遊覧布勢水海賦一首并短歌 此海者有射水郡舊江村也
もののふの 八十伴(ヤソトモ)の男(ヲ)の 思ふどち 心遣(ヤ)らむと 馬並(ナ)めて うちくちぶりの 白波の 荒礒(アリソ)に寄する 渋谿(シブタニ)の 崎た廻(モト)り 松田江の 長浜過ぎて 宇奈比(ウナヒ)川 清き瀬ごとに 鵜川立ち か行きかく行き 見つれども そこも飽かにと 布勢の海に 舟浮け据ゑて 沖辺漕ぎ 辺に漕ぎ見れば 渚には あぢ群(ムラ)騒き 島廻(ミ)には 木末(コヌレ)花咲き ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥(クシゲ) 二上山に 延(ハ)ふ蔦(クズ)の 行きは別れず あり通ひ いや年のはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと
布勢の海の 沖つ白波 あり通ひ いや年のはに 見つつ偲はむ
右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日
実に楽しい一日であった。大和へと旅立つ日を目前にひかえ、国府の面々と布勢の水海まで足をのばし、その美しい風景をしっかりとこの目に焼き付けることが出来た。布勢の水海というのは後に十二町潟と呼ばれるようになった二上山北西の低地に広がる湖で、土砂の堆積と徳川殿が幕府を開かれて以降の相次ぐ干拓のため、昭和の御代の頃には見る影も無くなっていると聞く。私が国守としてこの地にいた頃は、それはそれは美しい湖であっただけに、なんとも残念な話である。
それはともかくとして、先日の秦殿のお宅での送別の宴において私は「二上山賦」を披露し、これを都への土産としたい旨の話をした。すると一同は、それだけでは物足りなかろう、この越中の地にはもっと都で語るべき場所が多くある。他の地も歌にして都に伝えなければならないだろう・・・と口々になさった。それでは・・・ということで、今回の布勢の水海への遊覧ということになった。もちろん目的はそれだけではない。その送別の宴でわざわざ私のために集まって下さった皆さんへの感謝の意をも込めて私がお誘いしたのだ。都への出立の日も近くそう遠くまでは足を運べないという事情もあってこの地を遊覧の地に選んだのだが、国府からほんの少し足をのばしただけでこのようにすばらしい場所があるとは・・・・越中は本当にすばらしい国だ。
渋谿の崎の荒磯、松田江の美しい浜辺・・・布勢の水海までの道行きだけでも心惹かれる景色がある。そして目的の布勢の水海では舟に乗っての遊覧・・・本当に楽しかった。もちろん、この楽しさはその風景の素晴らしさだけに由来するものではない。ともにこの遊覧を楽しんだ面々があればこそである。私は程なく都へと旅立つ。しばしのお別れだ。けれども私が都から無事に帰着したならば、再び同じ顔ぶれでこの地を訪れたいものだ。長歌の終わりの方や、反歌はそんな思いを込めて詠んだ。
ところで先日都への土産歌の素材にしたのは「二上山」。そしてこの度は「布勢の水海」。これで越中の代表的な「山」と「水」を詠んだことになる。これは論語にある「智水仁山」を意識したもので、漢詩の世界ではごく一般的になされる対比である。くわえて、人麻呂殿、赤人殿、そして我が父旅人の吉野讃歌で使われた技法でもある。ただあえてその違いを言えば、それらは一首の中に「山」「水」の対比を描いたが、私はここで二首の長歌にわたってそれをなしたと言うことだ。
・・・とここまで書いてきて、目を再び長歌に戻したとき、いささか盛り沢山にすぎたきらいがあるように思えてきた。我ながらくどい歌だとも感じないではない。すべてを都に伝えなければと思うばかりに、行ってもいないところまで詠み込んでしまった。それもこれも都人にこの越中の素晴らしさを伝えんがための虚構だ。許されることであろうと思う。
さて、先の宴において池主殿が我が作に「和」をなしてくれるとの約束であった。明後日、二十六日には池主殿が私を送る宴を催して下さる予定で、その場において私はこの歌を池主殿はその「和」の歌を披露する予定だ。少しでも早くこの歌をお届けしなければ、池主殿の「和」が、その宴に間に合わなくなってしまう。急ぎ、清書して送らなければ・・・