敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち 馬打ち群れて 携(タヅサ)はり 出で立ち見れば 射水川 港の渚(ス)鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫(ツマ)呼び交す 羨(トモ)しきに 見つつ過ぎ行き 渋谿(シブ゙タニ)の 荒礒(アリソ)の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒(ヨ)りに 蘰(カヅラ)に作り 妹がため 手に巻き持ちて うらぐはし 布勢の水海に 海人(アマ)船に ま楫(カジ)掻(カ)い貫き 白栲(シロタヘ)の 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布(ヲフ)の崎 花散りまがひ 渚には 葦鴨騒き さざれ波 立ちても居ても 漕ぎ廻り 見れども飽かず 秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや
白波の 寄せ来る玉藻 世の間も 継ぎて見に来む 清き浜びを
右掾大伴宿祢池主作 四月廿六日追和
今日、私を送別する宴の主賓として私は先ず、その惜別の情を歌った。それを承けた縄麻呂殿は私の好きな「霍公鳥」を素材にこれから訪れるであろう寂しさを歌った。そしてそれに私が応える。一応の区切りとして私が縄麻呂殿の歌を承けた歌に「和」という言葉を附した。そして、その一連の歌に対して池主殿が石川殿の古歌を伝誦した後、おもむろに私は皆に「遊覧布勢の水海の賦」を披露した。前の秦殿のお宅でに宴においての約束であったので、この場の面々もそれを期待していた。これがこの宴の二つ目の目的でもあった。ある意味ではこちらの方が一同の待ち望んでいたことでもあったし、私も早くその批評を受けてみたいとの思いもあった。池主殿はその意をくんで、早々に主人としての自らの役目を終わらせるため、ここは古歌の伝誦のみで済ませたものと思う。ほかならぬ池主殿である。本来ならば、今日の宴の主催者として自作の披露があってもしかるべきところであるが、ことの主眼は私と池主殿との都への手土産となる長歌の披露にある。適切なご判断だったと思う。
そして、この敬和遊覧布勢水海賦の披露だ。いつもながら、「和」の歌として、心憎いばかりの配慮のなされようである。
私が「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」と詠んだ部分を重複を避け、簡単に「思ふどち」の一語で承けて「馬並めて」と簡単に済ませたところを、今度は「馬打ち群れて 携はり 出で立ち見れば」と詳細に表現し、私の長歌の欠けている部分を適切に補ってくれている。なんとも細やかな心配りである。この細やかな心配りは、この長歌の最後まで貫かれている。
続いて「射水川 港の渚鳥 朝なぎに 潟にあさりし 潮満てば 夫呼び交す 羨しきに 見つつ過ぎ行き」だ。ここは私の長歌には詠まれてはいない。国府から布施の水海に行こうとすれば、私が詠んだ渋谿にたどり着く前にまず通らねばならないのがこの「射水川」だ。私の歌は明らかに言葉足らずであった。それを目立たぬように池主殿は補ってくださった。おまけに私の歌はどちらかといえば、目にした景物を羅列的に並べたような歌い方であったが、池主殿はここで「港の渚鳥」が「夫呼び交す」姿を歌っている。旅先にあってこのような鳥たちの仲むつまじき姿は我々地方に派遣されているものにとって、都に残してきた家族を思い起こさせるものであって、そこに一抹の旅愁を感じさせる素材である。ここは、単に鳥たちのそのような姿を描写したに過ぎないが、池主殿はそれだけのことで、そこにかような旅愁を漂わすことに成功している。
次に「渋谿の 荒礒の崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻 片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」である。私はこの「渋谿」において荒磯に寄せる白波を歌っただけに過ぎないが、池主殿は違うところに目をつけた。その波によって岸辺に打ち寄せる「玉藻」がそれだ。そしてその「玉藻」を「片縒りに 蘰に作り 妹がため 手に巻き持ちて」と歌うことによって、家人を想起させようとしている。私の即物的な対象のとらえ方に対して、非常に情緒的な捉え方といえよう。私が「景」を歌っていたので、「情」を歌うことによりその重複を避けようとの意図かと思う。ここでも池主殿は私の長歌に欠けているものを補ってくれた。欠けているものは補い、重複するものは省略する・・・それが池主殿の狙いにはあったようだ。
その意図が端的に示されているのは次の部分だ。私の歌った松田江と宇奈比川はばっさりと切られてしまっている。私自身も少々冗漫になりすぎたと思っている部分だ。松田江は長く続く浜辺をおいて他に特筆するべき点はない。したがって私の長歌でも二句を費やしたのみだ。宇奈比川にいたっては行ってもいない場所を、人づてに聞いたことをそのまま歌にしただけであったので、この部分を切り捨てた池主殿のご判断は的確といえよう。
そしてその分、言葉を費やしていらっしゃったのは、「布勢の水海」であった。ここでこれまで一つの場所について八句ずつと整然たる句の配置をなされていた池主殿は、これまでの倍の十六句を費やしている。考えてみればこの場所が今回の遊覧での主たる目的地であるから、この場所に焦点を当てて詠むのが当然のことである。私自身、その長歌で軽く扱ってしまったことは、少し反省せねばならぬ。あちらも、こちらも紹介しようと思い、ついつい「布勢の水海」については簡略に過ぎてしまったようだ。けれども、池主殿はその欠陥を十分すぎるほどに補ってくださった。
まずは「うらぐはし」の一句だ。池主殿は、ここまでそれぞれの地名はその土地について歌っているその冒頭に配してきた。しかるにここだけが二句目にある。そしてその「布勢の水海」という言葉を二句めにと押しやったのがこの「うらぐはし」というほめ言葉である。これはこの場所がほかの場所とは異なって、最も重要な場所であることを聞いているものに意識させようとの意図によるものであろうことは間違いないだろう。そしてさらに私がどちらかといえば抽象的に読んだこの場所を、「乎布の崎」という地名を入れたり、季節にはあわない「あぢ群」を「葦鴨」と言い換えて具体性を待たせてくれた。これによって、この長歌にふれた人はより現実のものとして「布勢の水海」を思い描くことができるであろう。
最後に「秋さらば 黄葉(モミチバ)の時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」である。「秋」とは私が都から帰って来るであろう季節だ。そうして私が帰ってきたならば、また共にこの「布勢の水海」に遊ぼうというのだ。そしてその楽しみは「春さらば」と春になっても繰り返される。さらにいえば、これは一度限りの秋と春に繰り返されるのではなく、永久に繰り返されてほしいとの願いを込めて、「かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見も明らめめ 絶ゆる日あらめや」と歌い納めている。そしてこのことは、そういった営為の実現を確信するこの一節は私の旅の無事を予祝するありがたい言葉でもあった。これは二上山賦に「 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと」と詠んだ私の長歌の末部に見事呼応しており、、私の送別の言葉としてはこれに勝るものはない。この日の歌を閉じるには最良のものであるといえよう。感謝、感謝である。
さて、以上のように私の「遊覧布勢の水海の賦」の語句をあるときは補い、またあるときは省略し、それでいてかなり正確に私の意図を読み取って、この「敬和歌」は詠まれた。そのように考えたとき、この二つの長歌の句数の隔たりに、「和」の歌の常として、いささか抵抗を感じるような方が出てくるかも知れない。確かに、私の詠んだ長歌の三十七句に対して池主殿のそれは五十七句。二十句も多い。以前、私の病が回復しかけの頃、六十一句の長歌(三月三日)を送ったとき、その返歌は四十二句であった。池主殿は決して自らをひけらかそうとはしない。常に相手への配慮を怠らず、控えめ方だ。そして、そのように控え目であることが池主殿の「和」の姿勢であった。と、するならば、この二十句はそのような彼にしてはいささか出過ぎたような感があるように思われる方も出てくるようになるのではないかと言う意味においてである。
私はこの点について、この冒頭の二十句について次のように考えた。
藤波は 咲きて散りにき 卯の花は 今ぞ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと
ここはその二十句のうち、私の長歌の冒頭の「もののふの 八十伴の男の 思ふどち」を受けた「思ふどち」より前の部分である。この部分は明らかに私の長歌に欠落している部分である。私の長歌はこのように具体的な季節は歌うことをしなかった。年間を通じた、一般論としての「布勢の水海」を詠んだ。それに対して、池主殿は具体的な季節をここに挿入した。そしてそこに描かれたような好季に誘われ遊覧に出で立ったように歌うための導入としてその役割を充分に果たしている。句数にして十二句。ここをさし引くならば、私の長歌の句数を上回るのは八句のみとなり、そう目立った差はなくなる。(ここから先は、私の推測だ。本当は池主殿に直接聞けば良かったのだが、そのぐらいのことが聞かねば分からないのかと思われるのも癪だったので聞かないでいた。)
この十二句に歌われている素材は藤波・卯の花・霍公鳥の三つ。当然の事ながら初夏の風物である。藤は今、季節を過ぎ眼前にはない。今、目の前に咲き誇っているのは卯の花。そして聞こえてくるのが霍公鳥の声。私にはこの部分がはじめから池主殿の原稿に書いてあったとは思えない。あれほど私の歌に忠実に「和」する池主殿だ。私の作を出し抜くような形では歌うようなことはしない。ひょっとすると、ここに抜き出した十二句を除いた部分のみが原稿として用意されていたのではないか・・・
そして、その原稿を懐中にして池主殿はその作の披露の時を待った。私的な宴とはいえ、国府の面々がうち揃うような宴だ。一定の形式は守らなければならない。その形式を守るべく、主賓たる私、そしてその次の地位にある介の内蔵忌寸縄麻呂が惜別をテーマとして歌をやり取りし、それを承けて、池主殿は古歌を伝誦し、宴は佳境へ入った。私の「遊覧布勢の水海賦」の披露の時が来た・・・・が、ここまでの間、池主殿はここまでの歌の流れを見過ごしてはいなかった。霍公鳥(縄麻呂殿)→霍公鳥・玉(私)→玉・橘(池主殿)というのが、ここまでの宴で詠まれた歌の素材の流れである。そして、池主殿の「敬和歌」へと続く。藤は「藤波の、咲き行く見れば、霍公鳥(ほととぎす)、鳴くべき時に、近づきにけり」とあるように霍公鳥とともに詠まれることの多い花、卯の花は「時ならず 玉をぞ貫ける 卯の花の 五月を待たば 久しくあるべみ」 (巻十)ともあるように玉として貫く事のある植物でもある。ここに見られる素材の重なりを考えた時、池主殿の「敬和歌」の冒頭部は、この日の宴で歌われた初夏の景物を意識して作られたと考えてもいいように思う。
私の長歌の披露が終わり、彼の「敬和歌」の披露の場となった。それまでの歌の流れを承けて、池主殿は予め準備していた歌稿に、以上の部分を付け加えこの「敬和歌」を池主殿は詠み上げたのではないか。この際、その歌稿にいささか手を加えたのかも知れない。そんな作業があったので、私の縄麻呂殿への「和」を承けた場面においては自作を披露するのではなく、古歌の伝誦に終わったように私には思える。そして、披露されたこの長歌・・・「敬和遊覧布勢水海賦」は、単に私の長歌に応えたものにとどまらず、今日の日の宴の楽しいやり取りをも反映されたものとなった。そしてその結びは、先に述べたように、このような楽しき日々がいつまでも続くことを予祝する確信に満ちた言葉で終わっている。この越中の面々といつまでも楽しく過ごしたいと思う私を都に送る宴の閉じめの歌としてまたとないものにだったのだ。
最後に、蛇足ながら・・・この長歌の題詞に池主殿は「一絶」という言葉を使われた。これは反歌として詠まれた短歌をさしていうものであることは説明がいらない。ただ、それをなぜ「一首」ではなく「一絶」としたのか。「絶」とは「絶句」。短い唐土の詩形をさす。私が長歌をあえて「賦」と漢風に表現したのに応じての工夫であろう。