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三友亭主人 について

大和在住の中年男・・・いや、初老かな? 文学・音楽・酒をこよなく愛しています。

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首

赴参氣太神宮行海邊之時作歌一首

志雄路(シヲヂ)から 直(タダ)越え来れば 羽咋(ハグヒ)の海 朝なぎしたり 船楫もがも

さあ今日からは能登を巡行する。能登は後の時代に一つの国として独立するようになったが、今はまだ越中の国の一部、私の支配下にある。気多の神宮は大国主大神(大己貴オホナムチ)を祀る。この能登の一の宮である。これからこの半島を巡行するにあたっては先ず第一にご挨拶しなければならないお社だ。

国府の近く阿尾の浦辺りから能登の半島を横切り、志雄へと抜ける山道を志雄路と呼んでいるが、今日はその道を真っ直ぐに越えてきた。すると眼前に拓けてきたのは羽咋の海。朝凪に鏡のように水面は静まりかえっている。半島の外側は荒々しくいつも波立っていると聞いていたが、これならば舟で移動すればさぞや楽であろうに・・・・舟がないことが残念でならない。

新川郡渡延槻河時作歌一首

新川郡渡延槻河時作歌一首

立山の 雪し消(ク)らしも 延槻(ハヒツキ)の 川の渡り瀬 鐙(アブミ)漬かすも

婦負(メヒ)川からさらに東へと向かい延槻川までやってきた。立山連峰の一つ剣岳をその源とするこの川は、平成の御代には少々なまって早月(ハヤツキ)川と呼んでいると聞く。この越中の国でもことに流れの速い川であることで有名だ。

あまりに速いその流れの瀬を渡ろうとしたときに不本意にも鐙を濡らしてしまった。大和にはこんな流れの速い・・・そして清らかな流れを見たことはなかった。まだ風の冷たき季節で、もちろん水も冷たかったのだが、変に爽快な心躍る気持ちになってしまった。雪消にはまだ早い季節のようには思うが、この水の量、そして水の冷たさは・・・私には雪消の水に思えて仕方なかった。そして、この豊かな水流は、この地の豊かな実りを保証しているに違いない。

見潜鵜人作歌一首

見潜鵜人作歌一首

婦負川の 早き瀬ごとに 篝さし 八十伴の男は 鵜川立ちけり

鵜坂川に辿り着いたは夕刻であったが、宿を取るためにはもう少し進まねばならない。川沿いにしばらく下る。周囲は婦負の郡となる。したがって川の名も婦負川となる。日は暮れて周囲は次第に漆黒に包まれて行く。宿に早く・・・と、少々焦っていたのは事実だ。ところがその行く手遠くに篝火の灯りが・・・

近寄ってみると、何と鵜を使って漁をしているではないか。今はまだ二月。鵜を使っての漁にはまだ早い。川面にちらつく仄かな明かりを頼りに見れば、漁をしているのはどうやら海士達ではない。このあたりの官人達のようだ。国守の私が今日この地を訪れることは知っていたであろうから、きっと歓迎の意を込めて、このような興をそそるようなことを行ってくれたのであろう。

宿にたどり着いてからの宴には礼の一言も言わなければならない。この歌はその時に披露しようとも思う。

婦負郡渡鵜坂河邊時作一首

婦負郡渡鵜坂河邊時作一首

鵜坂川 渡る瀬多み この我が馬の 足掻きの水に 衣濡れにけり

鵜坂川は平成の御代でいうと、神通川が富山県の婦負郡婦中町あたりをさしていうらしい。このあたりは川幅が300m程もあり、川が幾筋にも別れている。馬に乗りながらではあったが、渡るには大分苦労した。なんといっても大和にはこのように大きな川はない。どのようにして渡るか、あれこれと土地のものに教わりながらなんとか川を渡りきったものの、乗っていた馬の歩みがもたらすところの飛沫に私の衣はすっかりと濡れてしまった。

こうやって旅先にあるがゆえ、この衣を乾かしてくれる妻もいない。なんともまあ辛いことではあるが、これも公の任務。怠ることはできぬ。それにしても、雪消の頃とはいえ、この越中の国はなんとまあ水の豊かな国であることか。明日また幾つの川を渡ることやら・・・

礪波郡雄神河邊作歌一首

礪波郡雄神河邊作歌一首

雄神川 紅にほふ 娘子らし 葦付(アシツキ)水松之類取ると 瀬に立たすらし

今日からいよいよ春の出挙(スイコ)の為の巡行だ。これは国司としての当然の任である。本来ならば昨年もこれに出かけねばならなかったのだが、自らの病、そして税帳使としての任が重なり、越中国内を巡行することはかなわなかった。よって今年初めて私は国司として越中の国内を巡る事になる。水挙とは公の稲などを農民に貸し与え、秋になったらその利息も含めて借りた稲を返還すると言う仕組みである。初めは貧農を救済するための対策として生まれた制度であったが、その利息が3~5割と高利であるため、農民にとっては重い税のような性質を持つものに最近なってきた。きちっとした運用をしなければ、農民達は疲弊するばかりである。私にまかされた任は重い・・・ある意味では身が引き締まる思いがする。

とはいえ、いつもは国府周辺をウロウロとすることぐらいしかできない私だが、こうして公務とあれば大手を振って越中のあちらこちらを見に行くことが出来る。ひそかに今日の出立を楽しみにしていた。

まず初日の宿りは砺波の郡は雄神川の畔だ。雄神川は平成の御代において庄川と呼ばれている川だ。国府を出立し辿り着く頃には日暮れが近づいていた。夕陽に照らされた雄神川は紅に輝いていた。キラキラと輝く水面には葦附き海苔を摘んでいる乙女達の姿が遠く見えていた。まぶしいきらめきの中、実際にはその黒い影しか見えなかったのであるが、私はその裳裾を濡らし葦附き海苔を摘む様に、都の女達の姿を重ね合わせてしまった。当然の事ながら、川面が紅に輝いていたのは夕陽のせいであったが、私は「乙女らし」と詠んだ。これだと川面の紅は乙女たちのせいになってしまう。しかし、田舎の娘達のこと身につけているのは地味な色彩の衣服でしかない。どこにも紅に川面を照り映えさせる材料はない。

けれども、私には彼女たちが都の華やかな女たちと二重写しになって見えたのだ。そしてその都の女達は揃いも揃って艶やかな赤裳を身につけていた・・・・

人は虚構に過ぎると笑うかも知れない。しかし、私にはそうとしか見えなかったのだから仕方ない。私は我が目に映ったとおり歌を詠むしかないのだ。

天平廿年春正月廿九日

東風越俗語東風謂之あゆの風是也いたく吹くらし 奈呉の海人の 釣する小船 漕ぎ隠る見ゆ

港風 寒く吹くらし 奈呉の江に 妻呼び交し 鶴多に鳴く[一云 鶴騒くなり

天離る 鄙ともしるく ここだくも 繁き恋かも なぐる日もなく

越の海の 信濃濱名也の浜を 行き暮らし 長き春日も 忘れて思へや

右四首天平廿年春正月廿九日大伴宿祢家持

 今日、一月の二十九日は平成の御代の暦で言えば三月のはじめ。寒さの厳しい越中の国といえど、ほのかの春の気配があちらこちらに漂う季節である。その陽気に誘われて国府近くの海浜をそぞろ歩きしながら作ったのがこの四首だ。いちいちの歌の出来はさほど自慢は出来ないが、それなりに工夫はしてある。特にその配列には格別の気配りをなしたつもりだ。

一口で言えば、漢詩の起承転結の構成に倣ったものと言えようか。一首目に奈呉の海の沖辺を行く漁師達の小舟を歌い、二首目はそれを承けて港近くの江の鶴を歌う。遠景から近景へと視点を変化させた。加えて、一首目が視覚を中心に歌ったのに対し、二首目は聴覚を中心に歌うといった風に変化をつけている。遠と近、景と音を対比しながら、この二首で今日のそぞろ歩きにおいて、私が接し得た全てを表現しようとしたのだ。

そして三首目。漢詩で言えば「転」の句にあたる。私もその作法に倣い、ここで私の「情」の部分を歌の中心においた。遠く大和を離れ、異郷に暮らし続ける哀しみ・・・「旅愁」を主題として歌ってみた。これは、二首目の「妻呼び交し 鶴多に鳴く」の句を受けてのものだ。「転」の句ではあっても、これまでの二首と遊離してしまっては何にもならない。ここはちょいと腕の見せ所だったと思う。そして、四首目。「結」の句に相当するこの歌は上三句で旅にある自分を歌い(これは一首目、二首目を受けたもの)、下二句で故郷の妻達を思う気持ちを歌う(三首目を受けたもの)形で締めくくりとする・・・・

以前、大伴池主殿とのやり取りの中で漢詩を作ってみたこともあったが、だいぶと苦労した上、池主殿のお目を汚してしまうような結果になってしまったことを考えると、この短歌四首で漢詩のように起承転結を構成するやり方の方が私には向いているのかも知れない。またこうした旅先にあっての作歌の作法として「旅」と「家」を対比することが重要なことであるのだが、これまた起承にあたる二首で越中の景物を歌い、転結相当の二首が家への思いを歌うというふうに、これもまたこの起承転結の構成の中にうまく取り込むことが出来た。

最後に上の歌中に加えた割注について説明しておこう。

一首目の注。越中の地においては東風のことを「あゆの風」という。ちょいとひなぶりの雰囲気を出してみたいと思い、「東風」と書いてあえて「あゆの風」と読ませようとしたものだ。ただし、ここでは厳密に東方から吹いてくる風と言うよりは、おおむねそちらの方から吹いてくる暖かな春の風という意味で使っている。
二首目の注。割注は初案である。今、この日記に書きつけるにあたり、「鶴多に鳴く」と改め、これを決定稿とした。四首目の注。私自身がこの「信濃」という語に興味を覚えてこの歌を作ったのだが、大和にあっては山国の名である「信濃」という言葉が浜の名であることが一見して、この歌を読む人にひっかかりを感じさせるかも知れないと思い、蛇足ながら付け加えたものである。

高市連黒人歌一首

高市連黒人歌一首 年月不審

婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ

右傳誦此歌三國真人五百國是也

今日の宴で私は「放逸(ニゲ)た鷹を思って夢を見、感悦(ヨロコ)んで作った歌」を披露させていただいたが、もちろん、他の方々の歌もこの場では披露された。その中で、特に気に入ったのが三國真人五百國殿があの高市黒人殿の歌として吟じ上げられたこの歌だ。

「婦負」というこの越中の地名が詠み込まれているが、黒人殿が越中の地まで足をのばしていらっしゃったとは聞いたことがない。それにいつのおりの作であるか、三國殿も後存じないらしく、黒人殿作という所伝に何かしら不確かさを感じるが・・・この歌の持つそこはかとない哀感、不安・・・・これはまさに黒人殿の他の作に見られる強烈な個性そのもの。やはり、黒人殿の作と考えておいていいだろう。

「婦負」は私は「賣比」と書いておいたが、平成の御代の仮名で言うと「メヒ」となる。ところが、のちに「ネヒ」に転じたらしい。平安の御代の辞書「和名抄」に「婦負 禰比」とあることから、それまでにはこの音韻の転換があったのだろう。平成の御代においては富山市と言っている町の西に広がる平野がそれである。

実に哀切に富んだ・・・胸にしみ入るようないい歌だ。作者については若干怪しさはあるが上にも述べたとおり、黒人殿の作の見て間違いあるまい。さすが、黒人殿と言いたくなるような歌だ。歌友池主殿を失い、かわいがっていた蒼鷹の大黒にも逃げられ、孤独の中にあった私の心には・・・・こんな歌がいい。

思放逸鷹夢見感悦作歌

思放逸鷹夢見感悦作歌一首  并短歌

大君の 遠の朝廷ぞ み雪降る 越と名に追へる 天離る 鄙にしあれば 山高み 川とほしろし 野を広み 草こそ茂き 鮎走る 夏の盛りと 島つ鳥 鵜養が伴は 行く川の 清き瀬ごとに 篝さし なづさひ上る 露霜の 秋に至れば 野も多に 鳥すだけりと 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に [大黒者蒼鷹之名也] 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも をちもかやすき これをおきて またはありがたし さ慣らへる 鷹はなけむと 心には 思ひほこりて 笑まひつつ 渡る間に 狂れたる 醜つ翁の 言だにも 我れには告げず との曇り 雨の降る日を 鳥猟すと 名のみを告りて 三島野を そがひに見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去にきと 帰り来て しはぶれ告ぐれ 招くよしの そこになければ 言ふすべの たどきを知らに 心には 火さへ燃えつつ 思ひ恋ひ 息づきあまり けだしくも 逢ふことありやと あしひきの をてもこのもに 鳥網張り 守部を据ゑて ちはやぶる 神の社に 照る鏡 倭文に取り添へ 祈ひ祷みて 我が待つ時に 娘子らが 夢に告ぐらく 汝が恋ふる その秀つ鷹は 松田江の 浜行き暮らし つなし捕る 氷見の江過ぎて 多古の島 飛びた廻り 葦鴨の すだく古江に 一昨日も 昨日もありつ 近くあらば いま二日だみ 遠くあらば 七日のをちは 過ぎめやも 来なむ我が背子 ねもころに な恋ひそよとぞ いまに告げつる

矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける

二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも

松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ

心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ

右射水郡古江村取獲蒼鷹 形容美麗鷙雉秀群也 於時養吏山田史君麻呂調試失節野猟乖候 摶風之翅高翔匿雲 腐鼠之餌呼留靡驗 於是張設羅網窺乎非常奉幣神祇恃乎不虞也粤以夢裏有娘子喩曰 使君勿作苦念空費精神 放逸彼鷹獲得未幾矣哉 須叟覺寤有悦於懐 因作却恨之歌式旌感信 守大伴宿祢家持 九月廾六日作也

久しぶりに歌を詠んだ。都での滞在が長くなってしまい、その間は様々な報告ごとや、久々にあった妻の坂上大嬢、叔母であり義母でもある坂上郎女、そして我が子たちといった家族のご機嫌取りに忙しく、歌を詠むどころではなかったからだ。それに去年の秋、世を去った弟、書持の供養もあってなかなか忙しい在京であった。

それに、それらの諸事を終えて越中に帰ってきたら、思いもかけない状況に出くわしてしまったことも私の歌興をそいでしまった。昨年、越中に赴任して以来、私にあれこれと気を遣ってくれた大伴池主殿が越中を去り、越前へと赴任してしまっていたのだ。池主殿は私の他には代え難い歌友であり、彼なしではどうにも歌を詠む気になれなかったのだ。

寂しい思いをしている私にさらに残念なことが重なった。歌中にもあるように私ども地方に赴任している官人の秋の楽しみに「鷹狩り」がある。平城の都の方ではすでに禁令が出て行えなくなっている「鷹狩り」ではあったが、越中のような地方ではお目こぼしをいただいている。私も越中に来てからすばらしい蒼鷹(オホタカと詠むのが通例)を手に入れた。それはそれはすばらしい鷹であった。蒼鷹はもともと気性が荒く、「鷹狩り」には好適な鷹ではあるが、その中でもこの蒼鷹は飛びきりであった。私はこの鷹に「大黒」と名付けた。しかもこの鷹が私によくなついてくれたのだ。大和での任務を終えた私は、この「大黒」で秋の越中の野において「鷹狩り」をすることを夢想しながら北陸路を北へと向かった。そして越中に着いてからも朝な夕なにこの鷹の姿を見ては「鷹狩り」の季節の到来を待った。

ところが・・・そんな季節でもないのに、この鷹の養育を任せていた山田史君麻呂が、猟の訓練だということで私の許可も得ないで野に連れ出してしまったのだ。「大黒」は空高くいずこへか飛び去っていってしまった。池主殿不在のこの越中の秋のせめてもの楽しみをも私はなくしてしまった。山田史君麻呂に対する怒りは抑えがたいものがあった。けれどもこうなってしまった後、いくら怒ってみても仕方がない。あちらこちらに鳥網を張って再度捕獲しようとしてみたり、神に祈ったりと尽くせるだけの手は尽くした。その甲斐があってか、数日たったある日私はある夢を見た。夢の内容は歌中、左注にあるがごとしである。私の喜びは尋常のものではなかった。そしてその喜びが久しぶりに私に歌興を呼び起こしてくれた。

喜びの大きさが、この歌を思いもかけず長々とした歌にした。こうやってできあがって読み直してみても、なかなかのできばえだ。一つの物語としてある程度はまとまったものになったのではないかと思う。これほどの長さを感情に流されず、破綻なく最後まで歌いおおせたことに我ながら驚いている。これもまた、春に池主殿と数度に渡って歌を交わした成果であろうか。とすれば、あの数ヶ月は私の歌人としての力量を高めるに非常に大きな役割を果たしてくれたのではなかろうかと思う。本当に充実した数ヶ月であったのだと、今さらながら池主殿に感謝している。

それにしても、この歌を見せるべき池主殿がこの越中の地に居ないことだけが何とも残念でならない。私はこの歌を詠みながら、逃げ去った「大黒」に、知らず知らずに池主殿の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

<補>

蛇足ではあるが漢文の左注をわかりやすく書き改めてみた。ご参考までに・・・

右の歌は射水郡古江村で捕獲した蒼(オホ)鷹についてのものだ。その姿は美麗であってその荒々しい気性は群を抜いていた。ある日養吏の山田史君麻呂が猟(カ)りに備えての訓練の季節を間違え、秋から冬への季節に背き、猟りに出かけてしまった。その蒼鷹の風を切って羽ばたく翼は、空高く翔り、雲間に隠れてしまった。鼠などのつまらぬ餌で呼び戻そうとしたがその効果があるはずはなかった。そこであちらこちらに鳥網をはって、あり得ぬことではあると思うがその鷹を捕まえようとし、神に幣を奉り、思いがけず鷹が帰ってくることを願った。すると夢に少女が現れ、私に諭すように言った。「あなたはそんなに苦しい思いをしてむなしく心を疲れさせてはならない。逃げた鷹を取り戻すのはそれほど遠い先の話ではない。」と。たちまちにして私は目覚め、そして喜んだ。よって恨みに思う気持ちを払う歌を作り、心に感じたしるしとした。

国守大伴宿祢家持  九月二十六日作

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首

忽見入京述懐之作生別悲兮断腸万廻怨緒難禁聊奉所心一首并二絶

あをによし 奈良を来離れ 天離る 鄙にはあれど 我が背子を 見つつし居れば 思ひ遣る こともありしを 大君の 命畏み 食す国の 事取り持ちて 若草の 足結ひ手作り 群鳥の 朝立ち去なば 後れたる 我れや悲しき 旅に行く 君かも恋ひむ 思ふそら 安くあらねば 嘆かくを 留めもかねて 見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音のみし泣かゆ 朝霧の 乱るる心 言に出でて 言はばゆゆしみ 砺波山 手向けの神に 幣奉り 我が祈ひ祷まく はしけやし 君が直香を ま幸くも ありた廻り 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとぞ

玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ

うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む

右大伴宿祢池主報贈和歌五月二日

なんとも心のこもった歌ではないか。先日私は池主殿にこのたびの別れの悲しみを訴えた。それに応じたのがこの歌だ。池主殿も同じ思いでいらっしゃることがひしひしと伝わってくるような歌である。公用の旅とはいえ、安全の保証は何もないこの時代に片道ほぼ十日前後の道行きは私とて全く不安がないこともない。そういった思いは残される側においてはひとしおのものなのだろう。

反歌(絶と表現されている)の第一首には池主殿のそんな思いが記されている。その下敷きには私が今回の越中下向の際、持参した歌巻にあった山上憶良殿の

若ければ 道行き知らじ 賄はせむ 黄泉(シタヒ)の使 負ひて通らせ(巻五)

があるのだろうか。憶良殿がそのお子様を亡くしたときの悲しみを歌った歌ではあるが、過日、私の館で件の歌巻を興味深げに池主殿はご覧になっていたが、その際にご記憶にとどめておかれていたのだろうか。それとも、我が義母、大伴坂上郎女が今回の赴任にあたって贈ってくれた

道の中 国つみ神は 旅行きも し知らぬ君を 恵みたまはな(巻十七)

が念頭にあったのだろうか。これもまた池主殿が私の館にいらっしゃったときにお示しした覚えがある。おそらくは両者ともに意識のうちにあったに違いない。だいぶ前のことであったが、池主殿の胸中に深く刻まれた歌であったのだろう。

さらに長歌を見れば「見わたせば 卯の花山の 霍公鳥 音(ネ)のみし泣かゆ」と、おそらく今回の上京にあたっての四月二十六日のはなむけの宴での私の歌

我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね

あたりを踏まえて歌っていらっしゃる。

ただ今回のこの長歌はそれだけにとどまらず新たに「なでしこ」の花が詠み込まれることになった。反歌の第二首も然り。私が再び越中に戻るのは秋八月頃。そしてその季節に私の館を飾っているだろう花はこの「なでしこ」である。池主殿の御心の中にはもうすでに再会の季節があるのだ。くわえて、「なでしこ」は私が好きな花。池主殿はそこも踏まえてこうお詠みになったのだ。なんともありがたいお心遣いではないか。

さあ、いよいよ旅立ちだ。公務の旅とはいえ、妻や家族、そして橘諸兄殿をはじめとした人々に会える。その際、この一年足らずの間に私が詠み、そして集めた歌々をお示ししようと思っている。いかにご評価くださるだろうか、楽しみである。ただ、昨年七月、私を「奈良山過ぎて 泉川 清き河原」まで送ってくれた書持(フミモチ)だけにはもう会えない。昨年の秋、朝露のごとく儚くなった弟にはもう会えないのだ。こうやって大和を長く離れ単身で異郷に住まいしていると、そのことが観念的にしか理解できない。今度、都に帰ってしまえばそれが現実のものとして実感せざるを得ない。私はそれを恐れる。けれども、それが現実であるならばそれを事実として受け止めなければならない。しっかり供養してやらねば・・・

 

入京漸近悲情難撥述懐一首

入京漸近悲情難撥述懐一首并一絶

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨しみ 偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇の 食す国なれば 御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども 玉桙の 道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく 日の長けむぞ そこ思へば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し

我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ

右大伴宿祢家持贈掾大伴宿祢池主 四月卅日

出立する日まであと数日となった。五月の三日には国司の館を出なければならない。都で報告するべき帳簿類の整理もめどがついたので、手土産として持ち帰る歌々に再び目を通し整理をしていると、この越中にて過ごしてきた数ヶ月の日々が瞼の裏に蘇ってくる。とりわけ今年に入ってからの大病、そして税帳使として都へ赴くことが決まって以来の越中の面々との交流は何物にも代え難い記憶として私の胸中に存している。これらの日々を思うにつけても、彼らとの別離がことのほか重く心にのしかかり、私の思いを沈めるものとなっている。このような思いは以前も述べたように歌を以てのみ撥いうるものである。今回もその例外ではない。私は自然に筆を執るに至った。その歌はいきおい、これまで私が、池主殿が、そしてそのほかの面々が詠んだ歌を承けたものになった。

詠み出しの「かき数ふ 二上山に」は「二上山賦」を意識してのもの。「港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し」「霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて」はそれぞれ「遊覧布勢の水海の賦」、四月二十六日の送別の宴の歌々を承けたものであることはすぐにわかっていただけると思う。

反歌もそうだ。また題詞に「一絶を併せた」としたのは、情を詠んだこの長歌に、事物を詠み込んだ歌に対して付する「賦」とは題することができなかったことによる。しかしながら、この長歌もまた越中の自然を詠み込んだ長歌群の流れと意識の面ではつながっている。そこで「絶」と池主殿のまねをすることにより、その意識を明示しようとしたのだ。

こうして私は、越中赴任以来、こちらの人々が私に示してくださった厚情に謝意を示そうとの意を持ってこの長歌をものしたわけであるが、その意の中心にあるのはもちろん池主殿だ。同族でもある池主殿は、私の最良の歌友であることは、私の病が癒え始めたあたりからの彼との歌の贈答からも、後の世の人々に容易にうかがい知れよう。私は歌について彼から多くのことを学んだ。池主殿の存在は私にはなくてはならないものとなっていたのである。そのことを歌の中に示した部分が冒頭の

かき数ふ 二上山に 神さびて 立てるつがの木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて

である。この中の「立てるつがの木 本も枝(エ)も 同じときはに」の部分は私と彼が同族の出身として強い紐帯に結ばれていることを示そうとしたものだ。何も大伴宗家である私が「本」、支族である池主殿が「枝」といっているわけではない。それほど強い絆で私たちが結ばれているということを言いたかっただけだ。そして、その帰結として私たちは「朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて」と互いに気遣いあってきた。そんな池主殿(もちろん他の人々に対してもそうではあるが)と、たとえ数ヶ月ではあっても分かれることはつらい。ここ数ヶ月の歌共としての交流がここで途絶するのも残念でならない。そんな思いがこうして一つの長歌として結晶した。歌としての善し悪しは知らぬ。けれども歌わずにおれなかった私の気持ちは池主殿が誰よりも理解してくださるだろうと確信している。