讃三香原新都歌一首并短歌
山背の久迩の都は春されば花咲きををり秋されば黄葉にほひ帯ばせる泉の川の上つ瀬に打橋渡し淀瀬には浮橋渡しあり通ひ仕へまつらむ万代までに
反歌
たたなめて泉の川の水脈絶えず仕へまつらむ大宮ところ
右天平十三年二月右馬頭境部宿祢老麻呂作也
作者の境部宿禰老麻呂という人についてはよく知らない。この境部という家が百済から渡って来た人々だということは知っているのだが・・・
ところで、歌人としても知られていない、この右馬頭という職の人がこのような新しい都の讃歌を詠むというのは余り聞いたことがない。長い行幸の後、直接に遷都が行われるという、ある意味では非常事態であったゆえ、急遽、詠歌を求められたのであろうか・・・その詠みぶりには何かしら不慣れなところもないではない。けれども、まず山の景を春秋にわたってほめ、さらには川をその上流と下流を比較しつつほめたたえるこの歌の詠みぶりは、柿本人麻呂殿の吉野讃歌でも見られるような、国ボメの歌の約束事を十分にまもり、新京の讃歌としての機能は十分に果たしているといえよう。
私もこの行幸には供奉していたし、遷都の際もそれに付き従っていたのだが、まだ若く、歌人としても知られてはいなかった頃なので、このような歌を詠む立場にはなかった。ただ、個人的にはこの遷都は大きな出来事であったので、それなりに感慨は深い。この長歌の詠まれた2年後の天平十五年八月に次のような歌を詠んでおいた。
今造る 久迩の都は 山河の さやけき見れば うべ知らすらし(巻六)
天平十二年十月末に平城京を出発し、私を含めた帝の御一行は、伊勢・美濃(不破)・近江を経由し、その年の十二月には、山城国の久迩の地にたどり着いた。大和の平城の都とは山ひとつ隔たった場所である。そして、その場所で、帝はこの地を都とすることを宣言された。一緒にいた我々のすべてが驚くお言葉であった。どなたかの御進言があったのか、それとも帝御自身の御判断だったのか今となっては知るすべはないが、平城京には戻りたくない・・・さりとて、そこから余り離れた場所を選ぶには何か気のひける・・・そんなお思いがあったのであろう。
とはいえ、宮城がそんなに簡単に整うわけもない。翌天平十三年の正月、朝賀の儀は周囲に帳をめぐらせての簡素な儀式であった。儀式を行うべき大極殿が平城京から移築されたのはその三年後のことであったかと記憶している私はこの新しき都に四年間暮らすことになってしまったのだが、亡き妾(ツマ)との間の子、そして弟、書持をはじめとした家族、そしてようやく心通い始めた恋人、坂上大嬢とも離れての寂しい日々ではあったが、これも官人としての務め、それなりに仕事はやり果せたとは自負している。それに、後に可愛がっていただくようになる右大臣橘諸兄様が率先してお進めになられた、この新京作りの仕事は充実感を味わえる仕事ではあった。
けれども、この新京は都としては完成しないまま天平十五年(743)の末にはこの京の造営は中止されてしまった。理由は・・・私には分からないが、この新しい都が多くの人々に快く思われていなかったのは事実だ。翌年には難波に遷都が挙行され、さらにその翌年の天平十七年(745)に紫香楽(シガラキ)宮を経て、都は再び平城京へと戻ることになった。この一連の遷都の流れを見るに、背後には多くの官人達の声があったにしろ直接的には、橘諸兄様とその頃急速に力をつけ始めてきた藤原仲麻呂殿との間のしのぎあいがあったようにも思えてならない。既に述べたように、諸兄様はこの久迩の新京への遷都のの推進者であった。また、仲麻呂殿は藤原の人間。平城京はその祖父、不比等殿が尽力されて出来上がった都、難波京はそのおじ様の宇合殿が神亀三年(726)から工事を始め、再建を成し遂げた場所である。それらの都をないがしろにする久迩への遷都は心中穏やかならざるものがきっとあったに違いない。最終的には多くの官人達の声を後ろ盾につけた仲麻呂殿の考えに帝も従わざるを得なかったのではなかろうか。
平城京に戻る・・・それは私にとって、ある意味では望んでいたことではあった。家族とともに暮らせる。坂上大嬢とも頻繁にあうことができる。一個人の大伴家持としてはなんの文句もない決定だった。けれども、公の立場でこの平城遷都を考えたとき、何かしら後ろ髪を引かれるような思いがあることは否定できない。出来ることならば、久迩の新京を見事完成させ、そこに家族、恋人を呼び、ともに暮らしたかった・・・という思いが今も心のどこかに引っ掛っている。