天平感寶元年五月五日饗東大寺之占墾地使僧平榮等 于守大伴宿祢家持送酒僧歌一首
焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣りそへ君を留めむ
今年(749年)2月22日、みちのくより黄金が産したとの報告があった。我が国にあっては初めてのことである。平城の都の東、若草山の麓に築きつつある東大寺の大いなる御仏の御身を荘厳する黄金が不足し、帝がお心を悩ませているとのうわさを耳にしてはいたのだが、これで帝も一安心なさっていることかと思う。この国の青人草だけではなく、天地までもが帝のこの大事業に加わっている・・・そんな思いがする。
4月1日にはそのことをことほぐ、類まれなる長大な勅が発布され、さらにはその14日に天平感寶との改元が実施された。帝のお喜びの様が目に浮かぶようである。
さて、その4月1日の勅には我が大伴の一族にはうれしい限りのお言葉もあった。が、それについてはまたいつかの機会に・・・ということにしておいて、今は今回の宴のことについて少々書きとどめなければならない。件の勅において、帝は
又寺寺に墾田の地許奉り、僧の綱を始て衆の僧尼を敬ひ問ひ治め賜ひ
と仰せられ、寺々にも新たに地を拓き田地となして所有することをお認めになられた。僧の平榮殿たちは、その土地の所属状況を確認するために東大寺から派遣されて、わざわざ越中までおいでになられていた。このたびその任も果たされ、都にお帰りになるというので、最後にちょいと杯をお送りしようと思い一席を設けた次第である。こうやって都から離れて暮らしていると、少しでも都のにおいのする方は言い知れず懐かしい。そんな方が都に戻られるとあっては、やはり何とも言えぬ寂しさがあるものだ。この歌はそんな思いを込めたものだ。
砺波の関は砺波山に置かれた関所で、平榮殿達はここを通って都に帰られる。そこに関守を遣ってでもこの越中の地に平榮殿たちをお留めしたい・・・そんな思いから、この1首を詠んだ。
「焼太刀を」の一語は、「太刀」は「鋭い・・・トき(利き)」ものであるところから、「砺波」の「ト(砺)」にかけて用いた枕詞である(人によっては焼き上げた太刀は「トぐ(研ぐ)」ものであるから「ト」にかけるのだという人もいるらしい)。
ともあれ、このような方々と今回のような宴の場を設けるのも我々国守の任であるが、先にも述べたように都の匂いのする方々と少しでも時を過ごしたい・・・そんな思いも本音である。