましを まゐらぬる奴 わし」という歌で知られる、酒造りで有名な熊来村を過ぎたとき、偶然にも酒造りの場面に立ち会うことができた。大和にいたころならば何の興味も示さなかったかもしれないが、それはそれ・・・旅先にあるといろんなことに興味がわいてくる。これ幸いに見学させてもらっていると、彼らは声をそろえて歌っていた。おそらくは同じ歌を歌うことで互いの息をそろえようとしているのであろう。船乗りたちが櫂をそろえるため声揃え歌っているのと一緒だろう。

ひどく田舎びた言葉で、私には何と言っているのか聞き取れず、書き取ることもできなかった。けれども、その独特な節回しだけ耳をついて離れずにいる。そこで、戯れにその節回しに私なりに言葉をのせてみた。いかがであろうか・・・

それに間もなく都から左大臣の橘諸兄殿の使者として田邊福麻呂(サキマロ)殿がいらっしゃる。福麻呂殿の都でのお仕事は造酒司(サケノツカサ)の令史(サカン)だ。都において神事に用いられる様々な酒造りにかかわっていらっしゃる。そんな方に田舎の(越中の)酒造りの様子をお話ししたならばきっと喜んでくださるかと思う。加えて福麻呂殿は都で知られた宮廷歌人だ。私の拙い歌もその折の笑い種ぐらいにはなるであろう。

怨鴬晩哢歌一首

怨鴬晩哢歌一首

鴬は 今は鳴かむと 片待てば 霞たなびき 月は経につつ

二月の初めから、ほぼ二旬にわたった越中国内の巡行も終わり、ようやく国守の館にたどり着いた。二月も、もはや幾日かを残すのみ。春の気配は今ぞ盛りぞ…といった具合か。ここまで春の気配が濃厚になってきたならば、鶯の一声があってもしかるべきなのになかなかその声を聴くことはできない。

思えば昨年初夏、私は郭公鳥を声を待ち焦がれ何首も歌を詠んだ。その時もなかなか鳴かない郭公鳥にしびれを切らせていたが、鶯もまたこの越中ではなかなか泣き始めない。同じ大和の国だというのに・・・・その気候の違いにはあらためて驚かされるものだ。