入京漸近悲情難撥述懐一首并一絶
かき数ふ 二上山に 神さびて 立てる栂の木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて 射水川 清き河内に 出で立ちて 我が立ち見れば 東風の風 いたくし吹けば 港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し そこをしも あやに羨しみ 偲ひつつ 遊ぶ盛りを 天皇の 食す国なれば 御言持ち 立ち別れなば 後れたる 君はあれども 玉桙の 道行く我れは 白雲の たなびく山を 岩根踏み 越えへなりなば 恋しけく 日の長けむぞ そこ思へば 心し痛し 霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて 朝夕に 見つつ行かむを 置きて行かば惜し
我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ
右大伴宿祢家持贈掾大伴宿祢池主 四月卅日
出立する日まであと数日となった。五月の三日には国司の館を出なければならない。都で報告するべき帳簿類の整理もめどがついたので、手土産として持ち帰る歌々に再び目を通し整理をしていると、この越中にて過ごしてきた数ヶ月の日々が瞼の裏に蘇ってくる。とりわけ今年に入ってからの大病、そして税帳使として都へ赴くことが決まって以来の越中の面々との交流は何物にも代え難い記憶として私の胸中に存している。これらの日々を思うにつけても、彼らとの別離がことのほか重く心にのしかかり、私の思いを沈めるものとなっている。このような思いは以前も述べたように歌を以てのみ撥いうるものである。今回もその例外ではない。私は自然に筆を執るに至った。その歌はいきおい、これまで私が、池主殿が、そしてそのほかの面々が詠んだ歌を承けたものになった。
詠み出しの「かき数ふ 二上山に」は「二上山賦」を意識してのもの。「港には 白波高み 妻呼ぶと 渚鳥は騒く 葦刈ると 海人の小舟は 入江漕ぐ 楫の音高し」「霍公鳥 声にあへ貫く 玉にもが 手に巻き持ちて」はそれぞれ「遊覧布勢の水海の賦」、四月二十六日の送別の宴の歌々を承けたものであることはすぐにわかっていただけると思う。
反歌もそうだ。また題詞に「一絶を併せた」としたのは、情を詠んだこの長歌に、事物を詠み込んだ歌に対して付する「賦」とは題することができなかったことによる。しかしながら、この長歌もまた越中の自然を詠み込んだ長歌群の流れと意識の面ではつながっている。そこで「絶」と池主殿のまねをすることにより、その意識を明示しようとしたのだ。
こうして私は、越中赴任以来、こちらの人々が私に示してくださった厚情に謝意を示そうとの意を持ってこの長歌をものしたわけであるが、その意の中心にあるのはもちろん池主殿だ。同族でもある池主殿は、私の最良の歌友であることは、私の病が癒え始めたあたりからの彼との歌の贈答からも、後の世の人々に容易にうかがい知れよう。私は歌について彼から多くのことを学んだ。池主殿の存在は私にはなくてはならないものとなっていたのである。そのことを歌の中に示した部分が冒頭の
かき数ふ 二上山に 神さびて 立てるつがの木 本も枝も 同じときはに はしきよし 我が背の君を 朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて
である。この中の「立てるつがの木 本も枝(エ)も 同じときはに」の部分は私と彼が同族の出身として強い紐帯に結ばれていることを示そうとしたものだ。何も大伴宗家である私が「本」、支族である池主殿が「枝」といっているわけではない。それほど強い絆で私たちが結ばれているということを言いたかっただけだ。そして、その帰結として私たちは「朝去らず 逢ひて言どひ 夕されば 手携はりて」と互いに気遣いあってきた。そんな池主殿(もちろん他の人々に対してもそうではあるが)と、たとえ数ヶ月ではあっても分かれることはつらい。ここ数ヶ月の歌共としての交流がここで途絶するのも残念でならない。そんな思いがこうして一つの長歌として結晶した。歌としての善し悪しは知らぬ。けれども歌わずにおれなかった私の気持ちは池主殿が誰よりも理解してくださるだろうと確信している。