四月十六日夜裏遥聞霍公鳥喧述懐歌一首
ぬばたまの 月に向ひて 霍公鳥 鳴く音遥けし 里遠みかも
右大伴宿祢家持作之
霍公鳥の初音を聞いた。先月の二九日、この私の愛する鳥の声が立夏を過ぎても鳴かぬ事を恨みに思う歌を詠んだ。その翌日には「二上山賦」という長歌をものし、その反歌にも霍公鳥への思いを歌った。私はこの声を今か今かと待ち焦がれていた。しかし、都へと出立する日が近づくにつれ、私の周囲は次第に慌ただしくなり、私自身も都へと携えるべき公簿類の整理点検に追われ、次第に余裕は無くなってきていた。今日も夜も遅くまでその作業に追われ、一息ついたのがついさっきであった。
ふっと息を抜き、都の懐かしい人のことなどを思い出していたとき、私はこの耳で確かに聞いた。あれほど恋い焦がれた 霍公鳥の今年初めてのさえずりを・・・
それは消え入るようなかすかな声であった。あまりにもかすかなるが故、普通ならば「声」と詠むべきところを「音」と詠んだ。生あるものが発するものを「声」、それ以外のものの発するものを「音」と表現するのが本来ではあろうが、今日の霍公鳥の「声」はあまりにかすかに過ぎて、それが本当に霍公鳥のものかと疑われるほどのものであったので、ここでは「音」と詠んだのだ。
歌中の「ぬばたまの」の使い方はちょっとした工夫だ。この枕詞、「黒」「夜」などのかかるのが通例で、「月」のように光を放つものにかかるのは異例と言ってもよかろう。私としては、たとえ月があったにしろ、自分が見たいはずの霍公鳥の声のする方向が闇に覆われ、何も見えていないことからこの枕詞を使ったのだが、この歌を読んだ人はいかに受け取るであろうか・・・少し心配はある。
ただその下の「月に向かひて」は少し自信がある。闇の中、他のいずこでもなく「月」に向って鳴いている霍公鳥のその姿を幻視し、このように詠んだのだが我ながらうまくできたと思っている。このような言い回しを私は他に知らない。私だけの表現だ。
私だけの・・・ということにこだわれば「遙けし」という語も私だけのような気がする。いったい私はこのての言葉が好きで、他にも「遙けさ」「遙々(ハロハロ)」などをよく使う。それは対象物が遙か遠くに見えるという意味ではなく、対象物の「声」「音」が、遠くからかすかに聞こえてくるという意味で使う。何気なく過ごしているだけでは聞こえてこない・・・目を閉じて聴覚を研ぎすまなければ聞こえてこない「声」「音」を聞くのが私は好きだ。そんな私の嗜好に、この言葉はとても馴染んでくれる。
今日も夜遅く、皆が寝静まり他の音が一切絶えた中、私はひそかに耳を澄ませていた。未だ鳴かぬかの鳥の声が聞こえてはこないかと思ってのことである。遠く波の音が単調に繰り返される。ひたすら霍公鳥の初音を待つ私の耳には、その波の音すら、次第に無きがごとくになってくる。そして、一切の夾雑物が排除された私の耳に聞こえたのが、この「遙け」き霍公鳥だった。あるいはその声を聞きたいばっかりの空耳だったのかもしれぬ。けれども、それは、もはや私にはどうでもいいことになっていた。現実のものであるか否かを超えて、私の耳には霍公鳥の初音が確かに聞こえたのだ。
思えば立夏を過ぎてはや数旬。霍公鳥の初音がこれほど遅いのは大和では考えられぬこと。この度の上京の土産話の一つとなろう。ともあれ、3月29日、30日の二つの歌はこの霍公鳥の初音によって完結する。歌の良し悪しはともかく、大和と越中の風土の違いは都の風流人士を驚かせるにたることであろう。