四月廿六日掾大伴宿祢池主之舘餞税帳使守大伴宿祢家持宴歌并古歌四首
玉桙の 道に出で立ち 別れなば 見ぬ日さまねみ 恋しけむかも 一に云ふ 見ぬ日久しみ恋しけむかも
右一首大伴宿祢家持作之
我が背子が 国へましなば 霍公鳥 鳴かむ五月は 寂しけむかも
右一首介内蔵忌寸縄麻呂作之
我れなしと なわび我が背子 霍公鳥 鳴かむ五月は 玉を貫かさね
右一首守大伴宿祢家持和
石川朝臣水通橘歌一首
我が宿の 花橘を 花ごめに 玉にぞ我が貫く 待たば苦しみ
右一首傳誦主人大伴宿祢池主云尓
先日(二十日)の大目の秦殿のお宅での送別の宴に続いて、今日は我が歌友の池主殿がそのお宅で送別の宴を催して下さった。こうも度々このような場を設けていただいて非常に心苦しくは思うのだが、せっかくのお心遣いをお断りするのもなにやら申し訳なくも思うのでお言葉に甘えさせていただいた。
宴にあっては、まず私が旅立つものの立場から別れのつらさを歌った。当初、「見ぬ日久しみ」との歌稿を用意しておいたのだが、どうにもありきたりのような気がして「見ぬ日さまねみ」を改めた上で、皆の前には披露した。こっちのほうが私の心情をより的確に表現できているように思う。
続いてその歌に縄麻呂殿がお応え下さった。この場においては私に次ぐ地位であり、私の不在の間、私の職務を代行して下さる縄麻呂殿がここでまず私の歌にお応え下さるのは、お決まりのこととはいえようが、縄麻呂殿は単に私の歌の言葉をそのまま承けるだけではなく、今の季節の風物である「霍公鳥」を詠み込んだ上で、これから離れて暮らすつらさを素直に歌にしてくれた。
そこで私はその「霍公鳥」なる言葉を承けて上記のように「和」した。普通、このようにその宴の目的(今日の場合は私を送別すること)がはっきりしている場合、「和」と記さないのが通例だ。その宴に目的に沿って歌詠をなす場合、必然的にその歌は「和」の歌であるはずであり、わざわざ「和」と記す必要がないからだ。だから、ここで私があえて「和」と記したのはそれなりの意味を持たせてのことである。つまり冒頭の私の歌と、続く縄麻呂殿の二首にてこの宴の目的は果たされた。いつまでも別れを悲しんでめそめそしてはいられない。後は自由に季節の風物を歌を詠み、せっかくのこの宴を楽しきものにしようとの配慮から、私はこの三首目を詠んだのだ。そういった私の意図を、よりはっきり示そうとここにあえて「和」という文字を入れてみた。
すると、さすが池主殿である。そのような私の意図を充分にくみ取って石川朝臣水通殿のの橘の歌を伝誦することで、その任を充分に果たして下さった。結句「待たば苦しみ」はもちろん橘の結実の時を待つことが苦しいという意味で歌われているのであるが、そこに私の帰着を「待たば苦しみ」との思いを漂わせているのだろうと思う。さすがである。
ただ、後の人がこの日記を読んだ時、一つ不審に思いかもしれない点がある。それはあの池主殿がここにおいて古歌の伝誦のみでこの宴を結んでいるという点についてである。歌を得意としていない他の方ならばいざ知らず、あの池主殿が自分がその主催した宴において自作の歌を披露しないというのは、誰が見ても不自然であろう。また池主殿と私の関係については、後の人々の間でも知られているように、並々ならぬものがあった。その私の餞の場においてのことであれば、その感はなお強いものがあるだろうと思う。加えて、今お手元に私の歌巻(万葉集)をお持ちの方であるならば、さらにご不審に思う点があろう。それは池主殿の「敬和歌」についてである。私の歌巻を見るならば、その「敬和歌」はこの送別の宴の歌の前に配列されている。けれども私はその「敬和歌」をとばして、今日の宴の歌についてを今書いている。これはどうしたことだろうか?そんなふうにお思っていらっしゃるかたも多いであろう。
この二つの不審なる事実はすべて池主殿の「敬和歌」の披露のあり方に由来する。次回、その「敬和歌」について語る予定であるが、その中でこの点について詳らかにしてゆきたいと思う。
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