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後追和橘歌二首

後追和橘歌二首

常世物この橘のいや照りにわご大君は今も見るごと

大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして

右二首大伴宿祢家持作之

射水郡驛舘之屋柱題著歌一首

朝開き入江漕ぐなる楫の音のつばらつばらに我家し思ほゆ

右一首山上臣作 不審名 或云憶良大夫之男 但其正名未詳也

田邊福麻呂がこちらにいらっしゃってともに過ごしたこの数日間は本当に楽しいものであった。布勢の水海の遊覧、そしてそこで教えていただいた難波の宮での歌々・・・忘れがたい思い出となった。明日福麻呂殿は平城の都にお帰りになる。こんなにも楽しい日々を過ごしたのだから、これを都の人々・・・とりわけ橘諸兄殿にも是非ともお知りいただきたいと思う。ということで二十四日の宴から今日の縄麻呂殿のお宅における宴で交わされた数々の歌を簡素なものながらも歌巻にして、手土産代わりに福麻呂殿に持って帰っていただこうと考えている。

ついては、私が直接かかわることのできなかった難波の宮での歌に対して遅ればせながら「和」をなそうと思って詠んだのが、先の二首、「後に橘の歌に追和した二首」である。一見して分かるように諸兄殿のお宅での先の帝とお二人の女王様のお詠みになった三首に和したものである。これらの歌々は諸兄殿の御威光をほめたたえ、その長久をお祈りになった歌だけに、私もその意を汲んで詠んでみた。ただ、私としては諸兄殿の長久だけをお祈りするわけにはいかない。その場には先の帝もいらっしゃったわけだから、こちらの方にも意を注がねばならない。そこで、少々回りくどい詠みざまではあるが、先の帝の長久をお祈りすることを通して、諸兄殿の御威光を賛美するように詠んでみた。諸兄殿が一見してその意をくみ取れるように詠めたかどうか、少々不安でもあるが、ご聡明な諸兄殿のこと、きっと我が意をくみ取ってくださることだろうと思う。

最期の一首は私がこの春、この国を巡行した際に見つけた歌である。このような鄙の地において、かの山上憶良殿の後子孫の歌に接するとは思ってもみなかった。これまた諸兄殿におかれてはご興味の対象となることと思い最期にこの手土産としての歌巻に付け加えておいた。

難波堀江の船遊びの際の歌については、布勢の水海での歌がその「和」としてのはたらきもあろうかと思い直接「和」をなすことはしなかった。

太上皇御在於難波宮之時歌七首

太上皇御在於難波宮之時歌七首 清足姫天皇也

左大臣橘宿祢歌一首

堀江には玉敷かましを大君を御船(ミフネ)漕がむとかねて知りせば

御製歌一首

玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ或云 玉扱き敷きて

右二首件歌者御船泝江遊宴之日左大臣奏并御製

御製歌一首

橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を

 河内女王歌一首

橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも

粟田女王歌一首

月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ

右件歌者在於左大臣橘卿之宅肆宴御歌并奏歌也

堀江より水脈引きしつつ御船さすしづ男の伴は川の瀬申せ

夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ

右件歌者御船以綱手泝江遊宴之日作也 傳誦之人田邊史福麻呂是也

大上皇は清足姫天皇、すなわち元正天皇でいらっしゃった先の帝のである。左大臣橘宿祢はいうまでもなく私が信頼申し上げている橘諸兄様のことである。題詞にお名前の方を書いていないのは、もちろん私の諸兄様に対する敬意の現れである。これらの七首は福麻呂殿によれば天平十六年(744)に上皇が難波の宮においでになった際の歌々だそうだ。この時の難波行きの時には多くの官人たちが難波に行ったのだが、私はゆえあって平城の自宅に籠もっており、ご一緒することができなかったのだ。

この年の閏正月十一日に帝を始めとした百官がうち揃って難波の宮への行幸があった。よく二月の二十四日には帝は紫香楽の宮へと移ったのであるが、どういう事情か知らないが、先の帝と諸兄様だけが難波の宮に十一月まで残っていらっしゃったのだ。これらの歌はその頃のものなのだそうだ。諸兄殿のお近くに仕えていた福麻呂殿はそのおそばにて、これら尊い方々の宴に侍り、その雅やかな空気に触れることができたことをとても幸せそうに語っておられた。なんともうらやましい限りである。

初めの二首は夏に催された船遊びのおりのもの。お二人の親しいご関係がそのやりとりの中から自然に伝わってくるような御歌である。

続く三首は諸兄様のお屋敷にて催された宴にての御歌。いずれの歌も橘の木を歌いつつ、場の主人の諸兄様をほめたたえる歌となっている。先の帝の「八つ代にも 我れは忘れじ この橘を」というくだりは諸兄様に対しての無限の信頼感が読んでとれる。またほかのお二方の御歌にも先の帝と諸兄様の御威光を手放しで賞賛される内容で、諸兄様もさぞかしご満足であったに違いない。

ところでこの三首、どのようなおりの作がどうか、福麻呂殿にお聞きするのを忘れていた。そこがどうにも残念でならない。おそらく宴のとじ目の歌として役割を果たしたと思われる粟田女王様の御歌に「あから橘」とある。これを「明ら橘」と考え、橘の花の輝きを詠んだ歌と考えることが可能だ。そうするとこれらの歌は夏に詠まれたことになり、船遊びが終わった後、そのまま諸兄様のお屋敷で宴が行われたと考えることができる。

ただ・・・上皇の御歌に「とをの橘」とあるのは豊かに実をならせた橘の姿が歌ったもの。だとすれば、これらの三首は冬に詠まれたことになる。粟田女王様の御歌の「あから橘」も豊かに実った橘の実の輝きを歌ったもの解しなければならないだろう。私にはどちらとも決めかねる・・・どう考えればいいのか・・・福麻呂殿が御出立になられた後となればもうお聞きできない。返す返すも残念だ。

さて最後の二首。これは言うまでもなく福麻呂殿が初めの二首に和したものだ。本来ならば、その二首のすぐ後に配列するべきなのだろうが、福麻呂殿が上皇を始めとした尊いお方の中に自らの歌を並べるのは分不相応だとしてご遠慮なされて後から「私もこの時、こんなのを詠んだのですが・・・」と遠慮がちに教えてくださったのだ。

ところで以前私は次のように書いた。

さて、最後の左注に「前の件の十五首の歌は二十五日に詠まれたものだ。」と私は書いた。しかしながら、今ここにある歌は六首、先日ご披露した同じ二十五日の日付のある「五日布勢水海に往く道の途中、馬の上にて口号(クチズサ)んだ二首」を合わせても二十五日に詠まれた歌は八首しかない。これもまた例の破損によるものである。しかし、ここの部分におさめられていた歌は私は今もはっきりと覚えている。

それは・・・後日・・・その時が来たら・・・

実は今がその時なのである。左注には十五首とあるところに歌が八首しかない。つまり七首不足しているのである。その七首が・・・実はこれらの歌なのだ。福麻呂殿は布施の水海で私が歌の中で「御船」という言葉を使ったところ、ふと難波での舟遊びのことを思い出されて・・・そういえばといってこれらの歌を教えてくださったのだ。福麻呂殿が歌い終わるとかねてから申し付けておいた船がやってきた。布施の水海の遊覧の始まりだった。だからこれら七首の歌は、はじめ私が布施の水海のほとりにて船を待っていた時の二首と、船に乗っての遊覧が始まってからの六首の間に確かに存在していた。左注に十五首とあるのはその意味では間違いがなかったのである。

その翌日、三月二十六日、久米廣縄殿のお館にての餞の宴にて話題は都のことと相成った。その際に皆にせがまれて福麻呂殿は再びこれらの歌をご披露なされた。そしてその時は二首目の先の帝の御製の四句目、先日の遊覧のおりには「玉扱(コ)きしきて」とお誦みなさったところを、この日は「玉敷き満てて」と誦み換えなさった。聞けば先の帝は、この句について二案をお持ちになっておられ、この二つの句の案をどうするべきか、最後まで迷ってあおられたそうである。そんなことまで福麻呂殿は教えてくださった。

そして、いったんは上に述べた位置にこれらの七首を配置した私であるが・・・福麻呂殿歓迎のためにその時詠まれた歌の中に、急に以前の難波の宮にての歌が入ると何かしら不自然な気がしてならなくなった。それに、先の帝や諸兄様の御歌を我々のようなものの宴の歌の中に挟み込むなど、あまりにももったいないこと・・・ここはその歌を耳にした順番を変えてでも、福麻呂殿歓迎の歌を一まとめにし、難波での歌はそこから切り出したほうが方が良かろうと思うようになった。結果、今ある形になったのである。そのとき・・・恥ずかしながら左注の方まで気が回らなかった。だから、今もなお上記の左注にはこれら七首を含めた、十五首と書いてあるのだ。

高市連黒人歌一首

高市連黒人歌一首 年月不審

婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ

右傳誦此歌三國真人五百國是也

今日の宴で私は「放逸(ニゲ)た鷹を思って夢を見、感悦(ヨロコ)んで作った歌」を披露させていただいたが、もちろん、他の方々の歌もこの場では披露された。その中で、特に気に入ったのが三國真人五百國殿があの高市黒人殿の歌として吟じ上げられたこの歌だ。

「婦負」というこの越中の地名が詠み込まれているが、黒人殿が越中の地まで足をのばしていらっしゃったとは聞いたことがない。それにいつのおりの作であるか、三國殿も後存じないらしく、黒人殿作という所伝に何かしら不確かさを感じるが・・・この歌の持つそこはかとない哀感、不安・・・・これはまさに黒人殿の他の作に見られる強烈な個性そのもの。やはり、黒人殿の作と考えておいていいだろう。

「婦負」は私は「賣比」と書いておいたが、平成の御代の仮名で言うと「メヒ」となる。ところが、のちに「ネヒ」に転じたらしい。平安の御代の辞書「和名抄」に「婦負 禰比」とあることから、それまでにはこの音韻の転換があったのだろう。平成の御代においては富山市と言っている町の西に広がる平野がそれである。

実に哀切に富んだ・・・胸にしみ入るようないい歌だ。作者については若干怪しさはあるが上にも述べたとおり、黒人殿の作の見て間違いあるまい。さすが、黒人殿と言いたくなるような歌だ。歌友池主殿を失い、かわいがっていた蒼鷹の大黒にも逃げられ、孤独の中にあった私の心には・・・・こんな歌がいい。

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首

玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 恋しけむかも 一に云ふ 見ぬ日久しみ恋しけむかも

右一首大伴宿祢家持作之

我が背子が 国へましなば 霍公鳥 鳴かむ五月は 寂しけむかも

右一首介内蔵忌寸縄麻呂作之

我れなしと なわび我が背子 霍公鳥 鳴かむ五月は 玉を貫かさね

右一首守大伴宿祢家持和

石川朝臣水通橘歌一首

我が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ我が貫く 待たば苦しみ

右一首傳誦主人大伴宿祢池主云尓

先日(二十日)の大目の秦殿のお宅での送別の宴に続いて、今日は我が歌友の池主殿がそのお宅で送別の宴を催して下さった。こうも度々このような場を設けていただいて非常に心苦しくは思うのだが、せっかくのお心遣いをお断りするのもなにやら申し訳なくも思うのでお言葉に甘えさせていただいた。

宴にあっては、まず私が旅立つものの立場から別れのつらさを歌った。当初、「見ぬ日久しみ」との歌稿を用意しておいたのだが、どうにもありきたりのような気がして「見ぬ日さまねみ」を改めた上で、皆の前には披露した。こっちのほうが私の心情をより的確に表現できているように思う。

続いてその歌に縄麻呂殿がお応え下さった。この場においては私に次ぐ地位であり、私の不在の間、私の職務を代行して下さる縄麻呂殿がここでまず私の歌にお応え下さるのは、お決まりのこととはいえようが、縄麻呂殿は単に私の歌の言葉をそのまま承けるだけではなく、今の季節の風物である「霍公鳥」を詠み込んだ上で、これから離れて暮らすつらさを素直に歌にしてくれた。

そこで私はその「霍公鳥」なる言葉を承けて上記のように「和」した。普通、このようにその宴の目的(今日の場合は私を送別すること)がはっきりしている場合、「和」と記さないのが通例だ。その宴に目的に沿って歌詠をなす場合、必然的にその歌は「和」の歌であるはずであり、わざわざ「和」と記す必要がないからだ。だから、ここで私があえて「和」と記したのはそれなりの意味を持たせてのことである。つまり冒頭の私の歌と、続く縄麻呂殿の二首にてこの宴の目的は果たされた。いつまでも別れを悲しんでめそめそしてはいられない。後は自由に季節の風物を歌を詠み、せっかくのこの宴を楽しきものにしようとの配慮から、私はこの三首目を詠んだのだ。そういった私の意図を、よりはっきり示そうとここにあえて「和」という文字を入れてみた。

すると、さすが池主殿である。そのような私の意図を充分にくみ取って石川朝臣水通殿のの橘の歌を伝誦することで、その任を充分に果たして下さった。結句「待たば苦しみ」はもちろん橘の結実の時を待つことが苦しいという意味で歌われているのであるが、そこに私の帰着を「待たば苦しみ」との思いを漂わせているのだろうと思う。さすがである。

ただ、後の人がこの日記を読んだ時、一つ不審に思いかもしれない点がある。それはあの池主殿がここにおいて古歌の伝誦のみでこの宴を結んでいるという点についてである。歌を得意としていない他の方ならばいざ知らず、あの池主殿が自分がその主催した宴において自作の歌を披露しないというのは、誰が見ても不自然であろう。また池主殿と私の関係については、後の人々の間でも知られているように、並々ならぬものがあった。その私の餞の場においてのことであれば、その感はなお強いものがあるだろうと思う。加えて、今お手元に私の歌巻(万葉集)をお持ちの方であるならば、さらにご不審に思う点があろう。それは池主殿の「敬和歌」についてである。私の歌巻を見るならば、その「敬和歌」はこの送別の宴の歌の前に配列されている。けれども私はその「敬和歌」をとばして、今日の宴の歌についてを今書いている。これはどうしたことだろうか?そんなふうにお思っていらっしゃるかたも多いであろう。

この二つの不審なる事実はすべて池主殿の「敬和歌」の披露のあり方に由来する。次回、その「敬和歌」について語る予定であるが、その中でこの点について詳らかにしてゆきたいと思う。

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

八月七日夜集于守大伴宿祢家持舘宴歌

秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも

右一首守大伴宿祢家持作

をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ

秋の夜は暁寒し白栲の妹が衣手着むよしもがも

霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに

右三首掾大伴宿祢池主作

今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも

天離る鄙に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに

右二首守大伴宿祢家持作

天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや

右一首掾大伴宿祢池主

家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも

右一首守大伴宿祢家持作

ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし

右一首大目秦忌寸八千嶋

古歌一首 大原高安真人作  年月不審 但随聞時記載茲焉

妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む

右一首傳誦僧玄勝是也

雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の上に

馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に

右二首守大伴宿祢家持

ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ

右一首史生土師宿祢道良

今日八月七日は大和を出立してからちょうど一ヶ月目にあたる。越中についてからも二十日余りが経った。国司の官舎への引越しの作業や、事務処理の引継ぎなど、まずこなさなければならないことは一通り済み、やっと一息をつけるようになった。そこで越中の主だった面々を集め、挨拶を兼ねての宴を催した。顔ぶれは掾(三等官)の大伴池主殿・大目(四等官)の秦八千島殿・僧の玄勝殿、そして史生(書記官)の土師道良殿だ。道良殿にはこの度の宴を催すにあたって、幹事の任だけではなく、上の歌々の記録をも掌っていただいた。まことに感謝頻りである。ここに越中の国の介(次官)の名がないのは不審に思われるかもしれないが、この職は現在のところ席が空いている。

宴に当たっては池主殿が宴に彩りを添えようと大量の女郎花を持ってきてくださった。楚々たるその風情は実に興をそそるものだ。感謝の意と、宴への歓迎の意味を込めて、まず先に私が

秋の田の 穂向き見がてり 我が背子が ふさ手折り来る 女郎花かも

と詠んだ。「我が背子」と恋歌仕立てにしたのは、親愛の意を込めてのことである。女郎花を持ってきてくれた池主殿は我が同族、そして以前(天平十年十月)に橘諸兄殿の旧宅で、そのご子息、奈良麻呂殿が宴を催されたとき(巻八)、ともにその進行役を務めた間柄でもある。そんな彼と越中の地でこうやって再会するとは実に奇遇としか思いようがない。彼のような風雅を愛する人と、こうやって風光明媚な異郷の地にしばらくの間、時間を共にするのか思うと、かつて父、旅人が筑紫の地で過ごしたような風流な日々を思わず夢想してしまう。そんな期待が私にこの歌を詠ませた。「秋の田の 穂向き見がてり」と歌ったのは、彼の官人としての職務への熱心さを褒め称えようとの意図があってのことだ。

その私の意図を汲んでか、池主殿も恋歌仕立てで返歌をなされた。私の歌をそのまま承けて、女郎花を歌い、「徘徊り来ぬ」と結んだこの歌は、そのような思いまでしてわざわざここへやって来たことを言っているのだが、これは男が女のもとに訪れたとき、その思いの強さを訴えるための常套句であり、この句を通じて彼は私の越中赴任を歓迎してくれたのだろう。

そして続く二首、

秋の夜は 暁寒し 白布の 妹が衣手 着むよしもがも

霍公鳥 鳴きて過ぎにし 岡辺から 秋風吹きぬ よしもあらなくに

ひょっとしたらこの二首は私を歓迎するためにあらかじめ準備していてくれた歌かもしれない。旅先で迎える秋の夜風を寂しく感じるのは、妻を大和において単身越中に赴任している官人たちにとっては共通の感情だ。今、新たに妻と別れ、この地にやって来た私の寂しさを思いやってこのように詠んでくれたに違いない。その優しさが身に沁みた私はその二首を承け、

今朝の朝明(アサケ) 秋風寒し 遠つ人 雁が来鳴かむ 時近みかも

天ざかる 夷(ヒナ)に月経ぬ しかれども 結ひてし紐を 解きも開けなくに

と応じた。すると池主殿は家で待つ家人の立場に思いを寄せ

天ざかる 夷にある我を うたがたも 紐解き放けず 思ほすらめや

と返してきたので、私はやはりその意を承け、

家にして 結ひてし紐を 解き放けず 思ふ心を 誰れか知らむも

と和した。「思ふ心を 誰れか知らむも」と歌ったのは、こんなにも恋しく家人を思っている我が思いは池主殿ならば、あるいはこの場に居合わせた面々ならばきっと理解して下さることを前提にした句である。

さて、折角の楽しき宴、家のことを思いしょんぼりしているだけではつまらない。それに、機会を得てこの越中の地にやって来たのだ。そのこと自体も楽しまなければ損だ。そんな風に歌い、宴の雰囲気を変えてくれたのが秦殿のこの歌だ。

晩蝉(ヒグラシ)の 鳴きぬる時は 女郎花 咲きたる野辺を 行きつつ見べし

季節はまさに秋、その風情を楽しむに絶好の季節である。家にこもってあれこれと物思いに耽るよりは、この季節を充分に楽しもうと私に誘いかけてくれた。秦殿は、ちょいとくだけた人でもあったので「女郎花」の語には越中の女との意もこめられていただろう。故郷の妻は妻で大切に思っておくとして、今いるのは越中。この越中の女もなかなかですよ、と私によからぬ誘いをかけて下さった。すると僧の玄勝殿が、僧の身にありながら

妹が家に 伊久里(イクリ)の杜(モリ)の 藤の花 今来む春も 常かくし見む

という大原高安殿の古歌を教えてくださった。「伊久里」とはここ越中にある地名。新任の国司である私に任地の地名を教えてくださったのだ。もちろん、「藤の花」にも地元の女の意がこめられてあり、彼もまた私に良からぬお誘いをかけて下さっているのだ。そのお誘いに乗るかどうかはまた別の問題だが、このお二人なりの歓迎の意の示しようは妙に私には好ましく感じられた。地元の女、云々のあたりはともかくとして、折角ここまで来たのだから珍しい風景を見てみたい気持ちは強い。そこで「花=女」あたりのところには目をつぶって

雁がねは 使ひに来むと 騒くらむ 秋風寒み その川の辺に

馬並(ナ)めて いざ打ち行かな 澁谿(シブタニ)の 清き磯廻(イソミ)に 寄する波見に

とだけ応えておいた。そして、いつしか夜も更けた。そろそろ・・・と誰もが思いかけたとき、この宴の幹事役をかって出てくれた土師殿が

ぬば玉の 夜は更けぬらし 玉くしげ 二上(フタガミ)山に 月かたぶきぬ

と詠み、和やかなうちにも宴は閉じられた。

・・・と思ったのだが、かように盛り上がった宴、このまま閉じられるのは余りに惜しい。それに私の最後の歌に「馬並めて・・・」とも歌ったように一度早い機会に「澁谿の 清き磯廻」も見てみたい。そこで、一同に明日は如何に・・・と声をかけてみたら、どうやらお付き合いいただけるようだ。なんでも、秦殿のお屋敷の客間からは居ながらにして海を間近に見ることが出来るという。

・・・さて・・・楽しみなことだ・・・

 

山部宿祢明人詠春鴬歌一首

山部宿祢明人詠春鴬歌一首

あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声

右年月所處未得詳審 但随聞之時記載於茲

私の師と仰ぐ山部赤人殿の作品だ。思いもかけず、こうやって伝え聞いて、埋もれていた彼の歌を掘り起こすことができて幸運この上ない。題詞に「明人」とあるのは、本当ならば「赤人」と訂正するべきではあったが、元になった資料を尊重してそのままにしておいた。私の父「旅人」も資料によっては「淡人」となっていたり、あの藤原不比等様も「史」と書かれることがあったりで、私どもの時代においては余り気にすることではない。それにしても、この歌は本来、こんな場所に記録しておくべきものではなかった。きちんと時代順に整理された巻の十六までのどこか・・・そうだな、巻の三か六か八のどこかに入れるべきではあったが、なにせ伝え聞いたのがつい最近のことだ。私の歌巻(万葉集)はほとんどその整理が終わっていて、ちょっと手を加えて何処かに挿入というわけにはいかなかった・・・ということで、少々不体裁ながらここに並べおいた。数種、鳥についての歌が並んでいたので、「まあ並べておくのならここか。」ぐらいの感覚だ。歌の中の「野づかさ」とは私も余りききなれないことばだが、どうやら「野の小高くなっている部分」のことをいうらしい。